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2006年04月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「死の表現」をめぐって#02
1.『人間ども集まれ!』
テンパりつつも逃避する井上です。
9日の研究会関連の話題で。死の表現に関するネタとして人とだべっていて、「手塚は死のリアリズムにむきあっていた、とかって話があるけど、手塚にとっての<死の表象>つっても実は手塚ってダークな死の欲望というか、なんか、人間狩りとかそういう死の話を書くのが大好きな人でもあるよね」とかそういう話を今日の晩飯くいながらしてました。
そんなわけで以下、晩飯での話+ちょっと発展版。
手塚の死の表現に関して話すとそれこそ、死ぬほどネタがあると思うんですが、話していた人は順当に『ブラック・ジャック』とかがいいよねと。ぼくが特に思い出したのは、手塚中期の傑作『人間ども集まれ!』。
なぜに『人間ども集まれ!』がいいのかというと、あれって性の話でもあると同時に、死の話でもあって、大量にひとが死んだりするのをガンガン描く話なんですよね。手塚にとって、差別と人間狩りみたいな話を書いた比較的初期の傑作と言う点では『ロック冒険記』とかもすばらしいといえばすばらしくって、『ロック冒険記』は、「鳥人間」という亜人種の宇宙人をガンガン殺して奴隷化して狩っていく話なんですよ。だけれどもあそこで描かれる人間狩りの問題というは、どちらかといえばアウシュビッツ的な記憶の再生産に近い。差別という問題の枠組みの中で描かれる悲劇の問題だと思うわけです。だけれども、『人間ども集まれ!』における「人間狩り」の問題が決定的に新しいと思えるのは、そこで「戦争ゲーム」というものをイベントとして興行してしまおうという話が盛り込まれていることなんですね。
この作品中で語られる「戦争ゲーム」というのはネタとしては本当にいまでも斬新だと思うのですが、たしかにそもそもは、亜人種に対する差別問題と言うのを発端にはしています。だけれども、ここでは「人間狩り」の問題が単に差別の問題じゃなくて、快楽の問題として提示もされるわけです。それは、「戦争ゲーム」イベントの興行屋の書いていたパンフレットか何かにでてくるんですけれども、「戦争こそが最大の娯楽なんだ」というようなことをものすごく自覚的に言って見せる。悪魔のような所業をなす興行屋がそういうことを言うわけです。そこでは、それこそ「リアルな死」があり、同時に「数字的にカウントされていく死」もあり、「快楽としての殺人」も全部一挙に混在しているんだ、と。
で、そうした、「死」のありようを「娯楽」として眼差す視線が世界には強力に成立しうるんだ、ということを手塚は示すわけです。リアルな戦争のゲームを、「イベント」として開催されうるのではないかという想像力を提示して見せることで、単に死がリアルであるとか、リアルでないとかゲーム的である云々という批判とはまったく別の水準において、われわれは人の「死」をめぐる事態を娯楽として楽しんでしまうのだという、死と快楽の問題をものすごく明瞭に提示してみせる。
それはもちろん単純には肯定できるようなものではないけれども、逃れられないものである、として提示してみせる。
そんなわけで手塚の「死」をめぐる表象はブラックジャック的に、(こんなことを言ったら叱られるかもしれないけれど)、ある意味ベタに、死をめぐる倫理を扱うような方向性を描く。それと同時に、「死」をめぐる倫理が決定的に崩壊する世界も描く。手塚が「死のリアリズムを描いていた作家だ」という言うとき、それは手塚が、個人個人の換えがたい生命を丁寧に描く作家だという意味での「死のリアリズムを描く作家だ」というような議論は、非常に一面的なものでしかなくて、「個人の死のリアリティというものが失われるリアリティがありうる」ということを描くことについての情熱を持つ人だったという意味において、手塚の描く死のリアリズムとはリアルだったのだと思います。そして、それが十全によく描かれているのが『人間ども集まれ!』という作品だったのではなかろうか、と。
2.『City of God』
そういえば、これに似た話として、おととしから僕がものすごくプッシュしている『City of God』というリオデジャネイロのスラム街という社会を描く話があるんですが、同じくブラジルのスラム街的なものの延長にあるブラジルの刑務所を描いた『カランジル』という映画をみました。『カランジル』は一人一人の囚人の生き様を丁寧に描いて、それが大量虐殺されたという実話(?)を描く話でテーマ自体は大変に重い話だったのですが、『City of God』と比べると別にこれといって、「いい」思えなかったも同じ理由であるような気がします。
死の表象というのが、単に個々人の尊厳をリアルに描いたものであってもそれはものすごく不謹慎な言い方になるけれども、「ベタ」といえばベタで、実はそういう死はもう描かれすぎてきたといってもいい。『City of God』がすばらしさを僕は前に「『蠅の王』の実話版」という言葉でいっていたのですけれども、それは何かといえばまさに死の固有性のリアリティが崩れる世界を説得力をもって描いていたことです。
そこでは実は人種差別だとかそういうタイプのありがちな道具立てすらない。僕らは人種差別とか、そういうものはとりあえず捨て去った―――とか、そういうことになっているけれども、そういう典型的な種類の「人間」を「非人間」として扱う概念装置である「差別」とか「戦争」とかというものから逃げ去ったとしても、まだ。それでもまだ、固有の死のリアリティとかいう言葉で呼んでいるものが崩壊する瞬間を迎えてしまいうる世界がある。それは圧倒的な日常の中にある。
そういう形の恐怖を、まさに現在のブラジルのスラム街という場所から描きえていたという点において『City of God』は圧倒的に傑作だったと僕は思っているのだと思います。
3.ゲームにおける「人間」の「非人間」化装置の問題
で、これまで描いてきた話は人間であるはずのものが、非人間化されて死が快楽として機能してしまったりする瞬間があるよね、と。だいたいそんな話でした。*1
「人間が、非人間化される」という世界。
これはでも、一般的な小説とか映画の物語の世界だとこれを描くことが一つの重大なテーマになりえたりするわけですが、ゲームだとこの話は実は逆転してしまう。
なぜか。
理由は明確で、はじめからゲームにおいてはNPCとかモンスターというのは、ものすごく非人間的なものとして配置されているからですね。別にそれを殺すことにためらいを覚えるゲームプレイヤーはものすごく少ない。だけれども、だからこそ、逆説的にここで問題になるのはものすごくベタな固有の死を描くということになるのかもしれません。
つまり、小説や映画においては「人間の非人間化という恐怖」を、人間的なものが非人間的なものになってしまう瞬間を描くことで表現する。だけれども、ゲームにおいてはそもそも登場するキャラクターたちは、はじめからものすごく非人間的な存在として成立している。だからこそ、ここで必要とされるのは、はじめから非人間的なものを非人間的なものとして描いてもどうしようもないので、「非人間的なはずのものが人間的なものに思える瞬間」を描くことになってくるのかもしれないな、と。
たとえば、それは茂内さんじゃないけれど、やっぱり『ACE COMBAT04』のラストとかがものすごく秀逸で、あれはまさにそういうものなんですよね。それまでほぼ完全に非人間的なものであったはずの敵の戦闘機が、いきなり人間的なものとして現出してくる。
そこにおいてはじめてプレイヤーは自らが残虐な虐殺者であったことを認知しうる。自分のみつめる世界における人間と非人間的なものとの境界が極めてあやうげにうつろうものであることを自覚する可能性がそこで与えられる。
もちろん、こういうことを言うと暴論だという言う人がいるのかもしれない。
それはたとえば次のようなことだと思います。同じエースコンバットについて話せば、「『ACE COMBAT03』をみてくれ」と。「『ACE COMBAT03』は最初から複数の人間をちゃんと描いていって、それが死ぬ話じゃないか。」と。人間ははじめから非人間的ものとして登場するのじゃなくて、ちゃんと人間の面をしてるじゃないか、と。あるいは、エースコンバットじゃなくてもいい。最初から敵がきちんとした人間の顔をかぶっているものなら別になんだっていいと思います。
でもこういう反論は本当にそうなのだろうか、と。いうことも同時に思うわけです。
具体的に言うと、はじめから人間の顔をかぶっているゲームこそ、次第に相手が人間であるということに頓着しなくなってくるのではないか、と。ゲームの中の人間が何度でも生き返ることがわかってるし、相手が人間である、というのは<物語設定>上の問題であって、戦闘中に相手に一撃をくらわせたりすることはまったく問題ないんじゃないか、と。次第にそういう感覚が蔓延してきて<物語設定>の問題と、戦闘行為との問題の分離というのがただ単に横たわるだけになってしまう。*2
コンピュータ・ゲームというのはこうした形でものすごく人間を、非人間的な水準で扱いつつもそれを解離的にどうにかしてしまうような、きわめてややこしい装置になってます。僕が話したいことはこの解離的な状況というのがいいか/わるいかという問題ではなく、こういう先に挙げた『人間ども集まれ!』とか『City of God』のような意味での死の恐怖を書きうるならば、それはどのようなものなのだろうか、と。
そういう話なのかなー。と。これを書きつつ。
いま手元に用意してるのは、べつの話なんだけど…
4月9日の研究会はこんな感じの話になるかどうかわかりませんが、とりあえず、興味のあるかたは申し込みしてウェルカム。
*1:もう少し正確にいったら、ほんとは、人間的な死が非人間的なものに変わってるから、殺人が快楽になるんじゃなくて、人間的な死が人間的な死であるからこそ殺人は快楽なのかもしれないけれど、その話にまで言及すると、話の軸がブレそうなのでやめます
*2:でもまー、こういう話をいいはじめると、ACE04だって似たようなもんだという、ところがないでもない。ややこしー。この感覚の分離の問題は、9日の研究会でとりあげます。あと前に書いたhttp://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050717#p1とか参照
2004年11月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■デスノート4巻 と 「罪を犯す自由」。
本格ミステリマンガとして目下大ヒット中の本作ですが、今まで「頭の良さ」をがんばって描いてきただけに、今回はそれが反転する形で「頭の悪さ」の感触というのをリアルに描くことにものすごい成功を収めていて楽しいです。ここまでミステリ中心にゴリゴリやってきたところに情をゴツンと盛り込んでしまうあたりも素敵。
それと、ソシュール的に言えばありえないはずの言霊実在論みたいな部分もお話としてかなりハッチャけてるんですが、他の部分でも思考実験的に読んでもイケるなあ、とか思いました。
具体的に何が思考実験的に読みうるかというと、警察がキラを非難するときの口上ですね。
このマンガで登場する犯罪者「キラ」というのは、まあ言ってみれば死刑推進論者が、いきなり神になってしまって実際に死刑をガシガシとやってしまっている人なわけです。もちろん、そんな人がいたら近代国家的には、マジかよ、と。ありえないYO!、と。そういう存在だからこそ、「キラ」は犯罪者として位置づけられている。
とはいったものの、基本的には「キラ」が殺している人というのは、(おそらく)国家ごと、時代ごとの法制度によっては死刑になったり、終身刑になったり、懲役50年ぐらいになったりするぐらいの、非常に微妙な対象に対して「死刑」を執行している。「悪」の選定がそこまで独善的なわけでもなく、単に「死刑」のための基準ラインを少し低いところに設定したというぐらいに過ぎない*1。これが州知事時代のブッシュJrなんかはもっと大胆に低く基準ラインを設定してガシガシ死刑をやっていたりする。だけれどもブッシュの場合は民主的、法的な手続きを経て州知事となりこれをやっているから少なくとも「犯罪者」として扱われはしない。この場合に「キラ」が「犯罪者」である、ということを言うための論理というのは、(若干の議論の無理を承知で言えば)「手続き的に正当でない」という程度のことしか実はない。
警察としてはそんなパッとしない論理を言うわけにもいかないので、もうちょっと派手にキラを「犯罪者」として扱うためにメディア上では、彼を「恐怖」として語り、四巻のP81には
「キラの恐怖から世界の人々を救う―――」
などといった言葉によって彼を非難する理由を用意するわけですが、一体、警察の言う「世界の人々」にとっての「キラ」の恐怖とは何なのか。
少なくともそれは、罪を犯すこともなく日常的な生活を送っている人にとっての「恐怖」などでは全くない。「善良な市民」を救おう、という話をしているのではない。では誰を救おうとしているのか、といえば、「キラ」に殺される可能性のある重犯罪者や、将来自分が重罪を犯すのではないかという不安を持っている人を「救おう」といっていることになる。
彼らを救わなければいけない、といっているというのは、言ってみれば、「ある程度の重罪を犯しても殺されない自由。生きていける自由」*2を確保しましょうね、と。そういう話です。
一般的に言えば、それって言うのは必ずしも肯定も否定もしえないかなり微妙なラインの話なわけですけれども、これを微妙だと知りつつ、あからさまに「そんな自由はない」として行動してしまう人を取り締まるためには、「いや、その自由は認めなければいけないのだ」と一旦いってしまわなければ、そういう人を取り締まるための明瞭な論理を発見できない。
そういう描写がされているあたりを、なるほどなー、とか思った次第です。
2004年09月26日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■“マンガ表現論”の「失敗」をめぐって
前に夏目房之介の『マンガと戦争』の書評で「夏目流の表現分析だけでは、限界がある、ということを示しているのかもしれない。」ということを書きましたが、私と同様の感想として、夏目さんの露呈してしまった「表現論の限界」を厳粛に受け止めつつ、その先/その以前の可能性について論じたものを見つけました。
瓜生吉則 マンガを語ることの<現在>
http://yossy32.hp.infoseek.co.jp/serica.htm
ゲームを語ることの近未来と、漫画の批評における論議が、ほとんどイコールで結べそうな気がしてきます。
2004年08月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■夏目房之介『マンガと戦争』
以下はamazonに二週間前に投稿したレビューなのですけれど掲載してくれなかったようなのでこっちに載せときます。
誉めてはいないものの、それほど批判的な文章でもなかったので、ちょっと不思議。
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戦後マンガをいろいろととりあげて時代ごとの作品・作家レベルでの「戦争」イメージの変遷をたどる、ということが目的、とのことで、手塚から宮崎、庵野と幅広く、夏目さんなりの表現分析をベースとしたそれなり以上に鋭い分析者としての解説が加えられる。だが、全体的には、『マンガはなぜ面白いか』などと違い、それほど力をこめずに自由きままに書いているような印象があった。
だが、「力がこめずに」というのは、夏目さんのようなかたちで真剣にマンガの「批評」「分析」にとりくんでいるようなスタンスの人にとっては、むしろそれこそが、苦痛であり、妥協の産物なのかもしれないな、と思って読んでいたら、あとがきには、予想通りそういうことが書かれていた。
夏目さん自身が告白をしているとおり、マンガの緻密な表現分析をベースにして、批評を展開していく夏目さんの真骨頂ともいえる部分が本書では十分に発揮されているとは言いがたく、夏目さん自身が批判的であったはずの、作品を時代・社会的変化の単純な鏡のようにして扱うという反映論の立場を導入せざるをえなくなっている。
このような苦い選択を夏目さんがしなければならなかったと言うのは、本書のような「戦争イメージの変遷を追う」という目的をかかげた場合に、夏目流の表現分析だけでは、限界がある、ということを示しているのかもしれない。
だが、表現分析が多くの限界を含んでいるとしても、ここで夏目さんが採ったような反映論にゆかなくてもいいだろうという気はする。分析のための手段は他にもあるはずだ。
表現分析以外の多彩な分析手法をどれだけ獲得していけるのか―――それこそが、今後のマンガ研究をより豊饒にするための手立てではないだろうか。
2004年06月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『最強伝説黒沢』3巻はすごい。だって、シートン動物記ですよ!
古谷実*1や、蓮古田二郎*2などよりも、問答無用に中年の「負け組」人間を描く『最強伝説黒沢』だが、今回の「『シートン動物記』に感動した!!」という描写は圧巻。
文脈としては、ボロボロな人生を生きてきて、仕事の同僚である工事現場の若者達に対しても決定的な醜態をさらけ出してしまった主人公のおっさんが、生きる気力を失ってフラフラとしているところに、たまたま旅館の備品として置いてあった『シートン動物記』を手にとり、動物達の生き様と現在の自分を重ね合わせて大感動してで立ち直るという話。
ここでいきなり『シートン動物記』という予想だにつかないもののがいきなり登場してくることのリアリティに対して、異常な説得力を感じる。
こういう表現を出してこれるってうらやましい。
2003年09月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■斉藤孝『スポーツマンガの身体』文春新書
素晴らしくくだらない。
斉藤孝さん流の「丹田に力をこめる」「身体論」が炸裂していて、ついていけない感じなんだけれども、最後まで読んでしまった。全般に斉藤さんのオイシイキャラがたまらない(以下、引用)
P18
(大リーガー養成ギブスについて)一見非人道的な道具のようだが、子供たちには当時非常に人気があった。私も、当時流行っていたエキスパンダーという、バネを引っぱって筋肉を鍛える用具を解体して、作ってみたことがある。飛雄馬が素肌の上にそのままギプスをつけていたのに影響されて、私も裸になってエキスパンダーのバネを体中に巻きつけてみた。結果はお粗末なものだった。
まず、効果がない。バネの巻き付け方が下手だったせいもあるが、投球動作をするときに必要な筋肉に、緊張を与えるようなバネの引っかかりが上手く出せなかった。小学生の私は、それでも大リーグ養成ギプスの効果を疑うことはなく、むしろ一徹の手先の器用さに感心していた。私の作ったギプスには、もう一つ重大な難点があった。バネを伸ばした後、それが縮むときに、皮膚が挟まって痛いのである。あちこちが挟まれて痛くて集中できない。つねられる痛みに耐えたからといって球が速くなるわけではないので、がっかりしてあきらめた。
しかし、今でもよくできたギプスがあればつけてしまいそうだ
小学生がエキスパンダー解体して大リーガー養成ギブスまがいのもの作るって…それかなり大変そう…。
そして、悟ったようにして「まず、効果がない」と力説しているあたりはブラボーです。斉藤さんのこと、好きになれそう。
P26
エネルギーのすべて使い果たして、ぶっ倒れ、這いずって行く。この状態に私たち野球少年は、猛烈にあこがれた。そのために効果があるのは特訓することだった。倒れるまでやるという梶原一騎の美学が、脳にすり込まれてしまった。しかし実際には、完璧に疲れきって倒れるというのは難しいことだ。そこでわざと転がって泥まみれになることで、雰囲気を味わったりした。