[ #01 物語に共鳴してしまう中学生と『ゲームは物語だけじゃない』と言うおっさんゲーマーの対立 ]
米島:最近、中学生の男の子と話す機会があったんだけど、何を話すかと思ったら、「やっぱFFは物語がいいですよねー、泣けますよー。最高ですねー。ドラクエなんかクソですよ!」なんて話を延々と語られてさ、いやーそんな話されても泣けてくるのはむしろこっちだよね。別の意味で。
瀬上:まあ、中学生なのだから仕方ないのでは?
米島:まあね、中学生なんだから仕方ないと言えば仕方ないけどさ、コモドールのマックスマシーンの頃からゲームを享受しそれを血肉にして生きてきたようなオレさまにとってはこういう素朴なコメントに対してはほとんど反射的に対話不可能なものを感じてしまうわけですよ。
瀬上:それって、「そもそもFFの物語なんかで泣くなYO!」という物語評価の水準ということですか?
米島:いや、そういうことじゃなくて、ゲームのようなキマイラ的なメディアを前に「物語がいいからFFはドラクエよりすばらしい」などといいう発想をできてしまうことが信じがたい。自分が80年代、90年代を通じて若干傍から白い目で見られつつも物語ゲームをプレイし続けたのは、「ゲームのつむぐ物語がすばらしかった」からじゃないよ。確かに物語の水準のみで鑑賞に耐えうる物語ゲームが少数あることは事実だけれども、それなら映画や小説に接していた方がずっと高確率で満足のゆく物語に出会うことができるわけだし。それでもゲームというメディアを自主的に享受しつづけてきたのは、簡単に言ってしまえば物語ゲームの中に「物語のみに還元できない体験」を知っているからだよね。わかるでしょ?
瀬上:確かにわかるにはわかります。ただ、米島さんの怒りって別にそんなに高尚なものでもないですよね。
「物語に共鳴してしまう中学生」と「物語ゲームが物語のみに代表されるのではないことを知るゲーム通の米島さん」との対立っていうのは、「PCゲーマー/コンシューマープレイヤー」「任天堂ファン/ソニーファン/セガファン」「ゲーム右翼/ゲーム左翼」「商業系/アート系」といった日本のゲームをめぐる議論の中では何度も浮上していた、すごく素朴な対立の一つですよね。
米島:それはつまり、「そのくらい慣れろ」と?(笑)
瀬上:いや、そういうことではないんです。ただ、そういう対立構図を提示させてみせらるだけではこっちも困るという話です。例えば、そもそもそのような対立構図自体が何なのかを問うという方向性に持っていくとか、そういう方向性へはいけないのかな、と。
僕には、米島さん的な立ち位置が「高尚ではない」というのも、つまり、別にその中学生の「物語に共鳴してしまう」という立ち位置より、米島さんの優位を保障するようなものが何もない、というようなことを思うがゆえなんですね。例えて言えば、ソニーブランドが、任天堂ブランドとの差異を確保することによって成立するような、共犯関係に近いものにすら思えています。
米島:まあ、差異として提示したんだから、片方の立ち位置がもう一方との関係性に支えられているっつーのはあたりまえだよ。そりゃ。瀬上くんの言うような論理でいけばそのように捉えられるかもしれない。それはわかる。ただね、オレが言いたいのは、「じゃあ、お前はどっちにつくんだ」と(笑)
瀬上:(笑)
物語ゲームにおいて物語とは何か
[ #02 「物語」の解釈/受容の緩さ ]
米島:瀬上くんが原理的な話をしようというのであれば、オレも基本的な話をするけれども、物語ゲームの「物語」の受容形態というのを考えてみると、それが決して映画や小説のそれと違うのは明らかだよね。
例えば、映画や小説の場合でも、物語の解釈の多様性は当然のように確保されている。物語ゲームの場合ももちろん解釈の多様性は発揮されている。だけれども、考えてみてほしいのだけれども、物語ゲームの物語の「多様性」と、映画や小説における「多様性」は全く異質のものである、ということはわかるでしょう?
瀬上:わかります。物語における多様性は、プレイヤーが物語を経験する各個人ごとの文脈が多様だという話だけにとどまらず、土台となる物語の表現が多様性を持っていますね。そこのところで物語ゲームというメディアの解釈の多様性はかなり緩く組みあげられたものです。
米島:それは重要なことの一つだけれど、そもそもゲームプレイヤーの経験の中心が「物語」であるかどうかすら不明でありうるということがあるよね。例えば、ゲームシステムの中でひたすらキャラクターのパラメーターを成長させていくための階段を駆け上ることに必死なプレイヤーは沢山いて、そういうプレイヤーたちの「物語」の受容形態といったら全くバラバラで、物語をどこまで理解しながらすすめているかすらわからない。仮に物語を理解しながらやっていたとしても、それを「物語」として受容しているというよりも、個々のタスクを達成するための「出来事」を処理しているといった方が似つかわしいようなプレイスタイルは珍しくない。こういったプレイ体験もまた、一つの物語に還元不能なゲームの体験の一つでありうるとオレは思う。昔はそういうプレイスタイルの人に対して、「邪道だ」とかも思ってた時期もあったんだけども、まあそういったプレイスタイルの中で何かしら感動したり得がたい経験をする人というもいるわけだからそういったスタイルだって俺はぜんぜん「アリ」だと思うわけね。
で、このような「緩さ」まで想定した上でね。もう一度聞くけれど、こういった「緩さ」までをも一つの「体験」として回収するオレの立ち位置と、「物語」にベタに入れ込んでしまおうとする中学生と、どちらの立ち位置が妥当なものだと思う?
瀬上:いや、米島さんのその選択肢の提示自体に僕は賛同できません。そもそも、米島さんは自分の立ち位置がリベラルだと見せつつ、中学生の立ち位置を排除しているのが許せませんね(笑)中学生のそれもまた、一つの「プレイ体験」として認定してやることができるはずです。
それはさておき、米島さんの言った「緩さ」の話は僕のやろうとしている議論をする上でも重要なヒントになるという気がします。
もう一つ、議論のための整理軸を導入したいのですが、85年頃のゲーム雑誌草創期のゲーム雑誌の記事などからも見られるよくある整理軸ですし、別にゲームというメディアに限ったことじゃないんですがゲームの批評スタイルについての分類の話というのがあります。細かく言えばいろいろありますが、便宜的にものすごくおおざっぱに分類してしまうと(1)「オレは偉いからオレの言ってることは正しい」という印象批評、(2)「こんな私がこういう風に感じた」という<私>語りの印象批評、(3)そして歴史的位置付けや哲学用語といった分析概念を援用した「学者」型の批評、という三分類で考えてみます。
米島:その分類は大胆だね(笑)。標準的な批評理論の区分けでいけば(3)の学者型のところを、フォルマリズムだとか、フェミニズム批評だとか、読者中心論だとか細かく分けるところだろうに。
瀬上:いえ、別に批評理論の網羅的な紹介などが目的ではないのでこれでノープロブレムです。
さて、わかっていて聞きますが、米島さんは中沢新一の「ゲームフリークはバグと戯れる」(中公文庫『切片曲線論』1985所収、初出は1984)と『ポケットの中の野生』(岩波書店、1997)はお読みになっていると思います。
念のため内容をさっくり解説しておきます。「ゲームフリークはバグと戯れる」は、一般的なテレビゲームを「競争原理」にもとづいた「資本主義的ゲーム」と断罪しながらも、『ゼビウス』は別格で、『ゼビウス』においては「引用」と裏設定による神話的想像力によって物語性が準備され、その土台の中で「隠しキャラ」とバグによって引き起こされる予測不可能の物語の宇宙があり、そこに「ノマド」的に関わっていくゲームフリークたちを、「資本主義的快楽のレヴェルを越え」た存在であると位置づけるものです。
『ポケットの中の野生』は『ポケモン』を議論の俎上にあげています。フロイトやラカンの分析概念によって『ポケモン』を契機として自我を獲得していく子供たちを論じ、そこにレヴィ=ストロースの「野生の思考」の発現をも見てとり、「野生の思考」のアジールとしてゲームの世界の働きを指摘しています。
米島:OK。たしかにそんな内容だった。
瀬上:率直に言って、米島さんは中沢新一の議論はどう思われましたか?
米島:オレの興味からすれば「くだらないな」と。
結論は最初から決まっていて、ヨーロッパ系現代思想のジャーゴンを使いつつゲームプレイという行為を現代思想的コンテクストの中に配置して「ゲームをやるのはすばらしいんだよ!」ということを言ってみただけ。それがどうしたんだよ、っていう感じだね。
瀬上:そう言うと思ってました。
ちなみに、僕はああいうコンテクストの中にあれだけ上手く配置してくれたのは流石だと思ってます。結局、中沢新一以外には遊び/ゲームとい対立軸の中であれだけ上手くテレビゲームを位置づけて語ろうとしている人もいないわけですし。
(続く)
2005.4.08