エンディングが「マルチエンディング」という形式で幾通りものエンディングが存在したり、あるいはエンディング以降もいわゆる「やりこみ」要素がたくさんつまっていたりしてエンディングを一度見た後も延々とプレイできるような作品/または、「エンディング」そのものの存在が単なる一つの通過点に過ぎず、その後何度も何度もその世界をループすることがゲームを楽しむ過程であったりするような作品(ex:『ガンパレードマーチ』『ベイグラントストーリー』)では、物語の「エンディング」という概念が一般的なものとしては成立しなくなる。
こうしたゲームでは物語に明確な「終わり」はなく、プレイヤーの側によって意図的に物語を「終わらせる」ことを決断したとき/あるいはやらなくなっていったときにはじめて物語の円環の環は閉じられることになる。
コンピュータ・ゲームの物語構造のもつこうした特異性は必然的にコンピュータ・ゲームの物語の作られ方に強い影響をおよぼすことになる。 通常の小説/映画/漫画などのメディアであれば、物語は一冊の小説、二時間という時間の中で閉じられて終わる。そこでは起承転結のはっきりとした構造が好まれる。もちろんコンピュータ・ゲームにおいても物語の起承転結というような構造性は多くの場合に好まれる。だが、こうしたメディア条件の上になりたつコンピュータ・ゲームでは「一回のゲームプレイ」の中に全ての要素をつめこむ、というような作品設計がなされない方向性へと、物語設計が駆動されてゆくことになる。
たとえば、「一回のゲームプレイ」を絶対性を崩し、二回目のゲームプレイ、三回目のゲームプレイといった中でゲームの醍醐味を露出する構造へとつきすすませる。そして、それを最も自覚的に展開したものの一つが、『ガンパレードマーチ』(アルファシステム)だろう。 『ガンパレードマーチ』では、一回目のゲームプレイのみが「正規のシナリオ」となるわけではない。二回目、三回目のプレイがあり、そしてあげくのはてには、コンピュータ・ゲームのパッケージの中でのゲームプレイという状態すら抜け出し、アルファシステムの掲示板の中で『ガンパレードマーチ』をめぐるさらに別のゲームが展開されてゆく(参考:中川大地ほか『アルファ・システム・サーガ』)。 ここでは、「正規のシナリオ」は存在しておらず「設定」が存在しているだけである。
また、こうした「物語」の存在が<オリジナル>ということではなく、プレイヤの側によってその幅が決められいるというような状況は、同 人誌などをもゲームの物語の一部として受け取るというような感性とも接続される。