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中学校3年生の頃、僕はノートにこんな文章を書いたことがある。 |
虚空の人
或る男がふと自分にはχという息子がいるのだと思う。 親である男は死ぬ。 χ君は優秀です。 一流企業にχを 課長 χは偉人です。 「χ」そんな人がいるのか 誰も記憶していない。 (この小説を第三人称の語りで) |
拙いもので恐縮だが、 これはつまり、一つには架空の人物が制度的なものの中にあって「現実に」存在してしまえるかもしれないというのは何か恐ろしいものだと感じると同時に、もう一つには少しうつくしいものを感じないでもないというのがあり、中学校3年生の時の自分はこういう文章を書いた。 しかし、当時はどちらかというと、ただ夢想されたにすぎないものというのが、我々の生活の中に何ら疑われることもなく、不気味に存在してしまうことへのおそろしさといったものを感じるところのほうが大きかったように思う。 だけれども、先日ネジタイヘイの私的ホームページを見たとき、「虚構が現実を飛び越えてしおうとするのは恐怖である」といった具合の発想を頻繁に躊躇いも無くしてしまうことには微妙に安っぽさがあるような気がした。その「安っぽさ」というのが何なのか―――ということを明確に説明することというのはできないけれども、ネジタイヘイを「ただの虚構のキャラクターに過ぎない」ということで彼に愛着をそそげる行為に対してどこか距離を置こうと考えるのならば、その考えはどうにも馬鹿げた考えだという気がしたのだ。 確かに、ネジタイヘイはこの世にいない。それは全くわかりやすい事実だ。
しかし、「ネジタイヘイ」はドリームキャストのソフトの中に作り出され、WWWの上に「ネジタイヘイ」のホームページを作り出し、そこには確かにネジタイヘイの日常が映し出され、記述され、彼は確かに現実的なキャラクターをもち、日常をもっている。 当然、これを作っているのはルーマニア#203の製作者たちであって、彼らが考え、作り出した人格であって日常であるから、キャラクターを「持たされている」のであり、日常を「もたされている」のだ、というのが正確だ。
存在しないのがもったいないくらいにしっかりと描かれる日常である、いや、存在しないからこそ、それは静かに受け入れられるのかもしれない。あまりにもしっかりと存在しようとしている嘘だからこそ、どうしようもなくせつないのだろう。 もしも、現実に存在してしまったらネジタイヘイは全く凡庸なつまらない青年でしかないのかもしれない。 |