ゲームは悪影響か
 [ #01 とりあえずは「悪」の簡単な定義から(その場しのぎ) ]

 
 

 

瀬上 : 今日は、結構ありがちな話題であるわりに、ゲーム業界の人があんまり自主的にはなすことの少ない、「ゲームは本当に悪影響かどうか」という話題について話したいんですか。

米島 : あー、なんかこっぱずかしいねぇ。なんか、そんな話題をやるっていうのは。
 まぁいいや。はい。じゃあ、まず、キミのご意見はどうなんでしょう。

瀬上 : 僕ですか?僕はそんなにゲームが槍玉に挙げられる、というのはどうもな、と思っているんですが、米島さんはどうなんですか。

米島 : じゃあ、オレはキミの向こうをとって、ゲームは悪影響がある、という方にまわりましょうか。実際、多少はそうは思ってるし。

瀬上 : はい。それじゃ、まず、「悪影響」とは言いますけれども、非常にラディカルなところからはじめたいと思うんですが、その「悪」の定義というのは何なんでしょうか。
 例えばですね、仕事から帰ってきたらあまり人とは話さずに家の中でときメモとかの恋愛シュミレーションゲームとかをやっているような男性がいたとしてですね、その男性の行為は何か責められるべきことだと思いますか?

米島 : それは別に、「悪」という言葉はあてはまらないんじゃない?確かに、家に閉じこもって実際の女の子を相手にするのではなくて、ゲームの中の女の子を相手にしている、というのにはネガティブなイメージはつきまとっているかもしれないけれども、「ネガティブなイメージ」と「悪」ということとは別物だよね。

瀬上 : そうですか。じゃあ、「悪」って言うのは一体、何のことを言ってるんだろう、ということになりますけれども、どうでしょう。

米島 : うーん。一応の答えはできるんだけれども、まずちょっと、キミの考えを聞かせてくれないかしら?

瀬上 : 僕はですね、「悪」というのは、その国とかその地方の文化、伝統によって育まれた非常に恣意的なものだと考えてるんです。例えば、「国に忠誠を誓うこと」というのが悪かどうか、という議論になったとき、戦時中は国に忠誠を誓うことと言うには、間違い無く「善」であったわけですけれども、それが戦後になってからはオリンピックなどの国家という枠組みが強制的に機能しうる場のようないくつかの例外を除けばだいたい、逆転したわけですよね。現在では「国に忠誠を誓う」と言えば、ファシズムのイメージとともに、朝日新聞とかに刃物をもってたてこもったりする右翼のイメージが強力に流通している「悪」の存在になってしまったというようなところがありますよね。

米島 : うん、それは善とか悪とかいうものの一つの側面ではあるね、確かに。だけれども、それだけじゃ説明不足だと思うのね。もっとも、オレも善悪の全てについて説明する気はないんだけれどもさ。
 例えばさ、その理屈を採用してしまうとね、新しく出てきたもの、という伝統とかに無縁なものはどうなるわけ?

瀬上 : 基本は「悪」のイメージから入っていくと思うんです。それが、「IT革命」みたいな言葉で受け入れられてゆけば、それがゆっくりと善になったりしてゆくのではないかな、と。
 だから、こうまだ新しいものであるゲームは単に「悪」のイメージでとらえられているのではないかな、と。

米島 : うーん。そうねえ、それはやっぱりイメージという部分だけだと思うのよ。説明としても少し苦しいところがあると思うしね。

瀬上 : というか、僕は善とか悪とか言うのは基本的に、それをどうイメージするか、という問題でしかない、と思ってますから。米島さんは、そうではないわけですか?

米島 : うん。違う。オレはね、確かにネガティブイメージ、ポジティブイメージというのは文化・伝統によって変容するものだというところはあると思ってるのね。確かに。

瀬上 : ちょっと、待ってください。
 それっていうのは、実は僕らは同じ議論をしてるんじゃないかと思うんです。

米島 : というと?

瀬上 : ロールズの『正義論』はご存知ですよね。

米島 : はいはい。

瀬上 : あの中でロールズは「善」と「正義」は別の問題である、と言ってますよね。

米島 : 「善」というのが特定の社会や個人などに依存しているものだというのに対して、「正義」というのはそういう相対的なものとは違ってもっと絶対的、普遍的なものだ、と言っているということ?その、まあ倫理学理論じゃったら、まぁみんなやるような分類だよね。カントしかりヘーゲルしかり。ま、分類のやり方は人によって少しずつ違うけど。

瀬上 : まあ、そうです。
 つまり、僕の言っている相対的な「善」の問題が、米島さんにとっての「ポジティブイメージ」であって、
 僕の考える普遍的な「正義」が、米島さんにとっての「善」なんじゃないでしょうか?
 使っている単語が違うだけだと思うんです。

米島 : うーん。そう捉えられましたか……
 そうだねえ、確かに、そう思えるかもしれないけれど、ちょっと違うのれすよ。それも。
 単に、オレの考える善悪の問題が一般的な認識と大きくかけはなれているから、話が合わないだけなんだけれどもね。このまま、善悪の問題について話してしまうと話が本題から、あまりに大きくはずれてしまうので、ちょっとここは簡単に決着を付けさせてもらいたいのだけれども、とりあえず話をすすめるためだけにね、おおざっぱな結論を下させてもらいたいんだけれども、「公共の福祉を害するものは悪で、そうでないものは悪ではない」という日本国憲法みたいな議論でここは一つ手を打ちませんかね。

瀬上 : ただ、それだと「公共の福祉って何?」という議論がやっぱりでかいと思うんですよ。

米島 : じゃあ、もっと簡単に「他人に迷惑かけるな」にしようか。

瀬上 : うーん。じゃあ、そのくらいで、止めておきましょうか。

米島 : オッケーオッケー。じゃあ、他人に迷惑かける奴が悪ってことにして議論をすすめるよ、とりあえず。ここで、そんなに倫理学的な議論をはじめるときりがないから。

瀬上 : はい。


 
 

 ゲームは悪影響か
 [ #02 ギャルゲーをやる人間は問題か? ]

 
 

米島 : で、えーと、何だったけ?

瀬上 : ときメモやってる青年男子が悪か、という話でした、確か。

米島 : はいはい。

瀬上 : えーと、他人に迷惑をかける奴はいけないんだ、という話にするとですね、ときメモをやってる青年男子というのは、別に誰かに迷惑をかけてるわけではありませんよね。

米島 : まあ、仕事も行ってるわけだしね。

瀬上 : ええ。もしかしたら、その男性の彼女が「彼氏をゲームに取られた」とかって言うかもしれませんけれど(笑)

米島 : どうだろ、それは迷惑をかけている、と言えるんだろうか?

瀬上 : うーん、どうでしょう。別に彼氏にとっては彼女と付き合うことは、義務ではないわけですし、そこは彼氏の幸福追求と、彼女の幸福追求とが、そり合わなかった、ということで、

米島 : そうだね、それだったら、「あの人は野球のほうばっかり見て私のことなんて……」とか、「あの人は私より仕事を選んだのよ」とかっていうのと同じものだもんね。彼女の言う「あの人」を、彼女が束縛できる理由はないものね。彼氏は彼女の要求に答えてやる義務が見出せない。

瀬上 : まあ、そんな感じでしょうかね。まあ、もっとも夫婦ともなれば、キリスト教式の結婚式では相手を幸福にすることを誓うことを決断して、それを宣言しているわけですから、義務が導出できるかもしれませんね。法律的には知りませんけれど。

米島 : ああ、なるほど。家庭をかえりみない夫、とかってなると批判できるかもしれない。妻をかえりみないだけならまだいいけれど、子供をかえりみないとなってくるとこれは養育義務に反するし、明らかに子供に迷惑をかけていることになるしね。それはいかん。
 特に子供は、親によって勝手に生を与えられた存在なわけだから、親は子供の最低限度の幸福追求に対して、ある時期までは責任を持つしね。自己生活能力の無い幼児が親を束縛をする権利っていうものはあるものね。

瀬上 : まあ、そんなのゲームの責任というよりも、夫の個人責任ですけれどもね。それに、そのゲームというメディアだけが槍玉に上がる明確な理由が無いですしね。

米島 : おっとっと。えーと、一度に重要な論点が二つ出ちゃったな。なんかちょっとその、ゲームだけが槍玉に上がる理由が無い、という部分はちょっと後に論じることにして、その個人責任という部分なんだけれども、個人責任というのはつまりどういうことか、説明して下さいな。

瀬上 : ま、つまりゲームファンの中でも色々いるということですよね。
 ゲームをやった人が全て社会不適応者になるのならばゲームは問題だけれども、ゲームをやっても別にそうはならない人の方が圧倒的に多数を占めるならば、その人が社会不適応者みたいになる過程でゲームというものが何らかの役割を果たしたにせよ、その社会不適応者になってしまった原因を「ゲームをやったこと」ということに限定してしまうことは無理があるだろうと。
 その人をとりまく環境が明らかに問題があった、と言えない限り、その人が問題を起こしたとしてもそれはその人をとりまく環境のせいだとは言えないぞ。と。
 こういう説明でいいですかね?

米島 : オウッっと。まあキレイな説明ですねぇ。そんなしっかりと説明してもらわなくても、「別にゲームやってるほかの人は問題ないじゃん」の一言でもよかったんだけれども、よりベターな説明ですな。お見事。

瀬上 : どうも。

米島 : えーとさ、話をちょっと変えてね、もう一つの見方をすると、こういう風に言うこともできるよね「ギャルゲーにはまりすぎて現実と虚構の見境がつかなくなってしまった男性は犯罪に手をそめる可能性の高い存在である」

瀬上 : それは別に悪じゃないですよ。

米島 : うん。そう、それは確かに「悪」じゃない。
 そうなんだけどね、「悪」と「悪影響」は違うでしょ。
 「悪影響」というのはつまり、悪に走らせるパーセンテージを高めるかどうか、という議論じゃない。ゲームをやるという行為が悪と直結する、ということを言っているわけではなくて、ゲームをやる、という行為が悪に走らせるパーセンテージとどう関係するのか、という話でしょ。

瀬上 : いや、それは、そうなんですけど、確かにそうです。
 そうですけれどもね、今ちょっと混乱があったと思うんですよ。というのはですね、今、ちょっと、存在が悪である、というような感じの言い方をされたじゃないですか。

米島 : ん?

瀬上 : ほら、その男性が悪の存在だ、みたいな。

米島 : んー…、ちょっとそれは誤解される言い方をオレがしちゃったのかもしれないけれど、どうぞ、続けて。

瀬上 : はい。概念をもう一度整理しておきたいんですけれど、悪、というか、まあ僕にとってはそれはどちらかというと正義かどうか、という議論なんですけれど、悪という概念の性質ですけれどもね、それは存在と結びついているものではなくて、具体的な行為とか事件といった具体的な事例に即してのものだと思うんですよ。

米島 : イエッサ。まあ、そこについても、議論のあるところではあるけれど、オレは確かにキミの意見に賛成。
 つまり、『デビルマン』でさ、人間は悪か、善か、ということで、途中まではデビルマンは人間の側にいて、人間は善だったんだけれども、人間達がデビルマンのガールフレンドを殺したという事件が起こったことで、デビルマンは「この人間どもめ」って言って人間を悪の存在だと見做しちゃうんだけれども、それというのは概念の混乱であって、人間が悪がどうか、という議論はナンセンスで、「人間がデビルマンのガールフレンドを殺した」というその事件について、人間の立場は悪であったと考えるべきか否か、という議論だ、と。

瀬上 : そうですそうです。人間が悪、ゲームが悪、ではなくて、この事件についてはゲームが悪であるというべきか否か、この事件については人間が悪であるというべきか否か、というそういう議論です。

米島 : そういう議論が無いことには、○○は悪でもあり、善でもある、という議論より先にすすまない、というところがあるからね。

瀬上 : ああ、はあ、そういうこともあるかもしれませんね。

米島 : でね、そういうことになるとさ……

瀬上 : あ、ちょっと、待ってください。さっきの話、まだ続きがあるんです。

米島 : あ、そのなの?ごめんごめん。じゃあ、どうぞ。

瀬上 : ええと、ですね、もう一つさっきの、「現実と虚構の見境がついていないような男性」というような部分でですね、現実と虚構が見境のついていない状態になってゲームをやっているのか、それとも現実と虚構の見境がついているけれどもゲームにはまっているのか、という部分の議論が抜け落ちていたと思うんです。もうあとひとつは、現実と虚構の見境がついていない人間は犯罪を起こす可能性が本当に高いのか、どうか、という議論もなかったと思うんです。

米島 : ああ、はい、そこらへんね。やっぱり言われると思ったんだけれどもさ、
 その、現実と虚構の見境がついていない人間が犯罪を起こす可能性が高い、という部分は、議論を素っ飛ばしちゃ駄目かな?

瀬上 : うーん、

米島 : だって、現実と虚構の見境のついていない人間はわけのわからん行動に走りかねない、というのは、思うでしょ?やっぱり?

瀬上 : うー……ん、じゃあ、そこはそういうことにしましょうか。

米島 : で、はい。現実と虚構の見分けがついているかプレイヤーかどうか、ということなんだけれども、これは議論を素っ飛ばしたのには理由があってね、まあ、見分けがついているプレイヤーならば問題無いんじゃないの?と思ったので、見分けのついているプレイヤーについては言及しないで、現実と虚構の見分けのついていない場合のプレイヤーに限定させてもらったのね。

瀬上 : 見分けがついていれば問題無い、ということでいいんですか?

米島 : うん。そう思うんだけど、異論ある?

瀬上 : いえ、僕もまあ、そうは思うんですけれど、議論なしに、ポンポンといくのはどうかな、と思ったんで。

米島 : まあ、それじゃあ、いいのね?ま、それにさっきの個人責任のとこで出た話でも、そこの部分の話はもうけっこういいでしょう。

瀬上 : まあ、はい。


 
 

 ゲームは悪影響か
 [ #03 メディアの(悪)影響、ゲームの(悪)影響 ]

 
 

米島 : ええと、何を話そうとしてたんだっけ。
 で、えーっと。そうそう、それでさ、とりあえず、善とか悪とかというのが、その事件ごとの事例に即して考えるべきだ、と言うのならばね、言うのならば、だよ。つまり、ゲームが悪影響かどうか、という議論ではなくて、むしろその事例についてゲームが悪影響を与えたのか、否か、という議論をすべきだと思わない?

瀬上 : うーん、そうですねー、確かにそうかもしれませんね。

米島 : じゃあね、じゃあね、もしね、18禁のエロゲーを日夜楽しんでいらっしゃる御仁がね、現実と虚構の見境がつかなくなって、レイプ事件を起こしたとしたらね、そのケースにおいてゲームは悪影響を与えたものであると言えるよね?

瀬上 : それなんですけれどもね、ようやく、基盤の部分の議論から本題に入りましたけれどもね、それが、言い方としてどうかな、ということなんですよ、僕の言いたいのは。
 さっきもちょこっと言いましたけれど、そのケースにおいてゲームが悪影響であったということは確かにそうなんですけれどもね、それは「ゲームが」という言い方をする必要があるのか、ということなんです。そうではなくて、それは別に官能小説を読みまくってわけわかんなくなってしまった人でも、アダルトビデオを見てわけわかんなくなってしまった人でも、エロマンガを読んでわけわかんなくなってしまった人でも、ありえたケースだ、というように言うことができるわけですよね。

米島 : うーん。じゃあ、とりあえずそういうことにしておこうか。

瀬上 : ……はい、そうだとするとですね、言い方としては「ゲームは悪影響」ではなくて「メディアは本来的に悪影響といえるような部分を持つ」、というような言い方をするべきだったのではないか、ということなんです。

米島 : あいあい。確かにその議論は、よくわかることはわかるこってす。ええ。
 ときメモの藤崎詩織に熱をあげて、「ハァハァ、詩織ちゃぁーーん!!」とかって、日々を無駄にしてようが、現実的には程遠い存在でしかないテレビの中のアイドルの広末涼子とか、田中麗奈とかに熱をあげて「ウォー!なっちゃんかわいー!彼女にしてぇぇぇ!!」っつってたって、それは実質的にはたいしてかわらないわけだしね、その議論はよくわかるよ。
 ただね、二つ反論をさせてもらうけれどもね、一つは、まず「ゲームが悪影響」という話がきたらさ、その次にゲームをやらせるな、という話になるよね、それじゃ「メディアが悪影響」となった場合は、まさかテレビも小説もマンガもすべて悪い、とは来ないだろう、と。テレビや小説やマンガは、今では単純に「悪だ」とか、手塚さんが、「マンガ悪影響論」で苦しんでた時期みたいなことはないしね、

瀬上 : そうです。まさか、メディアを全部なくせ、という議論はないと思うんです。

米島 : でもね、そこでもし「メディアを全部なくせ」という議論をする人がいたらどうするんですか、というのが一つね。

瀬上 : はい。ええと…

米島 : で、ちょっと、待ってね。
 もう一つはね、これはゲームというメディアを非常に好きだからこそ言うのだけれどもね、ゲームというメディアはテレビと比べてもマンガと比べても、小説と比べても、それらよりもさらに影響力の一段階ほど高いメディアなのではないか、と。小説がドンキホーテのような、とち狂った騎士を作り出してしまうよりも、もっと高い確率でわけのわからん人々の集団を作り出してしまう、というような強い影響力をもったメディアなのではないか、と。そういう議論にはどうするんですか、ということね。

瀬上 : はい。じゃあ、まず、最初の議論ですけれどもね、まず、本当にそんなことを言ってしまう人がいるのかどうか、というのはありますけれど、それは少し置いとくとして、「私はメディアを無くしてしまっていいものだとは、思いません」と主張すればいいんでしょうか?

米島 : そうそう。まあ、そんなこと。

瀬上 : ええと、そうですねえ、テレビや新聞を無くしてしまったら現代社会はなりたたないでしょう。まず。
 あと、小説やマンガなどの物語を語るものを無くしてしまったら、他人のことを想像する能力がなくなってしまう、というようなことがマスメディア論とかでは言われいますよねえ。確か。それで、こう、そうなると、自分の家族のやってるようなことしかわからなくなるから、職業選択の自由もなりたたないし、民主主義もなりたたない、というような話を聞いたことがありますけれども。

米島 : 確かそれって、マクルーハンのあれだよねえ、あの、『グーテンベルクの銀河系』

瀬上 : ええ、確か。僕は読んだことは無いですし、ちょっと著書までは保証はできないんですけれど、そういうことは確か言われてますよね。

米島 : うん。

瀬上 : はじめの反論に対する再反論はこんな程度でいいですか?

米島 : うん。まぁ、そうね。文句も出るかもしれないけれど、そんなところでとりあえずはいいんじゃないのかねぇ。現代社会をなりたたせるためにはメディアをなくせ、という議論はちょっと無理なんじゃないか、ということだよね。
 ま、これに対して「現代社会なんてなりたたせなくたっていいんだ」という反論まで考えていっちゃうと、ちょっと議論の幅が広がりすぎてフォローできなくなるから、そういう反論の話はしないことにしませう。
 じゃあ、その次。ゲームというメディアの影響力は他のメディアよりもでかいんじゃないか、という話。

瀬上 : はい。えーと、そうですねえ。
 それは、何と言うか、反論になってないかもしれませんけれども、調査結果が出てませんよねえ。

米島 : それはそう。レポートと称するものはいくつかあるけれども、あんまちゃんとしたものはないらしいという話だよね。オレもなんかその手合いのものをチョロチョロと読んだことがあるけれど、なんか愚にもつかない数値の取り方してるような研究しか見なかったしね。統計の方法論とか、そういうのを多少なりとも知ってる人から見たら、なんかアホみたいな研究だったな。
 だから、まぁ、まともな研究は今んところ見たこと無いので、個人的にどう思うのか、ということになるんだけれども。

瀬上 : うーん………どうなんでしょうか……

米島 : いやね、すごい、卑怯なことをして答えにくくしていて本当に申し訳無いんだけれども、ゲームは影響力が強い、と言ったらゲーム「は」悪影響、という主張を少し認めてしまうことになってしまうし、ゲームは影響力が強くない、と言ってしまったら、ゲームファンの人間として、ゲームのメディアとしての強さを信じていないのか、ということになるから、どっちに転んでも、キミにとって、不利になるような話の運び方をしてしまったんだけど…………

瀬上 : いや、まあ、別にそのくらいは。気にしていただかなくとも。
 そうですねぇ……確かにゲームは影響力が他のメディアよりも強いと思います。僕も。

米島 : ほお。となると……

瀬上 : ええ、それは確かにそう思うんですけれどもね、ただ、こう、反論になっているかどうかわかりませんけれども、ゲームがネガティブな方に影響が強いのだったら、同時にポジティブな方にも影響が強いんだ、という議論をたてることもできますよね。

米島 : うん、まあ、実はその反論を封じるために、前の議論をしたんだけれども、まあ、いいや。確かにそれはしなきゃいけない議論なんだよね。絶対に。
 バーチャをやって、人に技をかけてみたいとか思って、人を怪我させて迷惑をかけた馬鹿もいるかもしれないけれども、同時に空手道場の門をたたいて、武道の精神を身につけるきっかけになった人もいるかもしれない。というそういう議論は確かに必要なんだよね。

瀬上 : ええ。もうあとひとつ反論としては、微妙な反論の仕方で申し訳無いんですが、ラインを越えるかどうか、というのもあるんじゃないか、という議論も、形式的には可能ですよね?

米島 : ライン?

瀬上 : 現実と虚構の見境がつかなくなってわけのわからない状態になってしまうラインです。つまり影響をうける、とは言ってもどのくらい影響をうけるのか、ということがあるじゃないですか。

米島 : はいはい。さっきもした議論だけれども、現実と虚構の見分けがつく状態だけれども、影響は受けているよ、ということね。

瀬上 : ええ。本当に苦しい反論なんですけれども、つまり、影響を受ける人は増大するかもしれないけれども、ラインを越える人の率は案外変わらないかもしれないのではないか、と。

米島 : 確かに、それは苦しい反論だねえ、ラインを越えていない予備軍の人の数が増えるってことは普通に考えたらラインを越えてしまう人の数も増えているって考えるものね。

瀬上 : そうなんですよねー。

米島 : それっていうのはさあ、「ゲームをやってる奴はみんな駄目だ」みたいな話に対する反論だよね。むしろ。

瀬上 : そうですね。
 そうです。そうです。


 
 

 ゲームは悪影響か
 [ #04 年齢制限の是非 ]

 
 

米島 : まあ、じゃあ、この話はあんまり進みそうもないので、「ゲームが影響が強いのは間違い無いだろう」、ということで落ちつかせてしまってね。
 ちょっと次に年齢制限の話をしたいんだけれどもね、

瀬上 : はいはい。

米島 : オレはね、年齢制限をやってもいいんじゃないか、ということはちょっと思うわけ。やっぱり本当に意欲的な作品は、ゲームの中の人工世界と現実の世界との繋がりを錯覚させてしまおう、ということに本当に熱心だからね、もしもこれを小学生がやってしまったら、童話の世界にでさえ小学生なんかは簡単に迷いこんでしまうわけだから、本当に混乱しかねないんじゃないか、というのはあってさ。
 別にゲームが悪いものだから18禁とかにしろ、という意味じゃなくてね、小学生という時期においてはまずいかもしれない、という意味をこめて年齢制限をやってもいいんじゃないか、と思ってるのね。
 もっとも18禁じゃなくてR指定ぐらいでも充分だとは思うんだけど、まあ、そこは政策的判断だけどね。

瀬上 : ええ、それなんですけどね。反論としては年齢制限をやることに本当に実質的な意味はどこまであるのか、ということですよね一つには。例えば、親がOKしたら、結局親が買ってきてそのゲームを子供がやるわけですよね。もしくは、お年玉とかをためれば、近所のお兄さんに買ってきて!って頼めば入手は可能なわけですよね。
 で、次に、年齢制限というのはパソコンゲームと家庭用ゲームという分類のなかですでにだいたい存在してるじゃないか、というのが一つ。
 それともう一つはさっきも出たことですけれども、悪影響について実証的な研究がないじゃないか、というのが一つ、といった形でしょうかね。

米島 : まず、最後の実証研究云々は、さっき話したことだから飛ばすとして、最初の反論ね。
 その有効性についてはさ、それはそうだけれども、完全に根絶しよう、というのははっきり言って無理はあると思うけれども、ある程度は入手がしにくくなるとは思うよ、それは。別に完全に根絶なんていうのは実際には無理な目標だろうから、入手しにくくなる、というだけで充分年齢制限の意味はあると思うよ。

瀬上 : まぁ、そうですよね。そこらへんは政治学でいうと政策評価論とかそこらへんの分野の話になるんですかね?勉強したことはありませんけれど。

米島 : ま、別にわざわざそんな話を持ち出してこなくたっていいんじゃないの?ま、いいや。
 で、次に、現在のところはパソコンにエロゲーとかは集まってる状況だし、パソコンだと規制がなされていて、家庭用には規制がされるような作品があまり入ってきてないから、年齢制限論は今のところはいらないのではないか、ということだけれども、これはさ、ま、今は確かにそうかもしれないというのはあるけど、パソコンのゲームと家庭用のとの差がなくなってくるような状況になってきたらどうしましょうか、という議論をしたいよな、ということね。

瀬上 : なるほど、わかりました。
 まあ、ただ、一番の問題になるのは、どのソフトが駄目なのか、という基準ですよね。

米島 : そうだね。それは難しい。
 『カーマゲドン』は年齢制限にしましょうっていうのはわかるけれど、『バイオハザード』とかはやったっていいんじゃない?という感じもする範囲ではあるしね。そこは難しい。本当に。『街』とかもなんかでも「このゲームには暴力シーンやグロテスクなシーンが含まれています」ってステッカーがCDケースに張ってあったしね。あのソフトなんてぜんぜん問題ないのに。

瀬上 : 暴力シーンがあるかどうか、という問題もそうですけれども、さっきおっしゃったように、例えやさしい雰囲気のファンタジーのソフトであってもあまりにも作品として素晴らしすぎるために、プレイヤーが現実と混同してしまうようなゲーム、というようなものはどうするのか、ということもありますよね。

米島 : そうなんだよね。でもまあ小学生が童話の世界に迷いこんだって問題はないかもしれないじゃない?

瀬上 : でも、絵本とかよりもゲームの場合は問題があるかもしれないわけですよね?

米島 : そうなんだけどさ、基準が作れないよ。それは本当に。「優秀な作品は小学生はやっちゃいけません」ってことでガイドラインを作るわけにはいかないもの。

瀬上 : 小学生はクソゲーをやれ!(笑)

米島 : まさか、そんなことは言えないしね(笑)
 あのさ、ちょっと話はそれるけど、パソコンのエロゲーとかだと、もう完全に18禁とかっていうのはちゃんとあるじゃない。まぁ家庭用のゲームの方には18禁は基本的にはやってこない、という状況だけれどもさ、その、エロゲーの18禁とか18歳以上推奨とか、そういういのの基準作りの現場の会議とかって、なんか見てみたくない?

瀬上 : というと?

米島 : いやさ、ほら、だって、強面のおっさんとかが「乳首はいかん!乳首は!」「何!どうしてだ!それはあんたが乳首好きだからとは違うのか!」とかってそんな議論にならざるを得ないわけでしょ。真面目にやっても。(笑)

瀬上 : まぁ、それはオーバーだとしても、
 「えーと、それでは次ですが×××の描写ですが、斎藤さんから……」
 「え、えー。×××はちょっと駄目なんじゃないですか。」
 「そうだねぇ、……だって、ねぇ……ほら……」(もわーん)
 みたいな。(笑)

米島 : まぁ、まともなところで考えると、映倫だとかそこらへんの基準を引っ張ってきてどうこう。というところだろうけれども、やっぱり細部をつめる段階は、傍から見ると、何とも言えない雰囲気の中でやるしかないわな(笑)


瀬上 : じゃあ、まあ、年齢制限はやった方がいいかもしれないけれども、ガイドラインがまだちょっと作ることができません、ということで今日の話は終わらせていいですか?

米島 : そだね。ガイドラインに限ったことじゃないけれど、メディアそのものを暴走させない形で受容するような社会システム作りが必要だ、というような。ね。これはメディア論全般の大課題でもあるんだろうけれども。
 ま、なんか一般論におちつきましたなぁ。はい。
 それと、んーとねぇ………あと、何か忘れているような気がする………


 
 

 ゲームは悪影響か
 [ #05 現実/虚構という図式で考えるということ ]

 
 

瀬上 : ?

米島 : ああ、そうだ。思い出した。
 大塚英志さんって、いるでしょ。あの。評論家の。

瀬上 : はい。

米島 : 確かねぇ、中央公論だったかな、なんかそこらへんの雑誌に書いてたと思うんだけど、そのアメリカのテロ事件(2001/9/11)の話やらなんやらをしてね、ああいうハリウッド的な事件の起こし方というのは、事件そのものがハリウッド的な「虚構」の感覚に支えられてるんじゃないか、と。で、その事件を見守る我々も報道する報道陣も、みんなそういった感覚に支えられた中であの瞬間を過ごしていたのではないかと、

瀬上 : はぁ。

米島 : で、そんなような話をしつつ、我々は「現実と虚構の区別がついていない!云々」とかって言っているけれど、実際には現実と虚構の区別のついてるやつなんかどこにもいないんじゃないか。
 なんだから、「オレは区別がついてて、あいつは区別がついていない」みたいな言い方っていうのは、アホアホしいぞ。というような話をしてた。うろ覚えだから、全くこの通りの話かどうか、というのは保証できないけれども、大旨ではこんな感じ。

瀬上 : ……でも、その話っていうのは、あたりまえ………

米島 : ああ、ええ。そうでございます。
 認知科学系、……って言ったらいいのかどうかわからないけど、ドイツの解釈学のガダマーの言う「先入見」の話とか、アメリカの科学哲学のハンソンの「観察の理論負荷性」とかの話を、なんか拡大して言っているみたいな話だよね。

瀬上 : はぁ、そのガダマーとか、ハンソンとかってのは知りませんけれど。
 確かに大塚さんの話に従うとですよ、さっき言っていた「現実と虚構の見分けがつく状態だけれども、影響は受けている」というような言い方はちょっとおかしいということにはなりますよね。
 それは大塚さん的に言えば「現実と虚構の見分けはついていない状態」

米島 : そうね。
 だけれども「現実と虚構の見分けがつく状態だけれども、影響は受けている」という言い方でオレが言おうとしたのは、まぁその。何だ。確かにそれも現実と虚構の境界線は曖昧な状況の下にあるっちゃあ、あるけれど、とにもかくにも日常生活はあんまり支障なくすごせていますよ、という状況のことだよね。

瀬上 : まあ、そういうことですよね。現実と虚構をごっちゃにしているのは皆同じだけれども、どういう形でごっちゃにしているのかは、違うだろうと。
 まわりの人とまともに会話ができないくなって、迷惑かけまくりみたいなところまで、ごっちゃにしているのか。それとも、別にまわりの人には別に迷惑もそれほどかけないで、会話も全然普通にできるぞ、程度でしかないのか。

米島 : まぁ、そういうことだよね。その二つを分ける明確なラインっていうのはどういうものとして定義するんじゃいな、というのがあとは難しいかな。

瀬上 : そうですね。まあ、普通に議論していくとそこがまた一つのちょっとした壁ですね。あとは、そのまあ、議論をすすめていく方向性の一つとしては、ライン云々という議論自体がけっこう馬鹿らしくって、そもそも現実と虚構をごっちゃにしている状態を二つに類型化することなんて不可能だ、という非常にラディカルな方向性もありますよね。

米島 : そうだね。でも、そういう議論をしはじめると、けっこう話が進まなくなってしまうよね。大塚さんはそういう、議論をされようとしていたのかもしれないね。

瀬上 : そうなってくると、大塚さんには絶対反論できないですよね。

米島 : うーん。まぁ、ただ何だろう。そこで議論があるとしたらね、ま、ものの本で読んだだけなんだけれども、デリダとガダマーの議論みたいなものに近くなってくるんじゃないか、と思うのね。

瀬上 : ?

米島 : 81年に、フランス現代思想系の哲学者のデリダという人と、さっき言ったガダマーという人とのやった議論なんだけど、まぁ、この議論をここで持ち出してくるっていうのは哲学をちゃんとやってる人とかには叱られるかもしれないけど。
 デリダっていうのはすごいラディカルな立場なんだよね。「他人と対話をして、意思疎通をちゃんとなりたたせる」ってことにすごく疑問を持っている。ほんとにそんなことができるのかと。できたと思えても、それは単に意思疎通が成立った、とかっていうように勝手に思い込んでるだけなんじゃないか、と。他人と話して相手の話を理解しようとする前には、基本的に自分からの思い込みみたいなものっていうのがあって、その自分の思い込んでいる論理の線上でしか相手の言ってることを理解することなんかできないんじゃないか。と。それが、デリダの立場ね。っていうか、まあ少なくともオレの理解した限りではそういうことを言っている。

瀬上 : その、「オレの理解した限りでは」とおっしゃる、その「オレの理解した限り」の「限り」という部分の、その理解の限界みたいなことですか?

米島 : うーん、まあ、多分そういうことを言ってるんだと思う。あんまり自信はないけれど。まぁ、「他人」というものを自分の理解の中で語る行為は傲慢だから、やめろ、と言っているみたいなものかなあ。だから、オレがこんな風にして「デリダの考えていることはこうだ」と言ってしまうこと自体、いけないのかもしれないけれど。
 もっとも、そんなことを言うんだったら、どうしてデリダはガダマーを批判可能な他者と考えるのかわかんないけどね。どうしてデリダはガダマーという他人を「理解」したことを前提としたところで言葉を発することができるのか。よくわかんないよね。
 まあ、東浩紀さんとか、デリダの研究者の人にちゃんと話を聞かせてもらったらまた別の納得できる理由があるのかもしらんので、なんともいえないけれどね。
 あ、でも納得しちゃいけないのかも(笑)
 それとも、デリダもまた、自分自身が他人を理解できるとかそういった類の形而上学的思考とかから抜け出せないでいるだとかって言ってたっけかな?忘れちゃった。確かそんなことも言ってたような気がする。責任持てんのでまぁ、デリダの立場については話半分で聞いて下さいな。

瀬上 : はい。

米島 : で、まあ、そのオレの極めて浅はかな素人理解によるとね。
 その、デリダに対して、ガダマーの言っているのは、まあ、確かに他人を理解するというのに限界はあるだろうと。でも、その理解する限界はあっても、その限界の限りで他人を理解するっていうのは、ある程度まで可能なことなのではないか。と。

瀬上 : ま、そうしないと、他人と話すという行為自体がほとんどできなくなってしまいますよねぇ。

米島 : うーん。まあ、そうなのかな。
何せ、素人理解なんで、そうだ、と断定することにはためらいがあるけれども、まあそんな感じのことを思うよね。

瀬上 : で、その話がどうして現実と虚構の話につながってくるのか、ということなんですけれども。

米島 : えっとさ、それはつまり今の議論の話の「他者」を「現実」に置き換えて、自分の理解の先入観みたいなものを「虚構」という部分に置き換えて考えてみてほしいのね。

瀬上 : えーーと、それだと、つまり………

米島 : まあ、お叱りが来るであろうかもしれないことを覚悟で言うとね、デリダはつまり大塚さんみたいな立場で、現実を理解するということは常にそれを理解する人の意識に縛られているわけだから、つまり、その理解する人の勝手な虚構みたいなもんだよね。現実と虚構の区別というか、ただ単に虚構による理解しか存在しなくって、理解できない外側のものとして「現実」というのが存在しているわけでしょ。
 で、ガダマーだとこれが、理解可能な現実というのはある程度までなら存在しているという話になる(のかな?)。当然、その理解っていうのにはいろいろと制約がつくんだけれども、まあ少なくとも他人と一緒に一つのことについて対話するのは可能だろうと言っているわけだから、他人と共有することのできる現実みたいなものはあるだろうと。

瀬上 : はあ。なるほど。
 で、その、この問題については、デリダよりもガダマーが正しいのではないか、ということですか?

米島 : いや、まぁそんなのわかんないよ。どっちが正しいのか、なんてさ。
 20世紀後半の代表的哲学者二人が論争してんのをつかまえて、こんな小僧がそんなこと言えるわけないじゃない。それに、オレのデリダの知識もガダマーの知識もぜんぜん、不正確だしね。
 ただね、ま、どっちが正しいのかということはわかんないけどね、

瀬上 : はい。

米島 : その、まあ、オレ自身の勝手な理解による勝手なガダマー理解像でもってよ、とりあえず、オレはガダマーの立場にたちますというところまでは発言をしておきましょう。とりあえず。
 現にオレらはこうして、一つのことについてどこまで一緒の問題意識でもって話をしてるのかはわかんないけれども、一応はある程度までは同じ問題について話し合えているみたいな状況があるわけだから。

瀬上 : そうですね。
 
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  (C)Akito Inoue