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2005年07月05日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■リアル・タイム・マシーン展行ってきました。
そんなわけで、四日の月曜にid:dotimpactさんの個展「リアルタイムマシーン」展に行ってまいりました
Real-Time-Machine for Arcade
コントローラー一個で、ゼビウスの基盤二枚に指令を出し、別々のディスプレイで動作がわかるという代物。本当は同じゲームのはずなのに、コントローラーから出される指令のズレが蓄積してゆき、次第に双方の動きを別々に統制することが必要とされてくる。だけれども、脳みそを二つに分割することのできないプレイヤーは、チュドーン、と2,3分ぐらいでおっちんでしまう。
Real-Time-Machine for TVgame
こちらも、コントローラー一個で複数のRomに指令を出すという代物だが、こっちの場合は、意図的に時間が1/60~2/60秒フレームずつぐらいずらされており、コントローラーから一番遠くにあるモニターに映し出されるマリオはコントローラーの動きに対してほとんど遅延なく動作するが、プレイヤーが見つめるコントローラーの近傍にあるモニターでは、コントローラーからの操作の入力とディスプレイへの出力が、0.1秒~0.2秒程度の遅れを演出する。
外付けTVチューナーを持っている人はわかるかもしれないが、ちょうどTVチューナーにステレオケーブルをつないでゲームをやろうとしたときに生じる遅延がちょうどこんな感じである。アクションゲームはおろか、ほんの0.1秒や0.2秒といった遅れによってRPGすらまともにプレイすることができない。
PONGed
目に映る見え方としては、プロジェクターによって隣室に対戦相手のフィールドがうつしだされ、それと対戦しようとしているだけなのだけれども、部屋と部屋をまたいで球が打ち返されてくる間の処理には、実は地球の裏側あたりにある複数のサーバーが経由されている。
サーバーA、サーバーB、サーバーCを経由した球が2つ、3つと同時に打ち返され、「地球」という物理的空間を介した「リアルタイム」の限界が、狭い空間のモニター上に顕在化する形で提示されるという仕組み。
「リアルタイム」概念について何か書こうかと思って検索してみましたが、とりあえず「リアルタイム」でざらっと検索してみて、リアルタイム風呂沸かしゲーム「風呂」を考えた人は神だと思いました。
ゲーム中の時間はすべてリアルタイムで進み、浴槽に水をいっぱいにためるには本当に30分以上待たなければならない。お湯を沸かすのも、約20分ほど必要だ。操作は「水を入れる/止める」「湯を沸かす/止める」のみといたってシンプル。根気よくやればクリアは簡単だ。
↓以下、感想など。
というのはさておき、もう少しちゃんと書きます。
(↓以下3日後。つまり7月8日に追記)
「もう少しちゃんと書きます」などと書きかけで放置してから、数日が経過してしまいました。
しかも、待ってくださったみなさんには申し訳ないのですが、「もう少しちゃんと」などと言っているほどにヒマな時間が再来週ぐらいまで、あんまりないことが発覚してしまい、とりあえず何を書こうとしていたのかをメモ書き程度に記しておきます。*1
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id:dotimpactさんが、言わんとしているように<リアルタイム>というのはhttp://www.atmarkit.co.jp/flinux/embedded/rtos01/rtos01a.html とかによれば、「レイテンシ(遅延)」「デッドライン」「ソフトリアルタイム」「ハードリアルタイム」みたいな様々な道具たてを媒介にしてできあがっている人工概念であって、我々にとって一見すると自明すぎるがゆえに問われることがほとんどないような「リアルタイム」という「時間」が人工的にデザインされているっていうことを、dotimpactさんの今回の試みは改めて気づかせてくれた。
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<PC/ゲームの中の時間>というのが、<PC/ゲームの中ではない現実>の時間と比較される中で、その「リアル」概念が形作られているよーな感じもすばらしい。dotimpactさんいわく「<雷の光>(ピカピカッ!)に対する<雷の音>(ドッドーン!)の遅延が許容されて、ゲームにおける<時間>が許容されないのはなぜなのか」みたいな話ももっともで、ベタな話だけれども、人型ロボットが「人間になりたい」などという話がくだらないというのと同じような意味*2で、「PC/ゲームにおける時間」を「自然の時間」の劣化コピーとして捉えようとしてしか捉えられない価値感はもっと相対的に捉えられていいのかもしれない。
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で、なにゆえにdotimpactさんは「リアルタイム・マシーン」と題して「遅延」というものを前面に押し出してきたのか、というと、それはたぶん人工的に形作られ、人力の努力に支えられて発達してきた「リアルタイム」概念のそのような性質をもっともあらわに、わかりやすく見せつけるのが「遅延」なのだ!…たぶん!
それはたとえば、リアルタイムの定義「(コンピューターのOSの場合)一定時間以内に処理を終了させることができる性質のこと。」(Byはてなキーワード)というような言い方があらわすように、「リアルタイム」の成否は、「遅延」の成否によって測定されるという性質を持っているからなのだ!…たぶん!
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ということを含めて、ゲームの話にもって行きたかったわけですが…いまひとつゲームの話とじかに接続する方向性をあんまり思いつかず放置。なお、意味不明に掲載だけしておいた右の画像は、昭和54年10月30日発行『マイコンプログラム全集1』(電波新聞社)の目次ページです。「リアルタイム」ネタですぐに思いついたのがこれだったわけですが、これ、1979年の段階で*3便宜的にゲームジャンルを分類しているもので、「反射神経ゲーム」(おそらく、今で言うアクションゲーム)の下位ジャンルとして「リアルタイムゲーム」という位置づけで「もぐらたたき」「ブロック崩し」といったものが紹介されております。その下位ジャンルがどういう基準で設定されているのかは正直よくわからんのですが、まあ、こんな昔から「リアルタイム」という概念がゲーム界隈でなかなか意味不明な雰囲気で使われており、わけはわからんが面白いかもね。と。
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なんて、うだうだしていたら、id:ABAさんがすっごいまとめてるYO!↓
この話も面白いけれども個人的に、今回のdotimpactさんの試行にフィットする話はシューティングゲームの「処理落ち」を利用してプレイヤーの技術向上を錯覚させるような部分の技術とかかな、とちょっと思った。
たとえば、「退場させられたゲーム」さんのところの『怒首領蜂』評
怒首領蜂では、通常のシューティングを遙かに凌ぐ量の弾が画面上を覆い尽くす。しかしこの弾はスピードが非常に遅く、これも計算か弾がダンゴ状に重なり合うこともあまりなく、実際避けるのはさほど困難ではない。プレイヤはこの弾幕を避けることに恍惚を覚える。
ここで言われているように、処理落ちによる錯覚によって『怒首領蜂』ゲームの中の時間のリアリティが、モニターの外側でゲームに接するプレイヤーの意識を逆転して支配し始めている。これはたとえば、あからさまに『マトリックス』ばりのスローモードを実現してみせた『ビューティフルジョー』すらこの境地には追いついていなくって*4、処理落ちがあったのかなかったのか、その明確な境界線の不在こそがかえって「現実の時間 > ゲームの時間」ではなく、「ゲームの時間 > 現実の時間」みたいな逆転を演出するのに一役買ってるよね、っていう。*5
だいたい、こんな感じで。
*1:ってか、このブログのタイトルはそもそも「メモと寸評」なんだった。忘れておりました。
*2:「人型ロボットが常に人間にあこがれる」などという発想は、それってあまりに素朴な人間中心主義じゃない?というような意味で。
*3:http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050412#p1 でも書いたように、「アクション」とかそういったジャンル分類の名前がゲーム誌レベルで急速に普及しはじめる1983年以前のもの。
*4:「ゲームの中の時間のリアリティが、モニターの外側でゲームに接するプレイヤーの意識を逆転して支配し始める」という観点から言えば、ということです。
*5:『ビューティフルジョー』の場合、<通常速度>と<スロー速度>の間に明確な境界線が存在するというだけでなく、両者の切り替えはプレイヤーによって操作可能なものとして成立している。それゆえに、ゲームの中の時間に対する支配はどこまでいってもほとんど絶対的と言っていいぐらいににプレイヤーの側の意思に委ねられている。そのような「明確な境界」と「操作可能性」との間で、時間はコスティキャン的の言葉でいえば「資源」として常に意識されてゆくことになる。そのような「資源」としての時間ではないような「時間」を成立させている、という点でいえば『ICO』とかなんかもこの話の行き着く先として面白いかも。
2005年07月04日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■リアル・タイム・マシーン
id:dotimpactさん、こと 田中孝太郎さんによる [リアル・タイム・マシーン]展が、今日から!(9日の土曜日まで)
- 詳細: http://realtimemachine.dotimpac.to/
- 場所:(Yahoo地図)(画廊地図)
■「リアルタイム」とはコンピュータが生み出した言葉と言っていいでしょう。すべてがあるがままの現実世界と私たちとの間にコンピュータが介在するとき、そこでなにかが起きるタイミングが「リアル」であるかが問われはじめます。コンピュータとネットワークに日常的に触れることになった私たちは、この「リアルタイム」の感覚に、すでに現実以上のリアリティを感じているのではないでしょうか。現実にはモニターが画面を描き換える1/60秒の瞬間には光は5000kmしか進めず、コンピュータの処理速度やネットワークの速度がどれだけ上がったとしてもそこには必ず遅延が存在します。しかし、すでに「リアルタイム」の世界に生きている私たちにとって、その「現実」の遅延は、むしろ現実感を後退させるものになるでしょう。まるで、ふいに時間を飛び越えてしまったかのような。
■「リアル・タイム・マシーン」展では、操作が遅延するコンピュータゲームを実際にプレイし、「遅れた現実」を体験できる作品を展示します。すでに「リアルタイム」の感覚に慣れている私たちにとって、そこには想像以上に違和感があるはずで、その違和感によって私たち現実感の輪郭をたしかめることができるかもしれません。
平日の7時までに表参道にはせ参じることの可能そうなゲームばっかりやってる首都圏の愚民のみなさんは、会社帰りや学校帰りに見物しにいきましょう。
2004年08月15日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ 「my picture」と名づけられたファイル達。
p2pのファイル交換ソフトを用いて、「my picture」と名づけられたファイルをあさっているヴォーゲルさんという人がいるんだそうな↓
http://www.10eastern.com/foundphotos.html
これがまた、大変に面白い。ヴォーゲルさんいわく「誰か知らない人が共有している写真は,想像力を広げる。意図的でなく共有されたものは,もっと面白い」
2004年06月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『WinningPost5』がやたらダサいのはなんでよ。
競馬ゲームでは、ゲームをするのと同時並行で勉強したり、本を読んだりできるということを、『ダービースタリオン』をやってみて強く思い知ったので、『WinningPost5』(2002,コーエー,PS2)を980円で購入。*1
『ダービースタリオン』と比べればいろいろなことができるし、やっていてつまらなくはないのだが、何よりも閉口してしまったのが、美術スタッフのクオリティの異常なほどの低さである。ゲームをはじめて何よりもはじめに、「ダッサ~…」と呟いてしまった。
もっとも「レースシーンの映像を3Dでリアルにする」という部分だけは努力が払われているが、それ以外のインターフェイスまわりや、フォント選択、2Dの人物グラフィックスの水準がとても一流のゲームブランドが発売している名前の知れたゲームの水準とは思えない。(予算も開発期間も人材も足りていないようなタイプのクソゲーの水準と言ってよい)
たとえば、何の意味もないところで色々な種類のフォントを使ってみて、無駄に見にくくしていたり、リアル系グラフィックを使ってもドッターのレベルが低いために、処理がひどく汚くみえてしまったり、といった部分が至るところにある。
コーエーの他の作品は、確かに『NeoAtlas』や『エアーマネジメント』をやったときも、決してまともな水準の美術スタッフがいるとは思えなかったが、本作は特にひどい。美術・デザイン関連の素養が限りなくゼロに近い素人のおっさんが、とりあえず時間だけはかけて作り上げたといった風情を漂わせている。
しかし、おそらくこのゲームを主にプレイする層*2にとっては、このダサさは大して問題にならないということなのだろうか?そして、当然、コーエーとしても、それを見越してこの水準でかまわない、ということなのだろうか?
例えば、『Kanon』『Air』のようなギャルゲーの場合は、絵がヘタレであっても、あれはあれでああいう絵が喜ばれる世界があるのだろうけれども、本作の場合は、このセンスが喜ばれる層がいる、というイメージすらわかない。少なくともコーエーの美術スタッフの軽視っぷりには私はついていけない。
2004年05月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2004年02月26日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■銀行のロゴがかっこよくてシビれたよ。
これはゲームは関係ないけど、ニュージランドの大手銀行のロゴがやたらとかっこよくて、街を歩くたびに見とれてました。
2003年09月08日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■はてなのデザイン。
はてなのデザインをいじってみたのだけれども、これが意外と大変。
なぜかというと、スタイルシートがいじれる部分といじれない部分とで、二重に存在していたり、フッターとヘッター以外のHtmlはいじれなかったりするため、他人の書いたソースのある部分について改変できないことを前提で書いていかなければいけない。
おかげで、わざわざソースのスタイルシートの記述を否定するための記述などを書かなければいけないので、スタイルシートが長くなるわなるわ。
一応忘れないようにメモっておく
- 混乱しがちなスタイルシートのクラス指定
- div class="day" は、下の三つを含めた一日の記事・コメントの全体。
- div class="body" は「一日」のすべての記事部分(コメント以外)。
- div class="section" は「一記事」ごとの全体。
- div class="comment" は一日のコメント部分の全体
- h1 → 一番上に自動で付くタイトル表示(日記全体の見出し)
- h2 → 一日の見出し(class="day"の直後にくる)
- h3 → 一記事の見出し(class="section"の直後にくる)
- div class="sideber" → フッターの途中に記述されている。ここにかこまれた部分がサイドバーになる。(スタイルシートで位置が絶対指定されている)
- div class="main" → ヘッターの最後からフッターの途中まで続くサイドバーには属さないメイン部分。
- 推奨される更新手順
- ブラウザの「ソースの表示」等から<link rel="stylesheet" href="http://・・・/???.css" type="text/css"> の中にあるいじれない部分のスタイルシートを参考として保存しておく。(注:EUCコード)
- 同様に、ソースの表示でhtmlも参考として保存しておく。(注:EUCコード。また、何も書いてない日記だと何がどうなってるのかがわからないので無意味。)
- で、それから記述を開始する。
- 細かい技
- Pによる改行の間が開きすぎて嫌な場合:Pのtop,bottomのmargin,paddingを小さめに設定する
- 自動でついてくるh1のタイトルが嫌:h1関連の色を背景色と一緒にしてしまう。
- はてなキーワード辞書のリンク時の下線:aのunderline属性ではなくて、border-bottomで指定されてるので、そちらをいじってやる。
2003年09月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2003年05月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■村上隆“芸術道場”
http://www.kaikaikiki.co.jp/dojo/index01.html
毎回ことなったお題で、一般から論文公募。村上隆、竹熊健太郎、椹木野衣などが審査員を務め、段位認定。この回のお題は「ゲームと芸術」ということで。これから読みます。そして、できればコメントつけます。
しかし講評の笠原恵美子さんの歯に衣着せぬ――そしてまた、極めて真摯な物言いは、ちょっとすごいですな。ファンになりました。
2003年04月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■パナウェーブ研究所、じゃなくてクリスト&ジャンヌ=クロード
白装束の集団(パナウェーブ研究所http://www.panawave.gr.jp/)が、そこらじゅうのものに白の布をはりめぐらせているのを見ると、多くの人が思い出しただろうが、やっぱりクリスト&ジャンヌ=クロードの「作品」を思い出してしまう。以下、パナウェーブ研究所の話とはまったく関係ない。
クリスト&ジャンヌ=クロードのドイツの旧帝国議会議事堂をまるごと梱包するというプロジェクト《梱包されたライヒスターク、ベルリン、1971-95》WRAPPED REICHSTAG,BERLIN,1971-95の公式記録映画『議事堂を梱包する』という映画を前にみたけれど、あれは24年がかりのプロジェクトで、当初はドイツの政治家に反対されたりして何度も却下されたりしていたが、頑張って政治家連中に働きかけ、ドイツ国会を動かし、なんとかして国会で可決されるまでもっていくという、おそろしい情熱と粘りをもって行われたプロジェクトの記録だった。だいたいプロジェクトの総費用10億円という巨額の資金が、スポンサーも助成金もなくすべてクリスト個人の努力によって資金調達がなされている、というのも驚く。
クリストのこのプロジェクトは傍からすれば、その気力は一体どこから湧いてくるのか、という不思議さに満ち溢れているけれども、特に奇妙に聞こえたのは、記録映画の中で「芸術の自由」という言葉が声高に叫ばれていることだった。
彼らは、あくまでドイツ国会の承認を得ることにこだわって、きちんと現代社会の中で許容される手続きに沿って活動をしているわけだし、金も人手もとんでもなくきちんとした量を集めてやっていて、そこで成立している「自由」というのは全然ストレートな意味においてではない。そこで言われている「自由」は時代的・地理的な特殊性と結びついた意味での「自由」である。だから悪いとかいいとかという話ではないが、どうしてここで「自由」などという言葉が叫ばれなければならないのだろうか、というのがとても不思議な気がした。そのような言葉でなくても、いくらでも言うことはあるだろうに。
――強引にパナウェーブ研究所の話とからめると、パナウェーブ研究所の作り出した白い空間は、クリストのそれとは違って、カップメンやらなんやらのゴミが山積しているのがとても印象的だった。
あれを宗教芸術と呼んでしまっていいかどうかは微妙だが、宗教芸術とかの世界っていうのは、その内部で生きる人々の生活と直接にかかわりながら微妙にダサく――というか生活臭を漂わせながら存在するもんなんだなあ、と。
2003年04月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■椹木野衣『増補シミュレーショニズム』
半分読了。っていうか、現代美術用語があまりワカランので激しく飛ばし読み。 面白いっちゃ面白いのだけど、ストレートに説得されるとかという意味での面白さというよりも、この本自体を「資料」として読むのが面白い、という感じだなあ。 ボードリヤールの話がこういう風に、再構成されたりもするんだなあ、と。ボードリヤールの応用例の一つとして面白い。
あと、思ったことの半分はここの書評とかと近い。 心を鷲掴みにするような表現に満ち溢れてるけど、議論粗いよな、とか。単なる歴史の読み替えにすぎねぇんじゃねえの?とか。
でも、まあ、これ読んで、もうちょっと美術史とか、芸術論とかに足を踏み込んでみようかな、と思いました。というか、今までが知らなさすぎなので。