『シェンムー』という、この最高級の資本を投資され、日本最高級のクリエイター集団によって作られた作品は、その評価があまりにも大きくわかれている。
 「人工世界」としてのそのあまりもの完成度の高さに魅せられるがゆえに、この作品の内部へ内部へと向かってゆき、この世界に迷い込み、そのような現象を作りあげたこと自体を高く評価する人々がいる。そのもう一方で、「人工世界」としてのこの作品があまりにもよくできすぎているがために、実際に我々がすごすこの「現実世界」との絶対的といっていいほどの差違があまりにもグロテスクに見えすぎてしまうがために、その差違のグロテスクさに耐えられずにこの作品をたたきつけるようにして拒否してしまう人々がいる。「何故我々はゲーム内世界ではダラダラと無目的に生きることができないのか」「何故ゲーム内世界の人々は独立した意識を持っていないのか」―――そういった問題がこの作品はあまりにも透徹した形で見えすぎてしまうのだ。
 一方の人々は我々の世界にこの作品が近づきえたことに賛辞を与え、一方の人々は我々の世界に近すぎるがゆえにそのもうあと一歩の距離のどうしようもなさに、この作品を拒否する。その両者のうちのどちらの反応が正しいのかどうか、あるいはその両者は歩みよれるのかどうか――そのことはわからない。ただくっきりとわかることは、この作品が作りえた、この極めて精密に作りこまれた「人工世界」。この存在が我々にとって抜き差しならない巨大なものとして存在し、巨大であり決して無視できないものであるからこそ強烈にそこへの賞賛を述べるか、悪罵を浴びせ掛けるかのどちらか極端な行動をとらざるをえないほどのものだということだろう。
 この人工世界というものの体験を我々は決して簡単に無視することが出来ない。

 
©Akito Inoue 2002.1.26