[ プレイヤーの感性 ]

 
 
 

米島 : 最近思うんだけどさ、ゲームのプレイヤーの感性って、落ちてるっていうか、すごい幅がせまくなってない?

瀬上 : そうですか?

米島 : いや、まぁなってると思うんだよ。例えばさ、端的な話をすればドラクエの画面がしょぼいってだけで、ドラクエを拒絶しちゃったりさ、シェンムーに対して一方的な批判ばっかり多かったりさ。

瀬上 : シェンムーはまぁ置いておくにせよ、「ドラクエは画面がしょぼいから駄目だ、ドラクエはクソゲーだ」みたいな話はもうだいぶ前からある話じゃないですか。それっていうのは、単に今の標準のグラフィックでやってるところに古いグラフィックがまぎれこんできたら、ちょっと耐えられない。というような程度の話ではないんですか?

米島 : それはね、確かにある程度はそう。オレもこの前、リンダキューブのPS版をやったら、ちょっとグラフィックのヘボサにはひいた。
 でもさ、リンダキューブの場合は単にヘボいけれどもさ、ドラクエの場合は簡素な画面だとは言っても美術スタッフとかけっこうしっかりと全体の色の感触とかはつくりこんでるし、ヘボい、というよりも独特の良さがあるじゃない。

瀬上 : それは、そうですけれど、味がある、と言えば、マザーのスヌーピーみたいなグラフィックとかマリオストーリーの紙芝居のグラフィックぐらいになると「味がある」の一言でみんな理解しますけれども、ドラクエぐらいだと感覚として理解できる人と理解のできない人とがわかれるんじゃないですか?

米島 : うーん、そうか。確かにそうなのかもしれない。じゃあ、ま、グラフィックの話はさておきさ、シェンムーの場合はどうよ。アレは、プレイヤーの感性が貧弱でしょ。あれだけ、作りこんであったらそれだけで「すごい」ってなってちょっと思考停止になるぐらいのところがないのかって思わない?

瀬上 : あー、それは確かにちょっと思いましたけど、でも、そういうのって2〜3時間ゲームをプレイしてると、「それがあたりまえ」って感じにすぐになっちゃうじゃないですか。

米島 : そう?

瀬上 : まぁ、どのくらいの時間が経ってから「あたりまえ」って感じになるかは人それぞれだとは思いますけれど、あるレベルのものが標準になってしまうと、以前までは「すごい」と思っていたものが、「あたりまえ」になってしまうことっていうのは何でもありますよね。
 そうなってしまうと、グラフィックとか、こんなに会話が沢山できる、とか、こんなに細かいところまでどうこう、みたいなのはもうあんまり面白いと感じる対象ではなくなってきてしまって、ストーリーの深さとか、ストーリーの自由度とかってところに面白いと感じる部分が変わってくるんじゃないですか?

米島 : うーん、そうか…?

瀬上 : まぁ、ストーリーが全てだ、みたいなことを言う気は全くありませんけれど、ゲームとして没入していって、いわゆる「ハマる」っていう部分と、グラフィックとかが「すごい」っていうような部分とは分かれますよね?

米島 : うん。でもストーリーは「ハマる」部分じゃないでしょ?

瀬上 : ええ、まぁ、それはそうなんですけど。でも、ストーリーっていうのはグラフィックとかみたいな「すごい」ってはじめ感じていた部分が「あたりまえ」になっても、まだ感動の残る部分ではありますよね。

米島 : それはそうだ。

瀬上 : ですよね。「ハマる」と「すごい」だけでは分類しきれてませんけど。

米島 : うん。まぁ、でもそんなに悪い分類でもないよ。

瀬上 : ありがとうございます。
 で、話をもとに戻しますけど、シェンムーが評価されなかったっていうのは、結局あのグラフィックとか作りこみとかに、みんなすぐに醒めちゃって、ストーリーとか、システムとかに目がいっちゃったんじゃないか、と思うんですよ。

米島 : そうなのかな。まぁ、確かにそういう解説があたってるのかもしれないけど、「すごい」ってなったもので、その「すごい」っていうのが簡単に「あたりまえ」にならなかったものと言えばマリオ64なんかはなんで、そうならなかったんだと思う?

瀬上 : 宮本(茂)さんの手腕ですよね。そこは。
 いや、まぁ、スタッフの他の誰かの手腕かもしれませんけれど。

米島 : ああ、そうだよね。今、思ったんだけど、マリオ64は、ゲームを付けた瞬間にも圧倒されるけど、ゲームをやっていくうちに一時間時点で「すごい」って部分がまた一つでてきて3時間時点でまたひとつ「すごい」ってなって5時間時点でまたひとつ「すごい」ってなって、………って感じが絶妙に配置されていて、それである程度時間が経って「すごい」って部分がちょっと少なくなってきたら、今度はもう操作にプレイヤーが習熟していて、操作すること自体が本当に楽しくなってる。

瀬上 : シェンムーもそういう部分はありましたけれども、そこまで意識的にやられていなかったので、やはり、マリオ64と比べると「すごい」が「あたりまえ」に変わるまでの時間っていうのは短かったですよね。

米島 : うん。それはそうだと思うけれども、シェンムーが面白いと言われなかった、他の理由をもうひとつ思いついた。

瀬上 : 何ですか?

米島 : ユーザー層とかって違うかな?

瀬上 : ユーザー層?

米島 : うん。だってシェンムー買ってやってたのって、みんなドリキャスユーザーでしょ?みんなある程度ゲームを沢山やってるゲームファンが多いでしょう?

瀬上 : ええ。

米島 : そうなるとさ、やっぱり感性があんまりゲームをやらないプレステの代表的ユーザーみたいな人と比べるとだいぶ違ってくるじゃない。

瀬上 : そうですね、だいぶ違いますよね。ジャンルにもよりますけれども。

米島 : そうそう。それが言いたかったんよ。今日は。
 テトリスとかなんかは、ゲームを毎日やってる人でも、あんまやらない人でも多分そんなに感じ方に差はないと思うんだけど、RPGなんかはさ、結構はっきりと感じ方が違ってくると思うのよ。

瀬上 : それは目が肥えるというようなことではなくてですか?

米島 : まぁ、それも多少はあるけれども、逆に感性が一元化されているようなところってない?

瀬上 : うーん。例えば、どんなことですか?

米島 : いやね、ポリゴン欠けがどうこうとか、ここの処理がどうこう、みたいな話とかもそうだし、すぐに自由度がどうこうみたいな感覚ばっかり重視したり。

瀬上 : 批評家っぽいと?

米島 : そう。あんまりゲームを心底楽しんでないというか、なんというか。

瀬上 : でも、こういったらなんですけれども、それもよく聞く話ではありますよね。結構、そのことに雑誌とかのインタビューで愚痴をたれているクリエイターの方とかいらっしゃいますし。
 それと、もうひとつ思うことはですね……

米島 : あ、ちょっと待って、言いたいことあるかもしれないけれど、一回オレに全部話させてくれる?

瀬上 : あ、はい。じゃあ、どうぞ。

米島 : いや、誤らなくてもいいんだけどさ。
 話を戻すけど、なんかさ、ポリゴン欠けがどうこう言っているのはまだいいんだよ。でもさ、許せないのは、自由度どうこうという話を持ち出す奴ね。

瀬上 : と、いいますと?

米島 : ポリゴン欠けとかはさ、口には出さなくてもやっぱりオレなんかもちょっとは気にはなることはあるのよ。実際に。でもさ、自由度とかゲーム性とかそういうのは、そんなに一元的なものじゃないじゃない。自由度が少ないから駄目だみたいなそういうことはないじゃない。自由度が高ければ面白いみたいな、そんなこと言う馬鹿なゲーム批評家もいるにはいるけれど、それじゃRPGツクールは最高に面白いんですか、ロマンシングサガは最高峰なんですかっていったらそんなことないじゃない。その論理でいくと最後にはプログラミング言語を書くゲームを売り出したら小学生もおじさんもおばさんにも大ヒットってことになるじゃない。まさか、世の中の大半の小学生にポケモンが流行るようにしてC言語が流行ってたらすごいよね、それ。ちょっとC言語扱えないオレなんかただのバカって感じで困っちゃうよ(笑)

瀬上 : 僕も困りますね(笑)

米島 : 「ゲーム性」とかって言葉にせよ何にせよね、「通」っていうような人達はすぐに既存の価値観というか、評価軸として現在流通してるようなものをを持ちこんでものごとをはかる、っていうような癖があるよね。

瀬上 : まあ、人のことはそんなに言えないかもしれませんけれど、確かにそれはあるんですよね。
 なんか、世間で面白いとかって言われているものが理解できなくて、何度かやっていくうちにようやく、「ああ、これが面白いのか。なるほど。」って改めて自分の感覚が狭くなってたのを気付くことっていうのはあります。

米島 : ま、オレもそうだけどさ。そういうことで、やたらとめったらと貶されてしまうこととかっていうのがよくあることだと思うんだよ。

瀬上 : ええ。ただ、一つ注意するとすれば、新しい楽しみだから既存の評価軸に頼ったゲームプレイヤーが理解できないものなのか、それとも本当に底の浅いものだから通のゲームプレイヤーが認めようとしないのか、その二つの違いっていうのはなかなかわからないですよね。例えば、シェンム―の中途半端なリアルさが気持ち悪くてプレイできなかったってプレイヤーとかっていうのは、実はそれはけっこうシェンム―の底の浅さだったのではないかな、とか思いませんか?

米島 : うーん。まぁ、確かにその話はそうだねぇ。どっちかが明確には区別がつかんわなぁ。プレイヤーが悪いのかゲームが悪いのかというのは…うーん。

瀬上 : あと、さっき言おうとしていたこと言ってもいいですか?

米島 : あ、はい。ごめんごめん。いいよ。どうぞどうぞ。

瀬上 : えーと、その、今の「プレイヤーが悪いのか、ゲームが悪いのか」という話もその「プレイヤーの感性が狭くなったのでは」という批判として言いたかったことなんですけれど、もう一つ、その話に対する批判があるんですね。

米島 : あい。

瀬上 : まあ、非常に基本的な批判なんですけれども、その「プレイヤーの感性が狭くなったというけれども、その証拠は一体何だ?」ということがあると思うんですね。
 例えば、今さきほど具体例にあがった話はシェンムーとドラクエの話だけですよね。確かに、その二つのソフトの受け入れられ方を考えてみると、多少はそういう感性が狭くなったような傾向もどこかに見られるかもしれませんけれども、それ以外に、もっと斬新なソフトでゲームファンにも一般の方にも広く受け入れられているソフトというものがあるわけですよね。そういうソフトの存在も考慮してみると、「感性が狭くなった」などというのは、だいぶ失礼な話なのではないか、と言えるんじゃないでしょうか?

米島 : うーん。確かに、その批判は、そうよ。
 だけどさ、それっていうのも要はさっきの「プレイヤーが悪いのか、ゲームが悪いのか」という話につながっていくんじゃないの?

瀬上 : といいますと?

米島 : つまり、その論法でいくとさ、「まだ、プレイヤーの感性は狭くなってなどいない」というようなことを主張しているわけでしょ?

瀬上 : うー…

米島 : あ、違った?

瀬上 : うん、ちょっと違うんですけれども、そうだとしたらどうなんですか?とりあえず最後まで言ってみてくれませんか?

米島 : あ、そうなの?
 いやね、もしも「プレイヤーの感性が狭くなっていない」と言うことを主張するのならば、結局プレイヤーの感性は正常なのに………「正常」という言い方も奇妙だけれどもさ……、受け入れられなかったソフトがある、ということはつまりプレイヤーが悪いのではなくて、ゲームがしょぼいからダメだったんだ、シェンムーはやっぱり面白くなかったんだ、という議論にしかならないのではないかな、と思って。

瀬上 : 確かに、そうですね。「プレイヤーの感性は狭くなってない」と主張するのならば、そういう形の議論になっていきます。
 でも、ちょっと僕のいいたかったことというのは、そうじゃなかったんですね。まあ、僕の言い方も悪かったんでしょうけれども、僕が思ったのはつまり、感性が偏狭になっているという人もいる一方で、別にそうなっていない人もまだいっぱいいるんじゃないか、ということなんですよ。

米島 : ああ、ああ、はいはい。なるほど。そうね。それは確かにそう。おっしゃる通り。
 それはオレもそう思うのよ。ただね、そうは思っているんだけれども、そのね、ゲームの批評とかと言うのが、だいぶ隆盛してくるなかで、自由度とかゲーム性とかっていうようなものの言われ方が生まれてくる中で、そういう評価基準に依存してしかものを見れないような感性というのが一部で発生してきたのではないかな、というようなことを言いたかったわけよ。オレもちょっとちゃんと言いたいことがわかってもらえてなかったようで、スマンね。
 あと、ちなみに、誤解を生まないように言っておくと、その偏狭な感性というのは「オレ自身も持っているかもしれないけれど」という自戒の念もこめてね。単に他人を批判しているだけではなくて。

瀬上 : はいはい。わかりました。
 じゃあ、あと、もう一つ、これも僕の方で誤解しているだけかもしれないんですけれど、今までの議論で、ずばり申し訳無いな、と思うのが、ドリームキャストユーザーの方々で、その中でも特にシェンムーを買って「シェンムー面白く無かったよ」というシェンムー否定派の人々に対してはだいぶ一方的に「感性が狭くなっている」とかいう独断的な議論をしすぎてしまったのではないかと思うのですけれども、

米島 : ドリキャスユーザーは別に馬鹿にしてないよ、何も。

瀬上 : ええ、ただ、僕らも含めたゲームファンの人々に対しては………

米島 : ああ、そこね。うん。
 それは、さっきも言った通り、自戒の念もこめて。
 やっぱり何かについてマニアになったり詳しくなったりすると、詳しくなるのはいいけれど、詳しくなった人は詳しくなった人なりの悪い癖というのを持ってしまうことをがあるからそこの部分は気をつけた方がいいよね、という議論であって「おまえら馬鹿だ」みたいな議論をしたかったわけではないのね。

瀬上 : まあ、かなり「おまえら馬鹿だ」みたいな議論に聞こえてしまいましたけど……(笑)

米島 : そう受け取ってしまった人がいるなら誤るけど。

瀬上 : あと、シェンムー否定派の人々をすごい馬鹿にしてますよね。

米島 : それは、あの、誤解がないように言っておくけれど、シェンムーを最終的にいいと思うか悪いと思うか、ということではなくて、シェンムーの凄い部分を少しも認めることなく、一方的に「つまんない。クソゲー」としか言ってない奴らというのに腹をたてているのね。
「努力は認めるが、総合的にはこのゲームの作り方ではいけない」というように考えている人とかには別に何にも言っていないから。

瀬上 : ああ、はい。わかりました。それでも、まあ、一方的な批判をする人と言うのはどうかな、と。

米島 : うん。そうね。
 他に何かある?

瀬上 : ええ。これで、最後の予定ですけれども、議論の中で「ゲームを心底楽しんでいない」というような言い方をされましたよね?

米島 : うん、言ったかも。

瀬上 : 確か、言ってたと思うんですけれども、そういう風な形で「ゲームを心底楽しんでいない」。だから、そういう批評家的なゲームの遊び方は、すべきではない、みたいな言い方をしてしまうとですね、結局のところ、じゃあ批評的な意識でのゲームの遊び方っていうのはやってはいけないのか?それはゲームに対する接し方として間違っているのか?ということになるのではないか、と思うんですよ。
 僕は、それは本当にそうなのかな、批評的な意識でのゲームの遊び方をしては悪いのかな、というとそんなことは別にないだろう、と思うんです。どんな風に本を読んで、どのように感じたところでそれは人の自由だし、何のゲームをどういう風にやったって、それは批判される明確な根拠なんてないのじゃなかろうか、というように思うのですけれど。

米島 : うーん。はい。なるほど。それは確かに仰る通り。「心底楽しんでないのが駄目だ」とかって言っちゃったのならば、それは誤りましょう。訂正します。
 確かに、ゲームのプレイスタイルそのものを規定するような議論というのはたてられないっちゃあたてられないよね。それはもっとも。っていうか、その議論を支持するからこそ、一部のマニア層にイライラしてくるわけよ。

瀬上 : ?

米島 : えーと、だからさ、逆説的に聞こえてくるかもしれないけれど、つまり、オレの言う一部のマニア層というのはつまりさ、自分で楽しくない、と思ってる分にはどうぞご勝手にというもんなんだけれども、結局のところ彼らがいろんな場所で「この作品はこのようにして楽しまれるべき」みたいな意識を押し出してくるじゃないれすか。例えばゲーム雑誌だとか、ウェブ上の批評だとかでさ。

瀬上 : はい。

米島 : そうなってくるとさあ、つまり彼らは彼らでプレイスタイルを規定されたくないだろうけれども、彼らは他人のプレイスタイルを規定しようとする存在としてなってくるわけだよね。それがイヤなんだよ。

瀬上 : ああー、なるほど。わかりました。

米島 : ラジャー?
 
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2001-7-4
2002-1-22

(C)Akito Inoue