ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』で議論された言葉として有名。ベンヤミンは複製技術時代の到来によって、一回性、アウラが失われたということを論じた。
一回性とは何か。 現実において全く同じことが何度も繰り返される、ということはなく全てのものごとは一回一回限りのオリジナルなことであり、何度も繰り返されているのように思われるようなものというのは実はコピー(まがいもの)である。たった一度の行為であるからこそ、そこには緊張感が伴い、その時々にどのような行動を選び取るか、ということが緊張感を持って体験される。このような緊張感をもった体験が一回性である、と理解しておこう。 だが、ゲームにおいてはあらかじめ決められている予定調和のできごとや、一回の体験をやり直したりすることが可能である(もちろん、100%同じ体験が存在するわけではないが)。コンピュータ・ゲームをはじめてプレイし、はじめての強敵と対峙するとき、われわれはそこではじめて与えられたその経験に対してしばしば驚喜する。だが、その体験を二度、三度と繰り返すうちにはじめに存在していた「強敵との対峙」は単なるボタンを押すという単純行為の次元へと堕ちてゆく。 ここでは、物体・作品の「複製」ならざる、作品に対峙するプレイヤーの体験の「複製」が行われているといってもよい。 こうした体験の複数性に対して、ネガティブな言説を探すとすれば「ゲームにおける体験はリアルで一回性のある体験ではない」という議論が一方では可能であるが、逆にこうした緊張感がある程度失われた状態こそがゲームの一般的なあり方だ、としてその状態をうけいれるという発想もある。
この緊張感の失われた事態そのものを前提としつつ、そのような状態の中でも強烈な一回性が立ち上がる経験を書いたものが桜坂洋『ALL YOU NEED IS KILL』(2004,集英社)だろう。『ALL YOU NEED IS KILL』の中で主人公は、ゲームでいえば『ガンパレードマーチ』や『クロスチャンネル』『Ever17』といった作品のように同じ世界を何度も連続して体験してゆく。この体験の一回一回は、二度と繰り返されない固有のものであるが、これを20回、30回と繰り返すうちに世界は色を失い、ルーチンワークのように生きることを主人公は覚え始めてゆく。だが、あるときにそのルーチンワークとして提示された世界に決定的な楔が打ち込まれる。そしてルーチンワーク化し、ループする時間の中からの脱出をはかるその瞬間にこそ、強烈な一回性が喚起されることになる。そのただ一度の瞬間にいたるまでの世界の陰鬱さ、無限の同一性が強烈であるからこそ、その一瞬の一回性は強烈な輝きをもって描かれるのである。