桝山寛『テレビゲーム文化論』

 テレビゲームミュージアム代表、桝山寛氏の最近でたばかりの新しい著作でゲームについて小難しい話を云々しようとしている層の人々にとっては、こういう本が講談社現代新書というメジャーな教養シリーズから出版されたというそのこと自体は歓迎すべき出来事であるといっていい。
 
 現在、テレビゲームについて、小難しい話をしている群で、目立った人々を挙げるとだいたい、雑誌『ゲーム批評』や岡田斗司夫氏などのサブカルチャー関連の評論家(と言ってしまっても失礼ではないだろう)、飯野賢治氏などのクリエイターの人々、そしてその他にまとまった活動をしている組織としては桝山氏、野安氏、平林氏などがいるテレビゲームミュージアムというものが非常に目立っている。いずれの人々の文章に対しても大なり小なり違和感はある。ゲーム批評の人々などは違和感どうこうという以前の感じでもあるが、本書『テレビゲーム文化論』にも少なからず違和感を感じた。
 その違和感というのは何なのか。
 
 最大の違和感は、やはりそのマクロすぎる話から来てるのではないか、と思う。『テレビゲーム文化論』で、その点がもっともよく出ているのは、ゲームの広がってゆくべき可能性そのものというのを第三章で早々にテレビゲームとは相手をしてくれるメディアである、という点に限定してしまって、それを第五章につなげっていって、結局そういう側面から見たら、ポスト・ゲームとしてAIBOのような「ロボット」というのは非常に強力なものなのではないか、という論を展開する。そりゃちょっと性急すぎるだろう、というように思う。例えば、自分なんかはゲームのひろがってゆくべき可能性がどこにもとめられるか、という第三章の部分をもっとこねくりまわしているのが、最近の自分のゲーム関係の文章の特徴だと、(自分では)思っていて、その可能性というのは確かに一つには「相手をしてくれるメディア」という点にもあるが、「我々に理不尽な他者の視線を浴びせ掛けてくるもの」でもあり「シミュレーター」でもあり「玩具」でもあり「現実空間とは別のもう一つの世界を用意してくれるもの」でもあり「カタルシスを促す物語」でもあり「二重創作物」でもある。そこの可能性というのはそんなに簡単には限定されていない。(詳しくはゲームのいくつかの目的
 そういった、ゲーム文化全般に対して性急に話をしていこうと姿勢の中にはやはりどうしても、ゲーム文化そのものが「文化」としてまだ受け入れられていないという意識が濃厚に存在しているように思える。いや、うけいれられていない、というのは言い過ぎかもしれないが、「もっと受容されてしかるべきもの」という意識はとっぷりとあるだろうと思う。そういった、迫害されし者の「私はどうして差別されなきゃいけないんだ」みたいなところで出て来る危機意識が、政治的な性急さを伴ったものになってくるのは仕方がないことではある。それはわかる。一章と二章でゲームの歴史が語られ(※「文化」を強調するのに歴史を語るというやり方は、言うまでもなく非常にオーソドックスに選択される手段である。「日本文化とは」ということを語るのに歴史が全く無縁であったためしなどない)、四章では「テレビゲームは日本文化か」という問いが提出されそこで論考がなされる。そもそもこの本の題名が『テレビゲーム文化論』であるし、ゲームの地位向上の必要性を感じる危機意識によってこの本が書かれていることは言うまでもないことだし、ゲームの地位向上の危機意識があることは桝山氏自身、認めるところだろうが、問題はそういった危機意識によって語られるということで、こういった過剰な性急さを感じさせるような議論をしてしまうということありがちである状況について、どう思っているのかということである。「テレビゲームはロボットである」などと言われても、一つの見解としては非常に興味深いものだと感じるが、その見解をベースにしてポスト・ゲームとしてのAIBOというようなところまで話がすすんでしまうとどうにも首をひねらざるを得ない。
 
 と……だいぶ批判的なことを書いたが最後の5行
「メールで出会い、テレビゲームで遊び、ロボットを愛玩することがあたり前の社会に、私達は生きている。繰り返し述べたように、その現象自体を憂慮することには、あまり意味があるとは思えない。私が今、考え始めたのは「ヒトによってしか与えられない楽しさ」についてである。」
 という。この問題意識。
 この感覚自体は私と共有可能なものであると思う。桝山氏の今後の活躍を祈りたい。
 
 
 ※あとP112の「攻殻機動隊」であるべきところが「甲殻機動隊」という誤字になってる。
 
 
 
 


copyright©Akito Inoue 2002.1.8