ドラゴンクエスト
 [ #07 アフォーダンスデザイン ]


米島 : あとさ、あの、さっきせっかく「アフォーダンス・デザイン」っていうカタカナを使ったので、解説しようと意気込んでるんですけど、質問はないんすか。お兄さん。

瀬上 : え、ああ。いえ、質問したほうがいいのかなぁ、とちょっと思ったんですけど、知ってるんで。

米島 : そうか。あなた、デザインとかやる人だもんね。確か。

瀬上 : はぁ、まぁ、人に言うほどのものではありませんけれど、最近はウェブデザインがちょっとした趣味と化してきてるんで。デザイン関係の用語なら多少は……

米島 : そう………なんか、ちょっと話す気力がなくなっちったよ。オジサンは。じゃあ一応、ドラクエとアフォーダンス・デザインがどんな感じに絡むか説明をしてみて下さいな。

瀬上 : ああ、はい。なんかすみません。

米島 : いえいえ。どうぞ。

瀬上 : ええと、つまり、そもそもアフォーダンス・デザインと言うのは何かっていうと、説明のいらないデザイン、みたいなものですよね。
 そのアフォーダンスっていうのはアメリカの心理学者のギブソンさんって人が作った造語で、えーと、認知科学とか複雑系の分野では特に重要な用語になってて、例えば手袋というものを見て、「ああ、これは手にはめるものなのかな」というところまでわかるかどうかは微妙だけれども、まあパッと見で「人間の手に関連する道具だろう」とか「はめることができるものかな」とか、そういうレベルのことは思いますよね。手袋という道具の使い方を知らない人に手袋を見せても、だいたいの人はなんとかしてその道具の使い方というのを説明しなくても見てもらえればわかってくれるだろうと。そういうような直感的にわかるようなデザイン、説明しなくても見ればその道具の意味というのがアフォードされている、説明しなくても意味がもともと与えられているデザインということで、哲学系の人なんかからは生態学的実在論、エコロジカル・リアリズムだ、ってことを言われてるらしい、ってこととかも聞きますけど。  ま、それはともかく、インターフェイスの配置とかデザインっていうのが重要になってくるウェブデザインとか、アプリケーションのデザインだとか、ゲームソフトにおけるデザインだとかだと、そのアプリケーションなりゲームなりの操作を全く知らない人に対して、できるだけパッと見た瞬間なり音を聞いた瞬間なりにその操作をどうやればいいのか、ということをわからせてやる必要があるものでは、言語的な説明に頼らずに感覚でわかる、というようなデザインを施してやる必要性というのがあからさまに出てくるわけで、何から何まで説明書を読まなきゃいけなかったり、操作をしていたらやたらと解説が騒がしかったりするようなのは、そういったもののデザインとしてはあまり理想的なものではない、ということがいえるのではないか、と。そういうこと、………で、いいんですよね?

米島 : おお、なんか、なにかの教科書読んでるような感じの見事な説明だ。っていうか、ギブソンとか、複雑系とかで扱われる用語だなんて知らなかったよ。
 まぁ、つまりそんな話らしいね。ええ。このアフォーダンス・デザインって言葉は、この前、テレビゲームミュージアムの桝山寛さんの本をパラパラ読んでて知ったんだけどね。なんか、あの人は「桂離宮とマリオに共通の要素が!!」とかって、やたらと奇抜な話のきりこみ方をしてたけど。まあ、それはどうでもいいや。
 桝山さんもこれは書いてて、これなんかはあんまりドラクエに限ったことではないけれど、壁に当たったら壁に当たった効果音がするし、自分からの攻撃では低音から高音へ上がる音がして、敵からの攻撃では下がる音がする、といった工夫とかがあるよね、と。ドラクエはその手の工夫は相当に頑張ってるよね、と。
 (※桝山さんの本…『テレビゲーム文化論』講談社現代新書 2001年刊)

瀬上 : なるほど。言われてみれば確かにそうですね。
 うーん。…その、今2つ思ったんですけれどもね、アフォーダンスデザインというのと、セルフトーキングとかといった手法と言うのはパッとした形での知覚が可能だ、という点ですごく似ているなということを思ったのとですね。
 もう一つはそのアフォーダンスデザイン、といったものをつきつめて発想していくとドラクエのようなテキストベースでの作品づくりよりも、FFみたいなビジュアルでもってすべてを説明しているような形式の方が少なくともインターフェイスデザインとしては優れていると言えるのではないだろうか、と、そういうことが言えてくるのではないか、と思ったのですけれども。

米島 : なるほど、なるほど。それは確かに。なかなかよい指摘かも知らんネェ。
 まず、はじめのアフォーダンスデザインとセルフトーキングが似ているということだけれども、それは確かにそうだろうね。ドラクエにおけるセルフトーキングの手法って言うのは、ある意味アフォーダンスデザインの一環だと言えるかんじがするからね。例えば、おおなめくじとスライムが敵として現れた時に、どっちがおおなめくじで、どっちがスライムなのかが瞬時にして判断がつかなかったら、コマンドを選択できないものね。
 で、二つめのことだけれども、これは結構、絶妙にいいところをついている疑問だよね。

瀬上 : それはどうも。

米島 : この疑問に対してはちゃんと答えられるかどうか、あんまり自信がないんだけれども、まず、形式的な反論みたいなことから言っていくと、別にアフォーダンスデザイン至上主義みたいな考え方をする必然性というのはないんじゃないか、と。
 確かにアフォーダンスデザインは大切ではあるし、アフォーダンスデザインをつきつめていった時にFFのような非言語的なビジュアルによる説明の仕方が有力なものとしてあらわれてくる、というのはそのとおりだとは思うんだけれど、それじゃあ言語的なものを全て排除するところにこそゲームのインターフェイスの究極はあるのか、というと、そういう結論付けはできないんじゃないか、ということは言えるよね。

瀬上 : えーと、つまり、もう少し詳しく言うと?

米島 : んーー、つまり、そうだなぁ。例えばさ、普通、ものを考える時とか人にものを話す時って、言語を使うよね。まぁ、ものを考えるのをビジュアル中心で考える人というのもいるにはいるけれども、大半の思考は言語によってなされるものだし、ものを話すのに口から画像を吐き出すのは空也上人像ぐらいのもんで(笑)、普通の人は自分の母国語を使ってしゃべることしかできないよね。

瀬上 : はい。

米島 : でさ、ゲームにのめりこんでいく過程の類型の一つには、そのゲームの内容についてうんぬんかんぬんと考えていって、「あそこをああすれば」とか「あそこであれを買って、あそこであれを使って」とかって考えてゆく過程というものがあるよね。
 で、あと他のもう一つのゲームにのめりこんでゆく過程の一つとしてさ、友人やら家族やらとそのゲームについて話すとかして、そのゲームを知人とのコミュニケーションの媒体として、というか、まぁつまり話のネタね、まぁそういう側面があるよね。

瀬上 : ええ。はい。それはまぁ確かに。

米島 : と、まぁつまりこういう側面というのを考えて行くとだねぇ、言語をベースにして語られて、プレイヤーがゲームの中の言葉を覚えてゆくようなゲームの在り方というのは、今挙げたようなゲームへののめりこみかたを促すのには最適なのではないかな、と。ゲームにのめりこんでいろいろ考えてゆく過程では言葉というものの力を借りなければいけないし、人とコミュニケーションを取る際にも互いにそのゲームの言葉を覚えている状況の方が理想的だよね。

瀬上 : なるほど。深みにはまらせてゆくためにはテキストベースの方が有利だろうと。

米島 : うん、まぁそれが一つ。
 で、あと他にアフォーダンスデザイン至上主義は変だろうということの理由としては、そうねぇ。
 アフォーダンスデザインというのは、確かにわかりやすいデザインではあるけれども、別にそれっていうのはアーティスティックなデザインというか、美しいデザインを求めるような人には、別にそもそもわかりやすさ至上主義でデザインをやってるわけじゃないんだから、そういう人にとってはアフォーダンスデザインとかがどうでもいいとまではいわないまでも、まぁ、最も優先すべきもの、というわけじゃあないわな。FF7のデザインとかってさぁ、3Dにした時のかっこよさとか美しさとか臨場感みたいなものを優先させすぎてさぁ、「わかりにくい」とかって結構たたかれたじゃない。

瀬上 : ああ、ええ、そういえば、あれはわかりにくかったですねぇ。カーソルをどこにあてればいいのかとか、主人公がそもそもグラフィックのどの位置にいるのかとか、全然わからないぞ、という感じになることがけっこうありましたね。

米島 : うん、まぁでもさ、FF7のデザインが不評であるのは仕方ないけど、アレはアレで結構斬新だったというか、新鮮だなぁという感じがしたし、ま、一般受けは悪いかも知んないけど、オレはアレはけっこう、キレイだったし実験的でよかったんじゃないかなぁと思ってるのね。ま、全部が全部あんなデザインの方向性を走られたら困るけどぉ、まぁぁ一つや二つああいうものがあってもすごいキレイだったし悪かぁないんじゃなかろうか、と思うのね。うん、はい、それがもう一つね。
 で、あと最後、もう一つは、…これはただの思いつきなんだけれども、ドラクエって、こう……デフォルメ化された、極めて記号的な世界像としての性質みたいなのを、FFなんかよりも強固に持ってるものなんじゃなかろうか、ということね。

瀬上 : ?

米島 : えーと、だからぁ、ほんとに思い付きみたいな話だからあんまりちゃんと聞いてもらっても困るんだけど、例えば、リアリズムの究極を目指したような本当にリアルな作品があったとしてね、そういう世界の中で、物体や生物を名指すものとしての固有名詞みたいな言葉っていうのはどこまで重視されるんだろうか、ということを思ったのね。
 例えばさ、井上雄彦の『SLUMDUNK』知ってるよね?

瀬上 : ええ。

米島 : あれって、まぁ結構リアルタッチの絵だけれども、デフォルメ化された絵というのも同時に登場するよね?

瀬上 : そうですね。「ゴリ」とか「このキツネ」とかって、人間をデフォルメ化して遊ぶことで作品をうまく成立たせてますよね。

米島 : そうそう。そういった形でのデフォルメの遊戯みたいなものっていうのはリアルタッチの中では出てこないっしょ?

瀬上 : うーん、まぁ確かに。かわいいニックネームとかだけで聞き知っている人を、突然リアルな本人を見たらちょっと面食らう、みたいな。そんなことですか?

米島 : うーん?そういうことかなぁ。オレ自身何を言いたいのか微妙にわかってないのが困りものなんだけれども、デフォルメ化して、キャラクター化して「かわいい」とかっつって遊ぶのに言葉の力って絶大だよね、みたいなことを思ったんのよ。一瞬。

瀬上 : ああ、はあ。なんとなくわかります。そういうのってなんか言葉抜きにしては成立たない遊びではありますよね。似顔絵とかのイラストとかでも成立する部分はありますけれども、言葉抜きにしては皆で遊べるものにはならないんじゃないかという感じはしますね。

米島 : そう、なの、かな?うーん、まぁいいや。なんか、これ以上立ち入った話は言語学者とかインターフェイスの研究者バリバリの人じゃないと、なんともかんともという感じがしてくるので、この話はこのくらいでやめよう。ね。

瀬上 : ああ、はい。それじゃあ、このくらいでこの話は。
 
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2001-7-7
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2002-1-21

(C)Akito Inoue