記述可能性の可能性とその罠 †
あたりまえのことを言うようだが議論が成立するためには、議論をしている対象物についての理解が必要である。そのためには、対象を言語化できるかどうか、ということが議論を発展的に行っていくことができるかどうかの分水嶺となる。トートロジカルなことを言うようだが、言語化できないものは言語での議論が難しい。
映画や漫画といったメディア領域では対象となる事物が文学などよりも引用の難しい形態であることが常に問題になってきた。記述が困難な表現メディアでは、記述の可能な領域――すなわち、物語の筋など――だけの議論は誰にでも行えるが、そうでない部分――アングルや、コマ割り、描線の太さ――などは議論が難しい。そのため記述可能なものは、それが記述可能であるということによって活発な議論が行われやすくなるが、記述不可能なものは、それが記述不可能である、という理由によって一部の専門的職能を持った者たちの間でのみの問題となっていく傾向を持つ。
自動化/日常化された意識の言語化 †
「記述不可能なルール」の価値 †
ゲームにおいては、記述不可能なもの、がしばしば大きな価値を持つことになる。 こうした議論の一つは、たとえばステファン・スナイダーマンによるUnwritten Ruleの議論や、リンダ・ヒュージによる議論などある。スナイダーマンはテニスのプレイなどにおいて、「紳士的」であることなどが、テニスというゲームの成立を支える上で価値を持つことを指摘している。
ゲーム研究におけるプレゼンテーション †
ゲーム研究や、ゲームに関する講演会では、静止画/動画がふんだんに取り入られることが多い。研究者がいかに熱心に、分析概念をこしらえても通じなければ意味がないので、「通じる」ための方途として静止画/動画が用いられる。 そういった方法をとらずに、会場にいる万人に理解されるように努力して例示するとなると、対象として取り上げることの可能なゲームソフトは、『スーパーマリオブラザーズ』、『テトリス』、『シムシティ』など世界で2000万人以上のプレイヤーを抱えるようなものだけで全ての説明を行うことが求められることになるだろう。
→教養