『L.O.L』  ― lack of love ―
 
   
   
   
   
 [ ある人へのメールの返信 ]  
   
   
   
 [ #1 非力であること。逃れられない身体があること。]
 
 
 『L.O.L』や『シムアント』において私がよかった、と感じたものを「変身願望」といわれるとそれは何か少し違うな、という感じがしました。
 確かに、『シムアント』で蟻になるのも『L.O.L』で小さな微生物になるのもそれが一種の変身であることには間違いないので、言葉使いとして間違っているというようなことを言えるわけではありません。それは単にプレイヤーとしての私の感じ方に依存することなのですが、私は「変身願望」という言葉には何かの欲望をかなえるために強大な何者かに――例えばウルトラマンのようなものに好きな時に変身できるというような印象を受けます。あるいはスーパーマンになって空を飛ぶだとかなんだとかといった、そういう≪自己の身体が自己の身体でしかありえない≫という拘束から自由になりたいということを指す言葉としての意味合いが強いように思えます。ですけれども、私が『L.O.L』や『シムアント』をやっていて感じるのはそういった形の自己の身体からの自由といったものであるよりも、むしろその逆の感覚です。「変身」への願望ではなく「変身」が不可能であることの諦めという感じでしょうか。
 蟻になった時に感じるのは蟻として生きることの自由ではなく、むしろ蟻であることの非力さや、蟻であることの不自由です。ただ「人が散歩した」というだけで何十匹もの仲間が踏み潰されてみじめな残骸になり、ただそこに小石がころがっているというだけで進路を大きく変えなければなりません。『L.O.L』で小さな微生物に成り果てた時に感じるのは、その小ささと、ほんの一昼夜が過ぎていく程度の時間に、誰かを殺して食さねばならないことの「食う」ことと「殺す」ことをセットになって行わなければならないことのどうしようもなさと、むしゃむしゃと死体を食べている自らの姿です。私は「誰かを殺して食べる」ということを行為すると同時に、だまってそれを見つめていなければならず、その体験というのは全くもって身体から自由であるという感覚を与えません。むしろそこにおいて与えられている感覚というのは、ひどく不自由なもう一つの身体の可能性です。その身体を行為し、見つめることによって、その不自由な身体の小ささや身体の無力さと対峙を迫られ、その身体から逃れようがないのだというを示されるということのどうしようもなさです。
 「この身体である。この身体でしかない」ということの不自由を味合わされる。そのことというのが私が『L.O.L』や『シムアント』をやっていて感じざるをえなかったことだったというように思います。
 
 
 
 
 
 
 
[ #2 声高な文明批判などではなく ]
 
> 『L.O.L』はだいぶ、言い尽くされた文明批判みたいなことをやっているな、
> というか、そのメッセージ性の強さみたいなものがどうにも私は好きになれませんでした。

 それは確かに、私にも少なからずそう感じた部分はありました。
 ラストにおける近代文明批判的な部分に焦点をあてる形でこの作品の語る物語を受けとるのならば、この作品は近代文明批判のメッセージをたずさえた数多くの作品の中の一つだというふうにしかうつってこないという側面もあるかもしれません。
 ですけれども、『L.O.L』における文明批判、近代批判のやり方というのが、ただメッセージとして”反管理主義”だとか”自然のエネルギーを”などといった簡単ないくつかのスローガンの中にまとめられて、悲壮感を伴いながら声高に叫ばれるようなものだったのか、というと、そういうものであったとも思えません。
 
 その差違と言うものを説明する焦点としては、星への侵略者である”ハルミ”というロボットがどのような地位を与えられていたかということが重要になってくるのではないか、と思います。だいたい典型的な近代批判のメッセージを持っているような作品になると、批判をされる側である「近代」に属している側の人間である近代社会内部の人間――都会、先進国の大人や男性というものが悪人として描かれ、「近代」のフレームの中にまだとりこまれていない(?)田舎、途上国の女性や子供といった存在、あるいは人間外の妖怪や精霊、動物などといった側が善人として描かれ、両者の勧善懲悪構造の中で物語を成立させていく、というようなものが一つの典型例だろうと思います。(私の挙げた典型例には反論もあるかもしれませんが、「ごく単純な勧善懲悪の物語」というぐらいは賛同いただけるのではないかと思います。)
 しかし、”ハルミ”というロボットは、確かに批判対象である「近代」を背負った存在なのですが、では「近代」というフレームに主体的に参加していくような「近代的人間」のようなものであるのか、というとそのようなものとして描かれていたとも思いません(そもそも人間ではありませんし)。確かに”ハルミ”は星を侵略し、近代文明の植民地としようとするロボットなわけですが、そのような行為を行う”ハルミ”は決して本人の意志でヨダレをたらしながら、星を切り開いていくような主体ではないわけですね。”ハルミ”というのは単に近代の側によって「作られた」存在にすぎず、”ハルミ”の行為というのは単に組み込まれた命令に従って黙々と行われている行為です。ですから、「自らの運命を選び取って開拓していく」(=傲慢な近代的人間)というようなものではなく、ただ与えられた目的に従って、静かに生きている存在の一つにすぎないのであって、確かに”ハルミ”の後には近代だとかなんだとかいろんなものが潜んでいるかもしれないけれど、”ハルミ”というのもまた主人公の生物と同様、世界に放りだされた、一つの非力な存在として生を与えられている存在にすぎないという状況があると思うのです。

 そこで紡ぎだされてくる感覚というのは「文明」を立ち向かうべき巨大な悪、倒すべきもの、と見据えたようなそのようなうるさいメッセージのようなものではなく、文明によっておいやられる側が世界に対して非力な存在であるのと同様に、「文明」もまた世界に対してまったく非力なものでしかないな、というような感覚のものだったと思います。つまり、文明においやられている側というのが、いつのまにか「自然」の側の代弁者として「近代」の側を批判しはじめる、というようなものではなく、文明においやられる側も、文明の側も同時に世界に対して非力な存在である、という、そのようなものだったのではないか、と思います。(もっとも「非力な文明」として出てくるのは、あくまで近代文明によって「作られた」ロボットである”ハルミ”だけであって、ハルミの背後にあるものまでもが非力であるというような意味が与えられているのかどうか、というとそれは少し微妙だと言えるかもしれませんが)  




copyright©Akito Inoue 2002.2.27