ゲームは悪影響か [ #01 とりあえずは「悪」の簡単な定義から(その場しのぎ) ] |
瀬上 : 今日は、結構ありがちな話題であるわりに、ゲーム業界の人があんまり自主的にはなすことの少ない、「ゲームは本当に悪影響かどうか」という話題について話したいんですか。 米島 : あー、なんかこっぱずかしいねぇ。なんか、そんな話題をやるっていうのは。
瀬上 : 僕ですか?僕はそんなにゲームが槍玉に挙げられる、というのはどうもな、と思っているんですが、米島さんはどうなんですか。 米島 : じゃあ、オレはキミの向こうをとって、ゲームは悪影響がある、という方にまわりましょうか。実際、多少はそうは思ってるし。
瀬上 : はい。それじゃ、まず、「悪影響」とは言いますけれども、非常にラディカルなところからはじめたいと思うんですが、その「悪」の定義というのは何なんでしょうか。 米島 : それは別に、「悪」という言葉はあてはまらないんじゃない?確かに、家に閉じこもって実際の女の子を相手にするのではなくて、ゲームの中の女の子を相手にしている、というのにはネガティブなイメージはつきまとっているかもしれないけれども、「ネガティブなイメージ」と「悪」ということとは別物だよね。
瀬上 : そうですか。じゃあ、「悪」って言うのは一体、何のことを言ってるんだろう、ということになりますけれども、どうでしょう。 米島 : うーん。一応の答えはできるんだけれども、まずちょっと、キミの考えを聞かせてくれないかしら?
瀬上 : 僕はですね、「悪」というのは、その国とかその地方の文化、伝統によって育まれた非常に恣意的なものだと考えてるんです。例えば、「国に忠誠を誓うこと」というのが悪かどうか、という議論になったとき、戦時中は国に忠誠を誓うことと言うには、間違い無く「善」であったわけですけれども、それが戦後になってからはオリンピックなどの国家という枠組みが強制的に機能しうる場のようないくつかの例外を除けばだいたい、逆転したわけですよね。現在では「国に忠誠を誓う」と言えば、ファシズムのイメージとともに、朝日新聞とかに刃物をもってたてこもったりする右翼のイメージが強力に流通している「悪」の存在になってしまったというようなところがありますよね。 米島 : うん、それは善とか悪とかいうものの一つの側面ではあるね、確かに。だけれども、それだけじゃ説明不足だと思うのね。もっとも、オレも善悪の全てについて説明する気はないんだけれどもさ。
瀬上 : 基本は「悪」のイメージから入っていくと思うんです。それが、「IT革命」みたいな言葉で受け入れられてゆけば、それがゆっくりと善になったりしてゆくのではないかな、と。 米島 : うーん。そうねえ、それはやっぱりイメージという部分だけだと思うのよ。説明としても少し苦しいところがあると思うしね。
瀬上 : というか、僕は善とか悪とか言うのは基本的に、それをどうイメージするか、という問題でしかない、と思ってますから。米島さんは、そうではないわけですか? 米島 : うん。違う。オレはね、確かにネガティブイメージ、ポジティブイメージというのは文化・伝統によって変容するものだというところはあると思ってるのね。確かに。
瀬上 : ちょっと、待ってください。 米島 : というと?
瀬上 : ロールズの『正義論』はご存知ですよね。 米島 : はいはい。
瀬上 : あの中でロールズは「善」と「正義」は別の問題である、と言ってますよね。 米島 : 「善」というのが特定の社会や個人などに依存しているものだというのに対して、「正義」というのはそういう相対的なものとは違ってもっと絶対的、普遍的なものだ、と言っているということ?その、まあ倫理学理論じゃったら、まぁみんなやるような分類だよね。カントしかりヘーゲルしかり。ま、分類のやり方は人によって少しずつ違うけど。
瀬上 : まあ、そうです。 米島 : うーん。そう捉えられましたか……
瀬上 : ただ、それだと「公共の福祉って何?」という議論がやっぱりでかいと思うんですよ。 米島 : じゃあ、もっと簡単に「他人に迷惑かけるな」にしようか。
瀬上 : うーん。じゃあ、そのくらいで、止めておきましょうか。 米島 : オッケーオッケー。じゃあ、他人に迷惑かける奴が悪ってことにして議論をすすめるよ、とりあえず。ここで、そんなに倫理学的な議論をはじめるときりがないから。
瀬上 : はい。
米島 : で、えーと、何だったけ?
瀬上 : ときメモやってる青年男子が悪か、という話でした、確か。 米島 : はいはい。
瀬上 : えーと、他人に迷惑をかける奴はいけないんだ、という話にするとですね、ときメモをやってる青年男子というのは、別に誰かに迷惑をかけてるわけではありませんよね。 米島 : まあ、仕事も行ってるわけだしね。
瀬上 : ええ。もしかしたら、その男性の彼女が「彼氏をゲームに取られた」とかって言うかもしれませんけれど(笑) 米島 : どうだろ、それは迷惑をかけている、と言えるんだろうか?
瀬上 : うーん、どうでしょう。別に彼氏にとっては彼女と付き合うことは、義務ではないわけですし、そこは彼氏の幸福追求と、彼女の幸福追求とが、そり合わなかった、ということで、 米島 : そうだね、それだったら、「あの人は野球のほうばっかり見て私のことなんて……」とか、「あの人は私より仕事を選んだのよ」とかっていうのと同じものだもんね。彼女の言う「あの人」を、彼女が束縛できる理由はないものね。彼氏は彼女の要求に答えてやる義務が見出せない。
瀬上 : まあ、そんな感じでしょうかね。まあ、もっとも夫婦ともなれば、キリスト教式の結婚式では相手を幸福にすることを誓うことを決断して、それを宣言しているわけですから、義務が導出できるかもしれませんね。法律的には知りませんけれど。 米島 : ああ、なるほど。家庭をかえりみない夫、とかってなると批判できるかもしれない。妻をかえりみないだけならまだいいけれど、子供をかえりみないとなってくるとこれは養育義務に反するし、明らかに子供に迷惑をかけていることになるしね。それはいかん。 瀬上 : まあ、そんなのゲームの責任というよりも、夫の個人責任ですけれどもね。それに、そのゲームというメディアだけが槍玉に上がる明確な理由が無いですしね。 米島 : おっとっと。えーと、一度に重要な論点が二つ出ちゃったな。なんかちょっとその、ゲームだけが槍玉に上がる理由が無い、という部分はちょっと後に論じることにして、その個人責任という部分なんだけれども、個人責任というのはつまりどういうことか、説明して下さいな。
瀬上 : ま、つまりゲームファンの中でも色々いるということですよね。 米島 : オウッっと。まあキレイな説明ですねぇ。そんなしっかりと説明してもらわなくても、「別にゲームやってるほかの人は問題ないじゃん」の一言でもよかったんだけれども、よりベターな説明ですな。お見事。
瀬上 : どうも。 米島 : えーとさ、話をちょっと変えてね、もう一つの見方をすると、こういう風に言うこともできるよね「ギャルゲーにはまりすぎて現実と虚構の見境がつかなくなってしまった男性は犯罪に手をそめる可能性の高い存在である」
瀬上 : それは別に悪じゃないですよ。 米島 : うん。そう、それは確かに「悪」じゃない。
瀬上 : いや、それは、そうなんですけど、確かにそうです。 米島 : ん?
瀬上 : ほら、その男性が悪の存在だ、みたいな。 米島 : んー…、ちょっとそれは誤解される言い方をオレがしちゃったのかもしれないけれど、どうぞ、続けて。
瀬上 : はい。概念をもう一度整理しておきたいんですけれど、悪、というか、まあ僕にとってはそれはどちらかというと正義かどうか、という議論なんですけれど、悪という概念の性質ですけれどもね、それは存在と結びついているものではなくて、具体的な行為とか事件といった具体的な事例に即してのものだと思うんですよ。 米島 : イエッサ。まあ、そこについても、議論のあるところではあるけれど、オレは確かにキミの意見に賛成。
瀬上 : そうですそうです。人間が悪、ゲームが悪、ではなくて、この事件についてはゲームが悪であるというべきか否か、この事件については人間が悪であるというべきか否か、というそういう議論です。 米島 : そういう議論が無いことには、○○は悪でもあり、善でもある、という議論より先にすすまない、というところがあるからね。
瀬上 : ああ、はあ、そういうこともあるかもしれませんね。 米島 : でね、そういうことになるとさ……
瀬上 : あ、ちょっと、待ってください。さっきの話、まだ続きがあるんです。 米島 : あ、そのなの?ごめんごめん。じゃあ、どうぞ。
瀬上 : ええと、ですね、もう一つさっきの、「現実と虚構の見境がついていないような男性」というような部分でですね、現実と虚構が見境のついていない状態になってゲームをやっているのか、それとも現実と虚構の見境がついているけれどもゲームにはまっているのか、という部分の議論が抜け落ちていたと思うんです。もうあとひとつは、現実と虚構の見境がついていない人間は犯罪を起こす可能性が本当に高いのか、どうか、という議論もなかったと思うんです。 米島 : ああ、はい、そこらへんね。やっぱり言われると思ったんだけれどもさ、
瀬上 : うーん、 米島 : だって、現実と虚構の見境のついていない人間はわけのわからん行動に走りかねない、というのは、思うでしょ?やっぱり?
瀬上 : うー……ん、じゃあ、そこはそういうことにしましょうか。 米島 : で、はい。現実と虚構の見分けがついているかプレイヤーかどうか、ということなんだけれども、これは議論を素っ飛ばしたのには理由があってね、まあ、見分けがついているプレイヤーならば問題無いんじゃないの?と思ったので、見分けのついているプレイヤーについては言及しないで、現実と虚構の見分けのついていない場合のプレイヤーに限定させてもらったのね。
瀬上 : 見分けがついていれば問題無い、ということでいいんですか? 米島 : うん。そう思うんだけど、異論ある?
瀬上 : いえ、僕もまあ、そうは思うんですけれど、議論なしに、ポンポンといくのはどうかな、と思ったんで。 米島 : まあ、それじゃあ、いいのね?ま、それにさっきの個人責任のとこで出た話でも、そこの部分の話はもうけっこういいでしょう。
瀬上 : まあ、はい。
米島 : ええと、何を話そうとしてたんだっけ。
瀬上 : うーん、そうですねー、確かにそうかもしれませんね。 米島 : じゃあね、じゃあね、もしね、18禁のエロゲーを日夜楽しんでいらっしゃる御仁がね、現実と虚構の見境がつかなくなって、レイプ事件を起こしたとしたらね、そのケースにおいてゲームは悪影響を与えたものであると言えるよね?
瀬上 : それなんですけれどもね、ようやく、基盤の部分の議論から本題に入りましたけれどもね、それが、言い方としてどうかな、ということなんですよ、僕の言いたいのは。 米島 : うーん。じゃあ、とりあえずそういうことにしておこうか。
瀬上 : ……はい、そうだとするとですね、言い方としては「ゲームは悪影響」ではなくて「メディアは本来的に悪影響といえるような部分を持つ」、というような言い方をするべきだったのではないか、ということなんです。 米島 : あいあい。確かにその議論は、よくわかることはわかるこってす。ええ。
瀬上 : そうです。まさか、メディアを全部なくせ、という議論はないと思うんです。 米島 : でもね、そこでもし「メディアを全部なくせ」という議論をする人がいたらどうするんですか、というのが一つね。
瀬上 : はい。ええと… 米島 : で、ちょっと、待ってね。
瀬上 : はい。じゃあ、まず、最初の議論ですけれどもね、まず、本当にそんなことを言ってしまう人がいるのかどうか、というのはありますけれど、それは少し置いとくとして、「私はメディアを無くしてしまっていいものだとは、思いません」と主張すればいいんでしょうか? 米島 : そうそう。まあ、そんなこと。
瀬上 : ええと、そうですねえ、テレビや新聞を無くしてしまったら現代社会はなりたたないでしょう。まず。 米島 : 確かそれって、マクルーハンのあれだよねえ、あの、『グーテンベルクの銀河系』
瀬上 : ええ、確か。僕は読んだことは無いですし、ちょっと著書までは保証はできないんですけれど、そういうことは確か言われてますよね。 米島 : うん。
瀬上 : はじめの反論に対する再反論はこんな程度でいいですか? 米島 : うん。まぁ、そうね。文句も出るかもしれないけれど、そんなところでとりあえずはいいんじゃないのかねぇ。現代社会をなりたたせるためにはメディアをなくせ、という議論はちょっと無理なんじゃないか、ということだよね。
瀬上 : はい。えーと、そうですねえ。 米島 : それはそう。レポートと称するものはいくつかあるけれども、あんまちゃんとしたものはないらしいという話だよね。オレもなんかその手合いのものをチョロチョロと読んだことがあるけれど、なんか愚にもつかない数値の取り方してるような研究しか見なかったしね。統計の方法論とか、そういうのを多少なりとも知ってる人から見たら、なんかアホみたいな研究だったな。
瀬上 : うーん………どうなんでしょうか…… 米島 : いやね、すごい、卑怯なことをして答えにくくしていて本当に申し訳無いんだけれども、ゲームは影響力が強い、と言ったらゲーム「は」悪影響、という主張を少し認めてしまうことになってしまうし、ゲームは影響力が強くない、と言ってしまったら、ゲームファンの人間として、ゲームのメディアとしての強さを信じていないのか、ということになるから、どっちに転んでも、キミにとって、不利になるような話の運び方をしてしまったんだけど…………
瀬上 : いや、まあ、別にそのくらいは。気にしていただかなくとも。 米島 : ほお。となると……
瀬上 : ええ、それは確かにそう思うんですけれどもね、ただ、こう、反論になっているかどうかわかりませんけれども、ゲームがネガティブな方に影響が強いのだったら、同時にポジティブな方にも影響が強いんだ、という議論をたてることもできますよね。 米島 : うん、まあ、実はその反論を封じるために、前の議論をしたんだけれども、まあ、いいや。確かにそれはしなきゃいけない議論なんだよね。絶対に。
瀬上 : ええ。もうあとひとつ反論としては、微妙な反論の仕方で申し訳無いんですが、ラインを越えるかどうか、というのもあるんじゃないか、という議論も、形式的には可能ですよね? 米島 : ライン?
瀬上 : 現実と虚構の見境がつかなくなってわけのわからない状態になってしまうラインです。つまり影響をうける、とは言ってもどのくらい影響をうけるのか、ということがあるじゃないですか。 米島 : はいはい。さっきもした議論だけれども、現実と虚構の見分けがつく状態だけれども、影響は受けているよ、ということね。
瀬上 : ええ。本当に苦しい反論なんですけれども、つまり、影響を受ける人は増大するかもしれないけれども、ラインを越える人の率は案外変わらないかもしれないのではないか、と。 米島 : 確かに、それは苦しい反論だねえ、ラインを越えていない予備軍の人の数が増えるってことは普通に考えたらラインを越えてしまう人の数も増えているって考えるものね。
瀬上 : そうなんですよねー。 米島 : それっていうのはさあ、「ゲームをやってる奴はみんな駄目だ」みたいな話に対する反論だよね。むしろ。
瀬上 : そうですね。
米島 : まあ、じゃあ、この話はあんまり進みそうもないので、「ゲームが影響が強いのは間違い無いだろう」、ということで落ちつかせてしまってね。
瀬上 : はいはい。 米島 : オレはね、年齢制限をやってもいいんじゃないか、ということはちょっと思うわけ。やっぱり本当に意欲的な作品は、ゲームの中の人工世界と現実の世界との繋がりを錯覚させてしまおう、ということに本当に熱心だからね、もしもこれを小学生がやってしまったら、童話の世界にでさえ小学生なんかは簡単に迷いこんでしまうわけだから、本当に混乱しかねないんじゃないか、というのはあってさ。
瀬上 : ええ、それなんですけどね。反論としては年齢制限をやることに本当に実質的な意味はどこまであるのか、ということですよね一つには。例えば、親がOKしたら、結局親が買ってきてそのゲームを子供がやるわけですよね。もしくは、お年玉とかをためれば、近所のお兄さんに買ってきて!って頼めば入手は可能なわけですよね。 米島 : まず、最後の実証研究云々は、さっき話したことだから飛ばすとして、最初の反論ね。 瀬上 : まぁ、そうですよね。そこらへんは政治学でいうと政策評価論とかそこらへんの分野の話になるんですかね?勉強したことはありませんけれど。 米島 : ま、別にわざわざそんな話を持ち出してこなくたっていいんじゃないの?ま、いいや。
瀬上 : なるほど、わかりました。 米島 : そうだね。それは難しい。
瀬上 : 暴力シーンがあるかどうか、という問題もそうですけれども、さっきおっしゃったように、例えやさしい雰囲気のファンタジーのソフトであってもあまりにも作品として素晴らしすぎるために、プレイヤーが現実と混同してしまうようなゲーム、というようなものはどうするのか、ということもありますよね。 米島 : そうなんだよね。でもまあ小学生が童話の世界に迷いこんだって問題はないかもしれないじゃない?
瀬上 : でも、絵本とかよりもゲームの場合は問題があるかもしれないわけですよね? 米島 : そうなんだけどさ、基準が作れないよ。それは本当に。「優秀な作品は小学生はやっちゃいけません」ってことでガイドラインを作るわけにはいかないもの。
瀬上 : 小学生はクソゲーをやれ!(笑) 米島 : まさか、そんなことは言えないしね(笑)
瀬上 : というと? 米島 : いやさ、ほら、だって、強面のおっさんとかが「乳首はいかん!乳首は!」「何!どうしてだ!それはあんたが乳首好きだからとは違うのか!」とかってそんな議論にならざるを得ないわけでしょ。真面目にやっても。(笑)
瀬上 : まぁ、それはオーバーだとしても、 米島 : まぁ、まともなところで考えると、映倫だとかそこらへんの基準を引っ張ってきてどうこう。というところだろうけれども、やっぱり細部をつめる段階は、傍から見ると、何とも言えない雰囲気の中でやるしかないわな(笑)
米島 : そだね。ガイドラインに限ったことじゃないけれど、メディアそのものを暴走させない形で受容するような社会システム作りが必要だ、というような。ね。これはメディア論全般の大課題でもあるんだろうけれども。
瀬上 : ? 米島 : ああ、そうだ。思い出した。
瀬上 : はい。 米島 : 確かねぇ、中央公論だったかな、なんかそこらへんの雑誌に書いてたと思うんだけど、そのアメリカのテロ事件(2001/9/11)の話やらなんやらをしてね、ああいうハリウッド的な事件の起こし方というのは、事件そのものがハリウッド的な「虚構」の感覚に支えられてるんじゃないか、と。で、その事件を見守る我々も報道する報道陣も、みんなそういった感覚に支えられた中であの瞬間を過ごしていたのではないかと、
瀬上 : はぁ。 米島 : で、そんなような話をしつつ、我々は「現実と虚構の区別がついていない!云々」とかって言っているけれど、実際には現実と虚構の区別のついてるやつなんかどこにもいないんじゃないか。
瀬上 : ……でも、その話っていうのは、あたりまえ……… 米島 : ああ、ええ。そうでございます。
瀬上 : はぁ、そのガダマーとか、ハンソンとかってのは知りませんけれど。 米島 : そうね。
瀬上 : まあ、そういうことですよね。現実と虚構をごっちゃにしているのは皆同じだけれども、どういう形でごっちゃにしているのかは、違うだろうと。 米島 : まぁ、そういうことだよね。その二つを分ける明確なラインっていうのはどういうものとして定義するんじゃいな、というのがあとは難しいかな。
瀬上 : そうですね。まあ、普通に議論していくとそこがまた一つのちょっとした壁ですね。あとは、そのまあ、議論をすすめていく方向性の一つとしては、ライン云々という議論自体がけっこう馬鹿らしくって、そもそも現実と虚構をごっちゃにしている状態を二つに類型化することなんて不可能だ、という非常にラディカルな方向性もありますよね。 米島 : そうだね。でも、そういう議論をしはじめると、けっこう話が進まなくなってしまうよね。大塚さんはそういう、議論をされようとしていたのかもしれないね。
瀬上 : そうなってくると、大塚さんには絶対反論できないですよね。 米島 : うーん。まぁ、ただ何だろう。そこで議論があるとしたらね、ま、ものの本で読んだだけなんだけれども、デリダとガダマーの議論みたいなものに近くなってくるんじゃないか、と思うのね。
瀬上 : ? 米島 : 81年に、フランス現代思想系の哲学者のデリダという人と、さっき言ったガダマーという人とのやった議論なんだけど、まぁ、この議論をここで持ち出してくるっていうのは哲学をちゃんとやってる人とかには叱られるかもしれないけど。 瀬上 : その、「オレの理解した限りでは」とおっしゃる、その「オレの理解した限り」の「限り」という部分の、その理解の限界みたいなことですか? 米島 : うーん、まあ、多分そういうことを言ってるんだと思う。あんまり自信はないけれど。まぁ、「他人」というものを自分の理解の中で語る行為は傲慢だから、やめろ、と言っているみたいなものかなあ。だから、オレがこんな風にして「デリダの考えていることはこうだ」と言ってしまうこと自体、いけないのかもしれないけれど。
瀬上 : はい。 米島 : で、まあ、そのオレの極めて浅はかな素人理解によるとね。
瀬上 : ま、そうしないと、他人と話すという行為自体がほとんどできなくなってしまいますよねぇ。 米島 : うーん。まあ、そうなのかな。
瀬上 : で、その話がどうして現実と虚構の話につながってくるのか、ということなんですけれども。 米島 : えっとさ、それはつまり今の議論の話の「他者」を「現実」に置き換えて、自分の理解の先入観みたいなものを「虚構」という部分に置き換えて考えてみてほしいのね。
瀬上 : えーーと、それだと、つまり……… 米島 : まあ、お叱りが来るであろうかもしれないことを覚悟で言うとね、デリダはつまり大塚さんみたいな立場で、現実を理解するということは常にそれを理解する人の意識に縛られているわけだから、つまり、その理解する人の勝手な虚構みたいなもんだよね。現実と虚構の区別というか、ただ単に虚構による理解しか存在しなくって、理解できない外側のものとして「現実」というのが存在しているわけでしょ。
瀬上 : はあ。なるほど。 米島 : いや、まぁそんなのわかんないよ。どっちが正しいのか、なんてさ。
瀬上 : はい。 米島 : その、まあ、オレ自身の勝手な理解による勝手なガダマー理解像でもってよ、とりあえず、オレはガダマーの立場にたちますというところまでは発言をしておきましょう。とりあえず。
瀬上 : そうですね。
>> 参考
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2001-7-8 |