Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

ビデオゲームをめぐる問いと思索 http://www.critiqueofgames.net/

home / Top/勝利

 「勝利」という概念の難しさは、「試合に勝って勝負に負けた」あるいは、「試合に負けて勝負に勝った」といった言い回しによく現れている。

フォーマル・ルールと、インフォーマル・ルール:基準の複数性

 「試合に勝って勝負に負けた」という言葉が言い表しているのは、フォーマル・ルールと、インフォーマル・ルールの違いである。*1  「勝利」という概念について、トートロジカルな定義をするならば「勝利条件を達成すること」である。ただし、人がゲームを遊ぶとき、競われる優劣は必ずしもフォーマルな(公式の)ルールだけではないという点に注意したい。  例えば、将棋をするときに、わざと難しい手筋を選んでプレイしようとすることにこだわっているプレイヤーがいたとする。そのプレイヤーは、難しい手筋で勝つことこそが、彼自身にとって本当に望む勝利であり、単に勝つだけでは物足りないとしよう(将棋漫画『月下の棋士』の主人公など)。そのような人物にとっては、普段心がけている「難しい手筋」でプレイをすることが彼なりの「勝利」の必要条件の半分であり、公式ルールの中で勝つかどうかということは、勝利の必要条件の残り半分にすぎない。このプレイヤーが、何かしらの理由で、自分の望むような「難しい手筋」での勝利ではなく、「ただの勝利」をしてしまったとき、フォーマル・ルールでは確かに勝利したと言えるわけだが、彼自身のインフォーマル・ルールにおいては必ずしも勝利したと言えないという事態が生じることになる。  

一回限りの振る舞いと、複数回における振る舞い 

 また、しばしば混同されるが、ゲームにおける「勝利」と、ゲームに「強くなること」は全く別の事態である。  簡単に言えば、

  • (a) ある一回のレースをするときに「1位」をとれることが100回中3回ぐらいあるが、平均的な順位は「18位」というダークホース・プレイヤー山田太郎と、
  • (b) 100回のレースがあった場合に、常に「2位」とり続け、平均的な順位が「2位」という強豪プレイヤー鈴木次郎

 という二人のプレイヤーを比べた場合に、強いのは後者のプレイヤー鈴木次郎だということになる。しかし、「勝つ」確率で言えば、鈴木次郎は山田太郎には全く及ばない。

「適応すること」

 さらに、上記の二つの分類の複合的状況を考えて見ると、特殊な「勝利」の形態としての「適応」という事態を見いだすことができる。

表:勝利についての分類

フォーマル・ルールでの勝利インフォーマル・ルールでの勝利
一回限りの試合公式な「勝利」概念の成立非公式基準における勝利。「試合に勝って、勝負に負けた」という事態の成立
複数回の試合公式な「強さ」概念の成立非公式基準において「強くなる」事態の成立。インフォーマルな「適応」を含める。

 たとえば、『ひぐらしのなく頃に』シリーズにおける(以下、反転して読んでください)古手梨花の振る舞いなどがこれにあたると言ってよい。古手梨花は、雛見沢村のゲームの勝利条件(昭和58年の6月を終わらせること)はなしえないわけだが、雛見沢村において「強い」存在にはどんどんと近づいていくことになる。「勝利条件」に到達することが不可能だと気づいた彼女は、長年「諦め」を抱くことによって、精神的に適応し、状況に対して「強くなる」ことに成功している。だが、そこでは「強くなること」と、「勝利すること」が決定的に乖離している。別の言い方をすれば、囚人のジレンマゲームに負け続けることに対して、メンタルに「慣れる」ことによって、囚人のジレンマゲームから決して抜け出せない。その代わり、常に「辛くないゲーム」をし続けることが可能になっている。

「ゲーム・に対して・勝つ」ことと「ゲーム・において・勝つ」こと

 さらに、言うのであれば「ゲーム・に対して・勝つ」ことと「ゲーム・において・勝つ」ことを分けてもよい。ゲームの枠組みそのものから抜け出すことと、ゲームの枠組みの中で最適な振る舞いを行うこと、はまったく異なっている。  「ゲーム・に対して・勝つ」とは、フォーマル・ルールに対してインフォーマル・ルールが優位となってしまうような事態であり、「ゲーム・において・勝つ」こととは、フォーマル・ルールがインフォーマル・ルールよりも優位となっている事態のことである。

 この優位性の転換はいかにして生じるのだろうか。  これを、フォーマル・ルールと、インフォーマル・ルールの協力(共犯)関係/非協力関係、として捉えてみることができる。ふたたび、『ひぐらしのなく頃に』の例に戻ると、雛見沢村におけるフォーマル・ルール(昭和58年6月攻略)の優位性は、インフォーマル・ルール(古手梨花と羽生の「諦め」による適応)と共犯関係にある。フォーマル・ルールへの挑戦があまりにも困難すぎるために、「フォーマル・ルール下で勝利できないことで満足する」というインフォーマル・ルールが、ここでは成立している。フォーマル・ルールが、フォーマル・ルールであり続けられているのは、フォーマル・ルールとは異なる水準の複数のルールが、フォーマル・ルールに貢献してしまうような形で作動し続けているからに過ぎない。ある特定のルールが強力に機能しえているのは、そのルールがうまく機能するために、他のルールがそこに屈服/協力するような状況があるからだ。  これは、決して例外的な状況ではない。通常、人がゲームを遊ぶとき、ゲームの外側の一次的現実の諸ルールは、脇においやられる。それは決して存在していないわけではない。「試合に勝って、勝負に負けた」といった言葉が言い表しているように、ゲームのフォーマル・ルール以外の、インフォーマル・ルールがゲームの中に入り込むという事態は頻繁に生じうる。しかし、ゲームを遊ぶときは原則的には、フォーマル・ルールが優位だという事態を「みんなで守っている」ということに過ぎない。

 フォーマル・ルールに、インフォーマル・ルールを屈服させる、という方式は一人遊びのコンピュータ・ゲームではしばしば、簡単に崩壊を起こしやすい。「裏技」や「俺ルール」といった、Rule Breaking(増田[2006])をプレイヤーが、その気になればいつでも起こすことが可能である。フォーマル・ルールは、一人のプレイヤーによってボランタリーに「守られている」に過ぎない。パラダイム・シフトは、極めて高頻度で発生しうるのだ。  一方で、複数人遊びの場合は一人遊びよりも事態は面倒になる。ルールを守っているのは、私一人ではなく、「わたしと対戦相手」であったり、「ゲームに参加している30人」であったりする。そのような状況下においては、フォーマル・ルールの崩壊を起こすためには、ゲームに参加している全員の合意が必要となる。このとき、パラダイム・シフトを起こすための労力は、一人遊びの何十倍にもなる。*2



*1 フォーマル、インフォーマルという分類は、たしかBernard Suits[1978]→Zimmermanら[2003]へと受け継がれているものだったはず。
*2 この話は、そのうちどっかにちょっとした論文としてもう少しきちんと書きます。
関連記事: ルール errand boy syndrome 多様性
最終更新: 2008-08-19 (火) 20:57:22