blog || 瀬上梓

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2006年04月08日

平等・自由・友愛をめぐる言説とそのアーキテクチャ。

以下、書きかけ没原稿。

1. 序

 東浩紀の言う情報社会の二層構造論を、コンピュータ・ゲームをめぐる事例においてどのようにたち現れるかということを論じる。
 コンピュータ・ゲームを語ることとは、単なる趣味の話でしかないとおもわれがちだが、情報社会の到来と時を同じくして爆発的な発展を遂げたこのメディアは情報社会の特質を色濃く反映した嫡子である。


2.情報社会の二層構造

2.まず、東の情報社会の二層構造論について簡単に確認しよう。
 東は、ポストモダンの社会秩序が、価値中立的なインフラ/アーキテクチャの層と、価値志向的で、人間的なコミュニティ/イデオロギーの層に大きく分けて捉えられることを示した。
 この構造はコンピュータ・ゲームの話にそのままあてはまる。
 コンピュータ・ゲームは、一見、無機的なゲームのアーキテクチャにいかに人間的な層を見出していくかということに奔走するメディアであった。これは、コンピュータ・ゲームがもつ、「人間の娯楽としてコンピュータを扱う」という属性から考えればごく当然の帰結であるとも考えられる。たとえば、2001年に『テレビゲーム文化論』(講談社現代新書)を書いた桝山寛は、コンピュータ・ゲームの特質を「対話型のメディア」であるとし、テレビゲームの一つの極端な進化系としてAIBOのようなロボットを位置づけている。また、90年代に日本のコンピュータ・ゲーム市場を席巻したRPGというジャンルが目指していたものは、単純な入出力構造しかないコンピュータ・ゲーム内の人物や物語に対して、いかに人間的な振る舞いをさせていくか、ということでもあった。
 単なるアーキテクチャを人間が戯れるためのものとして作り上げようとしたとき、そこには不可避的に人間的なコミュニケーションの層が立ち現れるということ。まず、このことを確認しておこう。

(※この「アーキテクチャの層から人間的な層が用意される」という構造はコンシューマーゲームにおいては、システムから物語がたちあがるというような、永田えり子[1993]のような話になるが、オンラインゲームにおいては、システムからコミュニティがたちあがる、というような話になる。たとえば魏[2006]。)

3.ででお事件

3.さて、『FFXI』という有名なオンラインゲームがある。
 日本で最大のゲーム雑誌である『ファミ通』に掲載されたこのゲームの攻略記事をめぐって、2003年春ごろにネット上で大きな騒ぎが起こった。
 騒ぎの発端は、『ファミ通』の編集者の一人である「ででお」氏が、『FFXI』をプレイする上で、『FFXI』というゲームのアーキテクチャの中で効率的にプレイするためにはどのような方法が適切なのか、ということを少し荒い口調で主張したことにはじまる。((http://pomum.org/?%C0%D6%A4%C0%A4%B1%A4%AB%A4%CA%BA%C7%B0%AD%A4%CF))

 これに対して2ちゃんねるのなどで『FFXI』について語っていた人々が激怒する。2ちゃんねるで「祭り」として盛り上がっただけでなく、事件の経緯をまとめる「まとめサイト」が登場したほか、『ファミ通』を発行する株式会社エンターブレインの出版物への不買運動も提唱され、メールでの抗議文を送るものや、電話での直接抗議を行うものさえ現れた。こうしたやりとりを経て、この騒ぎが起こった翌月には『ファミ通』本誌に短い謝罪文が掲載されるまでに至る。
 当時行われた電話抗議の内容を、当時のまとめサイト((http://web.archive.org/web/20031008133602/http://www.geocities.co.jp/Playtown-Toys/6058/dedeo.htm))から引用しよう。(括弧内は筆者による補足)

Q.(読者の抗議) (「ででお」氏の主張は)スタイルの強制に思える。もう少し他PCに配慮した記事作りをしてほしい。できれば謝罪やいきすぎにたいする訂正を。 しゃれに受け取らないものもすくなからず読者にはいるはず。

A.(ファミ通編集部からの回答)
紙面の都合もあり訂正をするわけにはいかない。
攻略記事なのだからもっとも効率を重視した戦略、ありかたを考えるとああなった。
自由なスタイルを推奨してしまうと攻略記事のつくりようがない。

 このやりとりは、この事件の構造をよくあらわしている。おそらく、『ファミ通』の編集部のこの回答はごく正直なものだ。ファミ通編集者は『FFXI』のプレイヤーにゲームのプレイスタイルの強制をするつもりはなかっただろう。彼らは、単に『FFXI』というゲームの中での効率的な振る舞いについて議論したに過ぎない。だが、ここで行われた「いかなる振る舞いがこのゲームのアーキテクチャにとって効率的か」という議論は、『FFXI』のプレイヤーによって「ゲームプレイの自由が侵害された」という解釈を得てしまったということだ。
 アーキテクチャの層において言及していたはずの議論が、人間的なコミュニケーションの層において解釈され批判されてしまった。このディスコミュニケーションこそが、事件を大きなものに発展させたといってもよいだろう。


4.示唆

4.この事件は、ともすればネット上で頻発する取るに足らないサイバーカスケードの一種にしかみえないかもしれない。確かに、この事件はメディア環境に浸りすぎたゲームプレイヤーたちの引き起こしたサイバーカスケードであるという側面は存在している。
 だが、これは情報社会における議論のあり方について次のA,Bのような点で極めて示唆的な事例であるといえる。

(A)アーキテクチャ的に最適な振る舞いを素朴に語れない。

 東は、アーキテクチャの層と人間的な層が解離的に成立するということについて言及したが、アーキテクチャの層と人間的な層を成り立たせているものが構造的に強く結びつくコンピュータ・ゲームのようなメディアにおいては、アーキテクチャにおける振る舞いだけを素朴に議論することが極めて難しくなる。アーキテクチャについて議論することが、コミュニケーションに対する弾圧として受け取られてしまうという難儀な性質をかかえている。
 だからといって自由なプレイスタイルについて振る舞いの戦略をあたえるような「攻略記事」を書くことは原理的にありえない。『FFXI』をめぐる『ファミ通』編集者の記事でプレイヤーたちに高い評価を得たのは、いかなる批評的な言辞や、振る舞いの戦略でもなく、ただ単にファミ通の編集者が『FFXI』をどのように楽しんで遊んだか、ということを語った体験日記だった((永田泰大『ファイナルファンタジーXI プレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』エンターブレイン、2003))。そこでは、アーキテクチャについての最適な振る舞いが論じられることはまったくない。

(B)作品=アーキテクチャ自体の質を語らない。

 また、この事件において『FFXI』というゲームタイトルのよしあしというようなことをゲームプレイヤーたちはほとんど語っていない。ゲームプレイヤーたちはゲームそのものについて語るのではなく、「プレイヤー」を語っている。作品そのものは論じるべき対象としては存在しておらず、この事件の議論のなかでは『FFXI』の「作品論」はほぼ完全に背景化され、問題にすらされていない。
 『FFXI』をいかに攻略するか、という議論をするにせよ、『FFXI』においていかなる規範の妥当性を論じるにせよ、そこではプレイヤーのふるまいだけが問題として出てきており、アーキテクチャ=作品の秀逸さはまったく問われていない。((もちろん、この事件の文脈とは別に、アーキテクチャの優秀さを問うようなコミュニケーションも存在している。しかし、作品=アーキテクチャの問題を論じる人々はリチャード・バートル[1996]の分類を用いれば、Killerや、Acheverや、Exploreといったタイプのプレイヤーであり、ここで議論にのぼっているSocializerのようなプレイヤーたちのことではない。))


 A,Bの二点は次のことを意味する。

 あるアーキテクチャにおける最適な振る舞いを論じるということが、コミュニケーションの層/人間の層の最適化へとはまったくつながらず、背景化されてしまうか、もしくはその「敵」として見出されるかという感覚がここには横たわっている。
 オンラインゲームにおけるその他の議論、たとえばRMT、BOT、Cheatの議論もすべて同一の構造をもっている。アーキテクチャに関する議論が、自由で平等なコミュニケーションにとっての「敵」として発見されている。

 彼らは、よくできたアーキテクチャによって強力にコミュニケーションがエンパワーメントされるオンラインゲームという情報社会に住まう。でありながら、アーキテクチャによってコミュニケーションの自由を束縛されるような議論を何よりも強く忌避しているのである。

 人間によってデザインされたアーキテクチャと、人間自体とがここまで強く結びつくメディアを前にして、人々が紡ぎ出す言説のありようは、まさに大きな変遷を迎えようとしているのではなかろうか。