ゲームとうメディア 1
 [ #04 ジャンル分けをするということ ]


瀬上 : なるほど、えーと、それじゃあ、ちょっと疑問に思ったんですけれど、インタラクティブはゲームの本質じゃない、と米島さんは考えてるんですか?

米島 : それが、うーん。そういうわけでもなくって、TVゲーム全般の本質って言ったら、「インタラクティブ」ぐらいしか言えないと思うんだけれども、別にTVゲーム全般の本質について語らないでも、アドベンチャーとか、シミュレーションとか、ジャンルごとにその本質を考えていけばいいと思うんだよね。

瀬上 : はい。ということは、ジャンルについての定義もしっかりした方がいいと?

米島 : うん。ゲームとは何か、みたいなことをこれから考えよう、というのならばジャンルごとの定義をまずはっきりさせていって、このジャンルとこのジャンルにはこういった性質がある、みたいなことをやっていくのがいいんじゃないかな、と思うよ。ホント。
 そうしないと、「インタラクティブ」の一言から先にぜんぜん先に進まないんじゃないかなぁと思うよね。ゲームのメディアとしての可能性を論じる方向性というのは。
 まぁ、ゲームの可能性なんてどうでもいい人にはどうでもいいことだけど。

瀬上 : その、でもジャンルの定義を固めてしまう、と言うことに対してはちょっと議論のありそうなところですよね。
 ジャンルの定義そのものを破壊するような作品が出て来るためには、「ジャンル」という意識はむしろ邪魔ですし、そういうジャンルを超えてるような作品と言うのを無理にジャンル分けするようなやり方というのも不毛なんじゃないか、と。
 そういう反論が出てきますよね。

米島 : まぁ、そうね。そういう反論はあるだろうね。その反論はま、一面の真理ではありまさぁな。
 でもさ、まずそれへの再反論ひとーつ。

瀬上 : はい。

米島 : 結局さ、ジャンルという発想そのものを否定しちゃうとね、ゲームを論じる行為にとって一つ致命的なことがあると思うのね。
 何かってーと、ゲームをジャンル分けしない、ということはつまりアレだよね、ゲームをどうやって論じるかってことになった時にさ「RPGは」とか「アクションゲームは」とかっていう風に論じることをしないわけだから、「ゲームは」という全体形で論じるしかなくなっちゃうわけでしょ。

瀬上 : まあ、その他には一つ一つの作品について論じるというのもありますよね。

米島 : そうね。そういう形で、全体について論じるか一つについて論じるか、という二択しかなくなるよね。一つの作品について論じるというのはまだ、何とかなるけれど、一つの作品について論じる作業しか存在しなかったら、その論考というのが、類似する作品の制作に生かされていきにくいよね。

瀬上 : そうかもしれませんね。

米島 : まぁ、そうだとはいいきれないけど、そうなる可能性はけっこう高いと思うのだよ。
 で、「全体について論じる。」つまり「ゲームとは何か」という形の問題意識ばっかりが常にでてくるようにならざるを得ないよね?

瀬上 : そうですね。

米島 : そうなってくると、つまりドラクエとテトリスとマリオとが常に同列に論じられるような論じられ方にしかならないわけでしょ?
 それぐらい別々の作品を一緒に論じる作業っていうのは、マクロな視点でたまに見てみるぐらいのことにいいけれど、細かく掘り下げて論じていくためにはドラクエとFF、テトリスとぷよぷよ、マリオとソニックといった分類別の一対一対で論じていく方がずっと深いレベルの議論に到達できると思わない?

瀬上 : まぁ、その何が「深いレベル」の議論にあたるのか、というのはちょっと謎ですけれども、少なくともディティールについて論じることというのは、そういったジャンル区分というものに準拠している中での方が圧倒的にやりやすいというのはあるでしょうね。

米島 : だよね。
 で、次、再反論ふたーつ。
 えっとねぇ、ジャンルの枠組みを超えたようなメタジャンル的な作品だとかね、今までとは違った全く新しいジャンルみたいな作品がでてきたくるために、ジャンルというはあった方がいいのか、悪いのか、ということだけれども、これはあった方がいいでしょう、と思うのだよね。
 なんでかってーと、「今までどういう作品があったか」ということが明確な形で意識化されてこないことには、そういった「今までのやり方」に対するアンチテーゼみたいなものっていうのは生まれてこないわけだよね。
 例えばさ、マルクス主義者が、資本主義経済を批判する、みたいな時にね、「資本主義経済」っていうジャンルが意識されてなけりゃ、批判も何もないわけでしょ。だって、何を批判したらいいかわかんないわけだから、批判のしようがないじゃない。そうなってくると「何か今のシステムが嫌だ」という話にしかならないよね。じゃ「今のシステムって何?」といわれて、その「今のシステム」を説明して、認識するフレームがなきゃ、システムに対する改革もクソもないってもんでしょ?「今のシステム」を細かく研究していく作業ができたら、それはそれで理想的ではあるけれど、その研究する作業というのが、「今のシステム」を改革するためのものであるとしたらよ、結局は「今のシステム」とは違う何か別のものというのを想定して、「今のシステム」というのを相対的になんらかの分類にはめていかなきゃいけないよね?だから、新しいものを用意するということは基本的に「今まであるもの」というのを相対的な分類枠の中におしこめてやる作業が必然的に伴ってくるものだよね。そうじゃないと、新しいものを作っても、新しいものと古いものとの区別がつかない状況では、新しさというのが認識されてこないわけだから。

瀬上 : はい。ええ。それは確かに全くその通りだと思うんですけれどもね、例えば、今さきほど例にあげられた「資本主義」という分類にしても、実際には資本主義の中にも英米型の資本主義と、ドイツの資本主義と日本の資本主義は違うぞ、とかっていう形でさらに細かい分類が存在するわけじゃないですか。『7つの資本主義』とかって本もありますよね?
 そういう形で実際には「資本主義」というジャンル分けをすることがどこまで有効か、という問題もあるわけですよね。ある種の端的なマルクス主義の一部では、「資本主義=打倒すべきもの」という形でのスローガンを生み出すための、単純化の装置みたいな役割が「資本主義」という言葉によって担われているという側面もあったりして。

米島 : はいはい。その批判は基本だよね。
 確かに、馬鹿なジャンル分けしかできないようならば、下手にジャンル分けなんてしない方がいいっつーのはある。
 前にRPGの批評でさ、「理想的なRPGとはいかあるべきか」っていう書かれてるのを読んで、こいつはアホか!って思ったことがあってさ、「理想的なRPG」なんて問いはオレに言わせてみれば、そんな問いを発すること自体がおおいなる間違いなわけだよね。
 どうしてかっつーと、RPG、RPGとは言うけれどもね、RPGについてまぁ人より詳しいという立場から言えばさ、もうはっきり言って、ドラクエとFFはもうRPGではあっても実際にはドラクエ型のRPGと、FF型のRPGというのはまた別のジャンルのものであって、もはや全部いっしょくたの線上で語るべき対象とは別物なんだよね。他にも女神転生はまたアレはアレで別のタイプのRPGとして認識するべきだし、マイトアンドマジックとかの洋ゲーRPGもまた全く別のものだしね。
 確かに同じ「RPG」という呼ばれ方をしているものなわけだからある程度のところまでは一緒に論じてOKな部分もあることはあるわけだけど、特にディティールとかになってくるとさ、それはもう全部一緒の論じ方をすることなんてできないわけだよね。全部一緒の論じ方をしてしまって、全部がある一つの方向性を目指すべきだという議論になってしまったらみんな同じような作品に仕上がっちゃう。まぁ、そうだな和製RPG、というジャンルのくくり方で言えば全部が全部CAPCOMの『ブレスオブファイア』みたいなやたらとバランスがいい作品みたいなのになっちゃうんじゃないかな。

瀬上 : 『ブレスオブファイア』ですか?

米島 : うん、まぁ個人的にはあれはすごい和製RPGの究極みたいな研究された作品だと思うんだけど、まあ、それはいいとしてね。
 さっきの資本主義の例から言えばさ、資本主義を本気で語るんならさ、ちゃんとアダム・スミスから読み始めて、マルクス読んで、ケインズ読んで、あとなんだ?アグリエッタとウォーラーステインぐらいは最低でも読んでさ、まあオレは読んでないから偉そうなことは言えないけど。まぁそのぐらいちゃんと論じるべき対象についての意識を明確にしてから論じろということだよね。
 「資本主義ったっていくつかに分かれるんだ」と言われたら、分類をさらにちゃんときっちりと分ければいいんだよね。資本主義を単純化して論じてる連中がいたら、それはちゃんと勉強してもらうしかないわけだよね。それは「資本主義」という分類そのものが悪いと言うよりも、そういった分類の状態を恣意的に選び取っている連中の方が悪いと言えるわけであって。

瀬上 : まあ古典を学ぶことがベストであるかどうかという点は議論のあるところだとは思いますが、だいたいそういうことですよね。
 ただ、分類すればいいというものではなくて、結局のところ、分類なんていうのは単に関係性の中でのみ論じられるものなのだから、過去の状況でその分類が有効だったとしても、時代的よってものごとの関係性も変わってしまうし、この前のまでの分類が10年後もまた確かなものだというような本質論みたいなものはなりたたなくて、分類ということに敏感でないことには、分類の意味そのものが希薄化してしまったり、無意味化してしまうということですよね。

米島 : そそそ。

瀬上 : ただ、おっしゃりたいことはわかるんですけれおもね、ちょっとうるさい質問で申し訳ないんですけれど、先ほど「アホか!っこいつは!」って言われましたけれども、究極のRPGみたいなものとして米島さん自身『ブレスオブファイア』みたいなものを想定されているわけですから、その批判は微妙じゃないか、と思ったのですけれど。

米島 : ああ、そうね、言い方悪かったかな。
 アホかッ、っていうのはちょっと下品だしね。もし、その批判対象のされてる人がこれ読んだらちょっと気がひけるし、オレも批判されるとしたら、やさしく批判されたいし、もう少し無機質に言い換えようか「それは正しくないぞ」って。

瀬上 : あ、いえ、そういうことじゃなくって……

米島 : あ、いやいや、ごめんごめん。ウソウソ。つまり、批判そのものがあたってなかったんじゃないか、ということだよね。それもまぁ、言い方が悪かったんだよねオレの。ブレスオブファイアは究極的という言い方を訂正しましょう。「平均値的美人」という言い方のほうがいいかな。
 誰かの好みのど真ん中に命中するというよりも、最大公約数的な人数に「美人」と認められるような平均値かけあつめたような中間値的美人、みたいな。そんな感じかな。CAPCOMさんだって基本的にそういうゲーム作り目指してるみたいだし、そう言われたってまぁ、そんなにお怒りにはならないでしょう。別にけなしてるというか誉めてるわけだし。

瀬上 : うーん、まぁそういう言い方でもちょっと微妙な感じはしますけれども……

米島 : ああ、まぁいいたいことわかるんだけど、うーん、何ていうのかなぁ、だからさ、ブレスオブファイアみたいなのを仮想して持ち出してきてね、ドラクエはここが駄目だとか、FFはここが駄目だという言い方をすべからくするようなやり方をその「アホかっ」って形容した人がやってのよ。
 だからさ、まぁブレスオブファイアみたいな中間値的なものを構想するのは結構ですけれども、だからといってそれを絶対化して、ロマサガはいかんと言ったりドラクエはいかんといったりするのはやめとけよ、ということだよね。確かに仲間由紀恵はすごい美人かもしれないけれども、ま、仮に仲間由紀恵が最大公約数的な美人だと仮定したとしてよ、だからといっておれは仲間由紀恵よりも田中麗奈の方が好みなんだよね、とか、ともさかりえが好きなんだよねとかっていうのをありえない現象だということはできないし、批判もできないわけだよね。どうやったって。

瀬上 : うーん、その中間値的なものを構想するのは結構だけれども、それは「究極」というようなものではなくて、絶対化するようなものとはまた別の話だ、というような言い方というのも一つの説得力のある議論としてわかるんですけれど、僕がその話を整理してしまっていいですか?

米島 : え、あ、はい、どうぞ。

瀬上 : そのぉ、例えば、ジャンル分け、というか分類というのはさっき言ってたように関係性によって変わるわけですから、結局のところ、「RPG」というジャンル自体、MOONみたいなゲームが出てきてRPGの範疇がひろがったら当然中間値の位置も違ってくるし、アクションRPGをRPGの中に加えるかどうかシミュレーションRPGをRPGの中に加えるかどうかで中間値の値というのは相当に変わってくるわけだから、中間値というのも当然恣意的な発想の産物でしかないのではないか、というようなことを言って欲しかったんですよね。

米島 : ああ、はい。確かにその説明のほうがキレイだねぇ、というかまったくその通りだと思うんだけど、うーん、なんて言うんだろう、ただ、その議論だけをやりすぎるとちょっと違ってくるような気がするんだよね…

瀬上 : というと?

米島 : いや、すごいややこしいことを言うようで混乱するようならば無視してもらってかまわないんだけど、そのさぁ、ジャンルという発想が極めて恣意的だというニュアンスを強調しすぎると、今度はまたしょせん恣意的なものに過ぎないのだから、ジャンルわけをするのは間違いだという議論につながるのが怖いのね。
 ある程度、恣意的なものだ、ということは当然わかってるけれど、なんとか論じるのに間に合う程度に粗くないカテゴライズをした状態で便宜的に少しごまかしながらだけれども、ジャンルという区分をつかっていかなければゲームを論じたり考えたりするための共通の土台を用意することができなくなっちゃうよな、みたいな事情があるから、その少しのごまかしを伴った状態でころがしていかなきゃな、というような、さっきの君の話の流れから行くと、「本質主義」ではなくて、本質を信じない本質主義というか、戦略的本質主義というか、そんな感じのものが必要なんじゃないか、というのがオレの言いたいことなのね。
 だから、RPGっていうジャンルわけなんて形式が本当に本質的にできるものだとは思ってはいないけれども、便宜的に使っていくことは賛成なわけね。本当に便宜的なものにすぎないから、そのジャンル区分を絶対的なものとしてしまって「究極のRPG」なんて問題意識が芽生えてくるのは変だよね、と言いたいわけ。だから、「正当な」とか「究極の」RPGという問題意識は批判するけれども、単に「統計的平均値として存在する」RPGという概念ならば、便宜的になされた区分の境界線をある程度強引にはっきりとさせてしまった状態の中で集計した統計があれば、その統計の採り方というのには当然問題はあるけれども、一応そのうさんくさい統計の中では平均値も存在するだろうと、いうことは言えるんじゃないか、ということなのね。だから、ブレスオブファイアというのは確かに恣意的に選び取られた境界線内部では平均値的なものを提供しているけれど、それは「正当な」というものとはぜんぜん別物なわけだよ。さっき君がいったように、RPGというカテゴライズの再生産というか再認識だっていかなる形で行われてゆくかわかんないわけだしね。シミュレーションRPGまでをRPGの範疇に入れる形でRPGという意識が作られていくこともあるかもしれない、ぞ、ということはいえるかもしれないわけだから。

瀬上 : うーん。何を言われているのかというのかはだいたいわかるんですけれども、その、なんだろう……便宜的な運用をしなければいけない理由というのは……そうか、なるほど、それをずっと論じてきたんですね?

米島 : うん、まぁ、そうだよね。わかりにくくって本当に申し訳ないけど。
 
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2001.7.4
2002.1.23

(C)Akito Inoue