blog || 瀬上梓

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2007年01月12日

作品の網をめぐる快楽

作品をつくるということ。

 「作品をつくる」ということが、他の作品との影響関係において、その上に成立する行為である、ということは、いろいろな知見についての話をひっぱり出してくるまでもなく、大変に常識的なことである。
 知っている人は知っていることであって、わざわざそんな話をするのは正直なところためらわれる話だ。なので、不親切なようだが、その話はいちいち繰り返さない。作品の「オリジナリティ」などをパーフェクトに信じるのが素朴な、あまりにも素朴な態度である、ということは了解しておいてほしい。世の中にオリジナリティがある、などといわれているもののほとんどは、なにがしかの作品の影響関係の中で成立しているし、影響からまったく自由な作品などありはしない。
 たまに、ある作品について、他の作品の影響関係を指摘するようなこと――たとえば、「ガンパレは、エヴァの影響抜きには語れないよね」――を言うと、「ガンパレがエヴァのパクリだなんて言うのは、まったくわかっていない」とかって反応されたりする。だが「影響がある」ということと「パクリだ」ということではない。そういう反応をする人は、作品が作られたり、受け入れられたりするということの基本的なサイクルについての了解が、私とは違っている。完全にオリジナルな作品などはないし、完全なるコピー作品も(海賊版以外は)ありはしない。いかなる作品も、ある程度オリジナルだし、いかなる作品もある程度までコピーである。作品を作る技術を習得する、ということは、すでに流通している技術をマネするということとイコールだ。あまりにオリジナルなものができあがっても、それは受け止められえないだろう。

作品の影響関係について論じるということ

 濃いオタクの人というのは、しばしば、作品の影響関係について論じることが好きだ。とても好きだ。というか、影響関係について論じることこそが、作品について語ることだと思っている節すらある。作品の内実、内容レベルについての批評的な問題を取り扱うのではなく、作品と作品の間の影響関係について論じるだけで他のことはまったく論じないという徹底した態度をとる人すらいる。
 いや、そういう態度をとらないにせよ、ある作品を批評するときに、他の作品との影響関係についての議論をスルーした場合に、怒る人というがいる。「あなたの議論は、あの作品の影響関係をみていない」という形で。これは、すごく根強くある。作品を評価するときに、影響関係について言及しない奴はわかっていない、と思われることがよくある。

 しかし、これは、いったい何なのか、という気もするだろう。

 前の世代が、後の世代にむかってあるものを見ていない、ということを象徴的にあらわす言葉が、競馬の世界だと「シンザンのレースも見たことないくせに」という一言に集約されている。ゲームの世界だと、たぶん、あと10年もすると「ファミコンもやったことがないくせに」とかそういう台詞に変換されていくのかもしれない。後の世代からすると、こういう説教はある意味、不愉快である。そんなこと知ったことではない、と思う。見ていないものは見ていないし、いまから見たところで、リアルタイムに経験されていた当時の興奮などがわかるわけがないじゃないか!と思ったりする。その意味で、ある作品を語る上で影響を与えた重要な作品についての語りというのは不愉快である。「それってどこの権威主義だよ!」という話だ。
 オタク世界の権威主義のようなものは事実上、流通している。これは一歩「濃い」オタクの世界に足を踏み入れようとしたときに、誰もが気にせざるを得ない問題だろう。とりあえず、手塚治虫、宮崎駿、押井守、富野由悠季作品は当然押さえておかないと彼らと話しは通じない。ゲームならばFF,DQよりも、ウィザードリィと、ウルティマと、Rogueは基本中の基本である。トールキンの指輪物語も読んでおかなければだめである。ある種のオタクは、オタク教養を磨きに磨いて上り詰め、こうしたオタク教養、オタク権威主義の再生産というのは行われる。

 しかし、これは本当にただの権威主義なのだろうか?オタク権威主義を体現するような人間もいれば、オタク教養の体系のようなものもある程度存在しているが、作品の関係の網の目の中に本格的に飛び込んでいく、ということは、単にオタク界隈の権威や教養というハク付けを知っていくということでしかないのだろうか?
 これは、オタク界隈の問題でなくてもいい。もっと権威付けされ、もっとも教養としてきちんと認定されてしまった文学史でも、映画史でも、写真史でも、美術史でも可能だろう。どこだって同じような問いをたてることは可能だ。

作品の差異において楽しむということ。

 作品を知っている、ということが、作品を楽しむということとどう影響するのか。作品をより多く知っている、ということは、作品をめぐる二次的な消費としての「批評」や「解釈」のゲームを行う上においてだけ楽しまれるものなのだろうか?
 結論から言ってしまうと、そんなことはない。ある作品を享受するときに、その作品に色濃く影響を与えた作品を体験として知っているか、知っていないかというのは実はすごく重要だ。二次的な消費の上においてだけ機能するものだというのならば、おそらくこれほどにまで作品の影響関係について語ることは流行らなかった。先に挙げた例で言えば『ガンパレードマーチ』をプレイする上で、エヴァを知っていてプレイするのと、エヴァを知らずにプレイするのでは、全く別の体験をすることになるだろう。あるいは、『FFVII』をやっている人と、やっていない人では『FFVIII』に対する楽しみ方は違うだろう。

 もっと別の例で言ってみよう。音楽はまったくの素人だが、宇多田ヒカルについて考えてみよう。
 2000年前後の、日本のCDセールスを見てみると、宇多田ヒカルはなぜあれほどに売れたのだろうか?もちろん、宇多田ヒカルの歌が上手いことや、作曲の能力が優れていたということはあるだろう。しかし、世界には宇多田ヒカルよりも優れた楽曲がないわけではない。その同時期に宇多田よりも優れていたり、楽曲がなかったとはいえない。たとえば、日本演歌会の大御所、北島三郎は2000年に新曲を出している。たとえば、3大テノールも日本でCDが売り出されている。
 しかし、宇多田はそういった曲を退けて、記録的な売り上げを誇り続けている。これはなぜか。
 「宣伝がされたから。」
 もちろん、それはあるだろう。ただ、宣伝されるためには「宣伝すれば売れる」という形式の音楽である必要がある。宇多田ヒカルの音楽は、それまでの日本の「売れ筋」の音楽と、連続している。宇多田ヒカルの音楽が、「売れ筋」の音楽とある程度の連続性がなければ、宇多田ヒカルがこれだけ売れることはなかった。それは音楽の素人でもわかる事実だ。その連続性の上に、圧倒的にアメリカナイズされた音と、歌唱力を宇多田ヒカルは持ち込んでいる。それまでの「売れ筋」が、宇多田とはまったく違うものだったら、――たとえば、北島三郎と、三大テノールがミリオンセラーを連発するような市場だったならば――宇多田ヒカルの音楽は決してあれほどまでに受け入れられたはずがない。宇多田ヒカルが好んで聞かれたとき、それは宇多田ヒカルのもたらした音楽が100%に新しかったから、聞かれたわけではない。ほどよく新しく、その中で洗練されていたからこそ、いままでの音楽との「違い」が享受され得ていたのである。
 こののようなとき、我々は作品を差異において楽しんでいる。
 宇多田ヒカルを真に単体を楽しんでいるわけではなく、「宇多田ヒカル的なもの」の断片をそれ以前にいろいろと楽しんで地盤があった上で、はじめて宇多田ヒカルは楽しまれている。それまで演歌しか聞いていない人がいきなり宇多田を聞き始めたという話は正直、あまり聞かない。

 あるいはパロディという手法について話すのでもいい。
「カユ…ウマ…」というのはゲーム『バイオハザード』の有名なネタだが、『バイオハザード』を体験していない人にいくら頑張って「カユ…ウマ…」を説明しても、説明を重ねれば重ねるほどにそれはむなしくなっていくだけだろう。「逃げちゃダメだ!逃げちゃダメだ!」という言葉もエヴァを知らない人には、なんのことだかまったくわからないだろう。パロディというのは「元ネタ」がなければ、何のことであるかさっぱりわからない。パロディは、まさしく「元ネタ」との差異を楽しむ遊びであると言ってよい。「作品の影響関係を体でわかっている」ということは、作品を楽しむ、ということを支えているとても重要な仕込みなのである。

差異を語ることと、楽しむこと

 以上、あたりまえの話といえばあたりまえの話だが、ここまでで、実は2つ、違う話をしている。まず、差異の中で作品を「語る」ということについて話した。そして次に差異の中で作品を「楽しむ」ということを話している。
 両者は、リンクしているが、別のことである。
 作品を楽しむとき、作品の受け手が、作品を単体で享受しているケースはほとんどない。他の作品との影響関係の中で、作品を楽しんでいる。エヴァの影響が濃厚な作品を見たときに、エヴァを見たことのない人と、ある人の間では話があわないとうことがあるだろう。それは、やっぱり体験の質が違っている。
 一方、作品の作り手が作品を作る、ということは作品を見たり読んだりする人が何を経験するかとか、何を読み込んだりするか、ということとは別の行為として行われる。もちろん、影響関係を意識しながら、あえて戦略的にものを作る作り手もいるだろうし、一方では、そういった影響関係をなるべく排除することを目指すような人もいるだろう。しかし、その結果できたものが、作品同士の影響関係の網の目の中から抜け出す、ということはとても難しい。作者が何を考えようと、考えまいと、受け手は作品からほとんど無意識に影響関係の中で作品を需要していく。
 オタク的な語りの中で「作品の影響関係」が云々されるとき、作者の経歴がひっぱりだされたり、作品の中の手法が事細かに分析されたりする。
権威的に、あるいは二次消費的な「批評的」語りの中で「作品の影響関係」が語られるとき、しばしば作者や手法というものが検討材料となる。作者という権威を召還しながら語ることによって、作品の影響関係を論じるということが、作品を語ることにリンクするからだ。
 しかし「作品の影響関係」が楽しまれるとき、作者は必ずしも召還されずともよい。そもそも集団制作体制が浸透し、意志決定なども複雑に絡み合うゲーム制作などの現場では特定の作者という概念をたてておくこと自体が困難な場合が多い。さきほどの宇多田ヒカルや、パロディを楽しむときに、宇多田ヒカルという作者の固有名や、パロディを用意した特定の作者の存在を空白にしてしまっても、作品を楽しむ地盤が受け手の中に醸成されているのであれば、作品同士の影響関係の中で作品を楽しむ、ということは可能である。
 影響について「語る自分」と、影響を「経験する自分」がいる。この二つは別のものなのだ。だが、その二つはしばしば、殆ど自覚されることなしにリンクしてゆく。影響関係を「経験する自分」は、影響関係を「語る自分」とほとんど不可分につながっている。それゆえに、「影響関係を語ること」が、作品の楽しみについて語ること、の本源的な問題であるかのような権威的言説が構築されていく。
 「手塚がディズニーの影響を受けている」と冷静に語ることは、手塚の中にディズニーアニメの楽しみを感じることとの臨場感とは、別のことである。

再び、ヒトは影響関係が論じることになぜこだわるのか。

 「作品がある作品との影響関係の中にある」
ということは、作品の楽しみを支えている、非常に重要な要素だ。あまりこういう言い方はしたくないが、作品を楽しむということの本質みたいなものだと言ってもいいかもしれない。
 あるものについて、オタクであればあるほどに、作品を「差異において楽しむ」という、楽しみ方に慣れてくる。あるいは、そのような楽しみ方しかできなくなってきたりする。
それは、人間が作品を経験するというサイクルの中で、かなり普遍的に観察されることであって大なり小なり多くの人が味わっていることである。
 しかし、そのような楽しみ方が「語られる」とき。それは「通」の言葉、あるいは「オタク」の言葉となってゆく。影響関係を語る、ということ自体が、二次消費的な「作品の語り」「批評」を支えることの中でひどく大きな割合を占めてくる。
自らの直接的な楽しみ方に支えられた中で紡ぎ出される、「語り」の言葉は強い。その楽しみ方がいかに重要か、という人を「語る」人は確信をもって、「語る」だろう。
「この影響関係抜きにあの作品を論じることなど、論外である」と。

批評を成立させること

 「批評」の定義を、ここでは仮に「語られている対象となる事柄について、面白いと思えるような見解を得られること」としてみよう。
 そのような観点に立った場合、影響関係についてだけ論じるような「語り」は、批評としては、かなり最低だといえる。もちろん、「濃い」オタク同士のコミュニケーションの中でならば、それは批評として機能するかもしれない。だが、相手が予備知識のない人であれば、単にジャーゴンが並んでいるだけの、自己満足の語りであるようにしか見えないだろう。一部の「濃い」オタクたちは、現代思想などの見慣れぬ言葉でサブカルチャーを語られることをひどく嫌うことがあるが、現代思想のわかる人々の狭いサークルも、「濃い」オタクたちの狭いサークルも、そのサークルの「狭さ」という点においては似たようなものである。現代思想的な話であれば、まだ論理的な話を議論しようという意志のある場合が多いが、オタクが影響関係についてのみ云々するときというのは、論理も何もなく点と点を線でひたすらにつないでいくような作業である場合が多い。その意味でも、きわめてオタク的な作品の影響関係論というのは、どこに帰着しようとしているのか、まったくよくわからない場合が多い。
(もっとも、現代思想の話だって、論理的とみせかけて点と点を線でつなぐような話も多いのだが)

 オタク的な影響関係の「語り」は、どこまでいっても同じところをぐるぐるとまわっている。おそらく、それはつきることがない。
 論理的にものごとを語ろうとするならば、普通は、「あるものがあるものの影響関係にある」というときに、そこで影響関係があるということの意味は何なのか、ということを問いただす。しかし、影響関係があればなんでもいい、という話になっていくと、もうこれは際限がない。意味などなくとも、楽しみは成立する。そして、その楽しみこそが参照点となり議論はどこまでも続いてゆく。

 特に自覚的な一部の人をのぞいて、濃いオタクが「作品の影響関係」について語るというのは、そういうことだと思っている。それは、論理的であるよりも何よりも、作品の影響関係の網の中でまどろむことの悦楽に浸ることなのだ。