ゲームのマップには、単に色/形として描画されているだけの描画データの他に、「歩けるところ」「歩けないところ」であるとか「ダメージを与えられる場所」「ダメージを与えられない場所」といった当たり判定(コリジョン)と呼ばれるデータがある。この当たり判定とは、プレイヤーにとってみれば、ゲームの世界と自らがどのように関われるのか、というデータの塊であるといっていい。 それまでのゲームで、ただの背景にしか過ぎなかった「タンス」が開けられたり、破壊できたりする対象になっただけでも、プレイヤーにとっては、その世界との関われる幅が拡大したということであり、その世界のリアリティを増大させるのには一役買うことだろう。 しかし、こういった形の操作可能なものの数を増大させるという力技の作業だけが当たり判定の楽しみとは限らない。たとえば、『ジェットセットラジオ』で、電柱やガードレールが「スライディングできるもの」というそれまでにない意味づけをあたえられたり、『塊魂』ではネコや人や家屋が「巻き込めるもの」という特殊な行為の対象として成立することによって、我々の日常的に自明視している「電柱」や「ガードレール」「人間」などを見つめる感覚が、ゲームの側の世界の意味づけによって食い破られ、プレイヤーが世界を見つめる意識に、新たな形がもたらすことになる。 ゲームの世界における当たり判定の力業による拡大行為が、ゲームの外の「現実」からの意識を輸入する行為であるのに対して、ゲームの世界においてモノとの新しいかかわり方を提示する行為は、ゲームの外の「現実」へと向かって感覚を輸出する行為であると言える。そして、その輸出された感覚を持ったままで、ゲームの外の「現実」の街を歩けば、プレイヤーはおそらく街に対して、新たな感覚を手に入れることすらできるだろう。
リアルタイム・コリジョン †
『ワンダと巨像』では、リアルタイム・コリジョンと呼ばれる技術を用いている。