■森昭雄『ゲーム脳の恐怖』生活人新書(NHK出版) 2002 ( →amazon)
『ゲーム脳の恐怖』にかかれていることが事実だとすれば、これは非常に重大な事実です。がしかし、一読させていただいた限り、その中で主張されていることがきちんとした手続きで主張されているとはどうにも思えません。そこで『ゲーム脳の恐怖』に書かれた記述が本当であるかどうか、疑わしい点について、以下に列挙させていただきました。
ゲームをやらせることが本当にどれだけ危険であるのかどうかについては、各人でお考えの上、結論を出していただければと思います。
なお、以下の私の指摘の仕方に間違いなどを発見された場合は、ご連絡ください。
◆脳の議論として問題のある点。
脳の知識については、森教授はご専門ですから私などよりも当然、きちんとした知識を持っていらっしゃるはずです。ですからその点でケチなどつけられるのだろうか、と思われるかもしれません。が、しかし、調べてみたところ「前頭前野のβ波が低下し、α波が活性化している」=「前頭前野の活動が低下している」という本書の基本認識は必ずしも肯定できなさそうだぞ、ということがわかりました。
細かい議論をする前にまず、用語について説明します。
そもそも、β波やα波というのは脳が一秒間にどのくらいの回数で波を出しているか、ということについて、毎秒14回以上ならば「β波」、8回〜13回ならば「α波」、4回〜7回ならば「θ(シータ)波」としたものです。
β波 = 毎秒14〜60回周期の波
α波 = 毎秒8〜13回周期の波
θ波 = 毎秒4〜7回周期の波
(δ波 = 毎秒4回以下)
そして、教科書的な知識としては、β波は通常の覚醒時や緊張時に見られる脳波で、α波はリラックスしている時などの弛緩している時に見られる脳波、θ波は、ねむけのある入眠時などに見られる脳波、とされてきたようです。(参考:山下富美代『集中力』講談社現代新書 1988 P38)
が、しかし、どうやら最近の研究では必ずしもβ波が緊張・集中時であり、α波がだらけている、ということはどうやら言えなさそうなのです。私は全くの専門外ですので、詳しくは
●アルファサイエンス56号 「Fmθ波とは」志賀一雅http://www.alphacom.co.jp/science_files/Science56/sacience56_2.htmlをご覧になっていただきたいのですが、この志賀先生がおっしゃるには、
「事実、私自身が大勢の脳波を測ってきた体験からいえば、将棋の米長さんが詰め将棋の問題を考えているときにしても、記憶力世界一の友寄さんが円周率を思い出しているときにしても、あるいは空手の達人が精神統一を図っているとき、ヨガの修行者が深い瞑想を行っているとき、いずれも意識が集中しているときと思われますが、8Hz〜11Hzの周波数のところに強いスペクトルピークが存在していて、もちろんθ波の領域にも信号が観察されますが、特に注目するほど顕著ではありませんでした。
……(中略)……
「α波が集中力の高いときに出る脳波だ、というのは俗説で科学的根拠がない」との記述に関しては、かつて東大医学部の教授平井富雄氏の行った世界的に有名な研究をご存知ないからだと思います。平井氏は東京大学医学部の助手時代に(1977年)座禅の研究で国際的な評価を得ており、坐禅における脳波はよく引用されます。すなわち「高僧の禅における三昧境では前頭部からα波が強く観察された。禅の初心者はα波がほとんど観察されなかった。初心者が居眠りで警策が肩を打つ直前までは前頭部からθ波が出ていたが、警策を受けたとたんにθ波は消え、β波が続いた。」ということです。
より詳しくは平井富雄氏の著書「瞑想と人間学のすすめ」日貿出版を参照してください。」
つまり前頭部からのα波が出るという現象は、集中力がさがったりするということではなく、むしろ、かなりの精神集中をしている時に出ている脳波だ、ということをおっしゃっています。
※ちなみに、「前頭前野」は前頭部の一部位です。『ゲーム脳の恐怖』のP68にも「簡易脳波計によって前頭部から記録し」と書かれているので、おそらく同じような部分から脳波の測定を行ったものと思われます。
これはあきらかに森教授が『ゲーム脳の恐怖』の中で言っていることとは異なります。もちろん、森教授は脳神経科学がご専門でらっしゃいますから、志賀先生の提示されている根拠とはまた別のものを根拠にβ波の低下を問題視しているのかもしれません。専門外の立場からは森教授の認識が絶対に間違っているということを断定しようとは思いません。しかし
・森教授がこのことをきちんとご存知なのか。
・あるいは、このことを反証する根拠を何か持っているのか、
という点がはっきりとしない限り、森教授の認識を肯定することもできません。
◆統計的に問題のある点。
「多くの大学の学生に協力してもらい」(P72)
→母集団が具体的に何人なのか書かれていません。 母集団の人数を明確に書くのは統計学的にはイロハのレベルのことだと思うのですが なぜその作業がなされていないのか疑問です。何か意図があってのことなのでしょうか。
P72-78
「ノーマル脳」「ビジュアル脳」「半ゲーム脳」「ゲーム脳」の人々の持つ傾向を記述する文章がすべて個人的な主観としてしか書かれていません。なぜここで主観的な印象しか書かれないのでしょうか。
「ノーマル脳」
「私の印象として、この人は礼儀正しく、学業成績は普通より上位でした」
→なぜ「この人は」とたった一人の個人のことについて書いているのでしょうか。「ノーマル脳」にあたる人はたった一人しかいなかったのでしょうか。たった一人しかいないのならば、なぜ「ノーマル」という言い方をしたのでしょうか。
「ビジュアル脳」
「学業成績も普通から上の人が多かったのです。このタイプの人のなかには、某大学で四年間成績がトップで、特待生の人もいました。」
→「多かったのです」という表記は避けられるべきです。具体的な数値をもとに他の集団と比較検定をやって、その集団が他の集団と明らかに差異があることが統計的には明らかになっている、ということを書くべきではないでしょうか。
→「某大学で」なぜ「某」という書き方をしたのでしょうか。他の集団と全く違った環境にある大学の大学生を一人だけひっぱりだしてきてそこで「成績がトップ」と言ったとしてもそれは比較をしていることにはなりません。大学名を明らかにする必要はありませんが、調査対象とした大学生が同じ大学(できれば同じ学部かどうかについても)に属するかどうか、という点についてははっきりさせておくべきではないでしょうか。
「半ゲーム脳」
「ゲームを行う前のデータは少ししか計測できていませんが」
→少ししか計測していないのでは、はっきりとしたことが言えないのではないのですか
「Cのようなデータを示す人たちには、少しキレたり、自己ペースといった印象の人が多くなってきます。ゲーム中に声をかけても、『うるさい!』程度の返事しか返ってこないでしょう。日常生活において集中力があまりよくなく、もの忘れも多いようです。」
→あきらかに、全て推測でしかなく正当性のある記述であるとは認められません。
「ゲーム脳」
「このタイプにはキレる人が多いと思われます。」
→思っただけですよね。
「学業成績は普通以下の人が多い傾向です。もの忘れは非常に多い人たちです。時間感覚がなく、学校も休みがちになる傾向にあります。」
→「多い」「傾向」という言葉を使われますが、それは統計的にはどのような感じになっているのでしょうか。全部データを公表しろとは言いませんが、統計的に有意なのか、どうかというだけでも示していただきたいところです。
「なお、本人は自分のことを、よくもの忘れするタイプだと言っていました」(P90)
→たった一人のデータを挙げることにどれだけの意味があるでしょうか。
たった一人をひっぱってきて「本人は…言っていました」というだけでは、その人がたまたまそう思い込んでいるにすぎない可能性を否定できません。自己申告であっても傍証にはなると思いますが、そういう場合はそのカテゴリーに属する人をなるべく全員調べないことには、説得力があまりに弱いと思います。
◆ 推論が論理的に問題のある点
「いったいいつテレビゲームをやるのか不思議に思いますが、それは眠る時間を削っているのです。一九九五年にNHKが…(中略)…この25年間で10歳以上の小学生の睡眠時間は九.二三時間から八.五五時間になり、なんと三十分近く減っているというのです。 これは眠る時間が遅くなったためです。塾から帰ってきてからテレビゲームをするので寝るのが遅くなるのも当然です。」(P26〜P27)
→提示なさっているデータはただ単にこの25年間で10歳以上の小学生の睡眠時間が30分間減ったというデータのみです。その減った理由がテレビゲームであるという調査データはないのですが、なぜそのようなことを言えるのでしょうか。
「半ゲーム脳人間タイプは、テレビゲーム、携帯型ゲームを小学校低学年から大学生になるまで、週三〜四回、一日一時間〜三時間行っている人たちです。」(P98)
→「テレビゲーム、携帯型ゲームを小学校低学年から大学生になるまで、週三〜四回、一日一時間〜三時間行っている」という集団を「半ゲーム脳人間」と名づけたのではないのですか?論理展開の順番が逆になってしまっているようですが。
◆テレビゲームに関する認識として問題のある点
「ゲームはテンポが速く、思考の入るすきまがありません」(P101)
→この記述はあきらかに間違っているとしか言いようがありません。 TVゲームをプレイする際に生じている意思決定に悩む現象を「思考」と呼ばないのならば、どう呼ぶのでしょうか。よほど独特の限定的な意味で「思考」という言葉を使われているというのならばわかります。が、「思考の入るすきまのない」ゲームと言われて私が思い浮かぶのは、『真剣遊戯』など一部のゲームソフトだけです。
◆その他の問題点
「前頭前野の機能低下と思われる身近な例を挙げてみましょう。たとえば、人目を気にせず電車内で化粧をしている人、公衆の面前で抱き合っているカップルなど。人間らしさを表現する場所である前頭前野が働かず、理性、道徳心、羞恥心、こんなことをしたら周囲がどう思うだろうということを考えられなくなってしまっているのです。」(P25)
→「人目を気にせず電車内で化粧をしている人、公衆の面前で抱き合っているカップルなど」の方々を直接お調べになった上で彼らを前頭前野の機能低下であるとおっしゃっているのでしょうか。
「被験者は高校三年生ですが、本人の話では、毎日母親と口論が絶えないと言っていました。彼は表情が非常に乏しく、ほとんど笑い顔がなく、キレるタイプのようです」(P87)
→「キレるタイプのよう」だ、と言っていますが、ここで、この高校三年生の被験者について明らかにされているのは「毎日母親と口論が絶えない」(と本人が言っている)「表情が非常に乏しい」「ほとんど笑い顔がない」という三点ですが、この三点の条件を満たしていれば「キレるタイプ」だと考えることが本当にできるのでしょうか?「キレるタイプ」の定義がかなり曖昧でよくわかりません。
それに「毎日母親と口論が絶えない」というのは、進路などについて悩むことも多い高校三年生という年齢の子ならばごくごく普通にあることでしょう。「表情が非常に乏しい」「ほとんど笑い顔がない」というのは、よくわかりませんが、これは森教授ご本人が実験の際に被験者の方とお会いしての印象でしょうか?もしそうならば、普通に考えれば、被験者として高校三年生の子が大学教授と会うとなれば、多少は緊張して笑い顔だって少なくなるでしょうし、そんなに表情豊かに接してくるということはむしろ稀なのではないですか?
「立体の木製ブロックパズルの組み立てと十円玉立て(十円玉を机などの平面上に立てる遊び)を行っているときのα派とβ派の関係を示しています。」(P90)
→ゲーム脳人間がほかのゲームをしているときの具体的な比較対照としてこの二つを選んだ理由はなんでしょうか。この二つの遊びが先にあげられている「積み木合わせゲーム」(おそらくテトリスのことだと思いますが)、「格闘技ゲーム」「ロールプレイングゲーム」の三つと比較対照となる妥当な理由があるとは思えません。比較基準をなるべく明瞭にしていただきたいと思います。
→それと、「十円玉立て」というほとんど誰も知らないものを持ち出してくることはマイナスでしかないと思います。どのような遊びであるのかを誰もわからないものでは、それが対象として選ばれることがまっとうなことであるのかそうでないのかの判断がつきません。追試可能性に乏しい実験はなるべく避けられるべきです。(「十円玉立て」「10円玉立て」というキーワードでGoogleで検索しましたが、一件もヒットしませんでした)
「実際、このゲームをやってもらった大学生はゲームを一人で深夜にやると、恐怖心にかられると言っていました。くり返しおこなっていると、ナイフで自分を防御しようと思うようになるかもしれません。さらにエスカレートすると、自分の身を守るために警官のピストルを奪おうとする行為に及んでしまうかもしれません」(P107、P108)
→なぜ「かもしれません」が連呼されているのでしょうか。単に「かもしれません」というだけではあまり意味がありません。それが0.001%の確率でのことなのか、1%の確率でのことなのか、10%の確率でのことなのか、もう少し説得力のある根拠はないでしょうか?せめて「このゲーム」をやった効果が、マイナスに働いていくことの傍証といいうるものがこの大学生の発言のほかにももう少し説得力のある資料によって示してもらいたいところです。
「ただし、ゲーム脳人間になるとこういった会話もできなくなります。やる気がなくなって、いろいろなことに興味も失ってきますから、だれと会って、なにを話したかなど、どうでもいいことになってしまうのです。コミュニケーションがとれなくなってしまいます」(P141)
→この断定はどこから導かれたのでしょうか。今までの議論は前頭前野のβ波に低下が見られるという点以外は、すべて「と思われる」「かもしれない」「といった印象」というものでしたが、そういった予想を集めるとこういう断定が可能なものなのでしょうか?それとも前頭前野のβ波が低下しているという事実だけでここまでいいきれるものなのでしょうか?
[2004年11月28日 追記]
この文章を掲載してから、いくつか質問をいただきましたので、追記させていただきます。
(1)おまえは誰だ。実名を出さないのは卑怯だ。
トップページから調べていただければわかりますが、井上明人と申します。ちなみに、ゲーム業界の人間(少なくとも、ゲームで収入を得ている人間)ではありません。
(2)あなたはゲームが危険でないことを立証するデータを持っているのか。
ご指摘の通り「ゲームは危険性のないメディアである」と立証する根拠は持ち合わせていません。私は「ゲーム脳という現象は絶対にありえない」というスタンスではありません。
私が書いたのは「本書の内容によって<ゲーム脳>という現象が証明されているとはいえない」ということだけにとどまります。
(3)あなたは、ゲームに悪影響があると思うか。
結論から言えば、あると思います。
ただ、重要なことは、悪影響が「ある」か「ない」かではなく、悪影響が「どのような場合に、どの程度あるのか」ということです。暴力行為を直接に行う可能性が「0.01%」なのか「90%」なのか、ではまったく問題が違います。例えば、ヘロインもアルコールも人体に悪影響のあるものですが、ヘロインの常習者がほとんどが廃人になってしまうのと違い、適度にアルコールをたしなむ程度の人は廃人になることはありません。このような程度の違いを全て無視して「悪影響のあるものは全てなくすべきだ」といってしまうことが極論であることはおわかりいただけることかと思います。読書にせよ、スポーツにせよ「悪影響」はあります。暗いところで本を読めば目を悪くしますし、無理な運動はからだを痛めつけます。
わたしの感じている「悪影響」について言えば、一部のネットゲームユーザーの間での「ネットゲーム」中毒とよばれる状況などに問題がないとは思っていませんし、そういった問題が存在するのであれば、しかるべき調査能力を持つ機関や研究者によって、きちんとした調査と対策が行われる必要性があるだろうと考えています。
ただ2004年の現段階で出回っている多くのゲームについては、社会的にみて充分に許容可能な範囲内での悪影響が大半を占めると考えてよい状況にあると思います。
(4)ゲームの悪影響論などについて興味があるのだが、何か研究を知らないか。
ゲームの悪影響の調査については、2003年から文部科学省が予算をかけて乗り出した、との話があります。よく知られているゲームの悪影響論の実証的な研究者としては坂本章氏などの研究でしょうか。悪影響を与える「場合がある」ことはある程度の実証がなされているようです。(「常に」ではないです。)
他に、ゲームの悪影響論とは少し違いますが、ゲーム業界で2003年にレーティング制度が作られる際の調査として、政治学者の白鳥令氏らによって行われたものが『ゲームの社会的受容の研究―世界各国におけるレーティングの実際』(2003、東海大学出版会)として出版されています。
また、CESA(社団法人コンピュータエンターテインメント協会)のゲーム研究インデックスにはそういった研究の成果がPDFで載せられているほか、ゲームの年齢別レーティングを行っているCEROもウェブページを公開していますし、主に18歳未満禁止のパソコンのアダルトゲームなどの審査を行っているコンピュータソフトウェア倫理機構もウェブページを公開しています。
なお、CEROでは、ゲームのレーティング業務の審査員を「20歳以上で、性別・職業を問わず、広く一般から」募集しているそうなので、我こそは! という方は、CEROの審査員になられてみてはいかがでしょうか?(※ただし「ゲーム関連企業に深い関係をお持ちの方」は審査員になれないらしいです。)
(5)ゲーム業界から金をもらってやってるんだろう。
お金がもらえるなら私も嬉しいのですが、残念なことにそういうことはありませんでした。
(6)若者がこんなにすさんでいる原因がゲームでないのなら、なんだというんだ。
「原因が何か」という以前の問題として、若者は必ずしもすさんでいないと思っています。私の書いたものではありませんが、以下のURLなどをご覧になっていただければ、私がそのように考える理由も多少はわかっていただけるかと思います。
- 反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だ
- 心理学総合案内・こころの散歩道 : 統計から見た少年殺人犯の推移
- 心理学 総合案内 こころの散歩道 : 少年犯罪は増加、凶悪化?(犯罪白書を読んで)
- 少年犯罪は凶悪化しているか 奥平康照 本学人間関係学部教授
(7)森昭雄とか、ほんと社会的害悪だと思いません?
そうは思いません。この手の同意の承認はある意味一番扱いにくいのでやめていただきたいところです。
森教授が、批判の集中砲火を浴びるであろうことを覚悟の上で、社会的な問題を告発するためにご自身の研究を世に問うた「勇気」は賞賛されてしかるべきものだと思います。ただし、その研究内容が、社会的問題を告発した――といいうるには十分な水準のものではなかったために、その「結果」として、非難されるべきでないものが非難の槍玉にあげられたのならば、その結果に対して研究者としての森教授には一定の責任があると思います。
今後、「ゲーム脳」をもっときちんと実証する、というのでもいいと思いますし、「ゲーム脳」が実証できないということがわかったのならば、その事実をきちんと公表していただきたいと思います。
少なくとも、森教授に対して人格攻撃をしたいとは思いませんし、逆に私もされたくありません。
(8)森昭雄は自分の作った装置を売りたいがためにあんなことをやっている。
森教授にそのような目的があろうがなかろうが、ゲーム脳が実証されるか/されないか、ということには関係のないことかと思います。金儲けを目論んでの研究が目的として少し不純だとしても、研究の質とは別の問題ですし、研究者が金を儲けたいとか、自分の作ったものを普及させたいと思ってもそもそも非難されるようなことではないはずです。
(9)このページにリンクをはっていいですか?
どうぞ。
2005年2月19日 その他、参考程度の追記
日本のゲームプレイヤー人口
ゲーム脳とは直接に関係ないことですが、日本のゲームプレイヤー人口というのがどの程度のものなのか、いまひとつ実感としてわからないという方が少なからずいらっしゃるようなので、一応データを示しておきます。
以下の調査データはCESA(コンピューターエンターテインメント協会)が毎年発行している、『CESAゲーム白書』からとったものです。住民基本台帳をベースに、男女・年齢ごとでの格差が出ないように抽出されたモニターリストから、郵送でのアンケート調査を行ったもので、「あなたはこれまでに『テレビゲーム』をされたことがありますか」という質問への回答を集計したものです。 (調査実施期間2003年2月19日〜3月2日。母集団は1022人)
【図1】
【図1】を見てわかるとおり、「以前はよくやっていた」と「現在も継続的にやっている」という質問に答えた人の率は、合計で66.6%、と実に三分の二の割合の人が、ゲームとかなりの接触経験があることを示しています。
【図2】
【図3】
男女格差と世代格差がはっきりと別れたデータになっており、継続的にプレイしている割合が、男性>女性、若年層>高齢層、という構造です。ゲームプレイヤーはごくごく一般的な、日本の若い男性の中ではマジョリティです。休日に、2,3時間ぐらいゲームをやるのも一般的なことになってきています。
さらに、この中から「現在も継続的にやっている」と答えた25.6%の人々について、さらに詳しく性別/年齢格差で見てみると、以下の【図2】と【図3】になります。