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2006年12月21日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『智場 108号』ゲーム特集発刊
広報です。
自分の職場で発行している機関紙でゲーム特集を編みました。
90ページにわたって、セカンドライフ、仮想世界、仮想経済、モバイルゲーム、ゲーム学の動向などを取り扱い、遠藤さんをはじめ、H-Yamaguchi.netの山口先生や、PICSY blogの鈴木さん、リヴァイアさんの川端さん、IGDAの新さんなど、ほか多くのキーマンといえる方々に話をしていただいています。2006年末現在の、ゲームにまつわる新しい動向をかなり幅広く紹介した冊子になったのではないかと思っております。
未入手の方はぜひどうぞ。
GLOCOM機関誌『智場』108号「特集:ゲームデヴォリューション」発刊
機関誌『智場』108号が発刊となりました。 今号はゲームについて特集しました。年末のクリスマス商戦に向けてソニーのプレイステーション3と任天堂のWiiが相次いで発売され、マスコミ報道もスポットCMもいわゆる「ゲーム機戦争」一色で埋め尽くされている感があります。 GLOCOMでは早くから、ゲームが社会や経済において果たす役割、また、ゲーム上の仮想社会・仮想経済と現実との融合現象などについて注目し、本年4月から「コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会(RGN)」を開催するなど、日本におけるゲーム研究を先導してきました。そこに集った先鋭的な論客たちの視点からは、「ソニーvs任天堂vsマイクロソフトの『一人勝ち』を目指す最終戦争」というメディアが喧伝する集権的な動きとはまったく違ったものが見えてきます。 このようなゲーム世界の最新動向を一言で言い表すため、デヴォリューション(Devolution 分権・分化)という言葉を使ってみました。政治やWebなど他の世界でも繰り返されてきた集権と分権との相克について、様々な角度から迫っています。 ご高覧いただければ幸いです。
※智場は http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/ からご注文いただけます。
また、一部の掲載記事も一部ウェブ上からごらんいただけます。
- [ 目次 ]-----------------------
【特集】 ゲーム・デヴォリューション
■ゲーム・デヴォリューション 井上明人
■メーカー・インタビュー
(プレイステーション3 (株)ソニー・コンピュータエンタテインメント
Xbox 360 マイクロソフト(株))
■拡がるゲーム世界
1[歴史]──黎明期からモバイルまで──
遠藤雅伸 聞き手:井上明人,森田沙保里
2[産業]──市場と開発体制──
新 清士 聞き手:井上明人
3 -Ⅰ[仮想世界]──『セカンドライフ』とは何か──
土居 純 聞き手:庄司昌彦,鈴木健,田熊啓
3 -Ⅱ[仮想世界]──ユーザーが創る世界──
三淵啓自 聞き手:庄司昌彦
4[コンテンツ]──ゲーム発キャラクタービジネス──
久保雅一 聞き手:森田沙保里,井上明人
5[仮想経済]──ゲーム内市場の現実化──
山口 浩+鈴木 健 報告:牛島正道,鈴木 健
6[シリアスゲーム]──手段としてのゲーム──
井上明人 報告:七邊信重
7[研究動向]──発展するゲーム学──(対談)
伊藤憲二+井上明人
特別鼎談ゲーム,ハッカー,インターネット
川端裕人┼山根信二┼井上明人
【IECPレポート】
■通識と智本 講演:公文俊平 報告:石橋啓一郎
■昨今の買収防衛事例に見る戦略的企業訴訟のあり方 講演:松山 遙 報告:栗澤哲夫
■企業経営に与える日本版SOX法のインパクト 講演:中島 洋 報告:濱田美智子
■日本型企業統治に適した内部統制を考える 講演:前川 徹 報告:濱田美智子
■着うたフル,iPod(iTunes Music Store)利用者動向について 講演:岸原孝昌 報告:石橋啓一郎
■日本のコンテンツパワー,新たなビジネスモデルの構築に向けて 講演:福冨忠和 報告:鈴木謙介
【ベストネットワーク研究会レポート】
■次世代ユニバーサル・アクセスの実現に向けて───「コミュニティ・レベルでの団体割引料金体系」の可能性
講演:友知政樹 報告:森田沙保里
2006年11月26日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■RGN#04
正式版広報ではないですが、とりいそぎ
12月10日RGN#4「ゲームシナリオライターの眼(仮)」川邊一外氏・前田圭士氏・佐々木智広氏
東京六本木の国際大学GLOCOMを会場に開いているシンポジウム形式の研究会「RGN : コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会」ですが、次回12月10日(日)の開催が決定しました。
今回は茂内さんモデレートです。
2006年07月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■RGN#03
広報ダシマシター!
http://www.glocom.jp/event/modules/eguide/event.php?eid=1
2006-07-29
「プレイヤーという存在」― プレイヤキャラクター / プレイヤー圏 / ゲームからの逸脱 ―
◆第三回になる、RGN(コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会)では、コンピュータ・ゲームを行為する「プレイヤー」という存在に焦点を宛て、茂内克彦氏と、増田泰子氏の二名が発表を行う。
増田氏の発表は、前回の田中(hally)氏の発表において論じられた「動的にゲーム経験が変更される」という問題意識をひきつぐ。プレイヤーがゲームのルールに従属したり、あるいはルールを裏切っていくありさまを、サレン&ジマーマンの「Rules of Play」の理論を参照しつつ提示した上で、そういった行為が「プレイヤー圏」(安川一)に展開する過程を議論する。「プレイヤー圏」という概念によってプレイヤーが捉えられるとき、プレイヤーの行為は独立した存在としてではなく、他の多くのプレイヤーたちとのゆるやかな情報の共有を通してゲームをプレイしている。ゲームをプレイすることを、こうした社会的行為として捉えたとき、プレイヤーがゲームとどのように対峙するのか。そしてゲームという経験がどのようにダイナミックなものとして捉えられるのか。
一方、茂内氏の発表では、増田氏が「プレイヤーとプレイヤー圏」というマクロな関係性からのアプローチを行うのに対し、「プレイヤーとプレイヤーキャラクター」の関係性というミクロで基本的な単位に焦点をあてる。茂内氏によれば、プレイヤーキャラクターとは、プレイヤーがコンピュータ・ゲームをプレイするための重要なインタフェースとして用意されたものである。プレイヤーキャラクター(あるいはそれに類するもの)を抜きにして、コンピュータ・ゲームをプレイすることは不可能である。そして、そのような不可欠の装置であるからこそ、プレイヤーキャラクターとプレイヤーの関係性を論じることが、コンピュータ・ゲームを論じるうえで中心的な意味を持ってくるのだ、という。茂内氏は、『エースコンバット04』などの具体的なゲームを題材として取り上げつつ、現在にいたるまでのコンピュータ・ゲームがプレイヤーとプレイヤキャラクターの関係性を巧妙につくりあげることにいかに腐心してきたか、を議論する。
◆開催概要
7月29日(土) 於 国際大学GLOCOM
13:00~17:00
【場所】
http://www.glocom.ac.jp/j/access/
1.営団地下鉄 日比谷線「六本木」駅 下車 出口1cから徒歩7分
2.都営地下鉄 大江戸線「六本木」駅 下車 出口3から徒歩10分
3.都バス・都01あるいは渋88「六本木6丁目」 下車し テレビ朝日通沿いに徒歩5分
2006年05月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■6月3日 RGN : コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会#02 予約開始
バタバタしててすみません
>みなさま
次回RGNどうにか予約開始しました...
http://www.glocom.jp/event/modules/eguide/event.php?eid=3
田中治久=hallyさんです。
コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会:
RGN (Research on Game design and Narrative)
第2回「ゲームを再定義する~手続きとしてのゲーム~(仮)」6/3(土)
■発表者
田中治久(D4 Enterprise,id:hally) + 牛島正道(東京大学大学院 情報学環)
■発表予定内容の紹介
1.問題意識
2.ゲーム定義のこれまで
3.ジュールの批判的検討
4.提案:手続きとしてのゲーム
「ノミック」というゲームをご存じだろうか。ゲームルールにしたがってゲームルールを書き換えていくという、一風変わったテーブルゲームである。これはアメリカの哲学博士で弁護士でもあるPeter Suberが1982年に考案したもので、最初は29項目のプレイルールから始まり、プレイヤは投票によって新しいルールを加えたり、また既存のルールを変化させたりすることができる。規則に従わなければならないという規則をも、である。
「ノミック」のオリジナルバージョンでは、ゲームの勝利条件が設定されている。提案したルールが可決されれば10点加算され、最初に100点を獲得したものが勝利者となる、というものである。これはもちろん後から書き換えられたり削除されたりするかもしれないのだが、ともかくもゲームとしての体裁を保っていることは疑いない。しかし2003年にHatakeyama Masaomiが考案した亜種「ミニマムノミック」には、それがない。ゲームの達成目標は、プレイの途上においてプレイヤによって生み出される。もしかしたら生み出されないかもしれない。ゲームとして成立するかどうかは、プレイしてみるまで分からないのだ。「ミニマムノミック」はゲームになったりならなかったりするという、奇妙なシステムなのである。このようなゲームが存在し、かつプレイしうるという事実は、ゲームがあらかじめ固定されたルールシステムではなく、人間の営為のなかで動的に形成されうるものであることを示しており、既存のゲーム定義論に一石を投じる。
■日程
6月3日(土)
14:00~ 開場
14:10~ 第二回開催のごあいさつ(井上明人)
14:15~ DiGRA Japanについて(DiGRA Japan 理事 伊藤憲二)
14:30~ ミニマムノミック
14:50~ メイン発表1(hally)
15:35~ 休憩
15:40~ サブ発表
16:20~ ディカッション
16:50~ 休憩
16:55~ ディスカッション&質疑応答
17:50~ 会食会
19:00~ 懇親会
■場所
国際大学GLOCOM
http://www.glocom.ac.jp/j/access/
■登壇者(現時点の予定)
田中治久 (D4Enterprise,hally) [発表者]
牛島正道(東京大学情報学環大学院) [共同発表者]
井上明人(国際大学GLOCOM研究員) [司会、コメント]
中嶋謙互(コミュニティーエンジン、Gumonji)
+現在調整中
2006年05月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ユリイカ:任天堂特集に寄稿しました。
今月発刊の
ユリイカ 詩と批評 特集=任天堂/Nintendo →link
のほうに僭越ながら寄稿させていただきました(実名で)。
タイトルは「宮本茂をめぐって―コンピュータ・ゲームにおける作者の成立―」
内容にふれすぎない程度に紹介すると、
- 1.宮本茂のゲームデザインに関する様々な発言(箱庭、ルールのわかりやすさetc...)を、「ゲームにおける作者の二重性」という観点から再整理した上で、
- 2.宮本茂の発言に一定の同質性を確認し、
- 3.その上で、伊藤ガビンの『ゼルダの伝説 時のオカリナ』への批判(http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/ito/990126/textonly.html)に対してどのように説明することが可能か、
といったかんじのことをかきました。
宮本茂信者のテラヤマアニさんも寄稿すると知って、微妙におびえつつ。
2006年05月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2006年05月17日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■RGN第二回日程
とりあえず、日程は、6月3日でほぼ決定しました!
決まるのが遅くてすみません、、、
発表者は予告どおりhallyさん+共同発表者として東大修士課程の牛島さんにやっていただきます。
あと、壇上に上がっていただくゲストとしてgumonjiの開発者である中嶋謙互さんをお迎えできる予定です。
詳細タイトル、アオリ文句等は今週中にはなんとか、、、
2006年04月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■RGN/死の表現関連 言及していただいたもの
9日は本当に多くのすばらしい方にお集まりいただきありがとうございましたー!
いやー、手伝っていただく方のツテも、各種広報もほとんど個人のお手製でやっていたので蓋を開けてみて超ビツクリした次第です。反省点も多くのこりましたが、精進していきたいと思いますので、今後もみなさまご来場いただければ幸いです。次回はゲーム論者の誰もがリスペクトするid:hally氏による発表を予定しております。詳細は決まりましたらまた広報ということで。
で、さて、
死の表現のエントリとあわせて、RGNに言及いただいたものをいくつかご紹介させていただきます。いい指摘たくさんもらったので、一つ一つにちゃんと応答しときたいんですがとりあえず、一ぺんにこれだけの量を処理する処理速度と時間がないので、まずは並べてご紹介まで。
http://gamestudy.org/eblog/
韓国の偉大なるゲーム評論家パク・サンウ氏による論文レビュー。日本語の論文を送らせていただいたら、がっちり読んでいただいて、しかもこんながっちりコメントまでもらえるとは…ありがたすぎて恐縮しまいます。。。
But this article leaves something to be desired. First of all, it doesn’t touch the most important games, which deal the death in the revolutionized way. For example, it can be took [Planescape Torment], [Baroque] and [Go beyond my body!].
Also it doesn’t touch the death in MMORPG. In Korean MMORPG scene, the suicide of ‘Drakedog’ becomes the most famous episode. (You can see this episode in this site.) How can we explain the phenomena like this? And is there different between death in single game and death in MMORPG? Maybe these problems can be solved through the co-work of Korean researchers about MMORPG and Japan researchers about single game.
まさか、韓国の方から『バロック』をやっとけ!と薦められるとは思ってなかったです。前に一度やったことがあったのですが、改めてプレイしておきます。あと、他の事例についてもちょっとすぐにどれのことを指しているのかわからない事例もあるのですが、とりあえず入手するところからはじめます!
あと、MMORPGの死について考慮されていないという話は、RNGの当日もhallyさんからミス・ノルウェイの事例として提示されましたが、ここらへんの話もぼくの弱いところで面白そうな部分ですねー。
あと、MMOにおける死の話として単にインターネットの話としてではなく、ゲームにおける死としての特性を端的に語っている名文だと思えるものが、篠房六郎『ナツノクモ』(P23-P24)にあって、引用すると、
- ところで君はどう思う?特定のプレイヤーを殺したり、消滅させることについてだ。
- そんな事を、どうして?
- 何、心理的にどのくらいの影響があるかと思ってね。
- ―――そうですね。結論から先に言えば、前者はゲームで、後者は只の作業です。外装が生きている状態でPCが接続を切った場合、外装は接続していたボードからただログアウトするだけです。体力が0になった場合、外装は死亡状態になりますが、PCはステータスの低下と引き替えにいつでも復旧することが出来ます。問題は死亡状態でPCが接続を切った場合です。その場合、外装は2分間でそのデータを全てを失い消失します。PCは殺されたところでたいした事はないのですが、消滅させられれば取り返しがつきません。殺すか殺されるかは純粋にゲームの腕の競い合いですが、「仕事」ではあくまで標的のPCの消滅を狙う以上、その後の作業もまた必要になる訳です。
- ―――作業?
- ゲーマーの間では、拷問と呼ばれています。そういうのにはあまりお詳しくないようですね。
- ―――ああ、それで。
- つまりは、殺されたPCも消滅するのは嫌ですからその場で復活し続ける。消滅させたいほうは相手が諦めて接続を切るまでずっと殺し続けるって状況が出来る訳です。その殺し続けることを称して拷問と言うんですよ。どのくらい忍耐力があるかっていうだけん、只のつまらない単純作業に過ぎないという訳です。
http://hpcgi1.nifty.com/sawaduki/nicky/nicky.cgi?DT=20060409A#20060409A
当日、せっかく壇上にあがっていただいたにも関わらず、ぼくの圧倒的な不手際によって、本来コメントしていただくはずであったはずの内容をこちらでコメントしていただいてしまった、沢月さん。。。
今回は、せっかくお呼び立てしたのに、最後にきちんとしゃべるディスカッションの時間がさっぱり足らず本当に申し訳ありませんでした。。。
要するに、ゲームで作家性を論じるには限界がある。それがゲームを論じる難しさの一つなのだろう。
だれかが死ぬ場面を描かなければ「死の物語を経験させる」ことができないとは限らない。死ぬ場面の描写がなくても「死の物語を経験する」ことはできるだろうし、それがゲーム固有の表現として立ち表れることは十分に可能だと思う。
たとえばアトラスのRPG「 BUSIN」(PS2)。主人公は仲間と協力し、人助けをしつつ事件を解決していくかに見える。だが実際に主人公がやっていたのは、とうに死んでしまった街で、死による終わりを迎えられなかった人々を正しい神のもとに導くことだったということが、終盤に明らかになる。主人公があがくのは生きようとしてではなく、仲間を助けようとしてでもなく(なぜなら、仲間は既に死者だから)、仲間や人々のライフストーリーを終わらせるためだった。直接死ぬ描写がなくても、進むほどに重苦しくのしかかってくる死の重みを感じるゲームだったと思う。
http://realtimemachine.sakura.ne.jp/collisions/event/RGN01.html
dotimpactさんレビュー。
感想への応答は個人的にメールしましたが、ほとんんど言い訳がましいものになってしまったので。。。もっと、きっちりとしたコメントをあらためてさせていただきたいところです。
ゲームにおける死はその複数性(ルール)や固有性(物語)そのものではなく、その二つのレベルの(ゲーム作者による)操作と対比において、そのリアリティ(あるいはそこにある限界)が浮かび上がるものである、という主張は十分可能だろうとも思えました。ゲームはプレイヤーに、ある立場を与え実際に手を下させることができ、そのプレイヤー自身の体験は覆せないとすれば、ルールや物語のレベルでは隠蔽されてしまう、たとえば「死」を、プレイヤー自身の体験によって担保する形式というのはゲームにはありえるのではないでしょうか。井上さんが発表で例示された(詳細は伏せる)「いままでプレイヤーが『倒した(殺した)』と考えていたものにある時点でプレイヤー自身がなり代わり、まったく同じルールで倒されて(死んで)しまう」というような表現は、ゲームが原理上死を記号的に扱わざるを得ないという限界に拮抗するものになりえるはずだと僕は考えます。
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060407
http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20060408/ (id:tdaidoujiさんへのコメント)
こちらも全体的にいい指摘。さまざまなコンテクストを参照しながら話がすすむので、いろいろなコンテクストも同時にわかって、おもろい。
それと、dotimpactさんのコメントにもありましたが、プレイヤー/プレイヤーキャラクターといった 要素に着目しつつ期待の裏切りなどの問題について言及していく方向性を示唆していただいくことが多いのですが、これってやっぱり『ポートピア殺人事件』あたりのころからずーっとある話なので「裏切り」だけで話を整理してみるというのも面白いのかもなー、と最近思ったり。
あと、コメンテーターのハマノくんからコメントあったとおり、物語/文学の区分についての議論の混同みたいな部分も多くの方にツッコんでもらいました。いや、まーこれは本当にそのとおりだと思うので、どうにかしたいですねー。
あと、
tdaidoujiさんのコメントではゲームバランスの話を「フェア/アンフェア」という区分けによって語っているのもいい議論のたてかたですね。
ゲームにおけるフェア、アンフェア、すなわちゲームバランスという話になる。ゲームとしてフェアであることを尊重するほど記号性は高まり「死」は遠ざかる。「強いリアリティを持った死の表現」を求めるてのは、制度を、システムを、ゲームであることを破壊することに他ならないわけで。
http://gmk.9bit.org/note/20060409-immortal.htm
ゲーモクさんからは、コメンテーターのid:AYSさんからの発表にもあった、『アウターワールド』の事例よりもさらに、キターーー!雰囲気のする『ウイザード・オブ・イモータル』についてご紹介。
死んで死んで死にまくらなきゃ乗り越えられないのに、セーブはフロアごとでしかもパスワード制、コンティニューは回数制限ありという厳しいゲーム内容を目の当たりにすれば、今を精一杯生きることの大切さを嫌でも考えさせられるだろう。トラップだらけでクリアもままならぬダンジョンはままならぬ我が人生と重なり、ことあるごとに無惨な死に様をさらす主人公は明日の我が身としか思えない。ゲームの死はリセットできる言うけれど、じゃあリセットを繰り返せばクリアできるとでも言うのかよ馬鹿野郎。
http://d.hatena.ne.jp/SiFi-TZK/20060409
終わった後に気づいたという、id:SiFi-TZKさん。よろしければ次回はどうぞ。
FFの野島氏と植松氏が「人の死を扱いたい」「人の死なないゲームがいい」という正反対な発言をしていた対談が思い出される
おおー、これはすばらしい。ネタ元どこだったか探しときたいですね。
http://d.hatena.ne.jp/Dryad/20060409
実は会ってみたら、前から顔を知っている人だったということが判明したid:Dryadさん。
今回のぼくの枠組みを、リネージュ2の事例に適用して論じることを試みていただいております。
- ゲームの世界観を元に、「死の固有性」を中心としたシリアスな物語として再編する。
- 上記の公式ストーリーなど。戦闘シーンは、必ずしもゲームの仕様に忠実ではない。
- 「死」は登場人物の持つ背景ストーリーの中でのみ語られ、戦闘の結果として死人が出ることが徹底的に回避される。
- 「お約束」に沿った、ゲーム的な戦闘シーンの描写。
- ゲーム世界においては「死の複数性」を前提としつつも、「ゲーム内のキャラクターを操作する現実のプレイヤー」を物語世界の範疇として取り込むことにより、ゲーム世界における「死の固有性」を担保する。
- プレイヤーがゲームを継続する意欲を失ったり「現実に死亡」することにより、ゲーム世界におけるキャラクターは「真の死」を迎える。
http://d.hatena.ne.jp/work_memo/20060410
急用でこられなくなったid:work_memoさん。アルフレッド・シュッツ「多元的現実論」から、UOやPSOの事例にまで言及しつついろいろな話を列挙していだだきましたー。言及のあったもので未読のものはなるべく読んでおきまする。
シュッツというのはそーいう社会学者がおりまして、「多元的現実論」ちゅーことを言ってたりするのです。第二次世界大戦後くらいだったか。んでどーいう話かっつーと、もともとシュッツの問題関心としては科学論なんですが、日常ぽけらーと生きている自分を振り返ってみると、現実構成の様式が変容してる時、リアリティがちょいズレてる時がある。代表例として挙げているのが「夢」とか「科学的思索」とか挙げてまして、シュッツは挙げてませんがコンピュータ・ゲームとか本読むとかメディア経験なんかも大多数ソレにあてはまると思うんですけど、とりあえずべたーっと同じ「日常」が続いているんじゃなくて、それぞれ自律したルールを持つ現実ちゅうのがちょこまかとあって、んでその中に他者と出会い相互行為をしていく「至高の現実paramount reality」ちゅーのがあり、その場その場で主体が現実として生きているという意味では各「多元的現実」は対等なんだけれど、至高の現実はそれらに卓越してるんだみたいなことを言っていたような前世紀のうろ覚えな記憶なのです。
じゃあなんで至高の現実は至高なのかっつーたら、シュッツは明示してはいないのでよくわからんのですが、一つはそこで死ねるから。『アヴァロン』は、セピアソフトフォーカス気味の「ゲーム外の現実」と、やっぱりセピアの「ゲーム内の現実」が交互に描かれていくんですが、「ゲーム内の現実」からさらにもう一段入った「裏モード」に突入すると、それはフィルターをまったく通さない、現実のポーランドの都市の描写になってるわけです。おそらく、主人公のアッシュより観客の方が軽くぶたまげるのですが、そこで結局アッシュがなにさせられるかというと、字義通りのネトゲ廃人としてリアルでは病院で介護されている昔の知り合いと「なにがリアルなのか」をめぐっての対話と殺し愛。「ゲーム内現実」ではCMとかで流れていたように、3Dで逃げまどっていた人々(基本的には実写をコンピュータ処理してると思うですが)が、一瞬静止して、2Dの薄い板に描かれたような絵にそのまま変化し、ついでそれが飛散するという描写がされているのですが、「裏モード」で殺された死体はどーなんのか。それが「このモードがリアルなのか非-リアルなのか」の最終的な試金石となるわけですみたいな。
死んで肉体が腐っていくのはリアルのみ。死して屍拾う者なし。
また、こんどお会いできる日を楽しみにしております。
http://d.hatena.ne.jp/shiroham/20060409#p2
歴史的に遡ると「ゲームにおける死」なんてのは「試合における負け」とか「鬼ごっこにおいてタッチされた」くらいの意味しかそもそもはなかったわけで,そんなところに過剰に思い入れるのはそもそもナンセンスじゃねーかなーと思ってしまうのですよ.
こちらはRGN当日のツッコミだと、hallyさんの前半部のつっこみに近いですかね。ナンセンスじゃん!と思ってしまう感覚が成立するというはまったくそのとおり。ぼくの立場は、その感覚がごくふつうなものであることを前提としつつも話をするみたいな感じでしょうか。
http://poem.6666.to/angelus-novus/note.html
あとこちらからも大変いい指摘が。
しかし、それなのになぜかわれわれはゲームから倫理的なものを受け取りうる。しかもそれは普通考えられているようにストーリーを通じてだけでなく、ゲーム性によって表現される次元においても、われわれは倫理的なものを受け取りうるのだ
まったくその通りですね。完全同意。
http://d.hatena.ne.jp/kenjiito/20060410
で、最後に。こちらは全然別の視点ですが、いろいろと当日中すばらしいコメントをいただいた伊藤憲二さんから。ゲームを「研究」と言う視点から語ることについてのこれまたすばらしいエントリ。泣ける!っていうか泣いた!
そもそもゲーム研究者がゲームについて独占的に語る権威を持つということ自体が幻想なのである。ゲームについて語る権利は誰にもであるべきだ。ただ、そのなかに色々な種類のものがあるに過ぎない。ゲーム研究者のゲームについての分析が、一プレイヤーのゲームについての洞察より優れていると考える理由はないし、さらに言えば優れている必要すら必ずしもない。アカデミズムのなかでなされた分析は他の場所(たとえば2ch)でなされた分析とは別の機能を果たすというだけのことである。
とりあえず、研究会おわって体がヒーヒーいってるので、FF12をクリアーまでプレイすることを当面の目標にして生きていきたいと思います。
2006年04月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「死の表現」をめぐって#02
1.『人間ども集まれ!』
テンパりつつも逃避する井上です。
9日の研究会関連の話題で。死の表現に関するネタとして人とだべっていて、「手塚は死のリアリズムにむきあっていた、とかって話があるけど、手塚にとっての<死の表象>つっても実は手塚ってダークな死の欲望というか、なんか、人間狩りとかそういう死の話を書くのが大好きな人でもあるよね」とかそういう話を今日の晩飯くいながらしてました。
そんなわけで以下、晩飯での話+ちょっと発展版。
手塚の死の表現に関して話すとそれこそ、死ぬほどネタがあると思うんですが、話していた人は順当に『ブラック・ジャック』とかがいいよねと。ぼくが特に思い出したのは、手塚中期の傑作『人間ども集まれ!』。
なぜに『人間ども集まれ!』がいいのかというと、あれって性の話でもあると同時に、死の話でもあって、大量にひとが死んだりするのをガンガン描く話なんですよね。手塚にとって、差別と人間狩りみたいな話を書いた比較的初期の傑作と言う点では『ロック冒険記』とかもすばらしいといえばすばらしくって、『ロック冒険記』は、「鳥人間」という亜人種の宇宙人をガンガン殺して奴隷化して狩っていく話なんですよ。だけれどもあそこで描かれる人間狩りの問題というは、どちらかといえばアウシュビッツ的な記憶の再生産に近い。差別という問題の枠組みの中で描かれる悲劇の問題だと思うわけです。だけれども、『人間ども集まれ!』における「人間狩り」の問題が決定的に新しいと思えるのは、そこで「戦争ゲーム」というものをイベントとして興行してしまおうという話が盛り込まれていることなんですね。
この作品中で語られる「戦争ゲーム」というのはネタとしては本当にいまでも斬新だと思うのですが、たしかにそもそもは、亜人種に対する差別問題と言うのを発端にはしています。だけれども、ここでは「人間狩り」の問題が単に差別の問題じゃなくて、快楽の問題として提示もされるわけです。それは、「戦争ゲーム」イベントの興行屋の書いていたパンフレットか何かにでてくるんですけれども、「戦争こそが最大の娯楽なんだ」というようなことをものすごく自覚的に言って見せる。悪魔のような所業をなす興行屋がそういうことを言うわけです。そこでは、それこそ「リアルな死」があり、同時に「数字的にカウントされていく死」もあり、「快楽としての殺人」も全部一挙に混在しているんだ、と。
で、そうした、「死」のありようを「娯楽」として眼差す視線が世界には強力に成立しうるんだ、ということを手塚は示すわけです。リアルな戦争のゲームを、「イベント」として開催されうるのではないかという想像力を提示して見せることで、単に死がリアルであるとか、リアルでないとかゲーム的である云々という批判とはまったく別の水準において、われわれは人の「死」をめぐる事態を娯楽として楽しんでしまうのだという、死と快楽の問題をものすごく明瞭に提示してみせる。
それはもちろん単純には肯定できるようなものではないけれども、逃れられないものである、として提示してみせる。
そんなわけで手塚の「死」をめぐる表象はブラックジャック的に、(こんなことを言ったら叱られるかもしれないけれど)、ある意味ベタに、死をめぐる倫理を扱うような方向性を描く。それと同時に、「死」をめぐる倫理が決定的に崩壊する世界も描く。手塚が「死のリアリズムを描いていた作家だ」という言うとき、それは手塚が、個人個人の換えがたい生命を丁寧に描く作家だという意味での「死のリアリズムを描く作家だ」というような議論は、非常に一面的なものでしかなくて、「個人の死のリアリティというものが失われるリアリティがありうる」ということを描くことについての情熱を持つ人だったという意味において、手塚の描く死のリアリズムとはリアルだったのだと思います。そして、それが十全によく描かれているのが『人間ども集まれ!』という作品だったのではなかろうか、と。
2.『City of God』
そういえば、これに似た話として、おととしから僕がものすごくプッシュしている『City of God』というリオデジャネイロのスラム街という社会を描く話があるんですが、同じくブラジルのスラム街的なものの延長にあるブラジルの刑務所を描いた『カランジル』という映画をみました。『カランジル』は一人一人の囚人の生き様を丁寧に描いて、それが大量虐殺されたという実話(?)を描く話でテーマ自体は大変に重い話だったのですが、『City of God』と比べると別にこれといって、「いい」思えなかったも同じ理由であるような気がします。
死の表象というのが、単に個々人の尊厳をリアルに描いたものであってもそれはものすごく不謹慎な言い方になるけれども、「ベタ」といえばベタで、実はそういう死はもう描かれすぎてきたといってもいい。『City of God』がすばらしさを僕は前に「『蠅の王』の実話版」という言葉でいっていたのですけれども、それは何かといえばまさに死の固有性のリアリティが崩れる世界を説得力をもって描いていたことです。
そこでは実は人種差別だとかそういうタイプのありがちな道具立てすらない。僕らは人種差別とか、そういうものはとりあえず捨て去った―――とか、そういうことになっているけれども、そういう典型的な種類の「人間」を「非人間」として扱う概念装置である「差別」とか「戦争」とかというものから逃げ去ったとしても、まだ。それでもまだ、固有の死のリアリティとかいう言葉で呼んでいるものが崩壊する瞬間を迎えてしまいうる世界がある。それは圧倒的な日常の中にある。
そういう形の恐怖を、まさに現在のブラジルのスラム街という場所から描きえていたという点において『City of God』は圧倒的に傑作だったと僕は思っているのだと思います。
3.ゲームにおける「人間」の「非人間」化装置の問題
で、これまで描いてきた話は人間であるはずのものが、非人間化されて死が快楽として機能してしまったりする瞬間があるよね、と。だいたいそんな話でした。*1
「人間が、非人間化される」という世界。
これはでも、一般的な小説とか映画の物語の世界だとこれを描くことが一つの重大なテーマになりえたりするわけですが、ゲームだとこの話は実は逆転してしまう。
なぜか。
理由は明確で、はじめからゲームにおいてはNPCとかモンスターというのは、ものすごく非人間的なものとして配置されているからですね。別にそれを殺すことにためらいを覚えるゲームプレイヤーはものすごく少ない。だけれども、だからこそ、逆説的にここで問題になるのはものすごくベタな固有の死を描くということになるのかもしれません。
つまり、小説や映画においては「人間の非人間化という恐怖」を、人間的なものが非人間的なものになってしまう瞬間を描くことで表現する。だけれども、ゲームにおいてはそもそも登場するキャラクターたちは、はじめからものすごく非人間的な存在として成立している。だからこそ、ここで必要とされるのは、はじめから非人間的なものを非人間的なものとして描いてもどうしようもないので、「非人間的なはずのものが人間的なものに思える瞬間」を描くことになってくるのかもしれないな、と。
たとえば、それは茂内さんじゃないけれど、やっぱり『ACE COMBAT04』のラストとかがものすごく秀逸で、あれはまさにそういうものなんですよね。それまでほぼ完全に非人間的なものであったはずの敵の戦闘機が、いきなり人間的なものとして現出してくる。
そこにおいてはじめてプレイヤーは自らが残虐な虐殺者であったことを認知しうる。自分のみつめる世界における人間と非人間的なものとの境界が極めてあやうげにうつろうものであることを自覚する可能性がそこで与えられる。
もちろん、こういうことを言うと暴論だという言う人がいるのかもしれない。
それはたとえば次のようなことだと思います。同じエースコンバットについて話せば、「『ACE COMBAT03』をみてくれ」と。「『ACE COMBAT03』は最初から複数の人間をちゃんと描いていって、それが死ぬ話じゃないか。」と。人間ははじめから非人間的ものとして登場するのじゃなくて、ちゃんと人間の面をしてるじゃないか、と。あるいは、エースコンバットじゃなくてもいい。最初から敵がきちんとした人間の顔をかぶっているものなら別になんだっていいと思います。
でもこういう反論は本当にそうなのだろうか、と。いうことも同時に思うわけです。
具体的に言うと、はじめから人間の顔をかぶっているゲームこそ、次第に相手が人間であるということに頓着しなくなってくるのではないか、と。ゲームの中の人間が何度でも生き返ることがわかってるし、相手が人間である、というのは<物語設定>上の問題であって、戦闘中に相手に一撃をくらわせたりすることはまったく問題ないんじゃないか、と。次第にそういう感覚が蔓延してきて<物語設定>の問題と、戦闘行為との問題の分離というのがただ単に横たわるだけになってしまう。*2
コンピュータ・ゲームというのはこうした形でものすごく人間を、非人間的な水準で扱いつつもそれを解離的にどうにかしてしまうような、きわめてややこしい装置になってます。僕が話したいことはこの解離的な状況というのがいいか/わるいかという問題ではなく、こういう先に挙げた『人間ども集まれ!』とか『City of God』のような意味での死の恐怖を書きうるならば、それはどのようなものなのだろうか、と。
そういう話なのかなー。と。これを書きつつ。
いま手元に用意してるのは、べつの話なんだけど…
4月9日の研究会はこんな感じの話になるかどうかわかりませんが、とりあえず、興味のあるかたは申し込みしてウェルカム。
*1:もう少し正確にいったら、ほんとは、人間的な死が非人間的なものに変わってるから、殺人が快楽になるんじゃなくて、人間的な死が人間的な死であるからこそ殺人は快楽なのかもしれないけれど、その話にまで言及すると、話の軸がブレそうなのでやめます
*2:でもまー、こういう話をいいはじめると、ACE04だって似たようなもんだという、ところがないでもない。ややこしー。この感覚の分離の問題は、9日の研究会でとりあげます。あと前に書いたhttp://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050717#p1とか参照
2006年03月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■韓国○○ゲーマーの真実…!
以下は何の雑誌記事か、みなさまおわかりになりますでしょうか
答えは、e-sportsの専門雑誌の記事です。掲載されている人物はマルチタレントだとかアイドルなのではなく、上に掲載されている人物は全てプロゲーマーたちです
e-sportsというのは韓国で2001年~2002年ごろから急速にもりあがってきたゲームの文化で*1、スタークラフトなどのスタープレイヤーに賞金を出して、彼らを「プロゲーマー」として生活させていく土台を与えている概念であり、分野です。
日本の側の現象として、理解するためには「高橋名人のようなもの」といった理解がよくされるのですが、見てもらえればわかるとおりぜんぜんちがいます。
ノリとしては、ブンブン丸とか新宿ジャッキーとかが、胸をはだけてポーズとってるる…みたいな。しかもネタじゃなくて。
この雑誌の特徴(として僕が見出したもの)を羅列していくと
1.ゲーム画面がない
ありません。っていうか、ゲーマーの話じゃないのか。
2.プロゲーマー=高橋名人 =ジャニーズ?
韓国の子供の憧れの職業ナンバーワン、ということがよくいわれますが、それは「高橋名人になりたい」願望じゃなくて、「芸能人になりたい」願望。
3.やってるのはスタークラフトばっかりらしい。
雑誌とかサイトとかみてても彼らがカウンターストライクが得意なのか、アンリアルが得意なのかさっぱりわからんなー、と思っていたが、ほぼ大半の人がスタークラフトばっかりらしい。
4.女子高生に人気。
全国の無垢な小学生からの人気……よりも女子中高生からの黄色い声援らしい。*2
5.日本にはなかった。
なかった。…これは…こんな文化はなかったよ……!これはすばらしすぎる!
6.強さはほどほど、イケメンが重要
一番人気は最強のプレイヤーじゃなくて、ベスト20にはなんとか入っているぐらいのイケメンくんらしい。
7.韓国のプロゲーマーにいってほしい言葉。
ひきこもりゲーマーのみんな!
スタークラフトの最強戦士になって、芸能界を目指そう!
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こんな韓国ゲーム事情に、大興奮。
2006年02月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■PC対NPC→PC対PCという物語成立の変容
90年代初期に『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』というのがENIXから出版されていたとき、一タイトルの売り上げが最大95万部というとんでもない数をたたきだしたことがありましたが、近年の状況をふりかえってみると、『ラグナロクオンライン』の4コマがこれまた相当な数出版されているようです。
シリーズ名もいろいろあって、ぱっと検索しただけだとよくわからなかったのですが、双葉社が出している『ラグナロクオンライン4コマKINGDOM』が現在18巻まで刊行されていると同時に、一迅社 から『ラグナロクオンラインコミックアンソロジー』が20巻まで、エンターブレインから『ラグナロクオンライン アンソロジーコミック ぼくらの新世界(ミッドガルド)! 』が4巻まで、と怒涛の如く出版されています。
僕自身が、小学生当時『ドラゴンクエスト4コマ』を熱読していたのもあり、比較という視点からこれを読んでみたら面白いかもなと思い、とりあえず『ラグナロクオンライン4コマKINGDOM』を10冊ぐらい入手してゴリゴリと読了しました。
何人かの作家さんの作品についてはかつての柴田亜美*1とか衛藤ヒロユキ*2とか押田JO*3とかを見ているような感覚に襲われる部分もありましたが、ドラクエ4コマとネタ的には通じる部分をもちつつも、やはり圧倒的違うものに根ざしているな、という感触もまた強力にうけるものでした。
まず、そもそも『ラグナロクオンライン』をネタにするという場合には、プレイヤー同士の間の共通体験というのはほとんどが「初心者だった時期がある」「転職を経験した」「ペットを飼うことができる」といったかなりシステム的な水準での経験の共有性しかなくて、それ以外には共通体験の枠組みを見出せていないんですね。そしてまた、NPCに対する興味関心も非常に低いので、ドラクエのときに「オルテガの死」ネタ(DQ3)とか「ピサロとロザリー」ネタ(DQ4)みたいな定番ネタとかもなかなか出てこない。一人用RPGの場合はNPCの中に人間的なものを仮託して物語を見出していくのが通常ですが、ここではPCとの間で発生した事件を物語化していくという手立てばかりが語られていきます。
で、具体的に、何がネタとして多いのかというと、圧倒的に多いのが、NPCネタではなく、プレイヤー同士で初心者を世話する/世話されるという関係性の中から発展していく恋愛ネタが相当の数を占めています。
これは、言う人にいわせれば「ラグナロクはそもそもそういう連中が多いんだ」という話ですが、ラグナロク自体をプレイしてみている経験から言っても、このラグナロク4コマの内容面からしても、『ラグナロクオンライン』におけるプレイヤー関の恋愛への関心の高さはかなり驚くべきものがあります。
そして、ここではいくつか面白い特徴が見られるのですが、まず
(1)
たいていの場合、「最初に萌える対象」はモニターの向こう側にいるプレイヤーのメンタルな部分とかではもちろんなくてプレイヤーキャラクターのグラフィック水準でまずは、萌えていることを多くの人が表明しています。プレイヤーキャラクターのグラフィックに萌える、というのはまた、「オレはプレイヤキャラクターのグラフィックに萌えているだけだ!」というスタンスをもまた確保する言い訳としても機能しているようですが、そのような言い訳はもちろん、より深く恋愛関係にハマッていく自分を隠す言い訳としても機能するわけですね。
(2)
で、あと、すでにちょっと書いたように「初心者」が極めて重要な機能をもっていますね。ラグナロクオンライン4コマにおいて描かれるプレイヤーたちの姿はRichard Bartleの分類*4を借りれば、多くはSocialisersと類型化されるようなタイプのプレイヤーが中心ですが、彼らがMMORPGの社会にコミットメントし、そこで社会化される過程において「初心者」が意味をもつわけです。初心者として上級者に接するときは、上級者は「憧れの対象」としてあらわれ、上級者として初心者に接するときは、初心者は「守るべき赤子」として描かれる。この教える/学ぶ関係のよーなところから、というか…ほとんどここを中心に恋愛が駆動されていますね。
(3)
そして、そこまでおおっぴらには語られないものの、最重要といえ最重要の問題がネカマ/ネナベ問題。ぶっちゃけ、MMORPGのプレイヤーなんてのはどう考えても大半は男性によって締められており、女性の比率はマイノリティにならざるをえない場所です。そもそもゲームユーザーの構成は男性比率が圧倒的に高いわけだからこれは仕方がない。だけれども、アバターとしてはネカマをやろう…という心理に限らず、格闘ゲームで春麗を選ぶ程度の気持ちで女性キャラクターを操作する男性とかもたくさんいます。で、結果としてMMORPGの空間は半分ぐらいが「女性キャラクター」によって占められるわけですが、この空間を前提として恋愛行為が行われていく。一部のプレイヤーは恋愛ではなく「親友の延長線上」だと言ったりもしていますが、ここの境界はぜったいにかなり曖昧になっていて、オフ会などで直に相手を確認していない限り、「彼女(彼)は中身のプレイヤーも女性なのか、男性なのか」ということを常に疑いつつ恋愛(?)をやるしかない。
で、あるがゆえにラグナロクオンラインを語るこの4コマの中では「ネカマぐらい、寛容にならなきゃ」というネカマへの寛容とかが語られたりもするわけですね。一時期もりあがったブリジット祭り*5ほどの極端さに至らずに、生物学的な性に寛容になる感性が成立しうる場所になっています。これを楽観的に「アイデンティティの自由選択の場所」ととらえる方向性もなくはないのでしょう。ただ、その観察はさすがに極端に過ぎていて、そもそもここでは「恋愛」というものがプレイヤーキャラクター水準と、プレイヤー水準で奇妙に交差しています。プレイヤーは恋愛に深くコミットメントするための最終的な判断基準としては、やはりプレイヤーの生物学的な性に依拠しつつも、単に動物的な「萌え」を表明する程度においては、プレイヤーキャラクターレベルでの恋愛をガンガンやってしまう。
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以上はかなり適当な現時点での偏見まじりの雑感なので、いろいろなご指摘もあるかと思いますが、とりあえずの観察として書き留めておきます。
*1:『南国少年パプワくん』『ドッキンばぐばぐアニマル』
*2:『魔法陣グルグル』
*3:http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/8116/
*4:"HEARTS, CLUBS, DIAMONDS, SPADES: PLAYERS WHO SUIT MUDS"(1996)、 http://www.mud.co.uk/richard/hcds.htmを参照。Richard Bartleはこの論文の中でMUDにおけるプレイヤーを二軸できって「Killers」「Achievers」「Socialisers」「Explorers」に分類し、ゲームごとにこの類型ごとのバランスが変化させていくことの重要性を論じています。また、この分類を日本でよく知られている論者であるうさださん(http://lovelove.rabi-en-rose.net/)の分類軸(http://lovelove.rabi-en-rose.net/blog.php?n=171)に強引にあてはめれば、Killers=「ゲーマー」、Socialisers=「コミュニティ論者」、Achievers=「自己顕示者」といったところでしょうか。うさださんの分類に、Explorersがみあたらないっぽいのはこれはこれで面白いのですが。ちなみに、リチャード・バートルのこの論文については、http://d.hatena.ne.jp/kataho/20040817/p2 のほうでもう少しきちんとふれられています。
*5:http://www.canal.ne.jp/%7Etakama/bri/より「ブリジットとは▼ブリジットとは14歳のシスターの格好をした「男の子」で、その生い立ちには複雑な事情があります。しかし本人はそんな事も気にせず、明るく呑気な賞金稼ぎとして得意のヨーヨーと相棒のクマのぬいぐるみ「ロジャー」を駆使して闘う日々を送っています。▼その容姿から当初ブリジットは女の子と思われていましたが、ゲーム発売を前に男である事が判明、周囲に大きな失望と衝撃を与えました。ですが、失望はある覚悟を秘めた言葉を生み出し、一転して大きな希望へと姿を変えます。その言葉とは…▼「男でもいい! いや、むしろ男だから良い!」▼聞きようによっては個人の社会的地位を一瞬にして失墜させかねない発言ですが、ブリジットに惚れ込んだ方々の大半は、この言葉を掲げ、改めてブリジット萌えを宣言しました。なんと感動的な物語でしょう。▼背徳と倒錯の果てに、性別すら越えて人々を魅了したブリジット。今回のイベントがブリジットの魅力に触れるきっかけとなる事を、そして、既にそれを知る方々にとっては強くその魅力を再認識する有意義な場となる事を強く望んで止みません。」
2006年02月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ゲーム普及の経路依存性と議論構成の違い
友人から教えてもらったのだが、去年の夏ごろに韓国でガシガシと「デジタルゲーム・ストーリテリング」を題材として扱ったコンピュータ・ゲームの書籍が刊行されているらしい。未追加文献情報のほうにも掲載したが、韓国のほうの書籍紹介はかなりがっちりと要約まで載っておりNaver翻訳で読めた範囲で、軽く紹介してみよう。
ハンヒェワン 『デジタルゲームストーリーテリング (ゲーム 銀河系の ニュー パラダイム)』(2005/8)
http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japan/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=1625238
欧米における‘ゲーム学(ludology)’と‘物語論(narratology)’との対立などにも言及しつつ、ゲームにおける<物語>の構成要素を三つに分類して論じている。
- (1)‘基盤的ストーリー(back story)’=既存の映画と等しい方式で構成される
- (2)‘観念的ストーリー(ideal story)’=ゲーム固有。作者が完結されたストーリーを プレーヤーに一方的に 伝達するのではなく,プレーヤーの選択と行動を通じてストーリーが展開されるようにゲーム デザイナーが 誘導する方式で行われる。
- (3)‘偶発的 ストーリー(random story)’=ゲーム デザイナーの制限領域を越えて発生するストーリー。ゲームのオンライン化が前提された状況でプレーヤー対プレーヤーというレベルで無数に生成されうるストーリー
加えて、翻訳結果ではあまり理解できなかったが、著者は「プレイヤー」「コミュニティ」「コミュニケーション」「キャラクター」という要素に着目しつつ、四つぐらいの効果を挙げて、それらが相互に影響しあい変化していく過程を論じている…らしい。
彼の分類の中にある(1)back storyと(2)ideal storyという区分けは日本でもしばしば用いられるものだが、これに(3)random storyを「プレイヤー対プレイヤー」という形式の中に見出しているところが興味深い。
日本の文脈であればrandomに生成される物語といえば、オンラインゲームという話を前提にせずに、むしろファミ通のやりこみであるとか、中沢新一が『ゼビウス』のゲームフリークたちのプレイ行動にみられる特徴のような部分:つまり「プレイヤー」が作り手の意図をほとんど無視して独自に物語世界の構築へと踏み出していくようなエンピリカルな側面を抽出して「random story」の成立をみてとるのが一般的だと思う。だが、ここで「やりこみ」ではなくオンラインゲームにおけるプレイヤー間のコミュニケーションに話をもってくのはやっぱり韓国においてオンラインゲームが圧倒的に強いからなんだろうなあ、と。
しかし、この(3)random storyはオンラインゲームをモデルとすれば対人的なコミュニケーションを通して成立するものだが、日本のような「やりこみ」モデルを前提とすればこれは脱社会的で非対人コミュニケーションの中でも勝手に成立してしまう。*1
これは例えば、90年代初期に成立した『ドラゴンクエスト』4コマで見られるようなユーザーによる同人的な物語受容と、2003年以降に隆盛している『ラグナロクオンライン』4コマにみられるような同人的な物語受容との違いといっておいいかもしれない。前者は個人的な妄想の中で成立するし、後者は対人コミュニケーションの中で生じた事件を物語化することによって成立している。
日本の文脈ではrandom storyのこの差異は明瞭に理解されうると思うのだが、韓国の文脈でこの差異は理解されうるのだろうか?*2
全敬欄 『デジタルゲームの美学 (オンライン ゲーム ストーリーテリング)』
こちらでもやはり、プレイヤーによる物語の生成作用が語られている…らしい。が、新しい知見がどこらへんにあるかまでは、要約の翻訳ではいまひとつわかりませんでした。
ただ、面白そうだなと思えたのは、プレイヤーがアイデンティティをどのようにゲーム内で獲得するかという話。全景欄氏によれば、ゲームの世界ではゲーマーのアイデンティティは現実とは違いがあり、サイバー上では性別, 人種, 階級のような生物学的アイデンティティには依拠しない。そして、サイバーワールドでは個人は肉体的な束縛をうけずにコミュニケーションを行い、個人のアイデンティティは選択的に自分をどのように表現するか、というところで形成されてくる。これによってオンラインのアイデンティティは、社会的な実験場として成立するのだ、と。
…NAVER翻訳の精度の問題であんまり論旨を正確につかめていない可能性は高いが、アイデンティティを「自由に/選択的に」という話をゲームの中でやりはじめているというのは、これもオンライン・ゲームを前提とした世界の話だという気がして面白い。
たとえば、家庭用ゲーム機の物語論の中では、プレイヤーのアイデンティティが自由に選び取れる/取れないということではなく、むしろプレイヤーがゲーム内世界へといかに現出可能か、ということのほうが問題になる。たとえば、プレイヤーキャラクターとプレイヤーの差ということが、家庭用ゲーム機では常に前提とされ、プレイヤーキャラクターとプレイヤーは「他人」であることが大きなテーマになる。たとえば堀井メソッドにおいて主人公が「しゃべらない」手法の中に、プレイヤー=プレイヤーキャラクターという感情移入の成功を見出し、同時に「FFは感情移入できないからダメだ」といってしまうようなタイプの議論などはこうしたプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離を前提とした議論であるといえるだろう。*3
対して全景欄氏の議論は、プレイヤ/プレイヤキャラクタ間の乖離を同じく問題としつつも、いかなるプレイヤ/プレイヤキャラクタ間の関係性が「理想」なのかなどといった問題意識とは圧倒的に無縁である。単にプレイヤの身体が、プレイヤキャラクタの身体を得ることで、生物学的/社会的アイデンティティから自由になれることこそが、面白いのだ、と話してしまうよう(多分)楽天的な発想をしているように見える。
オンラインゲームにおけるプレイヤ/プレイヤキャラクタ間の乖離をもっとネガティブに語るとすれば、たとえば象徴的なものは「相手がネカマかどうか」「相手がニートかどうか」といったプレイヤキャラクタの後ろに控えているプレイヤキャラクタの身体を予想することにこそいろいろな問題があると思うのだが…、全景欄氏はとりあえずアジってるだけなのだろうか。
あんまりまとまってないですが、オンラインゲームと一人用RPGにおけるプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離問題の処理の仕方の違いをどう論じるかというあたりで、なんか興味深いことが言えそうだな、という予感だけをとりあえず。メモしておきます。
イゾングヨブ『デジタルゲーム, 想像力の新しい領域』(2005/08/05、95p、 ISBN 8952204182)
http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japan/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=1625241
ゲームが新しい芸術形式であると論じたり、「アバター」がゲームの世界内/外をつなぐ上で大きな役割を果たすものであると論じたりしているらしい。これだけだと、いまひとつ目新しい部分がよくわからなくて残念。
また、これも昔から言われていることだが、コンピュータ・ゲームがあまりにも男性中心主義的な構造になっているということにも言及しているらしい。
イ・ゼヒョン(著) 『インターネットとオンラインゲーム』(コミュニケーションブックス、2001.03.01 、368p 、ISBN : 8984990299)
要約が漠然としすぎていてよくわからず。
李インファ, ゴウック, 電縫官, 強心号, 全敬欄, 梨駐英, ハンヒェワン, イゾングヨブ『デジタル ストーリーテリング』(黄金枝刊、2003.10.20)
http://j2k.naver.com/j2k.php/japan/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=133354
先に挙げた数人の共著+αで、2003年に発刊されている。
例によって要約だけしか除けないので細かい論旨はわからないが、「デジタルストーリーテリング」というテーマを三方向から説明している。
一つはインフラとしての「デジタル」というものと密接に結びついた形での「デジタルストーリーテリング」とは何かを論じ、次にプレイヤーを楽しませるという観点からの「エンタテイメント・ストーリテリング」としてデジタルストーリーテリングの斬新さを読者論的な方向性(?)から語る。そして、情報をいかに効率的にばらまくかという点からの「インフォメーション・ストーリーテリング」としてもデジタル・ストーリーテリングの可能性を語り、日本でいうところの物語マーケティングの手法や、エディテイメントソフトのような方向性においてもデジタル・ストーリーテリングはすごいんだ、という話をしている…ような印象。
やはり似たような点が気になるのだが、Naver翻訳だと「主人公 キャラクターは 利用者の 意志を 実質的に 具現する 存在なので 利用者の 選択が すなわち キャラクターの 選択が なって 彼 二人の 仕分けは 無意味だ」としている箇所。
もちろん、読者/主人公という区分けがコンピューター・ゲームのストーリーテリングにおいては従来の小説や映画と同様のフレームで語れないという議論はわかる。だが、読者(プレイヤー)/主人公という区分けが「無意味だ」とまで言ってしまうのは先に挙げたようなプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離が常に問題とされてきた日本の文脈からすれば明らかに異質な議論をしている――ように見える。
李燿薫氏「ゲームは芸術だ」http://news.egloos.com/
http://j2k.naver.com/j2k.php/japan/news.egloos.com/l28
これはウェブ上から。2000年に書かれたものですが、この方の場合はオンラインゲーム市場のみについて言及しているというよりも1980年代初期からMSXなどに触れてUltimaやSimcityシリーズに触れた上で新しい芸術ジャンルとしてのゲームという議論になっている様子。韓国におけるゲーム言説も1980年代からの系譜というのは存在しているようですね。
あと
パク・サンウ氏『ゲーム 世界を革命する力』2000
http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japanese/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=90595
パク・サンウ, 朴懸垂 『ゲームが言葉を歩いて来る時』2005(たぶん何かのあちらの熟語が上手く訳せていないっぽ。)
http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japanese/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=1507726
などといった気合の入った書籍も出版されているようです。
以上、ざっくりとまとめると一番気になったのはやはり、韓国における「ゲームの物語論」ではプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離が問題化されていないということです。くりかえしになりますが、これはやはり普及したジャンルがRPGだったのか、あるいはMMOだったのかというジャンルの格差が言説形成に影響をおよぼしているような感覚を覚えます。この話、もう少し根拠付けて論じられれば面白そうなので、今後もう少し追ってみたいと思います。
*1:とはいっても、もちろん、これも「ファミ通」という場所で自慢することを目指してやるユーザーは、社会的なコミュニケーションを希求している…という反論も成り立つわけですが…
*2:と、書いた直後に横からコメントされたので追記。「この本で、back story → ideal story → random story という語り方をしているのは、まず第一にこの本の著者は進化論的な議論をしたいのではないか、と。そして第二に、この議論は技術決定論的な傾向があるのではないか。で、あと、そもそも『ドラゴンクエスト4コマ』と『ラグナロク4コマ』に違いを見出すという方向性もあるが、実は両者において物語消費の形態がそんなには変わっていないということこそ面白いのではないか、と。つまり、技術的にはまったく違うものを、大塚英二が『物語消費論』で指摘したようなフォーマットで消費してしまえる日本のサブカルチャーの特殊性に着目してみるほうがいいんじゃないか、と。」つまり日本ではrandom storyの消費形態は「個人的な妄想の中で成立するし、対人コミュニケーションの中で生じた事件を物語として消費してきた」ものではないか、と。
*3:茂内克彦 2002「ビデオゲームにおけるメディア特性――物語性と主人公に着目して」http://www.intara.net/ron/syuron/ などはこうした問題意識を前提にしつつ、堀井メソッド的でない形でのプレイヤ/プレイヤキャラクタ間の関係性を描ける!という話をした好例
2006年02月21日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■e-sportsmanshipの誕生。
日本でも最近けっこうしられてきましたが、韓国ではスタークラフトなどのスタープレイヤーに賞金を払ってプレイさせていくという経路があります。2000年1月に世界初のプロゲームリーグが発足したことで成立し、数年前から韓国の子供の憧れの職業No1は「プロゲーマー」になることだそうです。日本のプロ野球以上に狭き門らしいですがトッププレイヤーは年収2000万円を超えるような賞金を稼ぎ出しているんだとか。テレビ中継もCATVで毎日やってるそーです。
で、まあ、ここまでの話はそれなりに知られていることなのでいいとして、今日ググっていて面白かったのが、↓以下の電撃オンラインの記事。
- 国内e-Sportsの将来性を考える。「オンラインゲーム専門部会 第4回研究会」レポート(2004年11月01日(月))
ここでの犬飼氏の発言がたいへんに興味深い。(強調は筆者)
犬飼氏は、日本でe-Sportsが普及していない現状について、家庭用ゲーム機が中心となっている市場や、ゲーム大会主催者の「e-Sportsを行っているという意識」の低さなどを理由に挙げていた。
一方で、犬飼氏は日本国内のe-Sports発展の可能性についてもコメント。『カウンターストライク』など、e-Sportsでプレイするゲームは「GL!(Good Luckの略)」で試合が始まり、試合後は「GG!(Good Gameの略)」とあいさつを交わすことがマナーの1つになっているという。犬飼氏は「このようなマナーやルールが存在することは、武道と同じように、e-Sportsが教育の現場に生かせるのでは」という考えを示している。
私自身はオンラインゲームをやりはじめて間もないが、この手合いの「挨拶をきっちりと」という話をきくことが多いです。
ラグナロクオンラインでギルドにいれてもらったとき「何かギルドに入った場合の義務とかはありますか?」と聞いたところ、ここでも「とくにうるさいことをいう気はないが、ログインしたときは挨拶ぐらいはきちっとしてほしい」ということを言われた…。うーむそうなのか。と。
しかし、ラグナロクオンラインなどMMOのギルドにおける「挨拶」は「この」コミュニティに属している人間に対する社会化の要請なわけですが、e-sportsにおいて支配的にあらわれているこの言説(試合前と試合後の挨拶)は完全に柔道や剣道など武道における作法とまったくイコールで結ばれているよーな気がします。そもそも「e-sports」という概念によってゲームが語られるということ自体が革命的なわけで、この発言はかなりくるところまできているといった印象をうけるます。うけませんか?
2006年02月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■MMORPGの経済でインフレは起こるのか。
最近、東大ゲーム研やAOGCなどで精力的に講演されている山口浩氏(http://www.h-yamaguchi.net/)の話で「MMORPGでインフレが生じているのを観察したいのだが、観察できないYO!」というような話を聞きますた。
で、きょう山口さんにも直接申し上げたんですが、私がプレイしているラグナロクオンラインのThorサーバーでは、この数ヶ月の間にけっこう激しくインフレが起こっているようです。
理由はThorサーバーにたまっている人に聞いた話によれば、「もともとBOTの多いサーバーだった。だが、12月にガンホーがBOT対策をやって以来、物価が大きく変動して全般的にインフレ気味になった」ということらしい。まあ、BOTの消滅というのが要因となると、MMOの経済学的にどうなのよっつー感じもしますが、とりあえず、こんな事態を観察しますた!というご参考までに。
以下、露店でよくみかける高額売れ筋商品?と僕が主観的に思っているものを「ろ。マーケットリサーチファウンデーション」(http://at-x.net/)で、がりがりと検索してみた結果です。なお、ミルクやブルージェムストーンなどNPCの売店による供給先があるものについては別の経済構造になっていると判断したため、売れ筋であっても検索せずに省きました。
【凡例】
◆商品名 11月半ばのおおまかな平均値 → 1月末のおおまかな平均値
(平均値はちゃんと計算してません。見た感じでざっと。)
値段の上昇が観察できた売れ筋商品
◆古く青い箱 130K→380K*1
http://at-x.net/s.jsp?se=1&itemname=%8C%C3%82%AD&wo=256&re=&st=&at=&pr=&pc=0
◆ソヒーカード 50K→200K
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=4100&wo=256
◆プパカード 300K→1M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&itemname=%83v%83p%83J%81%5B%83h&wo=256&re=&st=&at=&pr=&pc=0
◆ミノタウロスカード 3.5M→5.5M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=4126&wo=256
◆エギラカード 900K→1.5M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&itemname=%83G%83M%83%89&wo=256&re=&st=&at=&pr=&pc=0
◆Sシューズ[1] 400K→2M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=2404&wo=256&at=0&st=&ci=0&cn=&pr=&re=0
◆Sブーツ[1] 1.5M→3M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=2406&wo=256&at=0&re=0&pr=&ci=0
◆Sマフラー[1] 800k→2M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=2504&wo=256&at=0&re=0&pr=&ci=0
◆Sガード[1] 350K→1.75M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=2102&wo=256&at=0&re=0&pr=&ci=0
◆S海東剣[2] 1M→3.5M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=2504&wo=256&at=0&re=0&pr=&ci=0
◆Sゴーグル[1] 1.2M→3.5M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=2225&wo=256&at=0&re=0&pr=&ci=0
◆猫耳のヘアバンド 900K→1.5M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=2213&wo=256
◆クリップ 450K→650K
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=2607&wo=256&at=0&re=&pr=&ci=0
◆プレゼントボックス 80K→130K
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=644&wo=256
◆古木の枝 18K→28K
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=604&wo=256
◆ソヒーの卵 12M→20M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=9020&wo=256
値段が安くなっている売れすじ商品
◆銃奇兵カード*2 10M → 2M
http://at-x.net/s.jsp?se=1&itemname=%8Fe&wo=256&re=&st=&at=&pr=&pc=0
◆Sリボン[1] 120K→80K
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=2209&wo=256&at=0&re=0&pr=&ci=0
◆四葉のクローバー*3 200K→120K
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=706&wo=256
あまり値段に大きな変動のないもの
◆エンペリウム
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=714&wo=256
◆ペコペコの卵
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=9014&wo=256
◆虹色のお餅
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=12124&wo=256
◆黒猫の人形
http://at-x.net/s.jsp?se=1&ii=7206&wo=256
と、まあ以上のような感じで、ざっと売れ筋商品を調べた感じだと、一部例外もありますが、全般的にはかなりのインフレ気味であるように思われます。
追記1:
id:Nao_uさんから、トラックバック
WoWのThottbot*4みたいなのを使えばMMORPGの世界で起こっているすべての現象を詳細にログに残すことができるだろうから、物価の変動や人間関係のネットワーク解析など、面白い研究材料になりそうな。
ThottbotはいってみましたがWoWやってないのでなにをうちこんだらいいのかもわからず…
とりあえず、よくわからないけれども面白そうではありまスネ!
追記2:
FF11のインフレ。
http://d.hatena.ne.jp/mkg_b/20060210/p1
「ぬすむ」のリキャストを 0 にするチートツールと、エリアチェンジによる Repop の仕様を悪用した
という原因によって、一時的にインフレが起こったらしいです。
*1:聞いた話によれば、古く青い箱はBOTが狩ってくるアイテムとして主流中の主流だったらしく、特にわかりやすくインフレがおこったらしい。
*2:銃奇兵カードの暴落している理由もBot駆除と関係しているっぽい。銃奇兵カードは、「+9以上のS付装備」というものとセットで利用しなければ価値がでないのだが、問題となる+9以上のS付装備のほうだけがBotの消滅によって、レア度が上昇してしまう構造が裏にある。その結果、+9以上のS付装備の供給に比べて、銃cの供給だけが過剰にふくれあがってしまったのが理由のようだ
*3:この暴落もたぶん、銃奇兵カードの暴落とほぼ同じ理由によるものと思われる。「猫耳のヘアバンド」などのレアアイテムと併用して価値がでるアイテムの一つなので、併用先のレアアイテムの供給だけが落ち込んでしまったことが原因だろう。
*4:Thottbotの凄さ:http://blog.livedoor.jp/spikee_rez/archives/50056139.html
2006年01月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■<学習過程>としてゲームを捉える~「おもしろい」のゲームデザイン~
Raph Kosterの『「おもしろい」のゲームデザイン』(原題:"A Theory of Fun for Game Design")読み中。
ゲームの形式について論じていても仕方ナイジャン!っつって、プレイヤーの意識のほうにアプローチしようと思うと、しばしばチクセントミハイの「フロー体験」とか引き合いに出してそれ以上の理論的な進展の方向性にアタリがつけなくなる場合が多い。だけれどもRaph Kosterは、「フロー体験」とかで説明してもよさそうなところを、「フロー体験」には言及するにとどめ、「チャンク」とか「パターン」といった概念によって、ゲームにおける学習過程を説明することで独自の議論の深め方を行っていく。この点は大変に興味深い。
で、こうした、ゲームについて説明をしようとするRaph Koster氏の欲求は、たぶんJesper JuulとかEric Zimmermanらとはたぶんちょっとだけ別のところにある。*1
この本を読んでいて、Raph Koster氏的な立ち位置があるということで(1)同時に自分がZimmemanらに対して抱いていた物足りなさ、(2)前々からゲーム性の定義を「学習過程」として捉えるようなid:ityouさんのような議論を計りかねていた 二点もスッキリ納得できた気がしますた。
えー、これだけ言ってもなんのコッチャイという感じだと思いますが、
そこで、はてなダイアリーキーワード「ゲーム性」に以下の記述を加えてみました。
「ゲーム性」という概念の統合的な捉え方
ゲーム開発者の桜井政博はこの概念を「リスク&リターン」という枠組みで捉えればよいのではないか、と提案している。ほかにも、多くの論者がいろいろと考えた末に、この概念を「駆け引きの妙」だとか「トレードオフ」といった側面から捉えられるのではないかと論じており、ここには一定の共通性がみられて面白い。
また、他の有力な捉え方としては、「トライアンドエラーでスキル向上をしていく学習過程」というような方向性も挙げられる。こちらは"A Theory of Fun for Game Design"(邦題:『「おもしろい」のゲームデザイン』2005)のRaph Kosterあたりが代表格だろうか(「ゲーム性」って言葉は実は使ってないけど、ゲームの面白さの本質を記述しようとする姿勢は海外の人もおんなじ)。Raph Kosterはゲームプレイ時において生じる学習過程を「チャンク」「パターン」などというようなゲームプレイヤーによる意識の形成から説明し、ここにゲームの面白さの発生の仕組みを見出している。
両者は、双方ともにゲームの「面白さ」を説明しようという点においては一致点を見出せる。だが、なぜこのような差異が生じるのか?
私見を述べると、前者の「トレードオフ」「駆け引き」といった捉え方ではゲームのルールの形式や構造に着眼されており、後者の「チャンク」「学習過程」といった捉え方では、ゲームのルールをプレイするプレイヤーの意識、感覚に着眼されている。そう見るならば、両者の定義するところには異なっていても実は着目する対象が少し異なっているだけということであって、両者の立場は対立しているというよりも相互補完的なものであると考えられるだろう。
なにわともあれ、ゲームプレイヤーの主観的な意識の構成について説明しようとする立ち位置はマジで貴重なので、その意味で本書は大変に重宝できるかと思われます。
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追記。
Raph Koster Website
著者への松浦雅也氏によるインタビュー
*1:邦訳版の16ページでは、実際そういってる。Zimmermanらに言及した上で「しかし、おもしろさは非常に根源的なものでもっと基本的な概念で理解できると思えませんか?」といって、Zimmermanにちょいとケンカ売ってます。
2006年01月06日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■2005年度―今年のゲーム十選
2004年の十選にひきつづき、2005年度分も選んでみました。ちなみに、プレイしたソフトの数は約40本
- ひぐらしのなく頃に(PC、鬼隠し編~皆殺し編)
- ワンダと巨像(PS2)
- 雪道(PC、フリー http://f8.aaa.livedoor.jp/~sanctuar/)
- なめ消し塩(PC、フリー http://ishi.blog2.fc2.com/blog-entry-158.html)
- 大神 体験版(PS2)
- メタルギア・ソリッド3(PS2)
- STAR WARS BATTLE FRONT(PS2)
- カスタムロボ(GC)
- エイリアン・クロスファイア(PC)
- 英雄伝説6(PC)
2005年度やってみてダントツによかったのは『ひぐらしのなく頃に』です。間違いなく。
これとあと、『ワンダと巨像』の二作をプレイしたことで、本年度は幸せな気分になれました。
全般的には、同人・フリーなどで製作された比較的開発規模の小さなものを本年はガシガシあげていますが、これは特に意図したわけではありません。
以下、気の向くままに、各作品へ締まりのないコメントしてゆきます。
続編だけど…『メタルギアソリッド3』『英雄伝説6』
他のみなさんが高い頻度で挙げているのに、挙げなかったものとして『地球防衛軍2』『みんな大好き塊魂』『ロマンシング・サガ~ミンストレルソング』とかは挙げませんでした。はい。もちろんとってもとっても面白かったんですけれども。
そもそも前作『塊魂』は人生のベスト5とかにも挙げてたぐらいに高く評価してるんですが、主観的な評価だけでいえば僕は続編とかリメイクとかとよりも、新しい体験を与えてくれるような新作であれば多少みおとりする部分があってもそっちを選ぶんだ、というようなところがあるようです。それは、客観的な評価として「エポックメイキングなもののほうがえらい!」とかっていうようなモノシリ顔で評価してるわけじゃなくって、単に一ゲーマーとしてゲームにそういうものを求めているものだと思われます。
これは、浜村通信がしばしば嘆いているような「オリジナルタイトルが減って悲しい」というような話に通じなくもないのですが、オリジナルタイトルなのか続編なのか、って議論って実は作品内容の話というよりも、その作品が流通にのりやすいか否かというようなマーケティングの議論だと思うのでちょっぴり違います。
アガー。
はやい話がぼくがゲームをやりつづける理由は、ある似たような楽しみを再現/量産することにあるのではなくて、別種の世界や別種の知覚を提示してくれるというところにこそもとめられるのかもしれません。むかし、あるネットゲーマーの知人に「このゲームだけで2年は軽く遊べるYO!金もかからなくって経済的だYO!」とネトゲーをやるようにすすめられたことがありました。ですけれど、推薦してくれた知人の思惑とは真逆に、そんなゲーム絶対やりたくないな、と思った次第です。二年も同じ世界などを見せられていたら、ぼくにとっては苦痛なのです。
そんなわけで、今回続編モノのなかで10選に挙げた『メタルギアソリッド3』『英雄伝説6』は、オリジナルタイトルではなかったわけですが、ゲームプレイヤーに新しい世界を見せてくれるものだったと思います。
『メタルギアソリッド3』は具体的には、衛星による敵兵の位置把握システムをなくして迷彩によるカモフラージュによる潜入システムを実装してくれたところにかなり大興奮でございました。草むらの中に延々と佇む緊張感はすばらしいの一語につきます。あとネタバレになるので控えますが、ラストの死の表現もサイコーですた。基本的には回避不可能な死を表現しつつも、プレイヤーに操作可能性を付与することで、プレイヤーが<死>に対して積極的なコミットメントを・していたか・というような手触りを与える、とても面白い手法でした。
『英雄伝説6 FirstChapter』は、ほとんどの部分は基本的に「ウェルメイドなものとして優秀なクオリティのRPGだ」という程度にとどまるのですが、物語展開の手法としてラスト付近で一挙に見所が増えます。物語のナゾが解けるという側面に加えて、続編モノとしての「ヒキ」をみせるというあたりはもちろんよいです。ですが、実はいちばん面白いと思ったのは、最後まで延々と発行されていたゲーム内の「新聞」というシステムかもしれません。*1。この作品は実はけっこう意図的かどうかわからんのですけれど、19世紀の近代的メディアの成立と近代市民の誕生みたいなものとかを意外と描けてしまってるようなところがあります。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』で記述される「公定ナショナリズム」だとか、新聞メディアを通じてプレイヤーキャラクターがとりあげられることで公共的感性がグイっと獲得されちゃう雰囲気だとかが感じられて、それが大変に面白い。もちろん、世界観はファンタジーなのでこれを19世紀フランスだとか、ブラジルだとかって主張したら途端にドキュンに感じられてしまうものですが…。こういう近代ナショナリズムの成立みたいなものを描くことがゲームって可能なんだな、と感じさせてくれたことで「ゲームって面白いんだな」と改めて思ったぐらいです。プレイヤーが積極的に世界に参与してゆく、という主体性があるがゆえに、価値観の主体化がはかられる、みたいな。そういう可能性を示唆してくれるものとしてぼくはたいへんにおもしろかったのです。
思想とあわせておいしい『雪道』
ゲームとしての機能美もさることながら、開発者の思想もあわせておいしい作品としてPornさんの『雪道』。以下、Pornさんの「思想」http://f8.aaa.livedoor.jp/~sanctuar/text/thought.html より部分的に引用
あまりに再現クオリティの高い仮想世界を見てしまったがために、主人公が現実と仮想の区別を失ったことを『悲劇』あるいは『バッドエンド』として描くことで暗に“現実寄り”の価値観を読者に強制しようとする物語を非難したところで、この現状が覆るわけでもない。仮想は現実を越えられない。それは認める。ならば我々の目的は、これを否定することではない。
しかしながら、人間の認識はこの物質世界ほど強固ではない。巨大なディスプレイをガラス窓と見まがうことはあるし、フィクションとそうでないものを混同することだってある。カルト問題や仮想現実物語の使い古されたテーマではそれは危険な落とし穴として扱われるが、我々はそこにこそ、新たな世界を切り拓くチャンスを見る。RPGでもいい。カードでもいい。麻雀のようなテーブルゲームでもいい。まるで現実の自分の預金残高のようにその数値を愛した心理状態とサイコロの偶然とが創り出した一瞬に、一度でも奇蹟を感じたことがあるなら、そして再びそれに手を伸ばそうと思うのなら、あなたは我々の同志だ。
こういう形で一つの明確な立ち位置を主張する人っていうのは多くないんですが、Pornさんは開発されている作品内容とあわせて、この議論がたいへんに説得力があります。『雪道』というは誤解をおそれずにいえば、「不思議のダンジョン」「Rogue」シリーズのさらにエッセンスを搾り取って、精錬したような作品です。
「不思議のダンジョン」をプレイしている感覚を思い起こしてもらえればたぶん想像がつくと思うのですが、二時間、三時間とプレイしたときゲームプレイヤーである我々は、ある数字が並べられていることになにか超越的なものを見取ったような気分になることがあります。むかし糸井重里が80年代に『ファミスタ』をやりながら、ありもしないはずの「ここの腰のひねりが…っ!!」とかって叫びながらプレイをしていたという話がありますが、それとも似たようなものかもしれません。
『雪道』はどんどん極めて、極めていこうとすれば、並べられた数字の一桁一桁の裏にある不在のはずの物語のようなものを見取ってしまう境地にまで至ります。コンピュータ・ゲームにおけるインタラクティブなコミュニケーションの表現が、実際には人間的な会話よりも遥かに劣るとみられるような「フラグ」だとか「パラメータ」によって管理されているというのは周知の事実です。これに対してPorn氏はコンピュータ・ゲームにおけるコミュニケーションのあり方が「フラグ」や「パラメータ」といった極めて数値的なインタラクションである/でしかないことに失望を覚えるのではなく、むしろそこを前提とするところからはじめて、どこか超越的なところに至れるのではないか、と問うているように思えます。
これは、かつて存在していたゲェム右翼のような「打つ!たたく!はしる!それこそがゲームの本質!」というようなタイプのゲーム性至上主義とも違いますし、その逆にFFの「映画性」を賞賛するような<ゲームの芸術性>への評価とも異なる立場です。
「不思議のダンジョン」を賞賛するような立場はふつう、「ゲーム性が高いからすばらしい」というような「ゲーム性至上主義」とかに回収されてしまいがちですが、フラグやパラメータといった数値的なコミュニケーションのあり方を、単に代替可能で管理可能な資源としてクールに見つめるのではなく、きわめてホットにそうしたものと向き合う可能性がありうるのだ、ということをPornさんの立ち位置は主張している。
二次元と三次元の往復 『大神』(体験版)
3Dの世界の改造度があがるにつれて、ゲームの映像は意外と同じようなつくりのものがふえてきましたが、わかりやすい形でそれに対するオルタナティブを提示してみせたのが『大神』でしょう。
ひどく単純なコメントとしては「墨で3D世界を描くだなんてスッゲェェ!」という一言になっちゃうんですが、それだけだったら本作はけっこう普通の3Dアクションゲームなのですよね。
そういった技術的な優位以上に『大神』がすぐれて新しいのは、三次元の世界を三次元の姿態をもったプレイヤーキャラクターが動き回ることにあるのではなく、三次元の世界に対して、二次元からの統御が行えることにあります。
これは大神が「筆」というモチーフを扱ったことからある意味、必然的に欲望されたことなのかもしれませんが、三次元の世界を我々は平面に配置されるはずの「筆」によって描かれた映像を通して認知しています。そこで、我々に与えられる三次元の世界は実は、三次元の世界によってではなく、むしろ二次元のものによっても干渉可能な世界なのではないかというような欲望がフツフツと沸いてきます――それは、たとえば、三次元の存在であるはずの風景をパシャっと写真にとって、写真に傷をつけたら、現実の世界にも傷がつけられてもいいのではないか?――というような欲望です。
では、そういうことがができるのか、どうか?
なんと、『大神』の世界はそれを実現してしまっているわけです。これに比べたら実は、世界が筆のタッチで描画されていることなど、実はホンのオマケにすぎません。
また、今思えば、『大神』において実現されたこうした欲望は、かつて1999年にドリームキャストから発売された傑作『ジェットセットラジオ』においてお実は強力に欲望されていたものだったように思えます。
『ジェットセットラジオ』は、3Dの世界をマンガディメンション――今で言うトゥーンシューディング――というコミック調の方法で描画したもののハシリですが、あの作品も実はそういう欲望の(たぶん)名残だと思うのですが、三次元の世界にラクガキというのをどんどんやっていくわけですね。それっていうのは、三次元の世界を、三次元の世界としてそのまま成立させるのではなく、そこにペンキを投げかけて、ドロドロに塗りたくって、三次元の世界なのだけれどもそこを強引に二次元のツールによって文字通り「塗り替えてしまおう」というような試みとして最初はあったはずだろうと。ビルを全部黄色く塗りたくってしまったらそれは三次元の物体なんだけれども、極めてフラットな形のものとして再構成されるような可能性をもってしまう。そもそも、わざわざ三次元のものを二次元の感性をベースにして描画しよう、という試み自体が極めて倒錯的というか、ちょっと捻った欲望の成立の仕方なわけで、そういう倒錯的なやってしまう欲望によってはじめて『ドラゴンクエスト8』とかも作りえていたわけで…うーん、なんか話がまとまらなくなってきたので、寝ます。
*1:いままでも、ゲームがすすむにつれて「新聞」などのようなアイテムが配置されていくというようなことはあります。もちろん。
2005年12月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ゲームの社会思想史の試み。
http://d.hatena.ne.jp/hally/20051213
の記事がマジですばらしかったです。あらためてhallyさんの力量に敬服いたしました。アタリショックの話と同じぐらい、大きなインパクトのある話です。論文なり書籍なり、ぜひ研究者などが引用できるような形で残していただきたいですね。
ということで、なんだかhallyさんの記事へのコメントばっかりしている野郎とかに成り果てている感がありますが、これだけの分量に詰めるにはかなり込み入って話になっていたかと思いますので、論旨を私なりに要約させて確認させていただくとともに、理解のおよばなかった点についてコメントしていきたいと思います。*1
以下、全てわたしのコメントは脚注です。
まず、hallyさんの議論のおおざっぱな図式は以下のように理解しました。
- プレモダン:実用主義+Juul的ゲームモデルの時代、シリアスゲームの時代*2
- モダン:娯楽主義+Juul的ゲームモデルの時代、コンサマトリなゲームデザインの時代
- ポストモダン:娯楽主義の先行によって、Juul的ゲームモデルが崩壊する時代。
この図式は非常に強いインパクトがありますし、とても勉強にもなりました。
以下、もう少し細かく論理展開を要約しつつ、コメントさせていただきます。
(A)、「ゲーム」が人間によって革新可能・デザイン可能という概念が成立する。
【前近代】:ゲームデザイン概念の不在。
1)ゲームを個人作品化する手立てがなかった
2)その理由は、ソフトとハードが分離していたためである。特にハードが固定化していたため個人がゲームを能動的にデザインするという発想が成立しなかった。*3
【近代への転機】:近代的な環境がゲームデザイン概念の成立をエンパワーメントする。
1)ソフトウェア・デザインとハードウェア・デザインを同時に行うという事件が発生する
2)それは、教育ゲーム、ウォーゲーム、メカニカルゲーム機という三つのジャンル(?)において見出される。
3)これらの事件はそれぞれ、近代啓蒙思想、決定論的な*4世界認識、工業技術の発展*5という近代化の過程と密接にリンクしている
(B)、(A)に支えられて、実用第一主義から娯楽第一主義への転換が起こる。
【近代】:ゲームデザインの目的の変容
1)20世紀初頭という時期に、またしても教育ゲーム、ウォーゲーム、メカニカルゲーム機において同時並行的に大きな変化が起こる。
2)それは、ジョージ・パーカー、H.G.ウェルズ、デヴィット・ゴットリーブという天才パイオニアたちによってもたらされた「実用第一から娯楽第一」という転換だった*6
(C)、(B)の徹底化に支えられて、モダニズムが成立する
1)モダニズムとは:特定のイデオロギーを変数として持つことによって進歩主義的でありうるような状態。常に<伝統>が革新され続ける運動として成立するものと捉えられる。これは、井原[2002]の議論を援用するものである。
→井原[2002]の議論では、ベンヤミン[1936]が参照される。写真という複製技術がルーブルという場所から芸術作品のアウラをひきはがし<歴史>という大きな物語の中に過去の作品を再配置することを可能にする装置として機能すると論じる。これによって、モダニストの芸術家たちは総決算すべき、乗り越えるべき対象としての<伝統>という像を手に入れることが可能になる。モダニズムの成立のためにはこうした前提がある。
→ここでは、モダニズム成立の条件が二つある。一つは、のりこえるべき対象としての伝統イメージが成立していること。二つ目は、どのようにして乗り越えるべきかというベクトルが用意されていること。
2)こうした歴史意識/伝統イメージを成立させるための装置として機能したのがコンピュータである。コンピュータはルールのロジックを遺漏なくうつしとることができる。これはゲームの複製技術…とまでいわないが、ゲームの大衆化*7を可能にし、「ゲームの伝統」という歴史意識を成立させることを可能にした。
3)この伝統を乗り越えるベクトルとして用意されていたのは娯楽第一主義である。その娯楽第一主義はコンピュータ・ゲーム登場以降~90年代中盤までどのようにしてあらわれたかというと、[α]リアリティの追求、と[β]前例なきプレイ体験 という二本柱という形で具体的には現象した(この二つを出してきたのもhallyさんのオリジナル?)
4)こうして、コンピュータ・ゲームのモダニズムは成立する。コンピュータのモニタの中に映し出された数多くのゲームが「過去の伝統」として見出されつつ、ゲームデザイナーたちは「過去の伝統」のゲームより、より強力な[α]リアリティの追求、と[β]前例なきプレイ体験を求めてゲームを作り続ける。これがゲームのモダニズムである。
(D)、(C)モダニズムがゆきずまる。それはモダニズム自体が必然的に内包していた結末でもある。そして、ゲーム(デザイン)がポストモダン化する
1)[α]リアリティの追求[β]前例なきプレイ体験が、どんどんと高いレベルで達成されてしまい、乗り越えが不可能か、あるいは困難な水準にまでやってきてしまったのが現代である。
2)新しいものを提示しようという運動だけは残っている。しかしそれは、[α]リアリティの追求[β]前例なきプレイ体験というメソッドでは提示できなくなる。
3)近代的ゲーム像とは異なるゲーム像が提示されることになる。*8
以上、要約でした。
コメントは脚注に。特に、ゲームにおけるモダニズムの成立について記述されている「コンピュータとモダニズム」の部分の論理展開がかなり高速にドライブされて省略がいろいろとはさまれていたように感じましたので、もう少しそこらへんを敷衍して語っていただくと理解がしやすかったか、と。
何か基本的なところの理解が抜けている点などありましたら教唆いただければ。
*1:できればhallyさんのところの掲示板に貼り付けようかと思ったのですが、字数オーバーといわれてしまいました…
*2:しかし、これだと「すべての前近代のゲームはコンサマトリな娯楽でなかった」という話にもきこえかねない。「ゲーム」の思想史というか、「ゲームデザイン」の思想史として語ったほうが妥当なのでは?
*3:ここでhallyさんは<ソフトウェア・デザインだけでは「ゲームの作者」「ゲームのデザイン」という概念が流通/成立しない>ということを暗に前提としている―――というか省略されているのかな?と。
*4:ここでいわれている「決定論的な世界認識」とは<神によって決定された世界>という宗教的なものではなく、ニュートン的な近代科学思想によってたつ「自然法則によって世界は決定可能。計算可能」というような発想によるもの、ということを強調しておいたほうが誤解がないかと思います。あるいは、ここは、近代科学主義的な世界観としないで、「軍事の近代化とリンクしている」とかって方向性で論じるのはナシでしょうか?
*5:ここは単に「産業革命」とだけ言ったほうが、インパクトを受ける人が少し増えるような気がします。いや、それだけだと胡散臭く思われる可能性もありますが…
*6:この転換は「個人がゲームデザインする」という環境を前提にしてもたらされるものだった、とするところにhallyさんの主張の独自性があるのではないかと推測します。ただ、この主張がどういった経緯で出てきているのかが見えにくかったです
*7:ここで「大衆化」という概念をえらびとったのはhallyさんのオリジナルでしょうか?「普及」と「伝統」をつなぐメゾ概念として登場させられているような気が。少なくとも井原[2002]の議論からはだいぶ独自路線をいっている気がするので、ちょっと読んでいてこの概念の位置づけに混乱しました。
*8:ここは議論として若干つらいものを感じました。hallyさんの議論では近代的ゲーム像はコンサマトリな「娯楽主義」の産物として捉えられたはずですが、hallyさんがポストモダンであるとして位置づけるNintendogsなどの水木潔作品は、コンサマトリな「娯楽主義」という軸だけで言うと、近代的ゲーム像の延長戦上にあると捉えてよいということになると思われます。たしかに「精細なグラフィックスとオーディオ」によって達成されたゲームではないですが、「娯楽主義」を「精細なグラフィックスとオーディオ」などとしたのはhallyさんが独自に結びつけた定義であって…ちょっとレトリカルな記述になってしまっているのではないでしょうか…。そして、また、ここで、hallyさんが近代的ゲーム像の否定として、「ゲームであってゲームでないもの」としての近代的ゲーム像として参照しているイメージは、コンサマトリな「娯楽主義」によるものではなくて、むしろJesperJuulやGregCostikyanが定義するようなモデルです。しかし、hallyさんは残念ながら今回は、JuulやCostikyan的なゲームのモデルが成立してきた経緯を語っているわけではありません。だけれども、ここではいつのまにか近代的ゲーム像が、(a)娯楽主義+(b)Juulの古典的ゲームモデル、という二本立てになってしまっています。しかし、hallyさんの言う水木氏の「ポストモダン的立場」とは、ゲームが(a)娯楽主義から脱却すること、ではなく、むしろ(a)娯楽主義が強力に駆動されることで(b)Juulの古典的ゲームモデルが否定される、という図式であったはずです。▼なので、hallyさんが水木氏のゲームをポストモダン化として位置づけるためには、「近代的ゲーム像とは(a)娯楽主義である」という議論だけでは十分でなく、「近代的ゲーム像とは、(a)娯楽主義と(b)Juulの古典的ゲームモデルがセットになった状態である」ということまで論じておかないと、この後の議論が空回りしてしまうように思います。ポストモダン化ということで、おっしゃりたいことはもちろんよくわかるのですが、(a)娯楽主義と(b)Juulの古典的ゲームモデルがセットである、というところまで論じるところまでいけたらサイコーですね…。これを論証するのは大変に骨の折れることだとは思いますが。
2005年11月17日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ワンダと巨像しつもん。
ワンダと巨像、クリアーしますた!
そしてせっかくなので、↓こんな質問をしてみましたので、みなさまふるってご回答くださいまし。
http://www.hatena.ne.jp/1132173606
最近発売されたPS2ゲーム『ワンダと巨像』についての質問です。
■1.レビューサイト(ex: http://psmk2.net/)や 個人サイトでの『ワンダと巨像』の評判(参考 http://d.hatena.ne.jp/keyworddiary/%a5%ef%a5%f3%a5%c0%a4%c8%b5%f0%c1%fc#keyworddiary)などをたくさん読んでください。
■2.そして、そこに書かれた感想をあなたなりの基準で二種類以上に分類してみせてください。「肯定派/否定派」とかでもいいですが、できればもうちょっと工夫して、「<感動>メインの感想 / <面白かった>メインの感想 / <分析>メインの感想」などちょっと小細工を弄していただければなお良いです。
■3.あなたにとってどのタイプの感想がいいと思ったのかを選んでください。できればそう思った理由を教えてください。
【質問の狙い&注意】みなさんがどのような形で感想を分類してみせてくれるか、そしてそれをどのように理由付けて肯定したり、否定したりするか、という点に興味があります。質問者である私の要望に沿っていない回答はポイント対象外となりますのでご了承ください。
さしあげられるポイントはせいぜい「うまい棒」が何本が買える程度かと思いますが…
2005年11月04日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ゲームの「定義」をめぐる立場
http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/comment?date=20051102#c
のhallyさんのコメントに対する応答です。
私もhallyさんやjuul氏の立場をまだまだ理解・整理できていないと思います*1ので、お互いの立場を手探りしていくように議論につきあっていただければ幸いです^^
1:立場について
まず、「定義できる/できない」というのではなく「定義することの意味をどこまで、どのように重視するか」というのがhallyさんと私の差異ではないでしょうか。私は定義そのものが無用だ、とは思っているわけではありません。
2:境界設定の問題について
そのような立場の違いが生じる理由は、hallyさんの言うように「境界領域」の問題にどのようなスタンスをとるのか、ということにかかってくるかと思います。この「境界領域」の問題を大きく
A.範囲設定の問題:どこまでが、どの程度「ゲーム」か?
B.中心設定の問題:典型的な「狭義のゲーム」は何か?
という二つに区分けして考えてみると、Juul氏の議論は、[A]範囲設定の問題に対しては「ゲーム」を構成する要素を分解しつつその組み合わされ方を立体的に提示してみせることによって見事に回答し、網羅的な定義になりえていると思います。単に網羅的であるだけの定義は「広義の定義」というだけに過ぎませんが、ボーダーライン・ケースの内側/外側というような段階的なイメージをしてみせることによって、ただの「広義の定義」というレベルを超えるものになっているところがJuul氏の定義の卓越した点かと思います。
ですが、[B]中心設定の問題についていえば、Juul氏の定義では、これを回避することができないのではないでしょうか。チェスや野球などの古典的ゲームをを典型的なゲームとして捉えた場合と、日本で人気のあるような物語メディアとしてのゲームのようなものを典型的なものとして捉えた場合とではそこから見えて光景へ違ってくるものになるはずです。
『クエイクIII』、『エバークエスト』、チェッカ、チェス、サッカー、テニス、『ハート』、ソリテア、ピンボールはゲームであり、『シムズ』や『シムシティ』といった無期限シミュレーションゲーム、ギャンブル、完全確率ゲームはボーダーライン・ケースであり、交通、戦争、ハイパーテキスト・フィクション、フリーフォームな遊び、薔薇の花輪づくりは非ゲームである。
という境界設定をJuul氏は行っていますが、これは彼の仕事を成立させるために必要な記述であると同時に、限界を設定するものでもあります。この[B]の問題をクリアーしようとした場合には、Juul氏のような精緻な議論によって境界例を探っていくような方法よりも、もっと別の一行ぐらいでできてしまうような「コンピュータを用いてディスプレイから映る映像との間にインタラクションを計れるもの」だとか「勝ち負けのあるもの」だとかといった緩い定義が価値を持つ場合もありうるだろうと考えます。(後述)
3.「よい定義」とは何か
そもそもこのような議論をする前に必要となる前提を確認させていただきたいと思います。「ゲームは定義できない!」というラディカルな立場をとらないことを前提*2とした上で「よい定義とは何か」という議論について、Juul氏は
1.「ゲーム」であると事前に想定したものに対してきっちりと網羅性を持つこと。
2.境界例の内側/外側がきちんと存在すること
3.境界例がなぜ境界例であるのか、という点について理解させてくれること
という三点を挙げて、定義に対する評価基準としています。
また、Salen&Zimmerman[2003]は、英語において"play"と"game"という言葉の区分があるということをきっかけにして、その両者の差異をうまく設定できるようなものが"game"のよい定義なのではないか、と言っています、
Juul氏の定義もZimmermanらの定義も自ら課した課題に対してはうまくクリアーするような定義を提出しえているとは思います。そして、そうした形での定義に対する評価基準を設定しておけば、定義を行った後に、単に定義をしただけではなくそれについての評価をしてみることも可能になるという意味で評価基準を設定しておくことは必要なすぐれた戦略です。
しかし私が問題としたいのは、Juul氏やZimmermanのように、「定義に対する評価基準」を何らかの方法で用意した場合に、それが普遍的な評価基準として機能するのかどうか、ということです。Juul氏の定義が良い定義といえるかどうか、という議論をしようとしたとき、それがJuul氏の前提とするような評価基準をもとにしていう限りでは、Juul氏の定義はすばらしい定義だと思います。
だけれども「<定義>というのはそもそも何のために必要だったのだろうか?」という問いが忘れられてしまうと、せっかくのJuul氏の議論が片手落ちになってしまう可能性を予感してしまいます。
「定義とは何のために必要なのか」
この問いに関してとりあえず答えるとすれば、厳密な議論をしたいとき――たとえば、論文を書くときや、多くの人の誤解を与えないようなものを書く必要にせまられたとき――に、「私が議論の対象としたいものはこういうものですよ」と、議論の対象を明示してみせるときに定義というのは必要とされるものだと考えています。*3
このような観点に立った上で改めてJuul氏の定義を評価するとすれば、Juul氏がゲームの対象として設定しているようなものを論じたい場合にJuul氏の定義は使える定義だと言えます。私も今後は、Juul氏が対象として設定したようなゲームを対象として論じたい場合には、「Juul[2003]を参照」という言い回しをぜひ毎回使わせていただきたいと思います。その意味でJuul氏の定義はとても「使える」定義です。
Juul氏の定義よりも他の定義がよい場合というのも考えられます。たとえば、桝山寛『テレビゲーム文化論』での「ゲームとは何か」という問いに対する答えは、<「相手をしてくれる」メディア>というものでした。桝山氏の議論の視野は、この後にゲームの議論をAIBOなどのコミュニケーションしてくれるゲーム以外のメディアへと接続されてゆくことを目的としています。「コミュニケーション・メディアとしてゲームを評価をする」というような発想に立つならば、<「相手をしてくれる」メディア>という定義をもちこんだほうが、議論の全体的な視野をよくするために、Juul氏の定義よりもよく機能するものだといえるのではないでしょうか。むしろ、ここでJuul氏のような定義を前提にしてしまうと、桝山氏の論旨が、不明瞭になってしまうだろうと思います。
4.諸芸術の定義は確立されてきたか?
この話もたぶん、私なんかより、よっぽど詳しい人がガリガリいると思うので微妙におそれつつ書きますが…
多くの芸術・芸能は境界領域の問題を抱えながらも定義を確立させてきた
これは私の認識とは違います。
確かに、多くの芸術・芸能は境界領域の問題を抱えていることを前提にしつつ定義をつくるという営為をやってきました。ですが、同時に現代芸術は芸術の定義を崩すような、「芸術の意味そのものを問う」というメタな水準での何かをやろうとする世界でもあります。よく知られたもので言えば、マルセル・デュシャンがそこらへんのトイレをもってきて展覧会に出品した『泉』のような作品をはじめとする、メタ・アート的な作品*4が当然のようにみなされている世界です。
分析美学の西村清和氏の言葉を引用すれば「こんにちのアートの、あまりで多様な錯綜したさまざまな現象のあいだに、これらをひとつの定義によって包括するような共通の特性や本質をさがしもとめようとすれば、ひとはたちまち困惑してしまうだろう」(『現代アートの哲学』1995)というのが、現代芸術の現状かと認識しています。
ただし、こういう話をしても仕方のない空間というのが一方ではあります。実際には美大ではデッサンの授業があったり、ハリウッドの映画学校ではシナリオ作成技術のイロハを教える授業があるでしょう。「よい美術作品であることとデッサンの技術とは一欠けらの関連もない」ということを断固として主張する人は、デッサンの授業にいかなる価値も認めないはずです。今現在、美大でデッサンの授業というものが行われている前提には<美術作品の水準>が、<デッサンの技術>と相関している/あるいは相関可能だ、という認識が少なからず存在しています。
このような授業が行われている現状を取り出すのならば、諸芸術が「定義を確立させてきた」とまで言わないまでも、諸芸術が自らの扱う範囲に一定の前提を置いていることは事実でしょう。そしてまた、一定の前提を共有することによって諸分野が発展してきたのも事実だと思いますし、そもそも何かしらの前提を共有していなければメタ・アート的な性質持つ作品そのものが成立しないということも指摘できます。
このような議論の上で、Juul氏やZimmermanらの議論がいかなる意味で必要なのか、ということを考えてみることもできると思います。Juul氏やZimmermanらの議論は、メタ・ゲーム的な作品までを問うという視野によって、議論をしようとしているのではないということはおそらく明らかです。Zimmermanは著書の中でも自分を「アカデミシャンではなく「実践」の側の人間だ」と言っていますし、彼らは自らが仕事をしていく前提を作る上で必要となる議論をしているのだろうと思います。つまり、美大でデッサンの授業をするまえに前提となる認識が必要であるように、市場に売り出していくためのゲームを製作していくための前提となる認識を丁寧につくりあげようとしているのが、Juul氏やZimmermanたちなのだろう、と。
繰り返しになりますが――Juul氏やZimmermanらがそのような立場にたっていることを、彼らの「限界」として見出すことは可能です。だが、それよりも特定の立場を明確にしていくことが可能な彼らの議論は、技術をより精緻に深めていくための強みとしても機能するものだろう、という観点にたつこともできます。彼らの議論が精緻であることのすばらしさは評価されてしかるべきだと考える私の立場は、結局はhallyさんをはじめとする多くの方と近いところにいるものだと思っています。
*1:が、以下の議論では勝手にJuul氏の立場を憶測した上で議論しますが…
*2:注釈「2」の部分でヴィトゲンシュタインに言及。ヴィトゲンシュタインは言語の使われ方が、社会的な営みの中で調整され、変容していくものだという観点から定義することの不可能性を論じた。興味のある人は「言語ゲーム + ヴィトゲンシュタイン」あたりでググると乙。あるいは「ヴィトゲンシュタイン+探求」「ヴィトゲンシュタイン+後期哲学」
*3:もちろん、別の回答もありうるでしょう
*4:ゲームの世界で言えば、美大出身の飯田和敏による『太陽のしっぽ』はまさにそのような文脈において提出されています。元美大生だったid:TRiCKFiSHは、『太陽のしっぽ』において「目的の不在」が自覚的に盛り込まれたゲームである論じ、メタ的にゲームを問うものとして高く評価しています。もちろん、このような評価は別の文脈においてはガリっと逆転して『超クソゲー』という大ヒットした本の中で『太陽のしっぽ』はクソゲー=面白くないゲームとして位置づけられています。
2005年11月03日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2005年11月02日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■”The Game, the Player, the World: Looking for a Heart of Gameness” (2003)
id:hallyさん
デンマークのルドロジストであるジェスパー・ジュール氏が執筆した、ゲームの定義の決定版ともいえる論文 "The Game, the Player, the World: Looking for a Heart of Gameness" (2003) を翻訳しました。
さすがhallyさん、えらい…えらすぎる…
http://www.jesperjuul.dk/text/gameplayerworld_jp/
hallyさんおよび、ジュスパー・ジュール氏に深い尊敬の念をこめて、一通り読んでみてのコメントをさせていただきます。
1 基本的な立ち位置について
まず、前からたまに言っている通り「ゲームの定義」に対する私の基本的な立場というのは、「定義単体を提示されても、定義の良さを評価することは不可能」というものです(定義が不要だ、というわけではなく)。その私自身の路線に従うと、ジュスパー・ジュール氏の方向性とは基本的な立場の違いというのを、まず確認しなければなりません。
ただ、そのような立場上の違いというのがあるにせよ、ジュスパー・ジュール氏の議論は大変興味深く感じられるものでした。一言で言うならば、日本ではグレッグ・コスティキャン氏の議論として深く親しまれているものをより精緻化させ、多様な要素の組み合わせとして広義のゲームモデルと狭義のゲームモデルを段階的/立体的に論じていくというものです。
これは、ジュスパー・ジュール氏自身が述べているとおり、コンピュータ・ゲームのみをモデル化したものではなく、古典的なゲームモデル全体にさかのぼって定義しようとこころみたものですが、このような射程において「ゲーム」を整合的に捉えようとする立ち位置としてはかなり水準の高い議論であるというのはhallyさんとまったく同意見です。
先に述べた、私の立場は「定義単体を提示するだけでは定義そのものの評価はできない」という立場は変わりませんが、―――「定義」というか、ゲームとはどういうものかという精緻な「モデル」を素描してみせることには、一定の応用価値はあるだろうと思っています。たとえば、そうして精緻に描かれたゲームのモデルを読者に提示することによって、読者が対象に対するより多様に開かれた、そしてキメ細やかな認識を得る手助けになるのならば、そのモデルは二次的に価値を持つのかな、と思います。
なので、この話をゲームの「定義として優れている」と言われてしまうと、抵抗を感じるのですが、「説明モデルとしての応用可能性が高いモデルだ」とかと言えば、私みたいな立場の人間にもアピールできると思われますので、ちょっと論文の立ち位置そのものを少しズらしてみてはいかがでしょう、と思いました…が、それは英語で書かなければもちろん著者には伝わらないのですな…
2 細かいツッコミ
- ホイジンガが参考文献に上がっていて、英語版の文献の出版年が1950(1944)と書いてありますが、これって原書は1938年では? (あと、カイヨワの本について、後ろの参考文献ではちゃんとかかれてますが、表では1961年と書かれてますが原書は1958年ですね。)
- カイヨワの話として、「未解決事項」というチャプターの「分離と非生産性:対価交渉の可能な結末」においてカイヨワ批判がなされていますが、これは多少読者の側に注意が必要かと思われます。ジュスパー・ジュール氏はたぶんご存知だろうとは思うのですが、カイヨワについて批判する場合、カイヨワの議論の対象としている語彙が「game」ではなくて、フランス語なので「遊び」と「ゲーム」のまざったような概念になっている(はず)というのに頭をめぐらしておく必要があるかと思われます。ですので、"game"のモデルを描写するという立場からのカイヨワ批判というのは微妙にイケてないです。もちろん、カイヨワのモデルがあまし論理的に整合的でない、という批判そのものはジャック・アンリオをはじめ数多くの人がやっているところなので、整合性をつきつめたいノリで議論をしようする人にとって我慢ならない気分がしてきたりするのはとてもよくわかりますが(笑)
- 2つ目に登場する表:多くの論者の論点を10項目に分類してみせた表ですが、これはちょっとまだ洗練させる必要がありそうですね。たとえば、「結果」の項に、「不確実(Cailois)」と「数値化可能な結果(Zimmerman&Salen)」がならんでいたり、「仕事でない」の項に「自由/自発的(Caillois)」と「娯楽(Kelley)」がならんでいたり、「フィクション」の項に「表現(Crawford)」と「安全性(Crawford)」がならんでいたりするのには、多少強引なものを感じます。並列の仕方が強引であること自体はかならずしも責められるべきものではありませんが、多少の強引さをはらむならば、その強引さを納得させてくれるだけのロジックを用意しておいてほしいな、と。
- また、同じ表についてですが、「仕事でない」概念は、これ、ホイジンガ、カイヨワ系統の「聖なるもの」概念とかとも接続されてるんですよね。やっぱり、これはジュスパー・ジュール氏の"game"より射程が広いんです。ホイジンガに至っては、「祝祭」とかまで「遊び」の範疇に含まれているので、この「仕事でない」概念は「未解決事項」っていうか、「議論の対象が違うのでどうしようもないです。以上。」 で済ませていいのではないでしょうか。
3 この論文が画期的に面白いと思えた点
モデルの素描以外では、「ゲーム実装とゲーム脚色」「コンピュータとゲームの親和性」というチャプターが大変に興味をひかれるところだったと思います。
「ゲーム」という概念が遊具のようなモノに直接結びつくものではなくて、モノとは別のものとして「ゲーム」というものが存在している、ということを論じたうえで、
- 1.演算処理: ゲームメディアがルールを維持し、プレイヤの入力によって何が起きるかを決定する方法。
- 2.ゲーム状況: 現在のゲーム状況を絶えず管理するもの。
- 3.インターフェイス: ゲーム状況にプレイヤが及ぼす影響の詳細度。たとえば「はい・いいえ」で選ぶだけなら1ビットになるのに対し、プレイヤ自身がゲーム状況の一部となる競技スポーツでは、影響は計り知れないほど詳細になる。
の三つがゲームメディア(≒遊具)の持つ「ゲームをサポートする性質」として、描かれ、「このサポートする性質」との関係において、なぜコンピュータとゲームが親和性を持つのか、ということを説明しようとしてみせています。
ここのところは記述があまり厚くありませんでしたが、モノと"game"との関係性/親和性をどうやらうまく描写できそうだ…!できるっぽい…!という雰囲気は研究をすすめていく方向性としてとても示唆に富んでいるように思えます。
「なぜコンピュータというメディアがひろまるにつれて、これだけ多くのゲームが発案され、流通するようになったのか」
というのは、コンピュータ・ゲームに関する問いとして非常に大きなものの一つだと思いますが、この問いに答えうるような説得力をもつ説明を提出しているのはこの論文の大きな価値だと思われました。
2005年10月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■東大ゲーム研究プロジェクト講演
次の東京大学のゲーム研究プロジェクト(10月28日)で、講師をつとめさせていただくことになりました。内容は最近考えていることというよりかは、昔、少しだけかじった遊び論の内容を、僕なりにお話させていただくという感じになりそうなので、ゲームを論じる方に面白い内容と思っていただけるかどうか大変に不安ではありますが、興味のある方は東京大学ゲーム研究プロジェクトのページにて「定例研究会メンバー」としてご登録の上、お越しください。
2005年08月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■テレビゲーム解釈論序説―アッサンブラージュ 八尋 茂樹 (著)
まだ精読はしていませんが、以下は数時間かけてざらっと読んだ限りの簡単な感想です。もう一度読んだら感想がかわるかもしれません。という留保付きで。
1.
著者が私なんかよりも数倍努力しているであろうことは素直に認めます。それほどにこの著者はものすごく頑張ってこれを書いています。参考文献もけっこうがんばって引っ張り出してきているし、データ作りにかけている時間も単純な量としては「すごい」と思いました、
2.
ただし、それだけの美点を本書が持っているにせよ、本書にいまひとつパッとしないもの感じてしまったこともまたまぎれも無い事実です。章ごとの問題設定や結論といった部分がまったくクリアーではない。本論の中でいろいろな方法論によってRPGの諸要素を配置・解析しようとしているのはわかるし、個別のネタの水準でいえば比較的に面白いものも少なくないです。それは間違いのないことです。しかし、何を言いたいのか、何を悩んでいるのか、そういったことがまったくよくわからないといった印象を持ちました。結論がパッとしないことを責めるのが酷であるにせよ、せめて問題意識の明瞭さ/あるいは議論の仕方そのものにもう少し深みのあるものが欲しかったというのが正直な感想です。*1
羅列、分類をしてみせたその先が見えない。あるいは羅列するにしてももう少し計量的にやってみせるという方向性に行きえたのならば、まだ興味深く読みえたとも思うのですが。
3.
全てを影響論*2にからめつつ論じて見せようという意図=統一的な議論をしてみせようという戦略は見て取れます。だが、それは本書の中心となっているというよりかはむしろ、毎章ごとに「なんか変なところにつながっていくなー」と感じさせてしまうような、妙な「下心」といった印象におさまってしまいました。影響論にからめることで多くの人に興味をもって読んでもらえるのではあるまいか…!という戦略は間違っていないとは思います。ですが、しかし著者はたぶん本当に影響論に興味のある人だとは思えません。それはおそらく切り口でしかない。だがしかし、興味がないけれども、むりやりに影響論をベースにしてしまおうとしています。このような論文の目的の分裂傾向が、けっきょく分析の焦点を常に中途半端な着地点へとしか着地させていないのではなかろーか、と。
4.
ですが、最後にもう一回誉めますが、間違いなく労作ではありますし、今後同様の試みを目指す人にとっておおいに参考になる一冊であることは間違いないでしょう。著者の今後の活躍を期待します。
と、こんな感じでしょうか。
ほかに感じたことは
5.
個別の話になりますが強烈に感じたのが「調査概要の書き方」なんですが、調査したゲームのタイトルを各章ごとにダーっと挙げるというだけというのは調査概要の書き方としてこれでよいものだろうか、と思われました。これは八尋氏個人への批判というのではなく、ゲームを調査する、といったときにどういった形の調査方法を提示しえるのか、というフォーマットが開拓されていないことにも起因していると思うので、ここらへんは大きな課題ですね。
6.
また、手堅い内容?というか、むしろ「批判可能な内容」は含んでいないとは思いましたが、いまの時期のゲームの議論をするのに、このようなスタイルは本当に必要とされているのだろうか、というのが本書に対する疑問の一つとして感じもしました。もう少し議論を引き起こすような冒険をしてナンボなのではあるまいか、と。アカデミックな人であればあるほどにもっと批判可能な形式のものを書いてもよいのではるまいか、と。*3
7.
著者の経歴が「早稲田教育・英文学科」→「茨城大・教育学研究科修士」とだけ書かれており、年齢とかがよくわからないのですが、この人の学問的な教養のベースは海外文学なんだろうな、と思われました。社会学的?な分析らしきこともやってはいるのですが、どうも引用とかの内容をみてると海外文学への造詣の深さのようなものを感じます。私は文学系の批評ではない「日本人の書いた海外文学の学術論文」の作法というのは不案内ですが、中途半端に社会学とかのフリをしたりするのはやめて、もっとガリガリに文学野郎な雰囲気で全編押し通してみてくれたほうが面白かったのではないかという気もしました。
2005年08月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■もっと書きたい方へ
はてなでいろいろ質問させていただきましたが、まだ書きたい!という方は以下にコメントをお願いします。
また、その際にはこのURLが、「はてな人力検索」とは別のアーキテクチャによって運営されている個人向けのウェブログサービスである点に留意していただけければ幸いです。すべてのコメントにコメントを返す義務等はなかったり、私が微細な金額であれお金を払うという関係性にはないことなどなど。
8-14追記:
- http://www.hatena.ne.jp/1123379897
- 「あなたが「ゲーム性が高い」と思うゲームを5つあげ、どのような点に対して「ゲーム性が高い」と思った(感じた)のかを、作品ごとに、簡単にでかまいませんので説明をしてください。」
の追加がある方はこちらの日のコメント欄にどうぞ!
2005年08月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ファミ通のクロスレビューの影響力
まだ、完了してませんが、4月ごろの私のエントリ→http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050409#p2 に関連して、以下のようなアンケート調査を行っています。
ファミ通のクロスレビューを参考にしている、あるいは参考にしていたことのある××代の方にお聞きします。
あなたがファミ通クロスレビューを参考にした時期は次のうちどれですか。「だいたい」でかまいませんので、あてはまるもの全てにチェックをつけてください。
という質問を「10代」、「20代」、「30代以上」で年齢別に、3つほどかましています。
- (30代以上)http://www.hatena.ne.jp/1123349315
- (20代)http://www.hatena.ne.jp/1123349514
- (10代)http://www.hatena.ne.jp/1123349762
とりあえず、現在の集計結果を以下、簡単にExcelでまとめてに表にしておきますと、以下のような感じ。
まあ、20代以上の読者に対して影響力が低下しているのは隠しようもない事実だとして、10代の読者にはまだ影響力を確保してるんですね。ただ、これ、盛り上がりが規則的に10年スパンで訪れていればまったく問題ないと思いますが、3年スパンで盛り上がりがきて、さがっちゃってるのはつらいっすな。結局、2000年以降はすべて右肩さがり。
終わったらまた別途にページをつくりまーす。
あと、
あなたが「自由度が高い」と思うゲームを5つあげ、どのような点に対して「自由度が高い」と思った(感じた)のかを、作品ごとに、簡単にでかまいませんので説明をしてください。
→ http://www.hatena.ne.jp/1123378733
あなたが「ゲーム性が高い」と思うゲームを5つあげ、どのような点に対して「ゲーム性が高い」と思った(感じた)のかを、作品ごとに、簡単にでかまいませんので説明をしてください。
→ http://www.hatena.ne.jp/1123379897
の二つがあまり回答が芳しくないようですので、お時間のある方は嫌にならない範囲でつきあっていただければ。
(2005-8-13:注意書き追記)
- この記事がはたまたカトゆー家からリンクされてされてしまって人が大量にきているようなので、誤解なきよう、早めに注意書きを付け加えておきます。一言で言うと、この調査はあまり信頼性の高いものとはいえません。
- 今回のはてなアンケートを用いたアンケート結果にはさまざまなデータのバイアス(ゆがみ、かたより)がありますが、特に考慮したほうがよいものを三点挙げておきます。
- 調査項目に「参考にしていなかった」という項目を付け加えていないこと:あくまで「参考にした」人だけの数なので、ファミ通の趨勢自体は微妙にフォローできていないところがあります。はてなアンケートがクロス集計をしやすいような機能を実装してくれればもう少しどうにかなるのかもしれませんが…。
- 答えたい人だけが答えているアンケートであること:はてなアンケートの根本的な問題ですが、答えたくないユーザーは答えていません。そのため「この話に興味を持った人」たちによる回答としてのバイアスがあります。このバイアスはかなり大きなものです。
- 答えた人の記憶が「だいたい」でしかないこと:「だいたい」で答えてもらっていい、といいましたので、そこらへんかなり記憶が曖昧な状態で答えていただいた方が多いかと思います。特に86年~87年ごろにけっこうな数の人が「参考にした」と答えていますが、これは本当はおかしくて、この当時のファミ通はファミマガなどに比べるとややマイナーな、創刊してからあまりたっていない
月刊誌隔週刊誌だったと思うので、これだけの数の人が「参考にした」といっているのは少し奇妙な印象があります。おそらく86年~87年のころに「参考にした」と答えていただいた方は「ファミコンが流行っていた頃に参考にした」という程度の意味で答えたのでしょう。厳密に86~87ではないと思われます。
- また、バイアスではありませんが、誤解なきよう注意してほしい点を一つ挙げます
- クロスレビューを「信用」ではなく「参考」とした時期を聞いていること:2ch風に言えば「ファミ通信者」ではなくとも、「参考」にしている人は大勢いますので。誤解なきよう。
2005年08月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■続編ものを憂慮しはじめたのはいつごろか?
ゲームがつまらないな、と感じた時期について、書いた、続編ものを憂慮する声はいつからなのか、という統計情報とかがないよね、という話を書いたら、ゲームを語ろうの沢月さんから面白い指摘をいただきました。
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/gdiary05.html
「ファミリーコンピュータMagazine」(徳間書店)1988年14号P125「週間ゲームベスト20」のコーナーにあった、編集部コメント。これは読者アンケートから集計した「前人気ベスト20」についてのものだ。
「いつのまにか「2」ゲームがベスト20の半数を占めていた
超人気ゲームの「究極ハリキリスタジアム」と「妖怪道中記」が抜けたあとも、変わらず人気を集めているマリオ3と燃えプロ'88が1位と2位を占めた。
それにつけても、このベスト20を見て驚くのは、前に出たゲームと同じ題名をつけた「2(ツー)」ゲームの多さだ。燃えプロ'88とマリオ3を含め、全部で9本もある。この「2」ゲームの流行は、メーカーにとっては知名度があって宣伝がしやすいからかもしれないが、ユーザーにとっては新鮮さがなくなり、現在の「元気のなさ」の原因になっているような気がする今日この頃…。」
創刊号から1990年分までざっと読んだけれど、いわゆる続編ゲーム(この時にはまだ呼び名がなかったのね)の多さを憂慮するコメントはこれが(ファミマガでは)最初だったように思う。以後「ゲーム大賞」講評などで時折見かけるようになったが。
っていうか、沢月さんも80年代資料を集めていらっしゃったのですね。
■死の表現をめぐって 補足
あと、先日の文章<死の表現をめぐって>を公開してから二週間たちますが、私が90年代のコンシューマーゲームの死の表現を「隠蔽」として評価してしまっている、というように受け取った方が多いのに少し驚きました。誤読などと言うつもりはありませんが「隠蔽」と書いたのは単に議論の切り口でしかなく、私が「隠蔽」などということを結論として提示してないことはきちんと読めば通じるはずだろうと、……いや、まあ、そのような「読まばわかるはず」というほどに読みやすい形でなかったこともありますが(笑)、「隠蔽」という評価が私の意図ではない、ということだけを控えめに主張しておきます。
まあ、どのような読み方をされたのであれ、あんな読みにくいものを読んでいただけたのであればそれで十分なんですが。
2005年07月17日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「死の表現」をめぐって
昨日に引き続き、大手ニュースサイトに死の表現が「ネタ」カテゴリーで取り上げられ*1、あわせていろいろなところから言及いただいているようなので、ご紹介を兼ねてちょうどいい機会なのでダラダラと書きます。
長文ですが、あまり推敲とかしてないので読みにくかったらすみません。
ドラクエ「あなたはしにました」
漂流皇室のミレマさんの、ドラクエの露骨さに驚いたとかというのをはじめ、「あなたはしにました」のインパクトはすごかった!というようなコメントをいただいたのが半分近かったです。印象深かった一言コメントは(D.B.E三二型)さんからDQ2「おお ×××!しんでしまうとはなさけない…。」によせられたコメント↓
「情けない」程度で片付けられる幸せと矛盾。
的確な指摘です(笑)
FF「せんとうふのう」
あとは、FFの「せんとうふのう」に関するご意見がいくつか見られました。特にまとまった形で言及していただいたのがid:Iron-9さん
http://d.hatena.ne.jp/Iron-9/20050716#decease
ゲームにおける死に関しては、ひとつよく覚えているものがある。何年か前、『ファミ通WaveDVD 2003年10月号』でやってた『ファイナルファンタジー10-2』特集で、読者から募集したやり込みビデオを出演者である松本まりかさんが編集者のあらじ谷塚さんと一緒に審査するというコーナーだったんだけど。その中の、レベル1のユウナだけでゲームを進めるというやり込みで、最初の戦闘でパーティーのユウナ以外のキャラクタを戦闘不能にするというのがあった。そのビデオを見終わって、松本さんが「リュックもパインも死亡させちゃうところが、ちょっと極悪ですよねー」と言うや、あらじさんが「死亡と言うか、戦闘不能状態……」と言い直していて。それだけのことなんだけども、見てて衝撃的だった。「死亡って、言っちゃいけないんだ」と。普段RPGやらんからあのジャンルでの言葉の使い方というものを知らなかったのだけども、ああそうなのか、と。あの作品では死は隠蔽されているのか、と。
それは確かに衝撃的で面白い話ですね。
ファミ通の編集者とかに対して…というか業界全体レベルでそういった暗黙の制約ってどの程度の保たれているのでしょうね。実際に、そこらへんの表現について厳しく言って回っている特定のメーカーとかが存在するという話は聞いたことがありませんが、そこらはんは誰が取り締まっているわけでもなく、なんとなくの「おやくそく」として、いつのまにかそういう自主規制(?)のようなものが成立してるんでしょうか。わかりませんが。
「隠蔽」の評価をめぐって #01 理論編?
同じくIron-9さんより
例えば『グランド・セフト・オート3』なんかは、残酷なゲームの代表みたいに言われていて、なるほど、車を盗んだり、通行人を殺したり出来る。でもさ、殺せはするけど、その行動に対してはちゃんとペナルティがあるんだよね。あのゲームの世界では現実同様に警察というものが存在して、犯罪を犯しているところを見つかるとしっかり犯罪者として追われ、悪事を重ねるごと上がる指名手配反としてのランクに比例して警察の追及の手も厳しくなっていく。それに対して、日本国内では人気のジャンルとして楽しまれているRPGはどうなのか。敵を撃って、斬って、殴って、叩いて、焼いて、感電させて、凍らせて。で、経験値やお金やアイテムなんかの、戦闘の報酬を得て終わり。
死を巧妙に隠蔽することで低年齢のユーザーでも気にせず遊べるようになるのは分かるのだが、でも、「隠蔽してはい終わり」でいいのか? 製作者が「これは死んでいるわけではありませんよ」と言えば、それでいいのか? プレイヤーの操作によってキャラクタが取っている行動は同じで、暴力には変わりないのに、その行為に対する現実的な結果を隠蔽することが、直接的に描くよりも良いことなのか?
90年後半の低年齢向けユーザーに配慮したコンシューマー市場の「死」の表現について、「隠蔽」でしかないとして評価してしまうのならばIron-9さんのこういった議論は非常に妥当なものだと思います。
ただ、問題はここで議論になっている「行動」の中身がどのようなものなのか、という点にも焦点があてられてよいのではないでしょうか。たとえば、該当記事のコメントでも少し書きましたが、ゲーム中の命の表現について低年齢向けユーザーを抱え込みながらも一番露骨にものすごい表現をやってしまっているのは、旧エニックスの『ドラゴンクエスト』シリーズの「××はしんでしまった」であるとか、任天堂の『スーパーマリオワールド』にある命の交換をしてしまうシステムだというのがあります。「命を一番粗末に扱っているゲーム」というだけならば神奈川県によって有害図書指定をうけた『GTAIII』よりも『スーパーマリオワールド』のほうが100倍ものすごいことをやっているわけですね。たとえば、『GTAIII』では人を殺せば一応は警察に追われるわけですが、『スーパーマリオワールド』では実の兄弟から命を奪っても、一切罪に問われることはない(笑)。
ただ、ここで起こっていることは何なのかと考えると、本当に任天堂やエニックスが人命というものを軽く考えているのだ!とか、そういった問題ではなさそうです。ここで、任天堂やエニックスがこういったラディカルな命の表現をしてしまう、というのは命に関わる表現の顕在/潜在だとか、命を軽く扱う/扱わないといったこととは別の観点からなされているものだろうと思うのです。
それは、おそらく*2(1)ビデオゲームを小説・映画・漫画などと連なる「表現」のメディアだとして捉えるのか、(2)それとも「勝ち負け」などを競う「試合」のようなものとして捉えるのか、といったことではないでしょうか。
前者では一般的にいえば、「死」をいかに厳粛なものとして表現するかに重点がおかれ*3、後者において「死」は単なる「試合の勝ち負け」を表現するための便宜的な言葉にすぎないという側面があります。つまり、そのような「ゲーム」観のもとでは、「死」という表記は、対戦相手の「GAMEOVER」「LOSE」といった言葉によっていくらでも置き換え可能なものとして捉えることができます。
そのような「試合」という観点をベースにすえた場合、ゲームの中における「命」はあくまで「試合」のシステムにおける一つの道具、資源でしかなくなります。そして、「試合」としてゲームを捉えるという観点は、決して現実的な日常世界*4における倫理的基盤を崩壊させようとするものであるよりは、勝ち負けの世界の論理を日常の世界からスッパリと分離してしまうことによって日常の倫理的基盤を強力に下支えするようなものですらあるはずです。任天堂やエニックスが堂々と命を粗末に扱ってしまう感覚は「ゲーム=試合」として捉えるような伝統的なゲーム感*5を下敷きにしている限りにおいては、まったく問題なく道徳的なものであるといえます。*6
「隠蔽」の評価をめぐって #02 FFを題材としたケーススタディ?
(以下、FFシリーズについてのネタバレ含みます)
さて、ここまでは『スーパーマリオブラザーズ』と『ドラゴンクエスト』に対する話だったので、もう一度『FFX-2』に対して投げかけられたid:Iron-9さんの疑問を、少し広めに再定義して考え直してみたいと思います。
「90年代後半における低年齢層を含むコンシュマーソフトの間――今回はSFC以降のFFシリーズ*7――で、死の表現に対してやわらかな自主規制をかけていったことは結局ただの隠蔽にすぎないのではないか。」と。
これに対して、さきほど述べたような観点から実質的に*8NPCやPCが死んでるのか、死んでないのかといったことを切り口として、基盤となっている「ゲーム」観は、<表現としてのゲーム>であるのか、それとも<試合としてのゲーム>であるのか、をみていくことにします。
とは言ってもあまりに詳細な議論をしていても日が暮れてしまうので、結論から言ってしまうと、「表現」か「試合」かという点についてFFシリーズはとても微妙な立ち位置をとっています。
周知のように、FFシリーズは、伊藤裕之氏あたりを中心に、「面白さ」の強度をどんどん上昇させようとゲーム内独自論理としてしかありえないような複雑なバトルシステムの実装が行われていったシリーズです*9。この点では、ゲーム内世界=現実の模倣、表現とかっていうよりは、ゲーム=試合というような観点を下敷きにしているといえそうです。また、FF5のギルガメッシュや、FF6のオルトロスのように、戦闘に勝ったとしてもシナリオ上で彼らが「死んだ」ということにはならないようなキャラククターも出てきますし、逆に対ボス戦でプレイヤーキャラクターが殺されても圧倒的に強すぎるような敵ボス戦については負けたとしてもシナリオが進行し、死んだことにならないというようなこともしばしば出てくることになりました。これは、90年代に日本のRPGをある程度やっていたプレイヤーならごく当然のように知っている「おやくそく」です。
しかし、逆にFFシリーズにおける「死」の取り扱い方が、試合の論理よりも表現における論理を重視してきたというような点も見受けられます。開発スタッフとして一部では強烈に恨まれると同時に熱狂的な憧れの対象ともなっている野村哲也氏の発言を引用します。*10
野村:本当のところをいうと、『FFVII』のテーマは「命」だったんです。坂口さんから「命をテーマに描く以上、生と死を描かなくちゃいけない。とくに死を描かなくちゃいけない」という指示があった。キャラクターの死で、プレイヤーに痛みを感じさせたかったんですね。そうするとヒロインのエアリスの死を描くのが、一番痛くて、重いわけです。ならば、その死をちゃんと描くためにも、エアリスの死を表現することになりました。
このような発言*11にも明らかにみられるように、FFシリーズは明らかに「試合」としてのゲームのロジックだけではなく、「表現」としてのゲームのロジックによっても作られている作品です*12。二度と生き返ることのないプレイヤーキャラクターの「死」が実際に表現されたり*13。そして、シナリオの中で敵が生き返ったり死んだりを繰り返すわけですが、ここで着目したいのは登場人物や敵がいかなるときに死に、いかなるときに生き返るか、ということです。ラスボスと戦っても、本当の最終決戦になるまでラスボスを倒すことはできないし、味方が死ぬ場合もプレイヤーの行った戦闘の結果として味方の死が決定されるということがないというのは先ほど書いたとおりです。そのような形で「戦闘」と「死」のほぼ完全な分離という仕様の設計*14は、戦闘を純粋な「試合」として成立させているのと同時に、「死」の問題を完全にシナリオ側の優位によって――「優位」というの、たとえば、エアリスの死はプレイヤーが戦闘でどうあがこうが変えられないし、ラスボスが死ぬ時期を決定するのもプレイヤーによっては変えられないという形で――決定するようなものになりました。
このような状況下においては、「殺害行為の実際」は個々人のプレイヤーレベルで、そのリアリティを問うていくしかないのではないか、と思えます。もはや、実際に敵を殺害するか/しないか、というような決定権はプレイヤーには委ねられていない。その中では当然のように、敵を「殺害」するという意識をほぼ完全になくして、「戦闘における勝ち負け」と「シナリオにおける死/殺害」といった二つの事柄をまったく別の次元の問題として処理しているプレイヤーたちの姿―――たぶんそのような感覚こそが90年代以降の日本のRPGプレイヤーたちの実感なのではないでしょうか*15。少なくとも私はそういった感覚の中でしかFFをプレイできていません。ファミ通の某編集者のように「死んだ」をわざわざ「戦闘不能」と呼びかえるほどの神経質さを持たずに、「死んだ」という言葉を「負けた」という程度の意味において気兼ねなく口に出してプレイしている――それが1980年生まれのゲームプレイヤーであるわたしにとっての『FF』の戦闘における「死」のリアリティですし、それはまったく特殊なものでないはずだ、ということを特に力を込めるまでもなくフツーに信じています。
ただ、私のような感覚が一方にあるとしても、それが全てではないこともまた事実です。id:Iron-9さんの議論は、ゲームの戦闘における「死」が試合としての「負け」ではなく表現としての「死」の延長線上にあるのならば、それをムリヤリ隠蔽するような仕方は、「汚いものにはフタをしろ」というだけの極めておろかな対処にすぎないのではないか、という批判でした。それは、もちろん戦闘における「死」のリアリティが「敵を本当に殺害するということのリアリティ」*16とは完全には切り離しえない限りにおいて有効な批判となりえます。ですが、『FF』をはじめとする90年代の主要なRPGにおけるリアリティは、「汚いものにはフタをしろ」というよりも、それが本当に汚いものなのかどうなのか、行為の汚さのレベルを意味不明な形に落とし込むことで、そこにフタがされているのかどうかもよくわからない状態にしてしまったのではないかと思います。
そして、このような戦闘とシナリオと「死」の結びつきを意味不明な形に落とし込むという『FF』のやりかた*17をどう評価するか、というと曖昧な対処法でしかないという限りにおいて(ものすごくダメっていうわけじゃないですが)これを全肯定するべきだとも思いません。これは単なる「隠蔽」以上の、スクウェア*18が、苦心の末に編み出した苦々しい方法だったのだろうと思います。だがこのような形で「死」と「戦闘」の関係を曖昧な形で提示している限り、『FF』という作品のとった決断を評価するには最終的にはプレイヤー一人一人の中でいかなる形で作品の受容がなされたのか、ということを丁寧に明らかにしていくしかないのでしょう。
以下、一応の説明図
追記:この記事によせられたコメントなど
id:samonaさんより
レミングス(試合)→ピクミン(表現)という「進化」があっても、逆がないのは何故だろうとふと思った。
なんとなくはおっしゃりたいことはわかるのですが、なんとなくわからないので詳しく解説キボンヌ。
*1:「ネタ」なんですね。やっぱり…ええ。ネタとして扱っていただければ本望!でも、「X51.ORG : 馬のペニスにアナルを突き破られて死亡 米」http://x51.org/x/05/07/1605.php としょっちゅう並列されいているのはビビりました。いや、まあ、単にいま流行りのニュースということなのでしょうが。ええ、うちのサイトはそのカテゴリーなのだということで。
*2:「おそらく」でしかないわけですが。
*3:と言い切ってしまうのにも実はけっこうためらいはあったりします。たとえば、映画であろうが、教養の証として権威付けされているような古典の小説であろうとも、英雄譚などにおいては、英雄が人を敵をバッサバッサと切っていくという行動原理がごく当然視されるたりするものなので、もっと厳密に言えば、その作品ごとの中でいかなる行動原理が当然の前提として置かれているのか、というようなところが「死」の表現にとっての大きなガイドラインとして存在しているような気がします。「死」の表現はそのように前提とされたガイドラインの<内―外>の境界線上で常に行われていて―――例えば、驚くほど敵を殺すことに対して無頓着であるような英雄譚であっても、「敵の死」というガイドラインを潜り抜ける「身内の死」とくに「身内の非戦闘員の死」とかだけは別の問題として扱おうとする志向性が見られたりするといったことがあるので、小説だから、ゲームだから、というようりも、その作品が「死」に対するいかなるガイドラインをはじめに設定しているのか、という問題のほうが実は重要かもしれません。ただ、今回はその話まで含めて話をすると議論に収拾がつかなくなりそうなので、若干の単純化をお許しあれ。
*4:⇔非日常、祝祭空間としてのゲーム、遊びの世界、というような意味で使っています。実際には、ゲーマーにとってのゲームはまぎれもなく日常的な行為であるわけですけれども…まあ、そこのところの言葉遣いはなんとなくで了解していただければ。
*5:もちろん、「もっと」伝統的に言えば、敗北は死に結びついていたじゃないか、ということもあります。古代からスポーツの発祥史をさかのぼっていけば、そこに血なまぐさい状況がからんでいたという経緯はあります(たとえば松井良明『近代スポーツの誕生』を参照)。が、となると、問題はテレビゲームだけではなく、野球やサッカーも問題にしなければならなくなり……そういうことはここで目指されている議論ではないでしょうから、省きます。
*6:だいぶ前に、GTAIIIが私にはあんまり面白くない、と書きましたがGTAIIIが私にとってあまり面白くないというのも、GTAIIIが下敷きとしているような「犯罪者」としての行動原理をプレイヤーである私自身の感覚に組み込むことができないからかもしれません。「犯罪者」の物語は映画・漫画・小説等でそれなりの数を見て楽しんでもいますが、自らが犯罪者として行動するという行動原理はやっぱり感覚としてついてゆけず、ただ単に「殺す」ためのロジックの欠如した――つまり「敵」でもなんでもない一般市民に対して殺人を行っていくという行為にはどうしても違和感を否めませんでした。
*7:FFTとか、FFCC、FF11はまた微妙に違ってくるので今回は除外して考えます。厳密にはFF4,5,6,7,8,9,10,10-2の8作品。売り上げ合計にすると軽く1000万本越え。
*8:この「実質的」という言い方もカナーリ微妙ではありますが。まあ、物語上で死んだことになってるのか、どうか、程度の意味で捉えてください。
*9:アビリティシステムとか、マテリアとか、ジャンクションとか、魔石とかATBとか…
*10:『ゲームマエストロ vol4』P126-127 インタビュアーは志田英邦
*11:ちなみに、その直後にこう続きます「●志田:ロールプレイングゲームにおいては、全滅すると普通はゲームオーバーです。だから、またやり直す。つまり、プレイヤーにとって死はやり直しがきくものなんですよ。にもかかわらず、『FFVII』のストーリーの中には絶対やり直しがきかない死がある。そこにプレイヤーは反発していたんじゃないですか。●野村:登場人物が死ぬというのは、ロールプレイングゲームではありえない展開ですよね。だからこそ、死がダイレクトに伝わる。エアリスの死が唐突だという意見もあったんです。でも、あえてそうしてあるんじゃないでしょうか。突然やって来る死の哀しみ。あれも離しておきたかった、あれも伝えておきたかった、後悔する哀しみ。それが表現されているんだと思います。」とのこと。見事に「試合」としてのゲーム観と、「表現」としてのゲーム観のミスマッチをたずさえたまま対話が進行していっているという印象を持ちますね。志田さんのつっこみというのは、「表現」としてのゲーム観としてよりも、「試合」としてのゲーム観の中で反発が起きたのではないか、と質問しているのに対して、「いや、表現がやっぱ…」という言うだけというこのミスマッチ。
*12:激しく蛇足かもしれませんが、作られている=成功している という意味ではありません
*13:FF5のガラフや、FF7のエアリスなど
*14:ここではFFの話しかしていませんが、FFを中心にしてメジャーなRPGの多くがこのような仕様でした。また、http://www.critiqueofgames.net/data/statistics/dead.htmlのほうで書きましたが、全てのRPGがそうだったというわけではありません。
*15:これは本当にきちんと調査する人がいるとよいですね。ここまでの議論はなんだかんだ言っても私の推測の域を出ないといわれてしまえばそれまでなので
*16:これって説明が難しいですね。「二度と生き返らないこと」とでもとりあえずしておきましょうか
*17:それは多分、そこまで自覚的に全てがなされたものではなかったとは思いますが
*18:現スクウェアエニックス
2005年07月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「ゲームがつまらないな」と感じた時期 #03
三ヶ月前に掲載した「ゲームがつまらないな」と感じた時期を年代別に聞いたアンケートに、カトゆー家断絶からのリンクがあり、そのリンクに連鎖する形でいろいろなところからリンクをいただいたようです。
で、那緒のつれづれ日記の那緒さんによれば
図1をみると1999年~2001年あたりにつまらないと感じる人が多いみたいです。
ちょうどこのころは大作ゲームor続編ゲーム乱発してた時期かと。
とのご意見をいただきましたが、それは「たぶん」ですが、那緒さんの主観に大きく左右されているものかと思います*1。ゲームの大作化・続編化を嘆く声はもっと前から散見されました。*2
とは言っても、それが具体的にいつからなのかをあんまり厳密にいえないのが悲しいところで、ネット上をちらっとググッてみたところ続編タイトル/大作タイトルがゲーム市場に占める割合が時系列でどのように変化してきたかを示す統計情報は見つかりませんでしたが*3、これは「続編」については多分エクセルか何かに整理して持っている人がいればある程度すぐにデータとして出せるものだという気がします。
ということで、以下はデータとして出してみたい、という人向けの提案です。
「続編」
- 単純に「発売タイトル全体に占める続編タイトルの割合」については、
- 今まで出た全ゲームタイトル*4のうちタイトルに類似性が高いものを正規表現かなんかを利用したプログラムを組んで、「続編」タイトルを抽出。
- できれば正確性を増すために「続編」にあたるかどうかを人力で確認
- 年度ごとに「続編」タイトルが占める割合を算出
という手続きである程度面白いデータが出てくると思うのだけれど、誰もやってる人が見当たらない…うーん。っていうか、「続編タイトル」を嘆き悲しむ傾向が強いわりにこういったデータがデータとしてすぐに見つからないっていうのは、むしろそのことのほうが問題かも。
あと、
- ゲームの売り上げに占める「続編タイトル」の傾向については
- 毎年ファミ通とかが公表しているコンシューマーゲームの売り上げ上位100タイトルなどの情報をなるべく昔の分まで入手する。*5
- で、そのうちから続編タイトルと思われるものをピックアップ(自動 or 人力)
- 売り上げ上位における続編タイトルが占める割合を算出
というのを通時的なデータとして出していければ、これも面白いデータができるはず。ただ、これだとコンシューマーの売り上げ上位という中から抽出しただけなので、厳密にゲームの市場全体における続編タイトルが占める売り上げは見えません。ので、まあ、この方法で出される数値はあくまで「指標」として用いるという形になるでしょうか
「大作」
また、「大作タイトル」については厳密に線引きをするのが難しいですね。何をもって「大作」とするかですが、たとえばそれが「ゲームの開発費が莫大なもの」という基準で「大作タイトル」というならば、開発費についての揃ったデータが必要になります。ですが、開発費については『CESAゲーム白書』とかでさえあまり正確な数値を把握できていないことなどで、個人のレベルではそういったデータを入手することはとてつもなく難しいでしょう。それに、開発にかかる費用というのも、年を重ねるにつれて平均値となるタイトル一本あたりの開発費用がどんどん変わっていっているはずなので*6、そこでどういった線引きを採用すればいいのか、という問題もあります。あるいは、開発費全体で見るのではなく、宣伝費用だけで見て「大作」を規定するという方法もあるかもしれませんが、なんにせよ元となるデータの入手からして困難だという問題があります。
次に、データとして入手するのは大変ですが、「開発スタッフの人数」が多いものを「大作」とするならば、手間と時間と人手をかければ、データ入手は可能ですね*7。ただ、そうは言っても入手しやすいスタッフリストは大半がヒットしたゲームのものばかりなので、「人気ゲームの大作化傾向」の調査であって、「ゲーム市場における大作の割合」調査とは別の調査になってしまいそうです。あともちろんこれについても、何人以上ならば「大作」なのかという線引きの問題がついてまわります。
最も現実的に簡単な方法としては「大作」=「人気ゲーム」という形で操作的に定義してしまって、ゲームタイトルの売り上げの二極化傾向とかを調べるっていうのならば、そんなに不可能なことではないと思います。さきほども言及した、ある程度充実したゲームタイトルの売り上げデータが入手できればいいわけですから。それをもとに「負け組」と「勝ち組」の二極化傾向みたいなものがどの程度変遷してきたかを調べるぐらいのことはできるのではないでしょうか。*8
と、提案してみるだけでナンですが……まあ可能そうなものについて可能な範囲で自分でもチラッと手をつけてみるかもしれません。できればこういう提案だけを定期的に貯めていって「卒論間際の学部四年生のみなさんとかどうよ?」みたいな連携が図れればいいっすな。
というわけで、卒論間際の学部四年生のみなさんとかどうよ?
*1:とは言っても、そのような主観を表明していただくことに全く価値がない、などということを言うつもりではありません。むしろ、そのような主観が抱かれているという状態そのものが興味深いことでもあると感じます。…というか、そういう話以前に「たったニ、三行の記述にマジレスカコワルイ!」みたいなことを言われると、「すみませんでしたー!!」と体育会系的に、条件反射的に、キツツキのように謝ります。
*2:あまり意識的に調べてないですが、単純に、「続編タイトルばっか増えて嫌だわ、プンプン」みたいな話の起源的なものはは90年代初期からとっくに見られたはずです。たしか。80年代にもかなりあったかと思います。たしか。さすがに70年代にはなかったはずですが、やや似たような議論ならば、1976年12月『電子技術』誌第18巻第12号P51に「脱ボールゲームへの展望」と題して、当時のビデオゲーム市場が、「"脱ボールゲーム"になることは必至」などといった話が見られます。このとき「ボールゲーム」といわれているのは初期の単純なテニスゲームや、PONGなどのことです。●●●追記:yms-zunさんからのトラックバックで、「続編」「大作」とは少し話が違いますが、http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040402 にて「最近のゲームはつまらなくなった」式のコメントが1986年にはすでに存在している、という情報をいただきました。ありがとうございます。
*3:続編+ゲーム+統計 とかでググッてみて出てきたのはhttp://www.dj-joker.com/fukyou/yomi.cgi?mode=RePlay だけでした。
*4:手近なところでは、『広技苑』とかを利用すればコンシューマーのゲームタイトルについてのデータはかなりそろいます。ある程度きちんとしたお金が出せるなら松原圭吾氏などを召還するのがベストでしょう。なお、ZOEさんにさっき教えていただきましたが、http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/game/etc/hatsubaibi/ で広技苑のデータを元にしたゲームタイトルのリストを公表してますね。
*5:これについて、ある程度は zoocar's page →http://zoocar.cool.ne.jp/ さんがまとめていらっしゃいますね。
*6:これは年を重ねるにつれて開発費が高騰しているという単純な話ではなく、新しいハードへと移行するときに新しい環境になれば、当然開発のノウハウがいくつか使えなくなるので新ハードでの開発初期は、非常に開発費が高騰したりすることになるみたいです。新ハードが出て数年を経れば開発コストを抑えるためのノウハウとかミドルウェアとかが充実してきたりするので、そこで開発費用が下がったり。
*7:→たとえば、ざるの会の、スタッフ調査プロジェクト → http://www11.ocn.ne.jp/~zaru/zaru/etc/staff.html 、物凄い勢いでスタッフロールを集めるHP → http://www.geocities.jp/staffroll_game/ 、物凄い勢いでスタッフロールを集めるスレ(2ch) → http://game10.2ch.net/test/read.cgi/gsaloon/1103463873/1-100 、あとスクウェアのものに関しては手前味噌ですが、ケヒトさんの作成された → http://www.critiqueofgames.net/data/ros/index.html も。
*8:というか、その程度のものならば、たぶん90年代初期ぐらいからどこかでマーケティング用データとして出回ってるっぽいですね。
2005年07月15日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■FF10+ファミコン
ヤヴァイ!FF2の記憶がよみがえる!みたいな雰囲気で、むしろこっちのほうPS2版より面白くやれてしまうかもしれない……いや、実際ちょっと面白そうだ…まずい。
2005年07月08日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2005年07月05日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■リアル・タイム・マシーン展行ってきました。
そんなわけで、四日の月曜にid:dotimpactさんの個展「リアルタイムマシーン」展に行ってまいりました
Real-Time-Machine for Arcade
コントローラー一個で、ゼビウスの基盤二枚に指令を出し、別々のディスプレイで動作がわかるという代物。本当は同じゲームのはずなのに、コントローラーから出される指令のズレが蓄積してゆき、次第に双方の動きを別々に統制することが必要とされてくる。だけれども、脳みそを二つに分割することのできないプレイヤーは、チュドーン、と2,3分ぐらいでおっちんでしまう。
Real-Time-Machine for TVgame
こちらも、コントローラー一個で複数のRomに指令を出すという代物だが、こっちの場合は、意図的に時間が1/60~2/60秒フレームずつぐらいずらされており、コントローラーから一番遠くにあるモニターに映し出されるマリオはコントローラーの動きに対してほとんど遅延なく動作するが、プレイヤーが見つめるコントローラーの近傍にあるモニターでは、コントローラーからの操作の入力とディスプレイへの出力が、0.1秒~0.2秒程度の遅れを演出する。
外付けTVチューナーを持っている人はわかるかもしれないが、ちょうどTVチューナーにステレオケーブルをつないでゲームをやろうとしたときに生じる遅延がちょうどこんな感じである。アクションゲームはおろか、ほんの0.1秒や0.2秒といった遅れによってRPGすらまともにプレイすることができない。
PONGed
目に映る見え方としては、プロジェクターによって隣室に対戦相手のフィールドがうつしだされ、それと対戦しようとしているだけなのだけれども、部屋と部屋をまたいで球が打ち返されてくる間の処理には、実は地球の裏側あたりにある複数のサーバーが経由されている。
サーバーA、サーバーB、サーバーCを経由した球が2つ、3つと同時に打ち返され、「地球」という物理的空間を介した「リアルタイム」の限界が、狭い空間のモニター上に顕在化する形で提示されるという仕組み。
「リアルタイム」概念について何か書こうかと思って検索してみましたが、とりあえず「リアルタイム」でざらっと検索してみて、リアルタイム風呂沸かしゲーム「風呂」を考えた人は神だと思いました。
ゲーム中の時間はすべてリアルタイムで進み、浴槽に水をいっぱいにためるには本当に30分以上待たなければならない。お湯を沸かすのも、約20分ほど必要だ。操作は「水を入れる/止める」「湯を沸かす/止める」のみといたってシンプル。根気よくやればクリアは簡単だ。
↓以下、感想など。
というのはさておき、もう少しちゃんと書きます。
(↓以下3日後。つまり7月8日に追記)
「もう少しちゃんと書きます」などと書きかけで放置してから、数日が経過してしまいました。
しかも、待ってくださったみなさんには申し訳ないのですが、「もう少しちゃんと」などと言っているほどにヒマな時間が再来週ぐらいまで、あんまりないことが発覚してしまい、とりあえず何を書こうとしていたのかをメモ書き程度に記しておきます。*1
1
id:dotimpactさんが、言わんとしているように<リアルタイム>というのはhttp://www.atmarkit.co.jp/flinux/embedded/rtos01/rtos01a.html とかによれば、「レイテンシ(遅延)」「デッドライン」「ソフトリアルタイム」「ハードリアルタイム」みたいな様々な道具たてを媒介にしてできあがっている人工概念であって、我々にとって一見すると自明すぎるがゆえに問われることがほとんどないような「リアルタイム」という「時間」が人工的にデザインされているっていうことを、dotimpactさんの今回の試みは改めて気づかせてくれた。
2
<PC/ゲームの中の時間>というのが、<PC/ゲームの中ではない現実>の時間と比較される中で、その「リアル」概念が形作られているよーな感じもすばらしい。dotimpactさんいわく「<雷の光>(ピカピカッ!)に対する<雷の音>(ドッドーン!)の遅延が許容されて、ゲームにおける<時間>が許容されないのはなぜなのか」みたいな話ももっともで、ベタな話だけれども、人型ロボットが「人間になりたい」などという話がくだらないというのと同じような意味*2で、「PC/ゲームにおける時間」を「自然の時間」の劣化コピーとして捉えようとしてしか捉えられない価値感はもっと相対的に捉えられていいのかもしれない。
3
で、なにゆえにdotimpactさんは「リアルタイム・マシーン」と題して「遅延」というものを前面に押し出してきたのか、というと、それはたぶん人工的に形作られ、人力の努力に支えられて発達してきた「リアルタイム」概念のそのような性質をもっともあらわに、わかりやすく見せつけるのが「遅延」なのだ!…たぶん!
それはたとえば、リアルタイムの定義「(コンピューターのOSの場合)一定時間以内に処理を終了させることができる性質のこと。」(Byはてなキーワード)というような言い方があらわすように、「リアルタイム」の成否は、「遅延」の成否によって測定されるという性質を持っているからなのだ!…たぶん!
4
ということを含めて、ゲームの話にもって行きたかったわけですが…いまひとつゲームの話とじかに接続する方向性をあんまり思いつかず放置。なお、意味不明に掲載だけしておいた右の画像は、昭和54年10月30日発行『マイコンプログラム全集1』(電波新聞社)の目次ページです。「リアルタイム」ネタですぐに思いついたのがこれだったわけですが、これ、1979年の段階で*3便宜的にゲームジャンルを分類しているもので、「反射神経ゲーム」(おそらく、今で言うアクションゲーム)の下位ジャンルとして「リアルタイムゲーム」という位置づけで「もぐらたたき」「ブロック崩し」といったものが紹介されております。その下位ジャンルがどういう基準で設定されているのかは正直よくわからんのですが、まあ、こんな昔から「リアルタイム」という概念がゲーム界隈でなかなか意味不明な雰囲気で使われており、わけはわからんが面白いかもね。と。
5
なんて、うだうだしていたら、id:ABAさんがすっごいまとめてるYO!↓
この話も面白いけれども個人的に、今回のdotimpactさんの試行にフィットする話はシューティングゲームの「処理落ち」を利用してプレイヤーの技術向上を錯覚させるような部分の技術とかかな、とちょっと思った。
たとえば、「退場させられたゲーム」さんのところの『怒首領蜂』評
怒首領蜂では、通常のシューティングを遙かに凌ぐ量の弾が画面上を覆い尽くす。しかしこの弾はスピードが非常に遅く、これも計算か弾がダンゴ状に重なり合うこともあまりなく、実際避けるのはさほど困難ではない。プレイヤはこの弾幕を避けることに恍惚を覚える。
ここで言われているように、処理落ちによる錯覚によって『怒首領蜂』ゲームの中の時間のリアリティが、モニターの外側でゲームに接するプレイヤーの意識を逆転して支配し始めている。これはたとえば、あからさまに『マトリックス』ばりのスローモードを実現してみせた『ビューティフルジョー』すらこの境地には追いついていなくって*4、処理落ちがあったのかなかったのか、その明確な境界線の不在こそがかえって「現実の時間 > ゲームの時間」ではなく、「ゲームの時間 > 現実の時間」みたいな逆転を演出するのに一役買ってるよね、っていう。*5
だいたい、こんな感じで。
*1:ってか、このブログのタイトルはそもそも「メモと寸評」なんだった。忘れておりました。
*2:「人型ロボットが常に人間にあこがれる」などという発想は、それってあまりに素朴な人間中心主義じゃない?というような意味で。
*3:http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050412#p1 でも書いたように、「アクション」とかそういったジャンル分類の名前がゲーム誌レベルで急速に普及しはじめる1983年以前のもの。
*4:「ゲームの中の時間のリアリティが、モニターの外側でゲームに接するプレイヤーの意識を逆転して支配し始める」という観点から言えば、ということです。
*5:『ビューティフルジョー』の場合、<通常速度>と<スロー速度>の間に明確な境界線が存在するというだけでなく、両者の切り替えはプレイヤーによって操作可能なものとして成立している。それゆえに、ゲームの中の時間に対する支配はどこまでいってもほとんど絶対的と言っていいぐらいににプレイヤーの側の意思に委ねられている。そのような「明確な境界」と「操作可能性」との間で、時間はコスティキャン的の言葉でいえば「資源」として常に意識されてゆくことになる。そのような「資源」としての時間ではないような「時間」を成立させている、という点でいえば『ICO』とかなんかもこの話の行き着く先として面白いかも。
2005年07月04日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■リアル・タイム・マシーン
id:dotimpactさん、こと 田中孝太郎さんによる [リアル・タイム・マシーン]展が、今日から!(9日の土曜日まで)
- 詳細: http://realtimemachine.dotimpac.to/
- 場所:(Yahoo地図)(画廊地図)
■「リアルタイム」とはコンピュータが生み出した言葉と言っていいでしょう。すべてがあるがままの現実世界と私たちとの間にコンピュータが介在するとき、そこでなにかが起きるタイミングが「リアル」であるかが問われはじめます。コンピュータとネットワークに日常的に触れることになった私たちは、この「リアルタイム」の感覚に、すでに現実以上のリアリティを感じているのではないでしょうか。現実にはモニターが画面を描き換える1/60秒の瞬間には光は5000kmしか進めず、コンピュータの処理速度やネットワークの速度がどれだけ上がったとしてもそこには必ず遅延が存在します。しかし、すでに「リアルタイム」の世界に生きている私たちにとって、その「現実」の遅延は、むしろ現実感を後退させるものになるでしょう。まるで、ふいに時間を飛び越えてしまったかのような。
■「リアル・タイム・マシーン」展では、操作が遅延するコンピュータゲームを実際にプレイし、「遅れた現実」を体験できる作品を展示します。すでに「リアルタイム」の感覚に慣れている私たちにとって、そこには想像以上に違和感があるはずで、その違和感によって私たち現実感の輪郭をたしかめることができるかもしれません。
平日の7時までに表参道にはせ参じることの可能そうなゲームばっかりやってる首都圏の愚民のみなさんは、会社帰りや学校帰りに見物しにいきましょう。
2005年07月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ビデオゲームバトン
昨日の日記で駄々こねたら、id:samonaさんからバトンを手渡されたので慎ましく答えてみたいと思います。
1.Total volume of the game files on my computer(コンピュータに入ってるゲームファイルの容量)
この前まではウィル=ライトと、シド=マイヤーの作品がそれぞれ2,3本ぐらい入って合計10GBぐらい?でした。が、いまはフリーセルとかしか入ってません。
2.The game(s) playing right now(今進行中のテレビゲーム)
ここのところ三週間ぐらい触れてないです。ゲームはお休み中です。
3.The last video game(s) I bought(最後に買ったテレビゲーム)
『ベルウィック=サーガ』かなあ。多分。
4.Five video games I play to a lot, or that mean a lot to me(よく遊ぶ、または特別な思い入れのある 5 作)
悩んだ末にとりあえず、現在の気分はこんな感じです。
一本目:『タクティクスオウガ』…と答えようと思ったが、それだとありきたりすぎる気もするので、ここは『伝説のオウガバトル』(SFC版)で。
- 一生ゲームファンであり続けてもいいな、と思わせてくれた一本。プレイヤーの行為/行動選択の「構造」を設計するということの中に表現をつめこむことが可能なんだってことを知って、メディアとしてのゲームの素晴らしさをはじめて強く思い知った。トータルな出来云々ではなく個人的な思い入れという話で言えば『タクティクス・オウガ』より上。プレイしたのは中学生の頃。
ニ本目:『カオスシード』(SS版)
- これは、マニア筋で評判が高いらしい、ということで比較的最近になってはじめてやってみて、ぶったまげたという作品。マニア筋で評判が高いという作品の中には、マイナーなマニア受けという地位にしかないことが強く惜しまれる作品というのもいくつかありますが、そういう観点から一本選べ、と言われたら『カオスシード』を何をさしおいても筆頭に挙げたいと思います。同じような観点からいくと次点は『セブン~モールモースの騎兵隊~』。
三本目:『シムシティ』っていうか主なウィル=ライト作品。(『バンゲリング=ベイ』のぞく)
- だいたいどんな人に対してでも「ゲーム」というものが馬鹿にできない何かだということをもっともわかりやすく知らしめるための一本でもあり、もう少し個人的にはウィル=ライトのような姿勢でゲームを作っている人間が世の中にはいて、それが世界的に受け入れられているっていう状況それ自体が何よりもうれしい。で、そういったもろもろのことを象徴してくれる一本として挙げました。さらに個人的な話としてはSFC版のオープニングはあらゆるゲームのオープニングの中で一番好きです。
四本目:『塊魂』
- なんか、古いものばっかり挙げているのも何なので、ここ2,3年で一本選ぼうということで一本挙げてみるとこれです。ゲームをプレイするっていうことを、たとえば「知覚の冒険」みたいなものとして捉えたときに、『塊魂』ほどまでに世界の見え方を新しくしてくれたものって今までになかったです。似たような観点で、次点:『ジェット・セット・ラジオ』。
五本目:『ドラゴンクエスト5』(SFC版)
- まあえらい単純な理由ですけど、小学生の頃に発売と同時にプレイして大感動だったので。今の年齢ではじめてプレイしたら別の感想を抱くだろうと思いますが、子供の頃のそういった体験というのは他には換え難いものだろうという理由で。
5.Five people to whom I'm passing the baton(バトンを渡す5名)
かなり唐突にバトンを渡された(という渡してしまった)方もいらっしゃるかと思いますが、どんな方なのか知りたい!という当方の身勝手な興味からバトンを回させていただきます。
ご迷惑でしたら答えていただく必要等はありませんので、気付かないフリをなどをしてスルーしていただければと思います。
2005年06月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■VIDEO GAME BATON
なんか、いつの間にか話題になっていた、VideoGameBaton(これ)。
いつまわってくるのかな~、とか思っていたら
http://www1.neweb.ne.jp/wb/samona/videogamebaton.html
(id:samonaさんの手によるVIDEO GAME BATON 統計調査。お疲れさまです)
ブームがすでに収束していた。......orz...
特に何かを答えたかったというのはないんですが、まわってくるだろうと期待していたものがまわされないのは、それはそれでちょっとさびしかったというのは秘密です。
っていうか、「バトンなんか渡したらうざいんじゃ!殺すぞ!ゴルァ!」みたいなオーラでも自分は出してるんでしょうか?
ちょっと悔しかったので、こちらの方が作成された追跡調査をながめていると、自分の手前あたりまでやってきたところで狙い済ましたようにストップしてる。ホワイ!!
そんなわけで、その疑問を解くためにもid:samonaさんには統計を作った勢いで「バトンをわたされそうで渡されなかった人リスト」(激しく偏見込みで可)でもこっそり作ってホッスィ。
■「物語」をめぐって
tomoyoさんこと、ハー○イ○ニー観察日記のid:tdaidoujiと、id:pmokyがおだやかに論争(?)中。
何が争点になってるのかということ自体がちょっとわかりにくいんですが、id:tdaidoujiさんによる独自の「物語」概念の既定と、そのような既定の意味とか可能性について?かな?
2005年06月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ゲーム性 訂正版
21日からの続きです。
hallyさんから、その記述はチョイマチ! とのご指摘があったので、「言葉の起源と流通」のところをけっこう長めに追加しました。
主にビデオゲーム雑誌やゲームファンの間で日常的に使われる言葉だが、その定義ははっきりしない。
一言で言うとすれば「そのゲームならではのおもしろさや醍醐味」程度の意味とでもいったらよいだろうか。
特にこの言葉の用法として議論の俎上にのぼりやすいのは、ビデオゲームソフトを誉めたりけなしたりするときに使われるような「ゲーム性が高い/低い」「ゲーム性がない」などといったものいいである。言葉の定義が曖昧でありながらも、評価軸として決定的に重要なものとして作用する、という矛盾ゆえに多くの議論を呼びやすい言葉であるといえる。
- 言葉の起源と流通
言葉の起源からすると、そもそもからしてビデオゲームの言葉であったというわけではない。トランプやダーツなど各種の「ゲーム」が語られるようなところでいつのまにか使われていたような言葉だったようだ。
厳密な時期がいつのことだかは判然としないが、「ゲーム」に「性」をつけただけの言葉なので、たぶんどこかの誰かがそれほど強く意識もせずなんとなく使った、というのがホントの最初のことだろうと思われる。
ビデオゲームの登場以降ではビデオゲームの黎明期である1970年代後半にはすでに「ゲームマシン」誌などで使用されていた事例を発見することもできるが、その当時には現在のようなニュアンスが成立していた、という雰囲気ではない。
「ゲームの面白さ」のような意味で使われたっぽい比較的初期の事例としては、たとえば「Beep」誌の1985年5月号「ゲーム評論家入門」のコーナーにて亜蘭仁氏が「プログラマータイプ」の評論家を「(評論の内容が)ゲーム性よりプログラミングのテクに傾きがちで、文章がぎこちなかったら、ほぼこのタイプと思って間違いはない。」と書いていたりするのがかなり初期のものだろうか。
その後、言葉としての使用が定着していったのはおそらく1980年代後半だろうかと思われる*1。少なくとも1990年ごろのゲームレビューを読むとビデオゲームのよしあしを語るのに「ゲーム性がある/ない」「ゲーム性が高い/低い」といった言葉はすでに頻出している。
そして、1990年代中盤にもなれば、「「ゲームはゲーム性」などといった紋切型のコメントしかできないライターや批評家ばかりでは困ってしまいますね。」*2などといった議論すらサラっとなされており、「ゲーム性」にばかりこだわるような言説を冷ややかにみるような立場もこのころには成立している。
その後、一般的には『ファイナルファンタジーVII』の発売時期(1997年)を前後によく使われるようになったといった印象がもたれているようで、ネット上のあるゲーム辞典*3では、「ゲーム性」を「「ファイナルファンタジーVII」がヒットした頃から突如として流行するようになった言葉。」などと解説しているところもあるが、ゲーム雑誌での「ゲーム性」という言葉の使用頻度が本当その時期を境として増えたのかということについて、*4そこまで明確な言葉の流行があったというデータはない。(下に挙げる参考資料では雑誌「ゲーム批評」誌を調査しているが、「ゲーム批評」誌ではそこまで明確な差はあらわれなかったらしい)
なお、起源においてビデオゲーム以外のフィールドでも「ゲーム性」という言葉が使われている、と書いたが、現在でもビデオゲームとは関係のない文脈で「ゲーム性」という言葉が使われていることはしばしば存在する。
- その他の言葉の用法について。
文脈によって複数の意味が使い分けられており、その全ての用法が議論の俎上にあがるようなビデオゲームの評価枠組みとしての意味ではない。いくつか事例を挙げる。
- 個々のゲームに固有の性質を表す場合
- 「インベーダーとゼビウスでは全然ゲーム性が違うよね」「FFとドラクエって実は別々のゲーム性があるよね」 → 「作品性」とか作品の個性、といった意味にも翻訳可能。または、「ゲーム性」という明示化できないアーキテクチャーが文脈において暗黙のうちに前提とされており、その差異を明示していると思われる。(ここには評価的な意味合いが含まれないこともあるし、含まれることもある)
- ゲームとしての要件を満たすかどうか、その程度を表す場合
- 「人生ゲームにはゲーム性がない」「たとえば小説にゲーム性をつけていくと、ゲームブックになる」など。 → 「ゲーム」というカテゴリーに括ることが可能であるかどうか、という問題。「ゲーム」の定義が問題とされている。
などなど。
注意深くこの語を追っていくと、様々な言葉の使用例を発見することができるが面白いことの一つは、この語に対するさまざまな形での批判や、あるいはその逆に「俺はゲーム性信者だ」と言うような肯定派(?)もいるなかで、とりあえず曖昧だなんだと問題もありつつもこの言葉によってなんとなくゲームファン達のコミュニケーションはなりたっていることだ。曖昧だけれども、この言葉によってコミュニケーション可能だ、ということだ。
それはつまりゲーマー達にはこの言葉によってある程度のズレはありつつもお互いに何かしらの形でこの言葉によってイメージが交換できてるということなのだろう。
- 参考
- ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって -雑誌『ゲーム批評』を中心にその使われ方の状況を探る-
- → http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/thesis/2002/inoue.html
- あまり出来のよいものではありませんが…、一応データと旧来の議論をネタに「ゲーム性」という言葉について語ろうという試みのなされたものです。
- 前半は遊び論などを引き合いに出して、ゲームや遊びといった概念の定義の可能性/多様性をおっかけて、後半はいきなりテキストデータを分析にかけて、「まっ、色々な使われ方があるよねー」と言ってみましたYO! という内容です。
*1:これは、日本の家庭用ゲーム雑誌が乱立して登場した時期とセットになっている
*2:ざるの会、同人誌「ゲーム業界馬鹿発言大賞」1994年 12月30日
*3:VIDEO GAME ENCYCLOPAEDIA http://zunzunzun.hp.infoseek.co.jp/
*4:きっちりと調査した人がいるわけではないが
2005年06月21日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ゲーム性
人のはてなダイアリーなどを見ていたら、「ゲーム性」という言葉がキーワードに登録されているのに気づき、「なにぃ!これは自分が編集せねば!」という謎の使命感にかられ、大幅に編集しなおしました。id:yms-zunさんの「仮説」とか消しちゃいました。すみません。
以下、私の編集した内容。
ビデオゲーム雑誌やゲームファンの間で日常的に使われる言葉だが、その定義ははっきりしない。
一言で言うとすれば「そのゲームならではのおもしろさや醍醐味」程度の意味とでもいったらよいだろうか。
用語として登場したのがいつであるのかは判然としないが、ビデオゲームの黎明期である1970年代後半にはすでに使用されていた事例を発見することもできる。ただ、言葉としての使用が定着していったのはおそらく1980年代後半だろうと思われる(これは、家庭用ゲーム雑誌が乱立して登場した時期とセットになっている)。
特にこの言葉の用法として議論の俎上にのぼりやすいのは、ビデオゲームソフトを誉めたりけなしたりするときに使われるような「ゲーム性が高い/低い」「ゲーム性がない」などといったものいいである。言葉の定義が曖昧でありながらも、評価軸として決定的に重要なものとして作用する、という矛盾ゆえに多くの議論を呼びやすい言葉であるといえる。
その他の言葉の用法について。
文脈によって複数の意味が使い分けられており、その全ての用法が議論の俎上にあがるようなビデオゲームの評価枠組みとしての意味ではない。いくつか事例を挙げる。
- 個々のゲームに固有の性質を表す場合
- 「インベーダーとゼビウスでは全然ゲーム性が違うよね」「FFとドラクエって実は別々のゲーム性があるよね」 → 「作品性」とか作品の個性、といった意味にも翻訳可能。または、「ゲーム性」という明示化できないアーキテクチャーが文脈において暗黙のうちに前提とされており、その差異を明示していると思われる。(ここには評価的な意味合いが含まれないこともあるし、含まれることもある)
- ゲームとしての要件を満たすかどうか、その程度を表す場合
- 「人生ゲームにはゲーム性がない」「たとえば小説にゲーム性をつけていくと、ゲームブックになる」など。 → 「ゲーム」というカテゴリーに括ることが可能であるかどうか、という問題。「ゲーム」の定義が問題とされている。
などなど。
注意深くこの語を追っていくと、様々な言葉の使用例を発見することができるが面白いことの一つは、この語に対するさまざまな形での批判や、あるいはその逆に「俺はゲーム性信者だ」と言うような肯定派(?)もいるなかで、とりあえず曖昧だなんだと問題もありつつもこの言葉によってなんとなくゲームファン達のコミュニケーションはなりたっていることだ。曖昧だけれども、この言葉によってコミュニケーション可能だ、ということだ。
それはつまりゲーマー達はこの言葉によってある程度のズレはありつつもお互いに何かしらの形でこの言葉によってイメージが交換できてるということなのだろう。
参考
ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって -雑誌『ゲーム批評』を中心にその使われ方の状況を探る-
→ http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/thesis/2002/inoue.html
あまり出来のよいものではありませんが…、一応データと旧来の議論をネタに「ゲーム性」という言葉について語ろうという試みのなされたものです。
前半は遊び論などを引き合いに出して、ゲームや遊びといった概念の定義の可能性/多様性をおっかけて、後半はいきなりテキストデータを分析にかけて、「まっ、色々な使われ方があるよねー」と言ってみましたYO! という内容です。
これに加えてもう一言、
「ゲーム性という言葉が多くの問題をはらんでおり、この言葉を使用する際にはある程度の注意が払われることが望ましいものではあるが―――それがビデオゲームの評価をめぐる決定的に重要な側面において使われ、また多くのコミュニケーションを可能にしているということを鑑みると、これを「馬鹿げたマジックワード」として完全に一蹴して一顧だにしないということも、また極端な態度なのかもしれない」
と付け加えようかと思いましたが、
これを付け加えると、キーワードの説明としては少し価値評価的な記述になってしまうかと思いスルーいたしました。
っていうか、このキーワードを登録したのは、誰かと思えばid:AYSさんじゃないですか!
2005年06月18日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■感謝と超遅まきのコメント。
ネット上に出没しませんですみません…
HDDがクラッシュしておりました井上です...orz
ショックです。
超遅いですが、kodamatsukimiさんにhallyさん、非常にすばらしいコメントをいただきありがとうございます。
>id:hallyさん
米では業務用ゲームの求心力が著しく低下していました…(中略)…つまりNESの本当の功績は、アーケードをステップにせずとも爆発的なヒットが育つことを立証してみせたことだったわけです
なるほどー、その説明のほうが非常に説得的ですね。毎度ながらhallyさんのコメントは勉強になります。多謝。
間違いの指摘ありがとうございました。それと
低レベルや早解きなどの特殊プレイは、また違うゲームの面白さがあって良いとおもいますです。
そうですね。ほんとに、それはものすごく実感します。それだけで、誰か本一冊ぐらい書いてほしいですね(笑)
ファミ通のやりこみ大賞なんかも非常に好きなんですが、「ああいった企画が強烈に面白い、という事態はメディア受容の在り方としてマジですばらしいだって」などという説をたまに唱えていまして*1、ある種の正統的な「読み」とか正統的な「プレイ」といったものではなく、いかに<プレイヤー>サイドがそれからの逸脱を測れるかといった馬鹿さ加減*2のようなものが一つの楽しみとして見出され、「おまえのやりこみは素晴らしいので5000ガバス与えよう!」みたいな評価の対象行為とすらなるっていうのは、ゲーム独自の微妙にトチ狂いながらも他には真似のできないメディア経験であって、これをまったく理解しようとも評価しようともしない連中は、まったくもってわかってない旧態依然の阿呆どもダヨ! ……などとたまに半分ネタ、半分マジで言っておりますが、なにはともあれ、低レベルや早解きなどの特殊プレイヤーは素晴らしいですね。
2005年05月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ドラクエと東大生。
http://www.geocities.jp/hapi_dq/
へたれゲーマー駄文さんにも取り上げられていましたが、東大の文化祭で、東大ゲーム研究会の方々が、ドラクエをアクションゲームのようにしてクリアーするのを実演されたとのことです。
いやー、なんか、ゲームっていうかマラソンの記録みたいですよね。東大生って(いろんな意味で)スゴイ!とか思ってしまう瞬間です。ドラクエ5は何回もやり直してますが、さすがに6時間でクリアーってのはムリです……確か、自己ベストは測ったことないけど11時間ぐらいっす……
■東大ゲーム研究プロジェクト
ちなみに、名前が似ていてややこしいですが、一昨日に東大ゲーム研究プロジェクトのほうにちこっと顔を出してまいりました。東大のゲーム研究プロジェクトでは、現在、ゲーム研究のビブリオグラフィーを作るということをやってるいるらしく、「ゲーム関連書籍リストなんかを公開している中の人として、何か協力してみるってのはどうよ?」というお呼びの声がかかり、いってきました。
27日のゲーム研究プロジェクトは、ちょっと大慌てでの開催だったようで、IGDAの新さんがE3での話をして、映像を延々とするという催しになりました。
■新機種
で、MSの「X-Box360」、SCEの「PS3」、任天堂の「REVOLUTION」など、新機種のデモ映像を3時間ぐらい見たわけですが、ゲーム映像のインパクトという点で言うと、すごいことはすごいんだけれども、一年ぐらい前から見ているPS2の『大神』のデモ映像や、二年前から見ている『ハーフライフ2』の映像を超えるようなインパクトのある映像はさほど無いなあ、というのが正直なところです。
ビジネスモデル云々とかを無視して、すごく個人的な欲望を言ってしまうと、開発者にとっての作りやすさが劇的に向上するだとか、決定的な新しさの無い新ハードなんて、当分は出してほしくない。とりあえず5年周期で出すのとかやめてほしい*1。結局、ハードが交代してもそこで発売されるゲームに圧倒的な魅力を感じられない限り、「次世代機への乗り換え」なんて事件は一ユーザーにとってみれば新作をプレイするための必要環境が一新されてキャッチアップする出費が増える、という面倒な事態としてしか感じられない*2ので、ホントにやめてほしいなあ、と。この程度の新しさでしかないのならば、自分はハードよりもソフトに金を出したいです。
…などと言っている、あまりにありがちで素朴でフツーな、一ゲームユーザーの声としてしか聞こえない、という感じもするかもしれませんが、ホントにこの問題は次世代機への以降に関する話としては、スルーしてはいけない話です。結局PS2が発売された2000年ごろに、何パーセントのゲームユーザーが離れたかと言えば、それってやっぱりすごい数だったわけで、『CESAゲーム白書』によれば、テレビゲームを「現在も継続的にやっている」と答えた一般人の割合は、1999年に39.2%だったのが、2000年にはガックンと落ちて27.7%まで減少してます*3。
アタリショック*4が起こる!などと馬鹿なことを言うつもりはないですが、このままだと、自分ですらホントにゲーム離れをしそうな勢いがあるので、新機種とか出すのどうにかやめてくれないかなあ、嫌だなあ、と。*5
ネガティブといわれるかもしれませんが。
*1:今回の、PS3の発表なんかは、ハードの開発が遅れているであろう、と言われている中、E3でライバル他社が発表するのに対抗するために、なんとか間に合わせて発表した、みたいな印象が強かったです。
*2:せめて、新作が主に発売されるハードの移行スパンが今の3、4倍ぐらいのゆるやかさであればいいんですけどね。そこらへんは、もちろん一社の思惑でどうこうしようと思っても難しいのは十分よくわかりますが。
*3:もちろん、この減少の全てがPS2へと新作ソフトのメイン戦場が移行したためだ、と完全に断定することまではできません
*4:うちのサイトをのぞいている人でも意外と知らない人がいるようなのですが、知らない人は、『ITmedia Games』の小林仁さんのレポートが多分わかりやすいです→http://www.itmedia.co.jp/games/articles/0505/27/news095.html あと、http://d.hatena.ne.jp/hally/20040514、http://d.hatena.ne.jp/hally/20040523 の記事も必見。
*5:http://www.asahi.com/special/webvote/list0504.html#050518 このアンケートの示すほどまで自分は冷めたりはしてませんが。
2005年05月27日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ティアリングサーガシリーズ ベルウィックサーガ
先日ちょこっととりあげた『ベルウィックサーガ』を、うちの家族が購入したのでちょっとだけやらせてもらいましたが、とりあえず内容のレベルでは「ファイアーエムブレム」シリーズとはだいぶかけ離れたものになったな、というのが第一印象です。
そもそも、桝目が四角じゃなくてヘックスになってたり、本拠地があったりという感じで、これなら内容面においては「ファイアーエムブレム」とは別物といってもまあ悪くないぐらいに変わってます。
耐久力等もやや曖昧になり全体的なシステムを複雑化させた分、計算不可能な面が増えているので、これだと戦闘システムとしてのファイアーエムブレムシリーズが好きな人にはもしかすると不評かもしれません。ただ、独特のキャラクター絵とか会話システムとかはファイアーエムブレムっぽいので、そこのところは同一性を保っているというべきでしょうか。
2005年05月26日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■男性から女性へ。
公開している、ゲーム開発者小事典の記述について、吉村功成さんご本人からはたまたメールをいただきました。(気づくのがものすごく遅くてすみません>吉村さん)
ご本人のサイトでも告白されていることですが、性同一性障害であることを告白され、名前の読みも「かつのり」さんから、「ことり」さんへとオフィシャルに変更されたとのことでした。サイトのほうに写真も公開されてますが、40歳の女性としてはけっこうおキレイです。
2005年05月18日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ロマンシング・サガ ミンストレル・ソング
発売から一ヶ月近く経過してようやくやりはじめました。
とりあえず、戦闘システムがだいぶ大幅に複雑に変更が加えられているので、まだ理解できず。
ロマサガ考に関しては、今回のロマサガMSのためにホームシアターまで購入してしまったというゲームツルギーさんのところがけっこう気合が入っていて面白い。(ネタバレあり)
- 2005年01月16日 根本から見直すこと
- ドラクエのようなマップ表示/成長システムを、ロマサガ1が採用しなかった理由の妥当性についてドラクエとの比較の上で説得的に議論してみせています。いかにロマサガ1が革命的にすばらしいものだったかが納得。
- 2005年05月04日 ロマサガMSのフリーシナリオシステムの短所
- 「イベント消滅」システムが持つ短所として、プレイヤーがなるべくイベントを「消滅させずにやればいい」というプレイスタイルに偏ってしまうことを指摘し、それを解決する案を提示
- 2005年05月15日 戦闘回数時間経過について2
- なぜ、戦闘回数時間経過によってイベント消滅/発生を制御することが有効なのか、という話。「FFⅩ-2」的なサブイベントシステムをロマ・サガの比較対象としてもってくるというのはごもっとも。
- 2005年05月17日 イベント消滅について
- 地域差の描写/ゲーム内時間の描写が、地域ごとのイベント消滅/発生数の観点から描かれているのだ、という指摘。
- 政局の安定/不安定という雰囲気が描写されてるっていう話は必ずしも同意できませんが、政治的な【中心-周縁】構造がこういう形で再現されているという話は激しく同意。
ところで、どうでもいい話ですが、今回のパッケージってなんとリバーシブル仕様なんですね。なんと、カバーの裏にも絵が描いてあり、見えないところにも気を使ってますネ!
2005年05月03日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■それはわからん。
何故PS2ファンは糞ゲーを買わされるのか?その2
http://game10.2ch.net/test/read.cgi/famicom/1110927362/101-200
こちらで、うちのサイトのデータが参照されておりました。(151から)
「アタリショックが……くる!」と唱える人の根拠として。(正確には最近のゲームでは「良ゲーが極一部」しかなくて全く糞な状況だよね、という話の根拠として)
そういう読み方をされることは想定してなかったんですが、こういう人もいるわな、と思ったので、以下の一文を付け加えました。
Q:1999年~2000年ごろのゲームが一番つまらなかったってことですか?
それはこのデータからだけでは言えないと思います。このデータから言えるのは、「1985年以前生まれのゲームプレイヤーがゲームをつまらないと感じることが多かった」ということであって、「1999年~2000年ごろのゲームが平均的につまらないものだった」などといった話とは少し違います。
「つまらない」と感じられた原因が「1999年~2000年ごろのゲームが平均的につまらないものだった」からなのか、「ちょうどゲームをやりはじめて12,3年ぐらいして、ゲームプレイヤーが飽きてきた」からなのか、「影響力のある売れ行きソフトがつまらないと感じられやすいものだったから」なのか、はたまた、もっと想像もつかないような理由だったり、今挙げた原因の複合的なものなのか。
このアンケートからだけでは「つまらない」と感じられた原因については明確に知ることはできません。ただわかるのは「つまらない」と思われたという結果があったということだけで、その原因については追加調査の必要があるでしょう。
あと、見直したら、ゲームの接触率調査との兼ね合いも考えてなかったな、ということに気づき、「「つまらない」と感じた率÷ゲーム接触率」の算出もやってみたところ、1999~2000年がダントツでピークなのではなく、2001年~2002年の部分も、継続的のゲームをプレイしている人の中で「つまらない」感じられた比率は、1999年~2000年とだいたい似たようなものになりました。
2005年04月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ゲーマーに推奨する映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』
ヤバイ。かなりよかった。一般に評判のいい「オトナ帝国」よかずっと面白かった。
安定感のあるシナリオ、こってりとまとめてあるカメラアングル。そして、最後の戦闘シーンがとてもすばらしくて、良質な3Dアクションゲームをやっているような興奮がありますた。
CinemaScapeでのレビューを見ると、「西部劇」という道具立てとの対比で萎えまくっている人が多いので、名誉挽回のために書きますが、これを楽しみたいんだったらそんな映画オタ的な視点よか、ゲームですよ。断然ゲーム。『FFタクティクスアドバンス』、『侍』、それとあと『パンツァードラグーン』でも『Rez』でもいいから何か3Dアクションの傑作を2,3本やってから見てみたら本作は多分ぜんぜん印象が変わるでしょう。映像的な水準で言えば、3Dゲーム。世界観は『侍』の西部劇版。シナリオ的な部分で言えば『FFTA(FFタクティクス・アドバンス)』。そういう感じです。
『FFTA』と同様シナリオについて、すごくベタに見てしまう人は<映画の世界の中でまどろむのを拒否する>という行為にテーマ設定を見出すのかもしれませんが、それよりも本作がすばらしいのはまどろむことを拒否することをごく当然の良識(#であるがゆえに退屈な良識)として保持しつつも、そこでまどろむことへの欲望を隠しえないことをもまた堂々と認めてしまう。そのアンビバレンツな心性そのものが提示されているところにこそ本作の到達が……というか、まあ安心して見ていられるものを感じます。
あと、同じ日々が繰り返されている風景をCinemaScapeのほうで「恐怖感の漂う」と書いている人がいましたが、それもゲームの世界ではものすごくオーソドックスな恐怖ですよね。『侍』や『FFタクティクスアドバンス』『ガンパレードマーチ』などをやってみればわかりますが、ループしまくる世界の中にドコーンと放り込まれて、終焉はプレイヤーが勝手にどこかで決心して決めるしかない。まどろむことを自ら拒否しない限り半永久的にまどろむことができる<時間の止まった世界>。近年のゲームファンにとってはもはや見慣れた光景といってもいい。
2005年04月18日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■メタルギアソリッド3
クリアー。
それにしても、今回は、1作目、2作目と比べてもだいぶ大幅な変更が加えられていてちょっと違うゲームをやっているような感じ。特に、衛星からのレーダーによって敵位置を把握するという、あの若干リアリティのないぐらい反則的なシステム(笑)がなくなったことにより、敵に見つかる確率が数段上昇。クリアーまでにだいぶ無駄な殺生を重ねてしまった。
服を着替えまくってステルス性を上昇させて隠れる!という新システムもそれなりに活用していたのだけれども、最後のほうになればなるほど、隠れのが難しくなり道をふさぐ敵兵はほとんど狙撃銃で排除しながら進めていくというありさまで、えらい殺伐としたムードに。ステルス性の潜入ミッションというよりも、ほぼ完全に一人で敵兵全員を殺戮していくダーティーなプレイをしてしまった。いかんな、と。
GTAIIIのような殺伐とした内容のものはあまし好みではないので、こういうプレイをしてしまったことは我ながらちょっと残念。
ただ、その点は別にして全体としてみれば相変わらず最初から最後まで安心してプレイできるし、こまごまとした新システムもよく考えられていてプチ感動がいろいろとございました。
あと、ゲームそのものとは関係ないですが、MGS3の公式サイトに掲載されているSECRET THEATERのムービーの出来が遊び心でやるにしては異常に気合が入りまくっていて仰天。
こういうところにまでこれだけエネルギーがあふれているスタッフというのは素直にすごいですね。MGS3をクリアーされた方はぜひ。一見の価値あり。
2005年04月17日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2005年04月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■デーヴ グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』
先日 tomoyoさんことid:tdaidoujiさんから進めていただいた、『戦争における「人殺し」の心理学』を読み中。
以下、ざっと内容を紹介。
著者自身がアメリカ軍人だけあって、部分的にアメリカ軍人的な戦争観が下敷きになっているようなところも面白いが、戦争における<殺人>行為の心理をいかに扱うか、という問題設定にもとづいた本で充実した内容。
まず、著者は、古来の戦争から第二次大戦におけるまでほとんどの戦争において「発砲しない兵士」が大勢(約8割以上!)を占めていたということを数々の資料から明らかにし、通常戦闘では<発砲を拒否する>という行為がきわめてノーマルなものだということを論じる。
だが、それが二次大戦後、軍の教練プログラムの修正努力によって20%に満たなかった発砲率が朝鮮戦争では55%、ベトナム戦争では90%以上の発砲率を実現するに至ったという事実も提示し、このような「発砲率の上昇」がいかなるテクノロジーによって実現されたのか、ということが本書の主題となっている。
そして、ベトナムにおける発砲率の飛躍的な上昇をもたらした訓練が持つ主な特徴として著者は(1)脱感作(2)条件付け(3)否認防衛機制 の3点を挙げると同時に、そういった強引な訓練法による「副作用」としての兵士へのPTSDなどの影響も指摘する。
と、ここまでが本論。*1
その後の試論的な補稿のようなものとして「アメリカでの殺人」の60年代以降の急激な増加への考察があり、その中でテレビゲームの話は出てきている。
その中で著者は「暴力を可能にするプロセス」として、1.古典的条件付け、2.オペラント条件付け 3.社会的学習における代理モデルの観察・模倣 の三つが作用していると言い 1.の古典的条件付けをテレビや映画館の映像が担い、2.のオペラント条件付けにはテレビゲームが役割を果たし 3.の社会的学習として『13日の金曜日』のジェイソンなどがヒーローとして機能している という議論をしている。
特にゲームに関してはオペラント条件付けが達成されているのにも関わらず軍隊での「上官」にあたるような行動を束縛する「倫理」がセットになってないことがまずい、とのこと。
この本は「戦争での殺人」を考慮した本論は非常にすばらしい内容なのだが、それを応用しようと試みた「アメリカでの殺人」については、メディアの影響論などについての先行研究の引用や国際比較といった観点も乏しく、指摘にはもっともな部分もあるものの、誰もがうなづけるほどに練りこまれてはいないといった感を受けるのが残念。(これは、ゲームが悪者にされたから言っているわけではなく、読んでもらえればわかるがホントに最後の40ページぐらいで付け加えるようにして唐突に話題にでてきている)
ただ、著者の言うことがどの程度まで妥当なのか、もっときちんと検討してもいいと思えるような内容ではあるだろう。
- 補足(2004年6月):
- より詳しい紹介としてはid:Gomadintimeさんのところの記事が詳しいです。http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/20040821
- 最近のデーヴ・グロスマンの動向についても同氏が http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/20050322 でフォローされてます。
- 反暴力メディアイデオローグとしてご活躍らしいです。
*1:本当はもっと細かくいい話がたくさんあるのですが、ぜんぶはしょりました。
2005年04月15日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『スパイ・キッズ3-D ゲームオーバー』
wowowで撮っておいたのを見ました。
ストーリーは、「トイメーカー」という悪人がヴァーチャル・ゲーム(なんかMMOのようなゲーム)『ゲームオーバー』の中で電子生命体みたいな状態になりつつも全世界征服を企んでいるので、それを阻止するために子供のスパイがヴァーチャル・ゲームの中に入り込んで奮闘する…という内容。
ストーリーはさておき、映像的にはスノーボーダーゲームやら格闘ゲームやらの雰囲気をけっこう上手く再現している部分もありなかなか面白かったです。あと、『Halo』や『メトロイド』が解説不要の名作扱いをされていたりするような部分もあり、アメリカのゲーム事情が垣間見えるようなところもあります。
とは言っても全体的にはどうしようもなくB級映画なので、破綻してるプロットとかに耐えられない人とかには全くおすすめできないですが…
まあ、これを見るぐらいなら『空談師』やら『Hunter×Hunter』のグリードアイランド編の方がMMO的な題材の物語化としては圧倒的に面白いかもしれません。
2005年04月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ファイアーエムブレム訴訟
今月にファイアーエムブレムの新作が出て、来月にティアリングサーガの新作が出るということで、ファイアーエムブレムファンは財布の中身が気になる昨今。ファイアーエムブレム訴訟が任天堂一部勝訴で高裁判決確定(毎日新聞)したそうです。個人的にはどちらが勝つか、負けるかということ自体にはそれほど興味がなかったりしますが、
毎日新聞の記事によれば
任天堂は、ゲームソフト会社「インテリジェントシステムズ」が開発したゲームソフト「ファイアーエムブレム」にキャラクターや内容が酷似しているとして、ソフトの製造・販売の停止と約2億6000万円の支払いを求め、01年7月東京地裁に提訴した。
02年の東京地裁判決では、任天堂側の請求を棄却。04年11月の東京高裁判決では、エンターブレイン側の当初のゲーム名が「エムブレムサーガ」だったことを重視、「需要者の購買の意思決定に大きな影響を与えた」として不正競争防止法違反に当たると認定。任天堂側の主張を一部認め、約7600万円の支払いを命じたが、ソフトの著作権違反は認めなかった。
とのことで、著作権じゃなくて、不当競争防止法でいっちゃうのかー、と。それがちょっと残念。
不当競争防止法で判決が下ると、判決が早いのは実務的な問題からいけばいいことなのだとは思いますが、こういう形だと判決文とかあんまり興味沸かないんですよね(別に私の興味を引く必要なんてどこにもないけれども。)
「ときめきメモリアル メモリーカード事件」なんかだと判決文がクソ面白いんですよね。たとえば
…プレイヤーが到達したパラメータの数値いかんにより女生徒から愛の告白を受けることができるか否かが決定される。本件ゲームソフトにおいては,初期設定の主人公の能力値からスタートし,あこがれの女生徒から愛の告白を受けることを目標として主人公自身の能力を向上させていくことが中核となるストーリーであり,その過程で主人公の能力値の達成度等に応じて他の女生徒との出会いがあるという設定となっており,そのストーリーは,一定の条件下に一定の範囲内で展開されるものである。
とか、
本件メモリーカードのブロック1ないし11のデータを使用すると,入学直後の時点でストレス以外の表パラメータのほとんどが極めて高い数値となり,これがあこがれの女生徒に合った達成度でプレイできるような数値である結果,入学当初から本来は登場し得ない女生徒が登場する。
また,本件メモリーカードのブロック12又は13のデータを使用すると,ゲームスタート時点が卒業間近の時点に飛び,その時点でストレス以外のすべての表パラメータの数値が本来ならばあり得ない高数値に置き換えられ,かつ,あこがれの女生徒から愛の告白を受けるのに必要な隠しパラメータの数値を充たすようにデータが収められており,必ずあこがれの女生徒から愛の告白を受けることができるようになっている。
とか。
「あこがれの女生徒」という表現は、裁判官のおっさんが色々悩んだ末にその言葉に着地したのであろうという感じがそそります。ぜひ、判決文読み上げの現場に居あわせたい。
2005年04月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ゲームジャンルの出自
Cafe in Junkyardさんより
RPGとかSLGなどといったゲームジャンルってのはいつごろから作られ出したのだろう。…いつごろから誰がどういうふうに使い始めた名前かわからない
日本でそういった呼称が使われはじめた時期についてだけなら、けっこう調べました。簡単に経緯を書いておくと、
まず、SLGやRPGなどのジャンルは海外のアナログゲーム → 海外のコンピューターゲーム → 日本のコンピューターゲーム という形で二段階の輸入を経ています*1。日本に「RPG」「シミュレーション」「アドベンチャー」という言葉が輸入されてからゲーム雑誌*2等で頻繁に使われるようになるのは1983年の後半頃です。この頃に一挙にゲームジャンルを指す言葉がマイコンゲーム雑誌のレベルでは一般化しています。それ以前には海外のゲームジャンル区分がないため、今のアクションゲームのことを「反射神経ゲーム」と呼んだり*3、パズルゲームやシミュレーションゲームを「知的ゲーム」といった言葉で頑張って呼んでいました。
そして、1983年に一般化したジャンル区分はマイコン雑誌の「ASCII」から分離独立した「ログイン」→「ログイン」から独立した「ファミコン通信」などといった形で80年代中盤頃に乱立して創刊する家庭用ゲーム雑誌の世界にも受け継がれていきます。
当然、その頃はジャンル区分の親子関係も今のような形とは少し違っています。当時、文学部四年生だった浜村弘一が書いている『パソコンゲームランキングブック』(旺文社、1983年10月)などでは、「RPG」は「アドベンチャー」のサブジャンルとして区分されたりしています。
ジャンルを示す言語が輸入された後も、何がRPGで、何がシミュレーションなのか、といった意味内容と意味表現の一致が現在のような形になるまでにはさらに数年が必要で、今現在のジャンル区分の水準からしてほぼ(95%ぐらい?)しっくりくるぐらいの状況*4がやってくるにはさらに後。だいたい1987年~1989年ごろぐらいでしょうか。そのころには意味内容と意味表現が現在の水準とほぼ同じといっていい状況になっています。
その後に出てくる細かい区分が普及してきた経緯はケースバイケースに出てきているので一概には言えませんが、単に言葉が普及した後も、いろいろな意味の読み替えが行われたりしてごちゃごちゃとしてますね。
それと、細かいジャンルを示す言葉を誰がどういう経緯でいい出したか調べるのは難しいです。普及した時期だけならデータを追っていけば比較的すぐにわかりますが、誰が言い出したか、となるとゲームに関する雑誌資料、広告、番組等々はアホみたいな量がある割に、国会図書館に行っても保存されているものに限りがありますからね(特に創刊間際のゲーム雑誌なんかは保存されてません)。それに最初にその言葉を作られたきっかけと、その言葉が普及するきっかけはまったく別物だったりするので厳密な意味での言葉の「起源」は限界があったりもします。
あと、海外の事情はさっぱりわからんです。多分、id:hallyさんとかがすごい詳しそうです。
ゲームのパッケージにジャンル名なんて記載されだしたのはいつからだ?
パッケージは調べたことないですが、先にも述べたとおり1983年の後半にはいきなりジャンル名がたくさん使われはじめているので、その言葉の輸入元であった海外のゲーム市場だったら、もしかすると80年代初期ですでに「パッケージにジャンル名を記載する」というものがあったのかもしれません。
*1:アドベンチャー、アクションは元ネタがいまひとつわかりませんが。
*2:当時は主にマイコンゲームを扱った「I/O」「ASCII」「マイコン」などの雑誌
*3:また、80年代初期は、アクション、シューティングゲームなどのことを「アーケード」というジャンル名でくくっていたりすることがありました。いうまでもなく、これはゲームセンターという場所を示す言葉がジャンルを示す言葉になってるんですね。なお、アーケードという言葉の起源についてはhallyさんが詳細にまとめています → http://d.hatena.ne.jp/hally/20040710#p1
*4:家庭用ゲームの一般ゲーマーの認知水準まで含めた意味で。
■総プレイ時間
NGMさんより
ヘビーゲーマーとまではいかないが趣味の一つとしてゲームを楽しんでいるという人は、「総プレイ時間」表示のことを(悪い意味で)気にする傾向がある。『真・三国無双』を○○○時間もやっちゃってさー、みたいな話は、自虐的な語り口でされる話題だ。6800円でそんだけ長い時間楽しめたんだから安上がりじゃないか、とかいうフォローを入れても、彼/彼女らにとってその時間は「無駄に過ごしてしまった時間」という思いが拭いがたくあるようだ。
我々ヘビーゲーマーは……あえてこう自己規定するけど……そのような罪悪感からは自由だ! 高らかに宣言したい! そんなちっぽけな自意識はとうに捨て去ったのだ、と!……とか言いたいところだが、私の「総プレイ時間」表示フェチも、結局のところこの罪悪感の裏返しのような気がしないでもない。
■「『ファミ通ゲーム白書2005』が5月12日発刊」
ここによれば28000円だそうです。CESAゲーム白書と違って個人で買うのはつらい値段っすね。
2005年04月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「からっぽの権威」化装置:ファミ通クロスレビュー
昨日の記事について松谷さんのコメントは、自分がフォローしなかった部分をざらっと書いてくれていて、とてもいい指摘でした。感謝。議論としてもほぼ同意です。
ただ一応、何点か。
『パラッパ』登場時には、従来のゲーム好きは「単純」って評価しかできなくなって、たしか殿堂入りさせなかったんだよね。
これについて、一応当時のファミ通確認しますた。
サワディ・ノダ「8」、ローリング内沢「9」、イザベラ永野「9」、忍者増田「5」で、合計得点は、「31」で確かに殿堂入りしてませんね。今だったらシルバー殿堂入りしてるところなんですが、この頃って「32点以上を殿堂入りとする」というシステム*1が初めて採用されてから三週間後*2だったので、惜しくも後一点足らず殿堂入りならず、という形のようです。
5点をつけた忍者増田のコメントは確かに松谷さんの記憶通りで、
…斬新な内容だが、ラップのリズムにのれない御仁には、ただのボタン押しゲームということになっちゃうだろうし。拙者も残念ながらそっちのクチ。…
という記述が見えます。
ただ、忍者増田以外は、8点、9点、9点ですから「ピタリとはまると超楽しい」「すごく単純。なのに、夢中になってしまう」「スゲー楽しい」などなどみんな絶賛してますね。
個別の話で議論してても微妙にマヌケかもしれませんが(すみませんw)、この程度なら「小規模な統計調査としてのクロスレビュー」はけっこううまく機能していた感じがします。この路線ならぜんぜん悪くないですね。むしろ歓迎したい。これを見る限り、この当時はまだ言うほど「古いレビュー基準と実態が齟齬」は起こってる感じじゃない*3。斬新なものに4人中の1人がついていけないというのはしっくり来ます。
昨日のエントリの注でちょろっと書きましたが、殿堂入りシステムっていうのが「権威化」を支えてしまったというのもあるんですよね。「総合点」で問われるから、誰か一人が低い点数を付けてしまうと「殿堂入り」としてカウントしなくなってしまう。中央値ではかればパラッパは8.5だけれども、総合点÷4 をした平均点だと7.75点になっちゃう。こういう形で成立した「権威としてのクロスレビュー」としては、一人が好き勝手につけるような「小規模な統計調査としてのクロスレビュー」ができなくなっちゃう。「新しい価値」に全員のレビュアーがついていくように強制されてしまう。
殿堂入りシステムこそは「権威化」を加速したものですけれども、まさにこれが「からっぽの権威」を作り出すための装置に他ならないのではないかと。
*1:32点ではじめて殿堂入りする、というシステムであるために、90年代末には殿堂入りさせる/させないを意識したがゆえの「31点止め」があるのかどうか、ということで業界関係者の間では気にされていたらしいです。永倉にゅうさんの「LOVE GAMES」による検証によれば、合計点数の分布はだいたい正規分布を描いており、特に作為的に31点が増加しているのは認められないとのことですが、32点・31点のソフトの売り上げTOP5を並べてみると、31点のソフトの方が倍近く売れているということが明らかであるということが提示されています。この「31点」「32点」というのが一般ユーザーとファミ通編集者サイドとの受け止め方の違いを示す分水嶺なのかもしれませんね。雰囲気的に。
*2:確認した限り、96年11月22日号(No414)でSS『デジタルピンボール ネクロノミコン』が9.8.8.7で殿堂入りをしたのが、殿堂入りシステムの最初みたいです。これって、すっごいこっそりとはじまってるんですね実は。
*3:とは言っても、その10ヶ月前に『ポケットモンスター』に8.7.7.7とか付けてたりもしますが。松谷さん的な議論をする上ではポケモンに対するこの評価のほうがあからさまでわかりやすいですね。「ソフトウェア的な見地からの使い勝手=「仕様」が悪いもの、を指していると思うんですね。けっしてゲームデザインやコンセプトの評価を中心としていたものではないんじゃない」という議論がそのとおりだなあ、と思うのはまさにこれですね。ポケモンなんて「学校」という遊技場で交換ができなかったら「8.7.7.7」ぐらいの「仕様」のソフトだろ、という。この評価の足並みの揃いっぷりも見事な感じがします。逆にパラッパぐらいあからさまに新しそうなものだと、「これは評価しなくては…!」みたいな意識がはたらきやすいとかっていうのもあるのかもしれません。
2005年04月09日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「思春期病」患者への防衛意識とファミ通クロスレビュー
話は変わってファミ通クロスレビューの話。と、ファンへの防衛意識。
http://gmk.9bit.org/note05q2/050406-shisyunki.htm
彼らの存在を意識すると、好きだからこそ苦言を呈する行為さえハイリスクなものに思えてくる。ゲーム系ブログ運営者はもちろん、商業誌を作る人々でさえこの問題には神経質だ。現に今のファミ通クロスレビューでは、4人が4人とも同じようなことを書き、無難な点数しか付けなくなっている。これがスポンサーを恐れるからではなく、思春期病患者を恐れるからだと言えるのは、近年『斑鳩』のようなゲームに不自然な高得点が付いていることからもわかるだろう。中小メーカーとの関係が悪化したところで出版社にたいした影響はないが、それでも「人を選ぶゲームだ」なんて本当のことを書いて低い点を付けた日には、思春期病患者から脅迫状を送り付けられることだろう(これはネタではなく実際よくある)。こういう患者が増えると世の中が息苦しくなる。
文句を付けてくる人を「病」として見なそうとは思わないが、状況をうまいこと言いあてている。
実際、90年代中盤ぐらいを境にファミ通クロスレビューのそういった防衛意識は急速に高まっていった感はある。93,94年ぐらいまでは、スクウェアの新作に対しても6点、7点をつけたりして読者から恨まれていたりした時期があった。実例を挙げると「ファミコン通信」93年12月17日号のクロスレビューでは『ロマンシング・サ・ガ2』の評点が8・5・7・6*1と大変に低い点数がつけられている。この点数が妥当と思えるかどうかということはさておくとして、90年代中盤においてファミ通クロスレビューは確実にその性格を変えていっている。少なくとも、今のファミ通がスクウェアエニックスの一押しの新作にこの点数を付けるとは到底考えにくい。*2
ファミ通クロスレビューがそのように性格を変容させると同時に、90年代後半には「ファミ通クロスレビュー」が権威的なものとして捉えられる文脈が確実に成立していて、同誌に連載の鈴木みそ「大人のしくみ」の中で、飯野賢治*3と浜村通信がクロスレビューについて討論を交わすというような場面もあった。そして、90年代後半以降、クロスレビューに触れて繰り返し浜村通信が言うようになったことの一つとして「実際のゲームプレイヤーの気持ちになることが重要だよね」(以下、「同じ気持ち」発言と略す)というものがある。実際の発言から引用すると
最近とくに、ターゲットの狭いソフトが増えてきている。気をつけているのは、ターゲッティングされたユーザーと同じ気持ちになること。製作者も納得してプレイしているのにレビュアーだけが文句をつけているなんてね。レビューの意味がないもんねぇ(2001/9/21ファミ通増刊「クロスレビュースペシャル」)
という発言がわかりやすいが、昨年(2004年)4月のには同様の主張を繰り返した後「もちろんいまのファミ通の評価は、その考えを前提において採点されている」*4とまで言っている。苦情を言ってくるファン層への防衛意識を換言すれば、なるほど、このような言い回しになるのだろう。*5
*1:評者はそれぞれ浜村通信、ローリング内沢、渡辺美紀、ジョルジョ中治。完全に余談だが、この評価は93年当時、私もびっくりしたし、開発者の河津さんなどはだいぶ根に持っていたようで、つい数年前の「コンティニュー」誌のインタビューでこの評価に対するグチと思われるような発言をしていた。
*2:その傍証として、現場の証言としては大沢良貴『ゲーム雑誌のカラクリ2』などがある。たとえばP52~「アスキーにいた時代末期でしたが、当時スクウェアの話題作『ファイナルファンタジーVIII』の発売が間近に迫っておりました」/ この時機、さすがに注目作だけあって『ファミ通』に届いたサンプルに対する情報がけっこう流れていたものですが、このときはなかなか顕著なものがありました。別に『ファミ通』編集部に近いというわけでもないのに、「あっちゃー」という印象が流れまくっているのですから、サンプルをプレーした人の感想は押して知るべし。というより、実際に聞いてみると本当に評判が悪かったりするのですから始末に負えません。/しかし、その後の『ファミ通』では『ファイナルファンタジーVIII』が一押しのまま、300万本売れてくれて、めでたしめでたしというオチになりました。/ こういった現象に対して「広告もらってるからだろ?」「接待されたからだろ?」といったスキャンダラスな言葉で片付けるのは簡単でしょう。しかし、広告や接待で記事の扱いが変わるのであれば、かつて財閥系の大資本がゲーム業界に参入したときに失敗するわけはないし~~中略~~ / そもそも、どのゲーム雑誌もメーカーもそうですが、暗黙の了解のうちで業界を牽引していくタイトルやメーカーというものを決めてしまっています。はっきり言ってしまえば、ゲーム雑誌などはゲームの出来などは別として、その発売時期にあわせて特集を組んでしまっているので、実際にサンプルを遊んだ人々の正直な感想が入る余地などまったくありはしないのです。」
*3:はたまた完全に余談だが、飯野賢治が最も尊敬されていた「1997年」という年はゲーム雑誌が一番売れていた時期。スクウェアが一番強かった時期とも重なっている。
*4:ファミ通2004.4.16日、800号、P277
*5:「防衛意識の言い換えでしかない」というのはちょっと言いすぎかもしれないが。
■システム的に「良い」レビュアーの誕生
少し話は変わるが、この一年ほどamazonでレビュアーをやってみてわかったことがある。ご存知のように、amazonの読者レビューには一つ一つのレビューについて、匿名の第三者がそのレビューが参考になったかどうかについて「はい」「いいえ」で投票することができる。そして、多くの人から「参考になるレビュー」として認められるレビューを書いていくと優秀なレビュアーとしてランキングされる。優秀なレビュアーとしてランキングされることは、amazonでレビューを書く人々の動機のひとつになっている。
優秀なレビュアーとしてランキングに載るためには「参考になるレビュー」をどんどん書いていけばいいわけだが、それは裏返して言えば、読者から「不評を買わないレビュー」をしていくことに他ならない。このときにレビュアーとして効率的に評価されていくためには、「ファンの多い作品のファンに媚びを売る」のが一番いい戦略である。たとえば、一般的に人気の高い『One Piece』関連の書籍であれば、絶対に褒めたほうが「良いレビュアー」として評価されやすい。なぜならばそのレビューを閲覧して、レビューに対して「良い/悪い」を投票する人のほとんどが、One Pieceのファンである確立が高いからだ。間違ってもOne Pieceについて貶したり、高踏的に捉えられるようなレビューを書いてはいけない。レビューを閲覧する人々の中の90%ぐらいを(たぶん)占めるであろうOne Pieceのファン達からすれば、そのレビューは十中八九「参考にならないレビュー」である。One Pieceのファン達のほとんどはOne Pieceについての批判的な感想は求めていない*1。ファンの多いものなのだから、とにかく褒めておけば間違いない。
逆に「アンチの多い作品」は「これはクソ」と言っておけばよい。そうすれば、「これはクソ」と思っている多くの人が「参考になるレビュー」だと認めてくれるはずである。ネットに常駐する人々の90%以上に批判しようとされるようなタイプの本を想定してみよう。仮に、『インターネットという麻薬~非行の温床としてパソコン文化~』とかいうタイトルの本があったとしてみる。タイトルからしていかにもダメっぽいが、意外にいい内容の本だったとしてもこの本について「参考になるレビュー」を書くために中身を読む必要はまったくない。手にとる必要もない。ネット上のほぼ全ての人々を敵にまわすようなタイトルである。この本については「どうしようもない本。誤解の嵐。」と一行書けば、それだけで十分である。ネット上のほとんどの人がその意見に賛同してくれる。アンチの多そうな本だと思ったら、貶しておけば大丈夫である。
身も蓋もないことを言うようだが、周りの評価さえ気にすればよい。つまり「ファン」と「アンチ」の比率さえ気にすれば、自分で頭を使わなくてもいいのだ。「ファンの多い作品」をチョイスして、「素晴らしい」という評価を繰り返していくだけでも、おそらく「良いレビュアー」としてシステム上は集計されることになるだろう。実際にレビュアーとして「不評」であるという証拠はないわけだ。amazon的に「良いレビュアー」を目指すゲームとは、レビュアーが誰にも不評を買わないように保身に走るのことが一番効率的なゲームなのである。
だが、少し冷静になって考えてみると、これは決して歓迎できる事態ではない。そのレビュアーは個々の商品レビューの参考としては、そのように「良いレビュアー」としていつの間にか機能しはじめるが、少し長期的なスパンでみるとそのようなレビュアーによって侵食されたレビューの集積は「沈黙の螺旋」*2ががっちり実現されただけだ。「ファンの多い本に批判を書いてはいけない」というゲームの勝利法に気づいたレビュアーたちばかりで、構成されたレビューシステムとは、「ファン」でない他者が沈黙しただけの場所になってしまう。
そのような評価の集合を目の前にして、事情を知らなければ「これが世間の声か!」と勘違いすることも可能だが、事情をなんとなくわかってきた読者にとってみればそんなレビューは「高く評価するファンがいるかどうか」という情報以上の価値はない。レビューを一番熱心に読むファン層(あるいはアンチ層)から多少の賞賛を得られたとしても、「ちょっと興味を持った人」ぐらいの層からは単純に参考にならない。『One Piece』や『Final Fantasy』のファンが多い、ということがわかったとして、ファンでもなんでもない人にとっては何もうれしくない。
今のファミ通はそのような「参考にならない」レビュー街道をまっしぐらである。浜村の言う「ユーザーと同じ気持ちになる」ということは、ユーザーでない人とは同じ気持ちにはなっていないということだ。
(あるいは、個別の商品レビューの場合でも、100%ファンしか買わないものならまだしも、40%のファンと60%のファンでない人が接する商品のレビューにおいては、そういう「ファンの声を重視する」戦略は完全に破綻するという問題もある。)
*1:言うまでもないが、One Pieceは例に出しただけである。別に、ハリーポッターでも、Narutoでもなんだっていい。ここではOne Piece自体の是非を言っているわけではない。
*2:というには大袈裟かもしれないが。「沈黙の螺旋」についてはhttp://www.socius.jp/info/clinical04.htmlを参照。一言でいうと、一つの意見で場が支配されているような雰囲気に圧されて将棋倒し式にみんな沈黙してしまうこと。
■権威でないことの価値と、権威であることの責任
ただ、浜村の「ユーザーと同じ気持ちになること」発言は、単に浜村通信という一個人がやってしまった保身の愚かさというものとして片付けられるわけでもない。
おそらく、浜村が「同じ気持ち」発言をしている背景にはクロスレビューが「権威化」したことと密接な関係がある。先ほど引用した昨年の浜村通信の発言には、次のような文章が続いている。
それなりの教養とスキルを積み、好みにおいてつねに中立を保てるスタンスを貫けること…(略)…そんな評価者を育てるということは、生半可な訓練でできることではないのだ。しかし、ゲーム雑誌の本来の役割は、よいゲームを見つけ、ファンに忠実に届けること。評価者の育成は、じつはゲーム雑誌の命運を分けるほど重要な課題となるはずだ
クロスレビューの利点はもともとは、価値(嗜好)の多元性を前提と据えつつ、多様な立場からの意見を集積していくことだった。価値の多元性を押し出すがゆえに「バカ」なレビューもありえた。だが、それが「ファンと同じ気持ち」になり「教養」を身につけた「中立性」のある<理想的な評価者>*1になるのだ、などといいはじめた。つまり、権威あるレビューをやってやろうではないか、ということだ。
だが、言うまでもなく、小規模な統計調査であるクロスレビューは「権威あるレビュー」をするための装置ではない。むしろ、多元的な価値を持つ個々人のレビュアーが「権威でない」ことを前提としてはじめて利用可能になるものだった(だから、文章自体は短くてもよい)。みんなが同じ評価をしないとわかっているから面白いのであって、みんなが同じ方向性で評価を下してしまうのでは意味がない。だが、それが90年代前半にファミマガを抜き売り上げダントツナンバー1のゲーム誌となり、売り上げは97年まで年々拡大してゆき*2、ファミ通側の意図はどうあれ業界内での声が大きくなってしまい事実上の「権威化」がなされた。*3浜村の「同じ気持ち」発言は、そのときに沸き起こってきたファミ通外部からの「権威としての責任を」という声に応じた、ファミ通内部からの反応にすぎなかったのだろう。「おまえ権威なんだから責任もて!」と言われて「じゃあ、権威にふさわしいものになってやろうじゃないか」と。
そこでおそらくSoftwareImpressionのようなコーナーを充実させることも考えたのだろうが*4、実際に業界で大きな声を持ってしまったのはそんな人気のないコーナーではなく、人気のある「クロスレビュー」コーナーだったわけだ。そして、クロスレビューをどうするか、とさんざん悩んだ末が「同じ気持ち」発言なのだろう。*5権威として、大御所としての振る舞いとしては「同じ気持ち」発言に行かざるをえなかった感覚はわからないでもないのだ。
*1:昔の読者論であったような「理想的な読者」に近い議論をやっていると思います。
*2:「出版指標年報」より。ファミ通含む、ゲーム雑誌全体の売り上げは各年度の出版指標年報のデータを拾い上げてみると94年75億、95年103億、96年114億、97年134億、98年104億、99年96億、00年87億、01年67億、02年60億、と推移している
*3:また、こういったクロスレビューの「権威化」を支えたシステムの一つとして、四人の総合得点による「ゴールド」「シルバー」「プラチナ」殿堂入りをさせるという、四人の総合点の重視をさせてしまうような仕組みを押し進めてしまったという点も挙げられるだろう。四人、という少ないサンプル数の中で総合点や平均点の重視などをやったら当然のように一人一人の点数が重みを持ったものとして捉えられてしまうのも仕方がない。
*4:このコーナーの存在を知らない人も多いのでは。ファミ通の中にある長文のレビューコーナーです。
*5:だが、「同じ気持ち」発言までいくような悩みがどうこう以前に、結局ファミ通クロスレビュアーは、「ファミ通の編集者」という同質性に強く束縛されていて、権威を目指す以前に、サンプルとしては偏っていて使えないかも…という問題はけっこうあった。この問題もかなり重要なので、サンプルとしてあまりに偏っているとなると「各人が思ったこと書けばいいんでないの?」ということも気軽に言えない。
■「理想的な評価者」は可能か
に、しても、浜村通信の言うような理想的な評価者の存在は可能なのだろうか。
結論から言えば、そんなものありえないと思う。文芸批評にせよ、映画批評にせよ、漫画批評にせよ、教養のある批評家や、分析が面白い・鋭いと言われる批評家が存在したことはあっても、それは別に中立的な価値の上にファンの気持ちを代弁してたからではない。
一昔前のヨーロッパとかなら、貴族の教養階級が「俺は洗練された趣味を持った偉い批評家なのであって、おまえらバカな大衆どもは啓蒙されればいいのだ!」という感じで<良き趣味>の押し付けも可能だったかもしれない。しかし、ゲームで啓蒙といっても一体何するの?という問題もあるし、「洗練された趣味」は「ファンの気持ちを大切にすること」とは両立しないだろうし。
ただ、一応留保をつけておくと、「ファミ通」ではムリでもへヴィーゲーマー向けの「コンティニュー」などの雑誌であれば、理想的な評価者<まがい>の人物はギリギリ登場できなくもないかも。とは思う。
なぜならば読者層がある程度似たような人々であると思われるので、似たような前提を共有する批評家/読者の間であれば、解釈や価値の多元性とかにそこまで極端に配慮しなくとも、済んでしまう可能性はある*1。ただ、それは「コンティニュー」読者層というスモールワールドを抜け出してしまえば別に理想的な評価者でもなんでもない。
で、なんだか、いつのまにか話がやたらと長くなってしまったので結局ファミ通のクロスレビューをどうすればいいのか、という話に戻そう。
結論を言うと私としては、ファミ通のクロスレビューはなくしちゃっていいんじゃないか派、である。もう最近では自分も年に数回ぐらいしかクロスレビューを読んでいないし、バイヤーズガイド的なものはほとんどPlaystation mk2やネット上のものを参考にしている。浜村通信がいくら頑張ったところで構造的にムリなところにきてしまっているのではないか、と。
ちなみに浜村通信は尊敬しています。
*1:似ている、とは言っても、それなり以上に多様な嗜好を持つ読者層ではあるかもしれないがファミ通と比べれば読者層のわかりやすさは圧倒的だろう。
2005年04月05日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ZOEさんのコメントについて(1)
>「名作ゲームとは面白いゲームではなく良いゲームのことだ」
この指摘から言いたいことを類推するに
- 「面白さ」が「良さ」の全てではない、ということ。「面白さ」は「良さ」の部分集合に過ぎない
- 「面白さ」という一般的な基準とは別途に、ゲームというメディア独自の「良さ」を見出せるのではないか。
という二つの方向性を想像しました。前者は、わかりやすぎて面白くないので、後者のセンで勝手に妄想して応答してみます。(笑)
後者の指摘だった場合、何が面白いのか、というと「ゲームメディア独自の良さ」なるものを抽出しようというある種のゲーム原理主義みたいな方向性ですね。「面白さ」というようなゲームを測る際のとても一般的な基準をシャットアウトしてしまって「ゲームメディアそれ自体」の自立的な「良さ」を想起するとすればどのようなことになるのか。
強引に想像してみると、ゲーム=フォルマリズム*1のようなものを想定しているのかな、と。*2こういったゲーム原理主義って今までにもあるにはありましたが、「面白さ」を取り込むのではなく、排除してしまおうという方向までつきすすむとなるととても珍しいものになります。
さて、どんどんとZOEさんの議論からはずれていき、勝手に話を展開させてしまいますが、「優良なゲーム」をめぐる議論はこのような「ゲームというメディア独自の価値」とそれ以外の「良さ」の基準――例えば「面白さ」でもいいし「社会的な道徳性」といった点でもいいですが――それらとの対にして考えたとき、これは古典的な議論へとつながるかもな、と思いました。*3
じっさい詩や絵画の価値を、それが現実の世界認識に対して持つ真理性や、現実行動の規範を提示する道徳性に求める考えかたは、ふるくからある。すでにプラトンは、詩や絵画といった模倣の術は、もともと真実在であるイデアの写しでしかないわれわれ人間の経験世界を、もういちど影像として写しとることで、真理をゆがめいつわる仮象として、これを断罪した。これに対してアリストテレスは、人間には模倣をよろこぶ本能がそなわってえおり、しかもこのよろこびは、模倣をつうじて、それが模倣している現実のものがそもそもなんであるかを推論するという、人間に固有の知と認識のよろこびに由来するとして、模倣の術の価値を、現実認識の真理性にもとめる。ヘシオドスは、「われら、ほんとうらしい多くのいつわりをあまた語るを得、はまたまねがわくば、真実を語るを得」というムーサイの言葉をつたえているし、また詩のもつ認識機能の教育的効果については、ホラティウスが、すぐれた詩人は「快楽と有用をいっしょにして、読者を楽しませ、同時に教えをあたえる」と述べている
このような考えかたは、近代において、芸術がそれまで社会に対してはたしてきた宗教的・共同体的、イデオロギー的効用から独立に、それに固有の価値を主張しはじめたとき、いっそう純粋なかたちで強調されることになる。というのも、すでに見たように、「美しい芸術」というあたらしい概念が、まずは美的な快楽をその共通項として成立したにせよ、それだけでは、これまでの社会的効用に取ってかわる自己主張としては不十分だからである。フランス古典主義による「有用の快楽」説も、このような文脈における自己弁明であった。それがドイツ・ロマン派および観念論による精神の美学のなかで体系化されて、芸術は人間精神による真理把握の特権的な一領域となる。
現代のわれわれもまた、いぜんとしてこの伝統にたっている。
(西村清和『現代アートの哲学』P74)
さて、ここで、もう一度振り返って東京都の認定基準を見てみましょう。
>(1)社会の良識と倫理観念のかん養に役立つもの
>(2)正しい知識と教養を深めるもの
>(3)人間的愛情を豊かに育てるもの
>(4)美に対する感覚を洗練し、豊かに育てるもの
>(5)健全な娯楽作品として優れたもの
>(6)思考力、批判力又は観察力を養うもの
>(7)前各号のほか健全な心身の成長に役立ち、福祉の向上に資するもの
すると、この基準はいかにも西村清和の言うところの「近代」の「伝統」にたっているような気がしてきます。
(4)や(5)あたりは「美」あるいは「娯楽」といった独自性の範疇ですが、(1)(2)(3)(6)(7)あたりは社会的・道徳的価値であったものが芸術の中にゴリッと融合してしまってる感じですね。
(だからなんだ、という話ではありますが)
*1:フォルマリズム:「1910 年代半ばから 20 年代末にかけてロシアの若手研究者や言語学者を中心に展開された文学運動。…(略)… 〈文学ではなくて,文学性,つまりある作品をして文学作品たらしめているもの〉こそ文学研究の対象とすべきであると主張した。…(略)…彼らは,それまでの文学研究が文化史や社会史,あるいは心理学や哲学に依拠していることを批判するとともに,文学作品を自立した言語世界としてとらえ,言語表現の方法と構造の面から文学作品を解明しようとした。すなわち,〈何が〉書かれているかではなく, 〈いかに〉書かれているかがまず問題とされた。シクロフスキーの言を借りれば,芸術の目的は事物を異化・非日常化することにあり,知覚を困難にし長びかせるのが芸術の手法である。すなわち〈手法こそが唯一の主人公〉であった。」(平凡社、世界大百科事典より引用)
*2:あ、でも「科学的・理論的にゲームの評価を誤解無く行うことは不可能だと思っている」とおっしゃっているので、そういうことはないのか。
*3:普通は、「面白さ」をシャットアウトしてまで「ゲームそれ自体の良さ」を主張するという方向性は稀有なのでこんなところにつながったりしないのですが
■ZOEさんのコメントについて(2)
>「統計的な評価は現実的には期待できない。たくさん売れたタイトルが有利になる可能性が高い」
これについては、おそらく統計的評価について少し誤解があるのではないかと思います。
例えば、統計的にゲームの評価を行っているPlaystation mk2を見ていただければわかりますが
2004年発売のPS2のRPGについて見てみると、確かに売れ行きの高かった『ドラゴンクエストVIII』はランク「A」で平均点も74点となっており高い評価を得ていますが、それよりも注目は『真・女神転生III-ノクターン マニアクス』の「S」ランク、平均点81点となっているところですね。
多言を要さないと思いますが、単純な得票数で集計するような形の「統計」だけではありません。個々人の評価の「平均点」というものを導入するだけで、「売れたタイトルが有利になる」という可能性は避けられます。
ただ、ZOEさんの言うような「売れたタイトル/売れないタイトル」がネット調査系の統計手法として問題があるとすれば、マイナーなゲームやニッチな市場に向けたゲームとメジャータイトルを比較した場合に評価者の同一性が保持できないということかと思います。
シューティングマニア向けの5万本も売れれば十分のタイトルと、ドラクエのような300万、400万といった規模で子供からお年寄りまでやるタイトルでは評価者の傾向が全く違ってきますからね…
一応、これもCinemaScape/映画批評空間なんかだと、映画ごとに「ゴダール好きの人の評価は平均9点」「チャップリン好きの人の評価は7点」「ジャッキー・チェン好きの人の評価は4点」などと言った形で、評価者の傾向まで可視化できるようにされてます。(ゲームではここまでデータマイニングをやってるところはまだないようですが…)
■Tatuskiさんのコメントについて
「ゲームをめぐる議論が影響論で埋め尽くされていくのは嫌だなぁ」「影響関係を中心とした議論からは、ビデオゲーム経験自体がいったいどういったものなのか、といった問いがなされてこない」というのは全く同意見です。
ただ、「前提を作るための本来ありうる幾多の議論が日の目を浴びなくなってしまう」というのは、なんともいいかねます。どちらかといえば、その後でTatsukiさん自身がおっしゃるように「そもそもそうした状況が現れるのはまさしくゲームに関する人文・社会科学分野の立ち遅れが大本にある、とも思う。すでに立脚しているものを叩くより、やるべきことは他にある」という認識のほうですかね。自分も
2005年03月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2005年03月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「暴力」の概念がいいかげんなのではなかろうか、という話。
3月20日のコメントが長引いているので、見ていただいている方へのフォローと、僕の方での理解のレベルの提示という意味をこめてもう少しきちんと書いておきます。
たとえば坂元章氏の「暴力性」の研究などでは、
「暴力」という概念そのものを問う姿勢があまり見受けられない。
何を問うべきか、という議論が薄いというべきでしょうか。
このTatsukiさんの指摘は、実際、ゲームの「暴力性」研究の話を考えていく上ではとても重要な指摘です。
どういうことか、というと久保正明さんのスポーツ哲学のページにある、スポーツと暴力の問題提起がわかりやすいので引用します
街角で、目つきの悪いお兄さんが若者を殴ったりしていたら、それを暴力って言いますよね。でも、このお兄さんと若者が上半身裸になってトランクス姿で、リングの上で殴ったりしていたら、これ、暴力って言いますか。普通、ボクシングって言いますね。
このように、スポーツには殴ったり、蹴ったり、押し倒したり、投げたりする場面ありますね。ボクシング、レスリング、剣道、柔道、アメリカンフットボール、ラグビー・・・、あるいはバスケットボールのハッキング、サッカーのチャージ、みんなこんなことしてますね。あれって、暴力・・・じゃあないですよね。でも、殴ったり、叩いたりはしてますよね。どこが違うんでしょう。また、ストリートファイトなんてTVゲームありますね。あれ、実際にやったら、スポーツになりますかね、あるいは暴力ですかね。
話は変わりますが、犬に咬まれたことある人いますね。あれって犬の暴力ですか。じゃあ、蚊に刺されたことある人、あれって暴力でしょうか。
また、よく殴る先生(監督・コーチ)いますよね。あれって、暴力ですよね。でも、殴られたあとに「ありがとうございました」なんて言っている人もいますよね。あれってサド-マゾなんでしょうか。それとも、愛するが故に・・・なんて考えると、さっきの関係を思い浮かべちゃいますね。そうではなく、教育者として子どもたちに教え込むために、あえて手をあげる・・・。
こうやってみてくると、一体どこまでが暴力なのか解らなくなりますね。暴力って何なんでしょうか。
ここで言われているように、「暴力」という行為は、一見自明なように思えますが、考えていくと何が暴力で、暴力でないのか、というのは実は文脈によってマチマチだということがよくわかります。では、我々は一体、どういう理由で「暴力」を暴力とみなしているのか。
一言で言ってしまうならば、個別の犯罪的な暴力*1というのはソキウスの暴力概念の解説の中で引用されているデュルケムの「われわれはそれが犯罪だから非難するのではなく、われわれが非難するから犯罪なのだ」という言葉に集約されるものかと思われます。つまり、客観的に観察可能な「暴力」というものが存在するわけではなく、肉体的・精神的に危害を与える行為を社会の側が「暴力」だとして取り扱うからこそ、それは「暴力」としての認定を受けることになるのだ、ということです。
こういうことを言うと、「暴力」概念がものすごく相対的で根拠のないものであるかのように思えてしまいますが、我々の日常的な感覚として「暴力」イメージはかなり明瞭に存在しています。そこで実質的な「暴力」認定、定義のための基準が必要となります。
それがたとえば、その行為が本当に被害者にあたる人の「基本的人権」を侵害しているのかどうかなどといったことや、刑法における規定といったものがあるわけですよね。これは基本的に一目見てわかるものというのではなく、加害者が責任能力*2のある状態にあったか、とか被害者の側にその行為に対して同意が存在したのかといったこと水準によって判定されているわけですよね。
さて、それではどうしてこの話が重要なのか。
テレビゲームの影響論に関する実証研究をいくつか見てみると、「暴力性」を測定した、という話になっています。たとえば湯川進太郎・宮本哲弘・吉田富士雄(1999) 「暴力的テレビゲームが攻撃行動に及ぼす影響」や、坂元氏の文章の中で触れられている電気ショックを与える時間と、テレビゲーム遊びとの相関性についての研究などが挙げられます。これらの研究の中では攻撃的思考、攻撃思考だとか、暴力性といった言葉がほとんど同じ意味で使われていますが、考えてみると、それって本当に全部「暴力性」という言葉にくくってしまっていいのか?と。
少し考えてみれば「攻撃」と「暴力」はぜんぜん違うものだろう、という今までの話から明らかです。「攻撃的思考」によって「暴力」が発生する可能性は確かに上昇するかもしれない。だけれども、そこで社会的に振舞おうとする意識があれば、別にそれはボクシングとか別の格闘ゲームをプレイするだとか、そっちのほうへ向かう確立だってぜんぜんあるのではないか、と。とすれば、人に電気ショックを与えた時間を測定する研究みたいなことで、「暴力性」が証明されたといえるかどうかはきわめて怪しいという話です。
たとえば95年1月に日経新聞で報道された事件に、「格闘ゲームで見た技がどれくらい効くか、試してみたかった」という動機で起された中学生によるリンチ事件がありました。この事件について格闘ゲームの「影響」があったことは、加害者コメントからも明らかです。ですが、格闘ゲームの技を実際に決めてみたいという、欲求が生じたとしても、それをボクシングや空手の試合の場所ではなく、それを「リンチ」という形で実現してしまう感覚はテレビゲームの影響というよりも、事件を起した中学生達のモラルだとかそういう水準の話にもっていったほうが妥当だろう、と。*3
以上が僕なりに噛み砕いたTatsukiさんの話…だろうと推測します。
*1:「国家的暴力」「構造的暴力」という概念と区別してこう呼んでいます。
*2:いわくつきの刑法39条ですね。未読ですが『そして殺人者は野に放たれる』日垣隆なんかでも最近話題になりました。
*3:これに対しては、こういう反論も考えられます。「普通、暴力に類する行為がメディアなどで表象されるにせよ、スポーツなどとして教えられたりするにせよ、そこには通常の場合は勧善懲悪の概念や、スポーツマンシップというモラルがセットになっている。それに対して、暴力的表象だけが提示されてモラルがセットになっていないテレビゲームはその意味で「悪影響」ではないか」と。こういう反論であれば、わからないではないです。もっとも、モラルと暴力的表象は他のメディアでも必ずしもセットになっているわけではない(たとえば映画『ゴッドファーザー』)ですが。そう言ったらこういう反論があるでしょう、「テレビゲームは他のメディアよりもインタラクティブであるがゆえに臨場感・リアリティが強く、表象から行為欲求へとつながる相関関係についても実証研究があるにはあるし、子供達の日常的な接触量も多い。だからテレビゲームの責任は他のメディアよりも強力である」と。この反論については、認められるかどうかさらなる実証研究を待つしかありません。
■とは言ったものの。
で、私のツッこみはと言いますと、いままでしてきた話って、至極その通りであり考慮されるべき話ではあるわけです。もちろん、価値のある指摘です。有意義です。
が、ぶっちゃけた感想を言ってしまうと、これって理論系の人がいかにもやりそうなツッこみでもあるわけですね。そこそこの期間、人文・社会科学系の理論とかをかじっている人なら、多分既視感を覚えてしまうような。
しかも、何よりも悲しいことにこう突っ込まれたところで実証系の研究をやってる人たちの研究手法の具体的な改善につながるかどうか…というと、あまりつながらないことの方が多かったりするというのが経験的な話としてあったりします。つながれよ!とは思うものの、つながらない。「じゃあ、どういう方法論で研究をやれっつーのよ?」とか言われると、具体的な代替案がいまひとつ出しにくい。
「攻撃的思考に加えて、ゲーマーのモラル意識調査でもやるか」って、話が出てきてもいいような気もしますが、ゲーマーのモラル意識ってゲームプレイとの相関性という話で一般化できるようなことなの?とか言い出したら、それもまたものすごく怪しい。
うーん、それじゃあ、どうやって暴力性測定ってやればいいのかねぇ、と。(多分、「暴力性」とかっていうんじゃ、扱う対象として無理があるから、コミュニケーション欲求の影響とか、抑鬱傾向とか、もう少しケチのつきにくいレベルで観察可能な部分へと研究方法を落とし込んでいくのがベターだということになるのかな、とか思いますが)
それが私の問題意識でした。
なお、坂元章氏が「好影響・悪影響」という観点に絞って影響論研究をしているということ自体について言えば、「好影響・悪影響」という抽象的なものを取り扱うのがある程度の無理のついてまわる研究だということはありますが、ゲーム業界にとってみてば「悪影響はないんだ」とかあるいは「悪影響があるとしてもこういう部分だけ」といったアリバイゲットのために重要な研究でしょうし、悪影響を懸念する一般の方にとっても、もちろん必要とされている研究だと思います。あと、坂元氏は社会心理学者という肩書きですが、業績をパッと見させていただく限り、ほとんどが具体的な細かいテーマを設定して実験・統計といったことで業績を重ねてきた方のようのですので、「社会」とかを相手にゴリッと語るよりかは、得意分野であろう実験・統計で信頼できる仕事をしてくれた方がいいのではないですかね。
…と、長くなってしまいましたが、こんなものでよろしいでしょうか >Tatsukiさん。
書き終わったところで、今から、『メタルギアソリッド3』でアメリカの兵士として「国家的暴力」をやってきます(笑)
2005年03月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ はてなの質問たち その3
先日のはてなの面白い質問たちその1、はてなの面白い質問たちその2に引き続き、はてなのゲーム関連の質問をまとめてピックアップしてみます。
- プレステ2、ゲームキューブをやるのに最適な液晶テレビ(15~20型)を教えてください。できればレースゲームやアクションゲームなども動きの早いゲームもやりたいです。液晶テレビは早い動きに弱いといわれていますが、その中でも良いものを選択したいと思います。
- http://www.hatena.ne.jp/1106464800
- 知らなかった。液晶でゲームするのはあんまりよくないんだ。へぇー。
- ファミコンソフト(初代ファミコンのカセット)の作り方を教えてください。有力な情報でも歓迎します。
- http://www.hatena.ne.jp/1104819424
- この人は本当につくる気なのだろうか。
- 大型犬のオフ会したいのですがどんなことすればいいのかわかりません。一応ドッグカフェ借りて食事が出来るようです。でも3時間もあるからただしゃべっているだけではつまらないのでなにかゲームとか面白い物があれば教えてください。
- http://www.hatena.ne.jp/1106105656
- 大型犬のオフ会……そもそもそれがどういう趣旨のものなのか知りたい。むしろ質問したい…
- この書きかけの卒論を見て突っ込みをお願いします。http://d.hatena.ne.jp/sana0122/20050101 内容は家庭用ゲームの発展過程とシミュレーションゲームについてです。題は「少女のサブカルチャーについての考察」なのですが、まだ書きかけですのでここまで書いていません。表が崩れていますが、無視の方向で。ただの感想はいいです、徹底的にここが間違っているとか、ゲームについての説明がなっていない、そもそもこのゲームの発売日が間違っているなど、重箱のすみをつつかないぐらいのを突っ込みをお願いします。8000字くらいありますので、時間の余裕のある方よろしくです!
- http://www.hatena.ne.jp/1105706084
- おお、サブカル系卒論。とっくに終わってしまって、掲載されていたところが消えてしまっている。残念。
- 85年のスーパーマリオブラザーズって何であんなにヒットしたの?家庭用ゲームで出した意味とか、アーケードゲームではいけなかったのか?とか。よろしくです。
- http://www.hatena.ne.jp/1105453936
- んん~、やっぱ微妙な回答。流石に、これは簡単に答えられる質問じゃないですね。「なぜドラクエはあんなにヒットしたの?」「なぜテトリスはあんなにヒットしたの?」といった質問は、何かしら答えろといわれれば答えられるが。答えられるというだけだなあ。
- そして、なにげに最後に茂内さんの文章がリンクされているという。
- 過去にテレビで放映された家庭用ゲームハード・ソフトのCMの動画を数多く揃えているサイトを教えてください。
- http://www.hatena.ne.jp/1105199345
- おお、何気に熱い!「コンティニュー」的なレトロな盛り上がりを覚える質問ですね。
- 優良図書に推薦したいビデオゲームを探しています。
- http://www.hatena.ne.jp/1110648448
- 知人の質問ですが。全般にまあ、妥当なものが集まったなあ、という印象。でも、けっこう知ってるものが多かったので、まあこんなものなのかな。
- 現実の世界では、苦手な相手と戦ったり、お金を貯めたりすることは大変で疲れることなのに、RPGになると、なぜ楽しく何時間も遊ぶことができるのでしょうか?その理由を、心理学(あるいは、どのような学問分野で扱われるテーマなのか分かりませんが)などの立場から、分かりやすく解説したサイトがあれば教えてください。
- http://www.hatena.ne.jp/1108716498
- 主に心理学系の達成欲求とか、刺激とかそこらへんに回答が集中してますね。(まあ、質問の仕方がそういうものだけれど)。これに関しては前に、「差異の記号の中の戯れるとか。ボードリヤールたんっぽい話として理解すればいいんでないの?」とか言ってたことがありました。まあ、そこらへんは確か私なんかよか記号論系に強そうな人々の書いた藤井雅実、澤野雅樹編著『人はなぜゲームするのか 電脳空間のフィロソフィア』(1993、洋泉社)が、それ系の解説をがんばっていたような記憶が。
2005年03月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■優良図書指定にしたいゲーム
おお、id:ConquestArrowたんがはてなの質問が終わったと思ったら、こんなのはじめたらしい。
http://member.blogpeople.net/TB_People/tbp_2129.html
いろいろなサービスがあるんですな。トラックバックを集積するためだけのURLかあ、なるほど。
■有害/優良指定論議
それはさておき、優良図書とゲームという話は、まあ、正直なところどうなのだろう。「優良図書」「有害図書」などといったものを国だとか、市だとかそういった公的機関が決めるというのがそもそもちょっと奇妙な現象である、というのはいまにはじまったことではないけれども。
にしても優良/有害というのは、実際のところどういう根拠に立脚した形で議論してるんだろうか。マスコミ報道の中で暴力・エロ系のものが眉をひそめられるというような類の「良識」に影響されて議論されちゃったりするようなヘナヘナ感のただよう実情とかも本当にあるのだろうけれども、もし自分がそういうのを議論しなければいけない役職に無理矢理に就かされてしまった場合とか、どういう議論にもっていけばいいのだろう。なかなか想像がつかないな。
とか思いつつググってみると、「有害図書撲滅」や「有害」規制監視隊をとなえていらっしゃる大変にエネルギッシュなサイトを発見。がんばってください。
これを見ていると、有害云々の議論は埼玉県なんかだと、一般から公募した「青少年健全育成審議会委員」などにまかせてやっているらしい。ほほー、そういうのに応募する人というのがいるわけだな。一般から応募するのは結構だが、「書類選考のあと、面接による第2次審査が行われ、5月中旬までに選考結果が通知される」とかって書いてあるが、その選考過程におけるイデオロギー的中立性の保障とは言わないまでも「社会的に望ましい意思」とか、っていうものはどのようにして保障されうるのだろうか?見た限りだと、県につとめてる公務員の面々が決めちゃってるようだけれども。就職試験じゃあるまいし。そんな制度でいいもんなのか。でもまあ、県職員とかも本人が保守っぽい人とかでもない限りこの応募をやってる職員当人達も面倒でたまらないのかもな、本当に。(少なくとも、自分が公務員でそんなことやれと言われたら、確実にダルい)
他にも、CEROがやってるようなレーティング制度っていうのは単に年齢ごとに適正なものを決めるという程度の比較的温和なものだけれども、こっちは「有害」というきわめて強い表現なわけですけれども、そこらへんの差異を気にするのも面倒なのか、「CEROの基準を援用すれば、ま、いいんじゃね?」みたいな話になってたり、なかなかにダルさ全開。
■ところで優良なものの根拠というのは何なのでしょうか。
有害図書指定については、なんとかがんばって「科学的根拠」らしきものを発見しようとしているのが会議の様子などを読んでいるとわかるし、委員の方々も外野から突っ込まれないように武装しているのはわかるんですが*1、ググってみてもわからないのは、「優良図書」の論議。
優良図書の「科学的根拠」らしきものを論じているのが見つからない。
「オーイエス。この本からはマイナスイオンが出てるから確かに優良な効果があるヨ!!」みたいな論拠をゲットしたいわけですが、どうしてみんな、これについては何も口を挟まないのでしょ。もちろん有害図書指定になったら実際に書店において特定の年齢層に対して「販売禁止」という強い措置がとられることになり実効性のきわめて強い問題だというのはあるけれど、自分は『わが子に帝王学を』堀川たかしが、子供にとってどのように優良なのか知りたい次第。
結局、優良図書を選定する基準として発見できるのは、東京都青少年の健全な育成に関する条例第5条、第8条及び第14条の規定に関する認定基準あたりで、
(1)社会の良識と倫理観念のかん養に役立つもの
(2)正しい知識と教養を深めるもの
(3)人間的愛情を豊かに育てるもの
(4)美に対する感覚を洗練し、豊かに育てるもの
(5)健全な娯楽作品として優れたもの
(6)思考力、批判力又は観察力を養うもの
(7)前各号のほか健全な心身の成長に役立ち、福祉の向上に資するもの
という「科学的根拠」というよりは、価値の多元性を当然のように認めるという緩やかな方向性ぐらい。
ここで見られるような、有害図書指定の時はやや絶対的な「科学的根拠」らしきものが必要とされ、優良図書認定のときは価値の多元性のようなところでヌルーく終わらせてしまえるという非対称性は一体どうしてなのだろうか。
*1:つっこみようのない議論をしていると言っているわけではありません。あたりまえですが
2005年03月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■はてなゲーマーが選ぶ「2004年のコンピュータゲーム10選」 まとめ
はてなキーワード「今年のゲーム十選」という企画で、2004年度のゲーム10選もだいたい出ただろうということで、30分ぐらいかけて勝手にカリッとまとめてしまいました。*1
- 得票数 『タイトル(ハード)』 選者のid
- 7 『塊魂(PS2)』id:rakka,id:hiyokoya,id:nintenten,id:yms-zun,id:DocSeri,id:manpukuya,id:cando
- 3 『スーパーロボット大戦MX(PS2)』id:rakka,id:kanadai,id:cando
- 3 『逆転裁判3(GBA)』id:rakka,id:hiyokoya,id:cando
- 3 『大合奏!バンドブラザーズ(NDS)』id:usou_tuki,id:yms-zun,id:kanadai
- 2 『3年B組金八先生(PS2)』id:hiyokoya,id:nintenten
- 2 『ACE COMBAT5』id:hiyokoya,id:cando
- 2 『cross†channel(PC)』id:usou_tuki,id:kanadai
- 2 『THE お姉チャンバラ(PS2)』id:rakka,id:yms-zun
- 2 『グラディウスV(PS2』id:yms-zun,id:kanadai
- 2 『虫姫さま(AC』id:yms-zun,id:manpukuya
- 2 『直感ヒトフデ(NDS)』id:nintenten,id:yms-zun
- 1 『7~モールモースの騎兵隊(PS2)』id:DocSeri
- 1 『ASTROBOY鉄腕アトム』id:yms-zun
- 1 『BarnOut3(PS2)』id:usou_tuki
- 1 『beatmaniaIIDX 8th style (PS2』id:cando
- 1 『Bejeweled』id:manpukuya
- 1 『BORDER DOWN 限定版(DC)』id:kanadai
- 1 『DRIV3R (PS2』id:cando
- 1 『fate/stay night(PC)』id:usou_tuki
- 1 『F-ZEROファルコン伝説』id:as1982_11
- 1 『GARAGE私家版(PC)』id:DocSeri
- 1 『Halo2 リミテッドエディション(X-box)』id:kanadai
- 1 『ICO(PS2)』id:usou_tuki
- 1 『J.LEAGUE プロサッカークラブをつくろう! '04(PS2)』id:kanadai
- 1 『METAL GEAR SOLID 3 SNAKE EATER(PS2)』id:rakka
- 1 『michigan』id:kanadai
- 1 『MYST III EXILE(PS2)』id:DocSeri
- 1 『Outrun 2』id:as1982_11
- 1 『R:RACING EVOLUTION(PS2』id:yms-zun
- 1 『RanceVI (WIN』id:cando
- 1 『Rez』id:manpukuya
- 1 『SILENT HILL4 THE ROOM(PS2)』id:rakka
- 1 『The地球防衛軍(PS2)』id:hiyokoya
- 1 『Winning Post 6 PUK』id:as1982_11
- 1 『World Club Chanpion Football (WCCF) SerieA 2002-2003』id:as1982_11
- 1 『アドバンス ガーディアンヒーローズ』id:kanadai
- 1 『アンリミテッド・サガ(PS2)』id:DocSeri
- 1 『カオスシード(SS)』id:hiyokoya
- 1 『カルドセプト セカンド エキスパンション(PS2)』id:DocSeri
- 1 『きみのためなら死ねる(NDS)』id:usou_tuki
- 1 『クイズマジックアカデミー』id:as1982_11
- 1 『サーヴィランス(PS2)』id:hiyokoya
- 1 『シムシティ4000(PC)』id:hiyokoya
- 1 『シャドウハーツ2 (PS2』id:cando
- 1 『ショコラ(DC)』id:kanadai
- 1 『スーパーマリオブラザーズ(GBA)』id:as1982_11
- 1 『セガゴルフクラブ』id:as1982_11
- 1 『絶体絶命都市(PS2)』id:hiyokoya
- 1 『ゼビウス(GBA)』id:as1982_11
- 1 『ゼルダの伝説 4つの剣+(GC)』id:nintenten
- 1 『戦国無双(PS2)』id:rakka
- 1 『ドクターマリオ』id:as1982_11
- 1 『ドラゴンクエスト5 天空の花嫁(PS2)』id:nintenten
- 1 『ドラゴンクエスト8 空と海と大地と呪われし姫君(PS2)』id:nintenten
- 1 『ドンキーコング ジャングルビート(GC)』id:nintenten
- 1 『バトルギア3TUNED(AC)』id:yms-zun
- 1 『ピクミン2(GC)』id:nintenten
- 1 『ファイナルファンタジー・クリスタル・クロニクル(GC)』id:DocSeri
- 1 『ぷよぷよフィーバー(GC・GBA)』id:usou_tuki
- 1 『フロントミッション オルタナティヴ(PS)』id:DocSeri
- 1 『まわるメイドインワリオ(GBA)』id:nintenten
- 1 『ミステリート~不可逆世界の探偵紳士~(PC)』id:nintenten
- 1 『ミネルバトンサーガ (FC』id:cando
- 1 『メトロイド(GBA』id:yms-zun
- 1 『ようこそひつじ村 (PS2』id:cando
- 1 『機動戦士ガンダム ガンダムvs.Zガンダム(PS2)』id:rakka
- 1 『機動戦士ガンダム 戦士達の軌跡(GC)』id:rakka
- 1 『三国志戦記(PS2)』id:hiyokoya
- 1 『朱(PC)』id:usou_tuki
- 1 『聖剣伝説 レジェンド オブ マナ(PS)』id:DocSeri
- 1 『戦国無双猛将伝(PS2)』id:rakka
- 1 『大番長(PC)』id:usou_tuki
- 1 『頭文字D 3rd Stage』id:as1982_11
- 1 『麻雀格闘倶楽部3(Arcade)』id:usou_tuki
- 1 『流行り神(PS2)』id:rakka
こうやって見てみると、『塊魂』がゲーマーに圧倒的に強い支持を得ていたというのがあらためてわかりますね。母集団が10人という少ない中で、得票数7なのでこれはすごい数字です。ゲーマーのはてなダイアラーのうち70%が支持しているわけですから。
そして、『THE 地球防衛軍』のヒットに引き続き、『THE お姉チャンバラ』が評価されているというのも、THE simpleシリーズの力を感じさせます。
なにげに一番衝撃的なのは『ドラゴンクエスト8 空と海と大地と呪われし姫君(PS2)』を強く推していたのが、id:nintentenさん一人しかいなかったという点でしょうか。もちろん、11月末という2004年の終わりごろに出たので単純にやってなかっただけかもしれませんが、毎年20本も30本もゲームをやるようなゲーマーは、ほとんどドラクエ8を支持していないんだな、ということがあからさまに伺える結果です。
かく言う自分もこのまえようやくドラクエ8をクリアーしましたが、去年度中にプレイしていたとして10選に加えたかどうかは微妙な感じです。まあ、その話はおいおい。
*1:母集団は10人。作品に順位をつけていない人も多かったので、順位は考慮せずに得票数だけでカウント
2005年01月21日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■バイヤーズガイド
PSmk2などのだいたいのバイヤーズガイドのサイトはチェックしていたのだけれども、
kakaku.comもゲームの評価をしているのは知らなかった。
それにしても、なんか、こういうふうに示されると性能表みたいな感じがしてしまうな。「性能」に対する評価がゲームにもそのまま転用可能である、という考えもそりゃまあアリだとは思うけれど。別にそういうラディカルな発想を打ち出すというわけでもなく、さりげなく「性能評価だけどなんか文句ある?」な雰囲気萌え。
2005年01月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ゲームをやりはじめた時期
はじめて、はてなアンケート使ってみました。(n=500,択一式)
1977年以前 27 1978年~1979年 47 1980年~1981年 63 1982年~1984年 71 1984年~1985年 69 1986年~1987年 58 1988年~1989年 42 1990年~1991年 36 1992年~1993年 21 1994年~1995年 14 1996年~1997年 19 1998年以降 33
これ、自分の予想していたのより若干、というか2~3年ほどピークが前倒しされてるんですよね。ファミコンの発売は確かに、ここでピークを示している83年なんですけれど、マリオでもってファミコンブームが吹き荒れるのが85年~86年(市場規模も85年にコスっと上昇しています)なので、そっちのほうに、ピークが向かうはずだと思ったのんだけどなあ。うーん。これは、本当に83年~84年がピークということなのか、記憶が曖昧なのか。
まあ、そもそもネット調査ではユーザー層とかがきっちりわからないし、アレなんだけど、あまりにキレイにピークが出ちゃってるが、なんなんだろう。
2004年12月19日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■メディア間の相互作用って面白いな、と。
タイアップやメディアミックスの話にふれて。
どのメディアでも面白い、どのメディアでも楽しめる、などというのは幻想だ
なるほど。
まあ、確かにそれはそれで妥当だとは思うのだけれども、「タイアップ」とかっていう言葉自体が持っている含みのようなもの自体が問題にされてもいいのではないか、という気もします。
「タイアップ」というと、いかにも、商業主義バリバリな感じがして、「うん、まあ、ゲームでも出しときゃ、原作も人気あるし売れるだろう」的なノリを感じてしまったりするわけですが、逆にタイアップとかメディアミックスっていうのを肯定的に語るとすれば、決してそういうものだけではない、という部分もあるのではないか、と。
例えば、去年、理由あって、小学校6年生の男の子とけっこう沢山話す機会があったんですが、その子が、『NARUTO』の大ファンで、『NARUTO』の格闘ゲームなんかもバリバリとやっておりました。で、話をしようと思ってもその子の熱い『NARUTO』話についていかれないので、『NARUTO』をわざわざマンガ喫茶に行って全巻一気読みしたりしたんですが、やっぱりついていけない。で、なんだか知らないが、どのワザをどう出すか、とか、どのワザがどう強いか、という話を延々と講釈され、その子にいわせれば「ホントにそれで読んだの??ワザの名前とか全然覚えてないじゃん。ワザの名前覚えてなかったら、意味なくない?」という名言をいただきました。
このことについて考えてみるのに、例えば、以下のような議論を引用してみます。
東浩紀ほか『不可視なものの世界』P251~252
東:さっきも行ったように、アニメの基本はセル画にあるから、ファンの一部はその細かな動きをどこまで分けてみることが出きるかにすごく情熱を燃やすわけ。少なくとも八〇年代の前半には、戦闘場面や群集場面で数コマだけ遊びのフレームを入れるというサブリミナル的な演出が流行したことがあって、そのときにね。バカげた話だけど。
とはいえそういう身体性は面白いとは思うんだ。というのも、現代思想系の身体論はたいてい「計測不可能性」に焦点をあててきたわけだね。世界の表面には言葉で文節化された―――丸山圭三郎の言う「言分け」された世界があって、その下に記号では文節化できない身体があるといった話ね。メルロ=ポンティ風にいえば、まさにその身体こそが「見えないもの」なわけだけど、これはつまり、浅い/深い、見える/見えない、計測可能/計測不可能の対立でできている世界観だ。けれどオタクの身体性はどうも違っていて、もっとガジェット感覚というか、身体も機械みたいに捉えられている。
実際、そういうことは現代思想でも八〇年代から言われ続けていて、サイボーグとかテレプレゼンスとかが注目されているのは、そういう文脈だよね。
阿部:(中略)
東:実際に、その変化が九〇年代に最もラディカルに現れたのが格闘ゲームの身体でしょう。三つのボタンのみを媒介にキャラクターと同一化する、というのはつまり、まったく計測可能な約束事でしかないのに、プレイヤーはそこに計測不可能な身体を感じてしまっているということだよ。ボタンをそのまま身体として感じられる、というのはとても不思議な現象だと思うんだ、少なくとも、メルロ=ポンティのような身体論では説明できそうにない。
えー、引用してみて、議論がつなげられるかどうか不安になりましたが、(というか、この引用が適切だったのかどうかが不安になりましたが。)それはさておき、
先にあげた12歳の少年は別にオタクではないわけですが、まず、ここで東さんが言っているような「三つのボタンのみを媒介にキャラクターと同一化する」という現象にバッチリと沿う形で、ゲームをプレイしています。しかも、それは単に、ゲームのプレイヤーキャラクターと自己とを同一化させているわけではない。
(1)マンガ(あるいはアニメ)において表現されている物語上の登場人物としての「ナルト」や「サスケ」といった自分とは隔たった存在のリアリティと、(2)ゲームにおいて自分が操作する対象たるプレイヤーキャラクターである「ナルト」「サスケ」という自己の分身としてのリアリティがダブルで存在しつつも、相互に影響しあっている、ということがまずあります。
で、タイアップ的な「オリジナルが売れてるから、これも売れるだろ」的な発想からいけば、(1)のオリジナルとしてのマンガ・アニメのリアリティのほうが強烈にあって、(2)ゲームのリアリティなどそのフォロー。付録に過ぎない。 という話ができそうです。
だけれども、「ワザの名前覚えてなかったら、意味なくない?」発言で面白いのは、そのような「オリジナル→タイアップ作品」という主従関係を決定的に覆している点にあります。
12歳の彼の話を聞いていると、格闘ゲームにおいて誰が強いか、とか、どのワザが強いか、という序列の問題がものすごく強烈に主張されており、ゲームでの体験を下敷きとして、はじめてアニメを鑑賞しているようでした。アニメを見つつ「あのワザ出したら、大変だよ!自分もダメージすげーくらちゃっうんだよ!リーやばいよ!やばいって!」とか叫んでいました*1。ここでは明らかに、(2)の格闘ゲームにおけるリアリティが(1)本来オリジナルであったはずのマンガ・アニメにおけるリアリティ、を支えている。
そのような鑑賞法を採っているからこそ「ワザの名前を覚える」ことが彼にとって有意義な――格闘ゲームのプレイの上でも、アニメ・マンガの鑑賞法としても、双方に重要な要素として「ワザの名前を覚える」というところに意識が自然とスライドしていったのではなかったか、と思います。
ワンソース(オリジナル)があって、それが各メディアに波及していく、というようなタイアップ的なモデルが12歳の彼の中では逆転して、一方のメディア経験が、一方のメディア経験を支える、という相互性を発揮する――このような側面において、タイアップ、メディアミックスといった商売手法がかつてない特殊なリアリティを子供たちに与えることを可能にしているだろう、と。そのような観点において、私はメディアミックス肯定派です。すごく面白いじゃないか、と。*2
2004年12月14日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■はてなの質問たち その2
昨日にひきつづき、はてなのちょっと面白かったゲーム関連の質問たち
- 視覚障害者向けの、視覚を用いずに聴覚のみを用いるゲームを探しています。
- http://www.hatena.ne.jp/1089783845
- こういうものって、やっぱり、あったんだ、……とか、思ったら、なんか『Air』とか『加奈』とか書いてあるんですけど。まあ、音声&字幕というダブルでフォローが付いているからいいのか。そうか。
- ファミコン、又はその時期のゲームのBGMに歌詞をつけた歌って何かありますか?
- http://www.hatena.ne.jp/1068450940
- 高橋名人の冒険島に歌詞なんてついていたのか…
- 「ファミ通」の出しているゲーム攻略本と、それ以外の会社の出している同じゲーム攻略本の売り上げの比較について教えてください
- http://www.hatena.ne.jp/1057673286
- 論文でも書くのだろうか。
- はてなの質問「テレビゲームが原作になっている映画の情報を教えて下さい」
- http://www.hatena.ne.jp/1053910936
- こんなに、いろいろ映画化されたのか。知らんかった。あと、ここに出ていないのでは、実はシェンムーも映画化されているらしいけど、誰も言及してない…
- ゲームショップ GEO の経営相談
- http://www.hatena.ne.jp/1074271150
- 売れ行き不振だったのか。
- ゲームの影響論系の議論をしている識者のサイト
- http://www.hatena.ne.jp/1080747032
- まとまってる。
- ゲームのレビューサイトのコンテンツ作りってどうすればいい?
- http://www.hatena.ne.jp/1076847611
- ほう。
- メディアはいかにしてアイデンティティ・リアリティを構築するのか?
- http://www.hatena.ne.jp/1075207716
- こういう質問まで、はてなでするのか。ってか、「アイデンティティ・リアリティ」とだけいわれても。
- 僕は初めてギャルゲームを買おうとおもっています。
- http://www.hatena.ne.jp/1070516994
- そもそも、その質問の仕方が面白い。
2004年12月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■はてなのゲーム関連の質問たち
「人力検索サイト はてな」より、ちょっとマニアックな質問たち。
- キャラがダメージを受けた時に点滅する表現を、最初に取り入れたビデオゲームは何ですか?
- http://www.hatena.ne.jp/1102206274
- なんとマニアックな。80年前後ということ。でも、こういう質問でけっこうそこそこの答えが集まっているというのは面白い。
- パチンコ、パチスロ、麻雀、競馬、将棋、囲碁、テレビゲーム等の参加人口が、年代別に集計されているデータはありませんか?
- http://www.hatena.ne.jp/1055395827
- CESA白書とレジャー白書以外にも、「レジャー産業白書」などが紹介。これも知らなかった。
- なぜドイツでボードゲームが発展したか
- http://www.hatena.ne.jp/1100787402
- あまりいい解答は出ていないけれども、なるほど。
- ちっちゃい子供の前でどういう風に気を使いながらゲームをするか
- http://www.hatena.ne.jp/1090312604
- これは面白い!こんな問いも、解答もまったく想像の範囲外でした。
- 昔の裏技はリークとかしてたの?
- http://www.hatena.ne.jp/1095506669
- デバッカー経由かあ。その話は初耳。でも確かに考えられる話ではある。
- 最近のゲームはグラフィックばかり向上し、シナリオが昔と比べて薄くなっていると思いますがみなさんはどう思いますか
- http://www.hatena.ne.jp/1083768187
- そう思う、が63%、思わない18%、気にしたことがない 19%
- この質問は、あるようでいて、実はちょっと予想外だった。というか質問の仕方によっては結果もかわっているのではないか、と。
- 「最近のゲームはグラフィックばかり…」と続いた場合、頻出するパターンは「ゲーム性が薄くなっている」「ゲームの本質が置き去りにされている」という場合のほうで、「シナリオ」や「ストーリー」は、グラフィックとは普通、敵対関係には置かれていないことのほうが多いように思う。
- つまり「シナリオが長くなって、ゲーム性が…」と「グラフィックばかりでゲーム性が…」という質問は、似たような形で問われるが、「シナリオVSグラフィック」という対立構図は、いままで実はあんまり見たことがなかったよな、ということ。
- だから、この質問、「シナリオばっかりにこって、ゲーム性が…」と質問したらどうなるのだろうか、と。
- 好きなゲームメーカー
- http://www.hatena.ne.jp/1101767757
- はてなユーザーは任天堂ファン多し?
- 持ってるゲーム機を答えてください
- http://www.hatena.ne.jp/1077787927
- なんとX-boxが一番売れてる!(笑)
2004年12月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「ブーム」と「プレイ」をつけるとなんでもポップになる
みうらじゅん曰く、(http://media.excite.co.jp/book/interview/200210/p05.html)
マイナスとされているものを、ポップに見せたりすることが好きなんですよね。とりあえず、なんでも「ブーム」と「プレイ」をつけると、ポップになるんですよ。「童貞ブーム」とか「親孝行ブーム」、「失恋プレイ」「貧乏プレイ」とか、「プレイ」ってことにしちゃえば、ポップな感じになるんですよね。
「××プレイ」、ということが「ポップ」の方向性へと絡められるってのはちょっとすげーな、と。
これを、私なりに言い換えてみると、行為の選択決定というのを自分自身の責任の中で行っていませんよ、ってこと表明し、そしてそれ(わたしが選択していないこと)を他人にも認めさせようとする、ということだよね。
自分の行為が、あらかじめ社会的に組み込まれ用意された選択肢の一つでしかないことを半ば強引に周囲の他人に了解させて行動をするから、その行為がかつていかに「特殊なもの」として表象されていたようなものであったにせよ、「××プレイ」と名づけられた瞬間に社会的な「ブーム」あるいは広義の意味での「ゲーム」の中での、一般的な固有名を持たないプレイヤーの一人に落とし込めちゃんだぞ、と。そうか、選択しているのを選択していないように見せかけるのが、ポップということなのか、と。
みうらじゅんのたとえで言えば、「親孝行」などという概念をベタで持ち出してしまって、そんな行為をやろうと思うなどというのは、若者的感覚からいけばまずヘンだというのがある。だけれども、それが、「親孝行プレイ」という表現をうけることによって、「ベタ」から「ネタ」へ。「親孝行プレイをしてみせるゲーム」などという参照項があたかも存在するかのような表現を引っ張り出してくることによって、そういうことが起こるのだ、と。
に、しても、あらゆる行為の特殊性・異常性を漂白してしまうものとしての「ゲーム」をもってくる、というのは、とてもじゃないが、ビデオゲームの議論の中からは出てこない話だ(笑)。*1
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これをちょっと強引にビデオゲームの話にからめて考えてみる。
ビデオゲームの場合は、「どのゲームを選択するか」ということの中に個人の特殊性は透けて見えてくるのが普通だ。例えば、何か新作ゲームを買おう、という時に『ドラゴンクエストVIII』へと向かうのか、『サクラ大戦V』へと向かうのか、あるいは『half-life II』なのかで、話はまったく違う。
「どのゲームを選択するか」≒「どのルールの中で行動をしたいか」ということ*2を選ぶことと、どのような<プレイ>を表明してみせること、はあまりにも距離がある。*3
だが「(ゲーム)プレイをする」という行為であるという点においては両者は同様の地点に見出されるものである――はずである。
はずであるのだけれども、その両者が、「この場にゲームが組み込まれている(いた)ことを表明して見せること」(社会的な単位でのゲームプレイ?)と、「個人的にビデオゲームをプレイすること」(個人的な単位でのゲームプレイ?)*4というベースとなる部分の差異において、両者は実はここまで別様のものとしてたち表れることになってしまいうるのか、と。
うーん、なんかあんまりいい説明ができてないような気もするが、そんな感じでみうらじゅん発言を「すげーな」と感じたのでした。
2004年12月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■GameStudiesが更新
英語圏のゲーム研究のポータルサイトGamestudies(http://www.gamestudies.org/)が約一年ぶりに更新されたようです。
2004年12月03日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2004年12月02日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■教育ゲーム、シリアスゲーム
先進工業諸国で平均IQが上昇していく「フリン効果」や、テレビゲームを脳の情報処理能力の向上に利用しようとするアメリカの研究、「ゲーマーとしての養老孟司」などの話題を紹介しています
ゲームが頭をよくするかも…的話題がきっちりまとめられたのは僕も見たことがありませんが、そういう種類の言説は80年代からけっこうあったかと記憶しています。例えば、将棋界隈とかで若い世代が強い!とかってことの説明として「やつらはゲームを介して効率的に定石を覚えたりしているから~」などといった話や、教育機器としてのゲームの有効性みたいな話はファミコンブームの起こった86年にも「これをなんとか有効利用できないか」的な文脈で、盛んにいわれてましたね。アメリカとは違ってその後日本ではそういった教育機器系の話が本格化することなく、中途半端な<教育ゲーム>が断続的に発売されるにつれて、「ゲームで教育しようなんてバッカじゃねーの?ゲームは遊ぶモンだって。」みたいな態度のほうが強くなってしまいましたが。
(ITmedeiaニュース)
にしても、英語圏での「シリアスゲーム」という呼び方には個人的にはどうも奇妙な感じを覚えます。エディテイメントとかラーニングとか、そういう名前で呼んでもよかったはずなのに、なんでそう呼ばれているのかがよくわからない。最初「シリアスゲーム」と聞いたときには、一瞬ゲームの中での文学的実存がうんたら、とかっていう話なのかな、とでも思ったんですよ。それだって「シリアス」という話だろうに、この「シリアス」ってのは要はゲーム自体でコンサマトリーではないような、「消防士の訓練に役立つ」とか「学校教育に役立つ」とか「米軍の新兵募集や訓練に役立つ」というような社会にとっての手段的価値を見出せるゲームって話ですよね。なんで手段的であることを「シリアス」などと言ってしまうのか*1。はっきり言って解せない。端的に言えば、アメリカ軍の訓練に使われるゲームが「シリアスなゲーム」で、タクティクスオウガは「シリアスじゃないゲーム」とかって言われたら、腹立たしくはないのか、と。*2
この「シリアスゲーム」という名称が、アメリカのゲーム業界が内部からイメージ戦略的に流通させたのか、ゲーム業界の外部から貼られたレッテルなのかは知らないですけど、もうちょっと呼びようがあるだろうに。
ゲームが社会にとって手段的に使われる方向性をも見出している、という状況そのものについて、大枠で言えばいい話だと思いますし、マーケットとして魅力的とかっていうような商業的な問題意識抜きでも非常に面白い話だとは思っています*3。います…が、そこで出てきた言葉がなんでほんとにこれなんだろうか、ということに落胆を感じます。
*1:とはいっても、もちろん、類推は可能です。遊び論にありがちな「遊び」の定義の一つとしては、しばしば、「遊びとはそれ自体が目的であり、手段的ではないもの」みたいな定義があるので、多分その定義を単純に裏返したらこんな話になってしまったのではないか、と思いますが。
*2:ってか政治右翼だけが真剣で、文化左翼は真剣じゃない、みたいな話にも聞こえますよね。解釈によっては。
*3:例えばRichard D.Duke『ゲーミングシミュレーション 未来との対話』で展開されているようなイデオロギーとして、「ゲーム」という形式を「会話」「文字」「マルチメディア」よりもさらに上位のコミュニケーション手段としてしまって、ゲームはコミュニケーションのための最高の様式である!と主張するような、イかれた話がありますが、そういうところに接続されていくであろう可能性とかには非常に魅力的に感じます。分野としては発展してほしいことこの上ないところです。
2004年12月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■2004年コンピュータゲーム十選
ドラクエをまだ開封してませんが、今月から来月の半ばまで、期間限定でゲーム断ちをいたしますので、本年度にやったゲームの中からよかったものを10個*1、早々にえらんでみました。ちなみに今年度プレイしたタイトル総数はクリアーしていないものを含めれば、たぶん50本ぐらいだと思います。
[ 今年度よかったもの10個 ]*2
- 『塊魂』(PS2):今年度やったものの中でダントツによかったです。こういうものが毎年一本ぐらいで出てくれれば幸せです。 → id:hiyokoya:20040709、id:hiyokoya:20040322、id:hiyokoya:20040323、id:hiyokoya:20040324
- 『カオスシード』(SS版):今年度一番時間をもっていかれました。ネット上では「埋もれた名作」としてプチ有名な一品です。 → id:hiyokoya:20040513
- 『シムシティ4000』(PC):さらに複雑になった因果関係の輪。
- 『絶対絶命都市』(PS2):古典的なゲーム作りの文法に、状況設定を上手に加えたことでいままでなかった新しさを演出してます。 → id:hiyokoya:20040908
- 『三国志戦記』(PS2):「三国志」を戦略性と爽快感重視でガラリと作り直してます。
- 『The地球防衛軍』(PS2):出たのは去年ですが。「廉価ゲーム」の意味合いを変えた一本。どうでもいいですが、いつも「地球防衛隊」だったか「地球防衛軍」だったかを忘れます。 → id:hiyokoya:20040331
- 『逆転裁判3』(GBA):クオリティに信頼を置いていいシリーズとしての安定感がでてきました。 → id:hiyokoya:20040703
- 『エースコンバット05』(PS2):ものとしてはあまり新しくはないですが。シリーズを重ねるごとにブラッシュアップされていってます。
- 『サーヴィランス』(PS2):「やるドラ」がようやく開花し、可能性をいっきに開いてくれた感じです。 → id:hiyokoya:20040911
- 『3年B組金八先生』(PS2):一番評価に迷ったのはこれかもしれません。ゲームプレイヤーとしてやっていたのか、ただたんに物語消費をしていたのか。何にせよ、注目に値する何かだったとは思います。 → id:hiyokoya:20040906
なお、今後続々と追加されるであろう他の方のゲーム十選はこちらに。ついでに2ch系で盛り上がっている「良ゲー駄ゲー オブ ザ イヤー 2004」(RPG板ウォッチィ!)なんかもどうぞ。
以下、全般的にコメントすると、
1
最初に二つあげた『塊魂』と『カオスシード』と出会えたことで今年度はとても幸せな気分になれました。それなりにヘビーゲーマーとしての自負をもつ私のゲームライフ全般の中で見てもド級の破壊力のある作品だったことは間違いありません。
2
時間を鬼のようにくわれたゲームという点でいうとやはり『カオスシード』とあとは『三国志戦記』でしょうか。『三国志戦記』はマニア的な知名度もそれほど高くはないですが、単に戦略性が高いだけでなく、極めてダイナミックに状況を変化させることのできる戦闘システムを備えておりウォーシミュレーション好きならば触れて損はないかと思います。あとはやりこみゲーマーの要望にまでこたえることができたらパーフェクトだったという気がします。
3
ポジティブな意味でのゲーム市場の成熟を感じさせるソフトとしては『逆転裁判3』と、『エースコンバット05』『シムシティ4』が抜きん出ていました。いずれも、シリーズを重ねながらも、決してダレずに映像/音楽/シナリオ/ゲームバランス/緊張感の演出などなどあらゆる部分への気の配りようがますます熟成されてきた感があります。『エースコンバット05』は『エースコンバット04』の神がかった水準から比べると、いくらかがっかりした点もありましたが、しかし、それで不満だなどと述べていたらバチがあたりそうな気がするので、あまりしゃべらないことにします…
4
開発者が頭をいかに悩ませて作ったかがよく伝わってきた作品という点では『サーヴィランス』と『絶対絶命都市』を挙げたいと思います。もちろん他の作品もありとあらゆる知的な労働力が支払われているのは間違いないでしょうが、ゲームの文法そのものをどのようにして構築するか、どこにどのようなコストを投入するのかを悩んだ末に開発し、そして成功をおさめた作品ということでは、この二作が印象的だったのは間違いありません。『サーヴィランス』はいままで駆け引きをはらむ狭義のゲームとしてはほぼ枯れたジャンルであるという印象すら与えていたやるドラという領域を根本的な水準で練り直し、再構成して見せてくれたという意味で革命的な作品でした。『絶体絶命都市』はゲームのすすめ方にはそれほどかわったところはありませんが、いままで構築されてきたゲームの文法をいかに応用し、文脈を変更することによって文法を再活性化させるか、という試みを成功させた作品として大変に高く評価できると思います。
5
「ゲーム」としての境界例的でありながら、ゲームの今後そのもののあり方を決定付けるようなインパクトを持った作品という観点からは『The地球防衛軍』『3年B組金八先生』の二作でしょう。
『The地球防衛軍』はとても2000円とは思えない圧倒的なクオリティをみせつけることによって、ゲームの産業構造そのものに少なからぬ波紋を投げかけたのは誰もが同意するところでしょう。『3年B組金八先生』は、そもそもゲームとして評価すべきなのかどうか…やるドラのようなものをやったような印象が強い作品でしたが、こういう作品がチュンソフトから出て、流通しはじめるというのはとても面白い事態です。
以上、簡単でしたがこんなところで。
2004年11月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『コンテンツ消滅』小林雅一
アニメ、ゲーム、音楽産業のケーススタディを通して、現在Winnyなどによって到来してきた「コンテンツの消滅」の危機の問題にいかに対処するか、というもの。
タイムリーなだけで、あまりよく調べないで出されたタイプの本っぽいな、と思って期待せずに読んだのですが、思ったよりよかったです。
ゲームの部分に関してのみ言えば、著者の提案の部分はゲームを知らない人っぽさがただよってましたが、インベーダーの西角さん、中村光一へのインタビューでは、いままでに表にあがってなかったような発言や過去の証言*1もいくつか聞き出せていますし、オンラインゲームの現状についてもコーエーの松原さん*2へのインタビューなどを通してよくフォローできています。ホイジンガや、去年出た『ゲーム産業の経済分析』などといった本にもきちんと目を通しており、ジャーナリストとしての仕事をきちんとできる人だし、している内容です。
本書のテーマである、インターネットの、特にP2Pの登場などによる「コンテンツの消滅」の危機をめぐる問題については、最後にクリエイティブ・コモンズなどを紹介しつつコンテンツの「完全管理」か「開放」か、の二極ではない第三の道の可能性として、双方の「管理」と「共有」のバランスが取れる状況があったらいいよね、というのを提示するにとどまっていて、各分野への綿密なリサーチが結論へときちんとつながれていないのは残念なところですが。
2004年11月28日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■FFX-2@amazonレビュー
発売されてからすでに一年以上たちますが、『FFX-2』のamazonレビューをのぞいたら、罵詈雑言が冴えていて面白いことになってました。(3割ぐらいは、賞賛の声もあるのですが、賞賛の仕方はあんまり面白くなかったので割愛)
絶望感が・・・
こんなんFFで出すべきじゃない!
裏切りものめ!
・・・・・ふざけるなよ・・・・
もう無理…。
出すなよ!2なんざ!
スクウェアさん・・・さようなら
といったレビュータイトルにはじまり、批判轟々。
一番多いコメントとしては、
ハッキリ言って、キモイ、クサイ、オタククサイ、FFです。
は?セーラームーン?
といった、「オタいってよし」的な反応にはじまり、辛口がさえる。
ラスボス前のユウナの「注目!」にはついに耐え切れず電源を切ってしまった
露出度が高けりゃいいってもんじゃない。
それに服装センスがない。
あそこまでいくとかえって下品なだけ。
辛口ピーコのファッションチェックで瞬殺だな。
ギャルゲーの、人気が無いキャラクターばかりを寄せ集めたような3人です。
二十歳も過ぎた大人の男性ならば、とても堪えられないでしょう。
私は前作をやっていませんが、キャラクターの性格でこれほどムカついたゲームもなかったと思います。
女ばかりのパーティーでも、もっとまともな構成があったはずです。
内輪で寒いネタを連発して、まるで、知らない人たちの飲み会を見ているような気分でした。
女性を馬鹿にしているような気が…。なんだか、リノアが普通に思えてきました。
「知らない人たちの飲み会」という表現は秀逸(笑)
それと笑ったのが、
カモメだとかユ・リ・パだとかワケわかんなくて痛々しいし。
ドレスアップとかいうシステムは、もうスタッフ何考えて作ったんだか。
歌姫の技とか、家族のいる前じゃ恥ずかしくてできねーよ!!
やっぱ、家族のいるリビングで小学生からのゲームプレイヤーがやってたりするゲームなんだな、FFは、と。あらためて実感させる一言。「歌姫の技とか」は別に、プレイヤー自身がその技を使うことにオタ的嗜好性を見出していなくとも、技を使うこと自体に対して周囲からの視線にそういった「オタ的嗜好性」を見出されてぃしまうのではないか、という恐怖がある、というは確かに。「家族のいる前じゃ恥ずかしくてできねーよ!!」ですな、ほんと(笑)
それと、やっぱり沢山出てくるのが「FF」を「伝統」化しつつ、批判する方向性で、
なんだこれは。
そもそもFFでもRPGでもない。
FFという名に、私がこだわり過ぎているのかもしれないが、
これはファイナルファンタジーという名の皮を被ったただのギャルゲー。
テンションが痛い。OPの「ユ・リ・パ レディ」で寒気を感じ、
ムービーの後、3人そろった時はすでにガン引き状態。
というような、「FFじゃない」言説が多かったのもいいですね。一体どこらへんに「FFらしさ」を見出しているのか、そこんところの共通性はいまひとつつかめないのだけれども、とりあえず、この手のものいいをする人々の間で全員一致しているのは「FFはギャルゲーではない!」というあたりでしょうか。
また、一線を越えてしまったことに対して、『超クソゲー』的な、B級ものを消費する際の消費態度を見せている人もいて
色んな意味で。ホント笑わせてもらいました。爆笑です。
片腹痛いです。腹ちぎれそうでした。
というのもよくわかる反応。私も、この方向性で受容していました。
あと、やはりきたか、と思ったのは「VIII」がダメだった人がやっぱり今回もダメだったようで
FFはⅠはやってないからわかりません。
Ⅱ、敵が強すぎて理不尽だったけど、ストーリーは悪くないと思う。
Ⅲ、ファミコンにしてはなかなかの出来だった。ジョブ多かったし。
Ⅳ、ストーリーはかなり良かった。敵も結構強かったし。
Ⅴ、単純でわかりやすいストーリーで最高に面白かった。アビリティも豊富。
Ⅵ、なんていうか、全てよかった。
Ⅶ、今までやったRPGベスト1の座は不動のものになるだろう。
Ⅷ、・・・・・
Ⅸ、なかなかでした。ちょっと戦闘が面倒だけど、奥が深かった。
Ⅹ、いいじゃないですか。
Ⅹ2 は?本当にスクウェアの作品??その辺のオタクが作ったんじゃ?
これはなにかの間違いでしょう、まさかスクウェアがこんなもの作る
はずが無い。
【流れ】 Ⅶ(感動した!Ⅷやってみたい!)⇒Ⅷ(え・・・?クソゲー?でも、次は大丈夫でしょ?)⇒Ⅸ(ほ~ら、まあまあ当たりじゃんⅩ楽しみ!)⇒Ⅹ(・・・・・)
俺的には8と肉薄って感じの駄作。FF好きな人、買いなさんな。コスプレマニアにどうぞって感じ。てかよう200万も売れたな~
などなど。
実際、VIIIをやってしまったことで、ある種の「免疫」みたいなものがFFに対してついてしまったので、「アッハッハ」とX-2を笑い飛ばせる感じというのはありましたね。私は。
でも「VIII」がダメ、といいつつもPS以前からのプレイヤーで、かつPS以降のFFを楽しくプレイしつづけている人って、だいたい「VII」の評価が高い人というのも、似たような傾向性として見出せるのも面白い点です。
「VII」ですでに評価の低い人の場合の受容の仕方というのは
7の頃からFF否定派が減らないのは何故なんだろう?
FFより面白いゲームは、探せばいくらだってあるのに…
いつまでも「RPG」というジャンルの「FF」という超大作
に固執する理由が解からない
自分はFFをIIからプレイしているが、期待して…
というより、ゲームバカの義務としてプレイしている。
FF、ドラクエといった大作RPGは期待して買うものじゃないと思う
この受容の仕方も、一定以上のへヴィーゲーマーだとよく見られる反応です。
何故Ⅹの続編なんて作ったんだ? あのままで良かったのに
何でもかんでもハッピーエンドにすればいいなんてもんじゃない
Ⅷの続編としてあの雰囲気を作り出していれば色んな意味で納得できたものの…
Ⅷ自体が駄作だったし…
何故リノアじゃなくてユウナなんだ?
この手のFFVIIIヒロインの「リノア」がバカ女としてすでに出来上がっているので、「リノア」ならばバカ女として登場させてもよかったのでは、という反応も禿同。
10-2に関する一切の記憶を自分の中から消してしまいたいですよ・・・。キャラは最悪の方向へと豹変、おまけにストーリーが希薄で意味不明。新キャラは存在感がなさ過ぎるし(名前おぼえてませんよ、もう)。FFは1,2、4、5、6、7、9、10、11とプレイして来ましたが、良かったのは11までですね。恐らく12は購入しないと思われます。それだけ失望が大きかった・・・。10の世界観とキャラクターに思い入れがある方は本当に買わないほうがいいですよ! 引く&絶望する事間違い無しです!!
ウェ、ウェイト!
当然、こういうプレイヤーが出てくるのは予期できたことではあったのだけど、「「12」を統括するのは松野泰己だから!間違ってもこういうことはないから!」というのを強調しておきたいところ。
まあ、でも、もちろん、やっぱりこれで離れていってしまうユーザーは一定数でるのでしょうね。12の売り上げが200万本を下回ったら、完全に10-2の影響としてしか見れないでしょうし。そうならないことを願いますが。
(でも、この人、「8」をスルーしている、というのが巧妙。)
2004年11月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■バテンカイトス クリアーしました。
なんか、「クロノ」へのオマージュがあまりにも………とか思ってたら、『クロノ・クロス』の加藤さんがシナリオを手がけていたようで。なるほど、と納得。
和製RPGのある種の頂点とも言える『クロノ・クロス』に対する類似性を除いたとしても、この作品は本当にマニアでなければ作りえない作品だなー、という気がしました。全体的な構成もさることながら、プレイヤーキャラクターとプレイヤーの関係性の作り方とか、戦闘システムにトレーディングカードのシステムをまぜてしまうあたりとか。
ディテールに対するマニアならではのこだわり方から、キャラクターが次にしゃべるであろうセリフまで、なんだか色々な部分に対して、製作者の意図をあまりにもありありと意図を汲みたくなってしまうような一品でした。私には。*1
だから、なんだか、ゲームをやってるっていうよりか、もう全編にわたって製作者のRPGに対するこだわりを直に聞かされているよーな気分。他のゲームではここまで製作者の意図ががっちり想起されるっていうことはないのだけれども、なぜだろうか。製作者のやってきたゲームと私がいままでやってきたゲームが、ほとんど同じとか?うーむ。
に、してもこういうマニアな製作者のみなさんには、こんな一般向けの一般的なゲームを作ってないで、『アンリミテッド・サガ』とか『FFCC』で豪快に暴走しまくったスクウェアの河津さんのような暴走っぷりをみせてほしいですね。是非。
ちなみに、参照されている、と感じた主な作品は『クロノ・クロス』『アナザー・マインド』『ポートピア殺人事件』『マジック・ザ・ギャザリング』などでしょうか。
*1:「おれにはわかるよ!」などとまでいう気ではなく、「イヤでも類推されてしまう」ということです。あくまで。そこを同一にしてしまうと、だいぶ傲慢な物言いとして聞こえてしまうかと思いますが。
2004年11月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■桜井政博「ひそかにレポート」
桜井さんのウェブページ発見。
http://planetmeteos.com/hisoka/index.html
そういえば、前にファミ通に「桜井政博事務所」をたちあげたってことを書いていらっしゃっいましたけど、「桜井政博事務所」でググってもうちのサイトしかヒットしないんですが。
2004年11月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2004年10月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ファミ通1994-2004
ヤフオク経由で、1994年~現在までの、ファミ通を10年分仕入れました。
とりあえず、部屋がものすごい状態になってしまっているんですが、ファミ通10年分を使って、何か調べて欲しい要望などあればコメント欄にどうぞ。
(実現可能かどうかはさておき。)
2004年10月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■80年代のゲームの言葉シリーズ(3)
このセリフには驚いた。
「ど、どうなってんだ!?
コインばっかりでキノコがでない…。」
「ばかめ!
スーパーマリオは裏技とかくれキャラの集大成ゲーム。
すべてをしりつくしたこのおれの腕を見るがいい!!」
以上は1985年からコロコロコミックに連載されていた『ファミコンロッキー』三巻、P139からの引用である。
このセリフは、ゲームファンなら絶対に驚いていいセリフの一つだと思う。今でこそ、スーパーマリオといえば、ゲームの中のゲーム。伝統の中心に位置してキングの位置を占めているといってもいいような作品だが、当時でいえば、そのような「伝統」はあたりまえのようになかったわけだ。
85年から流行しはじめた「裏技」と「隠れキャラ」というブーム*1にのった最先端。伝統を踏まえた何かだったり、「ゲームの面白さの普遍性」とかといったものを踏まえたものとして語られるものではなくて、その時代的特殊性を強烈に孕んだ、普遍性とは全く逆の立場から語られている。
*1:雑誌コンプティークの86年1月号で、「今の裏技ブームを作ったのはコンプティークだ!」とかってことを言っているが本当だろうか?
2004年10月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■80年代のゲームの言葉シリーズ(2) シミュレーションゲーム つづき
(6日からの続き)
「シミュレーションゲーム」というジャンルが日本のビデオゲーム雑誌などに数多く登場するようになるのは、1983年のことだ。そもそも、82年、83年ごろというのがマイコン雑誌から独立する形で数多くのゲーム専門誌が登場する*1ので、日本ではそれまでそういった言葉が使われるメディア自体があまりメジャーな形で存在していなかった。当時には「シミュレーションゲーム」のみならず、アクションゲーム、アドベンチャーゲーム、RPGといった、他のジャンルもいっせいに登場してきている。
1983年10月1日発行の『パソコンゲームランキングブック』*2によれば、「シミュレーションゲーム」のサブジャンルとして当初含まれていたのは、『森田のバトルフィールド』『空中戦』『198X』といった「ウォーゲームタイプ」、『ランデブー』などの「トラベラータイプ」、『投資ゲーム』などの「マネータイプゲーム」、『信長の野望』『マリアナ海戦』『スラバヤ沖海戦』などの「歴史スペクタクルタイプ」、そして、『ホイホイ』『選挙』などが「ETC」として括られている。
なお、「シミュレーション」という括られ方をうろうろとしていたものとしてはスポーツゲームやフライトシミュレーションがある。これらは、アクションのサブジャンルとして括られるか、シミュレーションのサブジャンルとして括られるか、あるいは独立した別ジャンルとして括られるかを長い時期うろうろとし、スポーツゲームは独自ジャンルとして見られることが多くなったものの、フライトシミュレーションはいまだに括り方は一定していない。*3
(現在編集中)
*1:創刊はそれぞれ「ログイン」1982年5月、「マイコンBASICマガジン」1982年7月、「アミューズメントライフ」83年、「コンプティーク」83年 、「POPCOM」83年5月 などといった具合である。これより古いものとしては、「ゲームマシン」誌(http://www.ampress.co.jp/index.htm)が、1974年から、「I/O」が76年12月から、「月刊アスキー」が1977年7月からあるが、82年、83年頃に、マイコンゲーム、パソコンゲームの雑誌が大量に出てくるのと同時に、「I/O」誌などでも、「アクション」や「アドベンチャー」といった言葉を使うようになっていったようだ
*2:旺文社刊。宣伝広告に、「9月30日が応募締め切り!」とかかれていたりするので、実際の発売は8月とか9月だったと思われる。なお、トリビアだが、当時大学文学部の4年生だった、浜村弘一も本書にライターとして加わっていて、APPLEのゲームを絶賛したりしている。
*3:84年末に出た、「Beep」創刊号((発行の日付は、85年1月)を見ると「今年最大のシミュレーション『野球狂』なんてったってこのハドソンからでた『野球狂』はすごい!!」(P133)という読者投稿があるかと思えば、ベストヒット21のコーナー(P162)では、『野球狂』のジャンルはアクションになっている。4年後の「Beep」89年1月号のNewReleaseScrambleのコーナー(P11)では、『ベースボールスター』がまだ「SLG」として紹介されている。
2004年10月06日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■80年代のゲームの言葉シリーズ(2) シミュレーションゲーム
とある、2chネラーの先輩に聞いた話、2chでは「光栄のゲームのシミュレーションじゃない」とかっていう議論がちょこちょことあるらしい。
それっていうのはつまり、「シミュレーション」という言葉のイメージの源泉をどのようなところに求めるのか、という話で、2chにおける「光栄≠シミュレーション」の議論の構図というのは、基本的には「シミュレーション」という言葉のイメージを物理シミュレーターのようなものに求めたり、歴史の再現性といった水準に置いているから、といった要因らしく、検索してみると、こんな言葉が見つかる。
221 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 2001/04/22(日) 02:48
同じゲームシステム歴史を再現することもゲームすることも
出来なきゃシミュレーションじゃない
2通りの楽しみが出来なきゃしょうがない。
あとさ、変にルーチンに任せッきりだからcomが
歴史通りに動かないのがイタイ。
日本語として意味が取りずらいところもあるが、まあ、つまり「歴史を再現すべき」という話だ。光栄シミュレーションについてはそんなに深く興味を持っていなかったので、知らなかったが、まあ、出てきそうな話ではある。
で、それに対して、一般的に「ゲームはシミュレーションじゃない」的な言い方というのも、ゲームデザインなどの分野ではかなり定着した物言いになってきているような気がする。ウェブ上で読めるもので、かつ、かなり古いものとしては1982年に書かれた、クロフォードのゲームデザイン論にも見ることができる。
シミュレーションは、実際に起きる現象をさまざまなパラメータを用いて精密に表現しようとする。一方、ゲームでは、その現象をできるだけシンプルに表現しようとするのだ。シミュレーションの研究者は、あまりに複雑で計算が追いつかないとか、現象がややこしすぎて理解できないという場合に、仕方なしに現象の単純化を行う。それに対して、ゲームデザイナーはデザイナー自身が一番大事だと思っているパラメータにプレイヤーの意識を集中させるために、喜んで現象を単純化するのである。両者の目的には明確な差があるのだ。シミュレーションは、何かを計算したり評価したりするために行われるのに対して、ゲームは娯楽のため、そして何かを教育するために行われるのである
(第一章 ゲームとは何か >> 世界の再現 >> ゲームとシミュレーションの違い)
この議論は、基本的には、現在までずっと継続して受け継がれてきている節があり、今年度に刊行された出版物などの中にも発見することができる、ごくベーシックな言い方だろうし、この立場は非常に明解だ。限られたスペック、トークン、時間、ルールなどを動因して行う娯楽としての、ゲームデザイナーがゲームに対してシミュレーターとしての重要性を求めすぎると破綻してしまうというのはひとまずは納得できる議論だ。
だが、だからといって、ユーザーからの「歴史の再現」というニーズを全否定できるか、といえば、そういうわけにもいかない。ゲームデザイン的な都合という観点と、ユーザーの要望は分けて考えられる問題だし、一ユーザーの願望としてはよくわかるし、無視するわけにもいかないのが「シミュレーション」と「(娯楽としての)ゲーム」を混ぜ合わせてしまった「シミュレーションゲーム」というジャンルの抱える困難さだろう。
さて、80年代に刊行されていたボードゲームのウォーシミュレーションゲーマーのためのゲーム評論誌「SIMULATOR」12号(1984年9月25日発行)*1で、シミュレーションゲームのゲームデザイナーである黒田幸弘氏が面白い議論をしている。
まず、黒田氏は、「シミュレーションゲーム界の区分」として、「昔からシミュレーションゲーム界の区分というとシミュレーション派とゲーム派というのが有力でした」と紹介しつつ、日本ではその二分類を用いずに(1)ゲーム派(2)歴史派(3)データ派 という三分類を提示して、それぞれを以下のように整理する。(P13)
で、この3派の情勢はどうなっているか。歴史派とデータ派、これのほうがですね、一般の文章表現においては、強いんです。なぜかというと、歴史派とデータ派は極論なんですよ。はっきり言って、無茶苦茶いえるわけです。歴史派だったら、歴史通りやればいいんだと、その他は全て邪道だ。データ派だったら、データが正しければいいんだと、他は邪道だと。マルクス主義が今でも生き残っているように、極論というのは思想に対してインパクトがすごく強いんです。それに対してゲーム派は、ゲームとしておもしろければいいじゃないかと、いじけるわけですよね。(笑声)
この後の細かい議論については割愛する*2が、シミュレーションとしてのリアリティの水準が「歴史派」と「データ派」といった形で多層化していることを分析していることに加えて、「ゲーム派」をも極論として囲い込んでしまっている点が、この分類は面白い。
(つづく)
*1:現在も活躍中の鈴木銀一郎氏などが議論に加わっており、当時「国産のシミュレーションゲームが発表されてから約3年」と話している。日本ではこの界隈もTVゲームと同様に80年代という同時期に勃興してきたものだというのが面白い。なお、ISBNコードとかプリントされてないので、国会図書館でも置いてあるかどうかどうかわかりません。
*2:この後の議論はちょっと微妙な話の展開になるが、さらに細かく、三派に対しての反論が加わっていく。「歴史派」に対しては「シミュレーションが最終結果を固定してしまったらシミュレーションではない」、「データ派」に対しては、データ派が言っているデータとは公式発表の矛盾だらけの数字に過ぎず、実際には雰囲気を再現するために必要な根本データに何をとったらいいのかなどわからない、という話をしている。そして、黒田氏の属するレックカンパニーについて言及し「今やっているシミュレーションゲームはほとんど戦争をテーマにしています。戦争の目的とは何か。歴史の追体験ではありません。勝つことです。とすれば、レックカンパニーは正しいゲームをつくっているのではないかということなんです」と説明する。反論はまだしも、この説明はちょっと強引。
2004年10月03日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■シェンムーオンライン
シェンムーオンラインが出るらしいとのこと。
http://www.rbbtoday.com/news/20040804/17891.html
道端を通行しつつ、いきなり革ジャンの兄ちゃんに質問されて「ちょ…ちょっと、急いでるんで…、後にしてくれませんかね。」とか不気味に答えてみたい。
そんなダメダメなNPC気分を満喫できるMMORPGを希望。
2004年09月24日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■80年代のゲームの言葉シリーズ(1)
問題。この紹介文は何の紹介文でしょうか。
まず自分の名前を登録すると、画面内のキャラがその名で呼びかけてくれる、という遊びのノリがたまらない。
(省略)
なんと言っても楽しいのは、画面に登場するキャラクターすべてが話し好きなことだ。ある者はヒントを、ある者はただのおしゃべりを答えてくれる。城の外にはデートをする若者までいる。必要なアイテムには「王女の愛」なんてものまである。王女がプレイヤーにたずねる。「○○さまはわたしのことをあいしてくださいますか」、ここで「いいえ」といれたり、悪の竜王から「手をくもう」と言われて「はい」と答えたりすると、物語は意外な展開をする。
もちろん戦いはあるが、相手によっては逃げてもいい。「にげる」なんてコマンドは絶対にアクションやシューティングにはない。攻撃力もランダムに設定されていて、「渾身の一撃」で相手を倒したりすると、道で一万円札を拾ったような感動がある。
もちろんゲームは途中でセーブできるし、持っているアイテムは消えない。途中で死んでしまうと、王のお叱りの言葉が待っているし、手持ちのゴールドも半分になってしまう。お金がなければ宿屋にも泊まれないし、武器も買えない。「ゼルダ」もそうだが、金がなければ何もできない資本主義の枠がばっちりとはめられているところが、現代人の自虐性にぴったりとマッチしているのだ。
私はこの紹介文を読んで、思わずこのゲームをやりたくなってしまった。
NPCとたくさん会話をすることができて、物語もインタラクティブに展開して、戦闘をするのもしないのも自由、そして、なんとゲームの中に貨幣経済が再現されている、―――などと聞くとどんな未来のゲームかと思うが、語られているのは86年に発売された『ドラゴンクエスト』の第一作目のことだ。
これは、1986年11月20日初版の小林正樹『大人のためのファミコン必勝講座』に掲載された文章で、当時まだ社会現象化していないドラクエ1というファミコンではあまりメジャーでなかったジャンルを語る際にこういう説明が載ったわけだが、この紹介はとりわけすごい、と思ったので掲載した。
今ではほとんどのプレイヤーにとって自明視されているゲームの中で「金を使う」という行為をさして「金がなければ何もできない資本主義の枠がばっちりとはめられているところが、現代人の自虐性にぴったりとマッチしている」などという誉め言葉は2004年現在のゲーマーにはまず出てこないし、ドラクエ1のNPCを見て単調だと思いこそすれ、「話好き」などと表現しようなどとは思わない。「ええっ!?そこで驚くの?!」ということに驚いてしまう。
ここ数ヶ月80年代のゲームの資料をあさっていたのだが、80年代はゲームの受容のされ方は、現在からすると本当に違っている、ということをここ数ヶ月で思い知った。他にもネタがいろいろとあるので、とりあえず、ネタに困ったらこのネタで。
■補足トリビア1
詳しい人にはよく知られている話だが、ドラクエ1が発売されたのは1986年5月。現在では、押しも押されぬ人気作も、ドラクエ1が発売された直後の扱いはあまりたいしたものではなかった。当時、ファミコン雑誌等の水準では「RPG」といえばアクションRPG『ゼルダの伝説』のことであり、例えば、ファミコン通信創刊号(86年6月20日号)などを見てみると、『ゼルダの伝説』や『謎の村雨城』といったソフトの記事が何ページもわたって取り扱われているのに比べて、『ドラゴンクエスト』の記事は見開き二ページの紹介と、エニックス自らの広告ページの合計三ページだけだ。ドラゴンクエスト1が大体的にフォーカスされるのはファミコン通信やコンプティーク、Beepなどといった雑誌ではなく週刊少年ジャンプの記事で行われることで大ヒットにつながっていく。
■補足トリビア2
紹介した小林正樹『大人のためのファミコン必勝講座』は全体的にはあんまりおすすめしません。86年はまさに「ファミコン・ブーム」という年であり、同年の8月10日にも『お父さんに捧げるファミコン講座』ファミコン中年団著、などといった類書も出ていたり、86年はファミコン関連本が沢山出版されています。ほとんどのものが「資料」として読む以外の観点ではオススメできない本ばかりです。
■補足トリビア3
1960年代~70年代前半生まれのゲーマーにとっては当然のことをたくさん書くかもしれませんが、生暖かい目で見守っていただければ幸いです。
2004年09月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■英語圏のゲーム研究文献
IGDAのサイトの方に英語圏のゲーム文献紹介の翻訳があったので、読みました。非常によくフォローされており参考になりますが、元記事が2002年12月とちょっとだけ古いようで、ゲームの歴史関係の本などいくつかフォローされていないようです。
ということで、以下、amazon.comの方でゲーム関係の文献のウィッシュリスト作成中↓
2004年09月19日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ドラクエVIII発売日、価格決定
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00062ILP8/softbankgames-22/249-6332721-3760342
2004/11/27発売で、9240円。
なんだかやたら値段が高いのはなぜ?10年前のスーパーファミコン時代並みの価格なんですが。
2004年09月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『サーヴィランス』は「やるドラ」の中では改心の出来でした。
これはいいです。「マルチシナリオ」でもなく「マルチエンディング」でもなく、いわば「マルチパースペクティブ」。ようやく「やるドラ」というジャンルが、リアルタイムで物語進行が行われるという要素を足枷としてではなく、武器として、リアルタイムムービーを用いることの可能性を見せ始めたな、と感じさせてくれました。
購入したその日にクリアーできるぐらいのボリュームです。
具体的にどういうシステムか、というと、複数のモニターを切り替えて、特殊警備部隊(攻殻機動隊の公安九課のような組織)を、サポートするデータ解析屋さんをやるわけです。攻殻好きな人に説明するとすれば「少佐」や「バトー」ではなく「イシカワ」をやるゲームだとでも言っておけばいいでしょうか。
まず(1)データ解析をその時々に適切に行わないとゲームオーバー、という形のシステムを用意してやることで、プレイヤーに常に緊迫感をもたらすことに成功し*1
(2)複数モニターで映像が同時進行されることによって、モニターの数だけやりなおす価値がある――そのことがリプレイ(リトライ)することによって、プレイの一回性が損なわれないような構造を成立させることに成功させているわけです。しかも、複数モニターで物語が別途にリアルタイムで展開されるということは、逆に言えば、一回のプレイではプレイヤーは物語を完全に追うことができず、リプレイ(リトライ)することこそがプレイヤーにとっても最適なプレイ環境として機能しうる形になっている。
これらは2001年に同社から発売された『BLOOD』なんかだと全部、失敗していた要素だったのですが、それを基本的なシステム設計をがっちり考えなおしたことによって、物語ゲームとしての「やるドラ」の孕んでいた問題点のほとんどの部分を上手くまとめあげてしまっています。
拍手。ほんとにエライ。
*1:しかも、解析対象を見つけるための難易度設計も程よいです
2004年09月08日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2004年09月06日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『3年B組金八先生』に自分のボーダーラインを知る
ネット上での世評通り、「金八先生」というところから想起されるもの以上にはよかったですが、「このゲームは私の興味対象から外れるな」ということをはじめて感じさせてくれました。その意味では、貴重といえば貴重な一本となりました。ゲェム右翼の気持ちにはじめて共感できるものを感じたとでもいいましょうか。
作品のクオリティはさておくとしても、表現手法上そそられる部分が皆無だったことが「私の興味対象から外れる」最大の理由です。
- (1)道筋から外れるとほぼゲームオーバーになるのみ(「マルチシナリオ」というよりも、「マルチエピソード」。)
- (2)道筋を展開するための手法は行動回数制限型のコマンド選択AVG
というつくりでして、本作を支持するファンですら、「まあ、あんまりゲームであることを期待してはいけない」ということを認めざるを得ないほどに、あんまりゲームではなかったです。最後までやるにはやったんですが、攻略サイトを見ながらやって、プレイしながらアニメ作品を見ているような気分でした。
別に、「映画的ゲームなんていらない!」的な主張をしたいわけではなく「ああ、もう、これはよく出来たアニメ作品だな」といった感じで、別にこれはこれで全然アリだな、とは思うんですけれども。まあ、この作品ぐらいまでのラインにいくと、私の興味対象ラインの境界線からはみ出しちゃうなあ、という自分のボーダーラインを自覚してしまった、という。*1
4話目ぐらいまでは微妙に萎える話でしたが、5話目ぐらいしてからのシナリオのクオリティは、職業的シナリオライターの方の仕事としては、確かにゲーム界隈の中では稀有な部類に属すると思います。
*1:このボーダーラインが狭いのか、広いのかはわかりませんが。私は自分のことをかなり広いほうだと思っていました。
2004年08月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『ダンジョンズ&ドリーマーズ』書評
またもやamazonが載っけてくれないようなので、amazonに投稿して載せられなかったレビューを転載します。
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★★★★★ 大変な力作
本書は、2003年8月に米国で出版された米国ゲーム史の詳細なドキュメント。
おおまかな内容としては、主に前半は1970年代以降、米国ゲーム史を作り上げてきた英雄達―――リチャード・ギャリオット、ジョン・ロメロ、ジョン・カーマック、ウィル・ライト等に焦点をあてて彼らの生い立ちから紹介し、その成功物語を詳細に綴っていく。
後半は、90年代中盤以降のMMOやFPSなどのオンラインゲームの動向に着目し、オンラインゲームコミュニティを形成するゲーマー当人達を描き出すのみならず、コロンバイン高校の銃乱射事件との関わりや、CPLをめぐる意図、ゲームの開発当事者達の抱えていた問題点など、現在のオンラインゲームコミュニティの状況を極めて多角的に描き出している。
今までも、任天堂について書かれた『ゲーム・オーバー』や、ポケモンについて書かれた『ポケモン・ストーリー』など、日本のコンシューマー市場について主に<開発者達の成功物語>という観点から描き出した力作はいくつかあったが、米国のPCゲーム市場の歴史をここまで詳細に描いたものは初めて読んだし、何よりも開発者だけではなくプレイヤーにもスポットを当てていることが素晴らしい。
「開発者の成功物語」という視点からのみ描かれたものも確かに面白いが、単なる「成功物語」ならばゲーム業界以外にだって存在しているのだから「ゲーム」というメディアの革新性を伝えるための表現としては弱くなってしまう。そこで敢えて開発者のみに焦点をあてるのではなく「プレイヤー」達のゲームへの接し方、および、それをめぐる多層性を描き出そうとしたことによって、いかにゲームが新しい存在なのかを垣間見せることに成功している。著者が真剣に頭を悩ました上で、戦略的に本書を仕上げていることがよくうかがえる。心から賞賛を送りたい。
唯一、不満を挙げるとすれば、ゲームの画面写真が全くないことだろう。著作権関係で仕方のなかったことかもしれないが、文中で挙げられている当該ゲームをほとんどやったことのない人には不親切と感じられるかもしれない。
2004年08月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ここのところ、80年代ゲーム雑誌、関連書籍等をあさってます。
数週間前に、ファミ通800号記念でくっついてきた付録のファミ通創刊号を読みこんでみたら、これが思っていたよりも、ずっと面白くて、ここのところ、80年代ゲーム雑誌、関連書籍を中心に資料を収集しております。
とはいっても、「ビデオゲーム史」そのものは、『電視遊戯大全』以来、ビデオゲームの歴史についてまとめていらっしゃる桝山さん他、80年代当時にゲームマニアだった現レトロゲーマーのみなさま(たとえばhttp://retropc.net/あたりの方々)や、クラシックビデオゲームオデッセイ(http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/)の寺町電人さんなどのデータベースを目の前にしてしまえば、ちょっとそれに対抗しようという気力はおこらないものがあり、いつソフトが発売されたか、とか、いつハードが発売されたかなどといったことではなくて、「一体、いつ、ゲームにまつわる言葉が普及してきたのか」(あるいは輸入されたのか)、そして、それに対する合意形成や読み替えが行われてきたのか、ということに着目して資料を読んでいます。いやー、誰も言及していない(筈の)ネタがいろいろざっくざっくしてますね。まだまだ。
そして、そのおかげで、この数週間でだいぶ70年代末~80年代にかけてのゲームの歴史に詳しくなってしまい、上野の国立科学博物館で開催されているテレビゲームの展覧会に行って、昔のゲームハードの現物とかを見たときに思わず、「うぉぉぉ!はじめて現物見た!!」とかいう、極めてオタッキーな反応をしてしまいました。
現在ヤフオク等のネットオークションを中心に利用して資料収拾をしているのですが、もし、このサイトをご覧になっている方で、「80年代のゲーム雑誌」(あるいはパソコン雑誌)を譲ってくれたり、貸してくれたり(あるいは売ってくれたり)してもいいよ、という方がいらっしゃいましたら、是非ご連絡ください。
2004年08月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■任天堂DSと、ゲームウォッチ
オールドゲーマーの皆さんにとっては常識だったことかもしれないが
- 任天堂DS : http://www.nintendo.co.jp/ds/
- ゲームウォッチ(マルチスクリーン型): http://www.ka2.koalanet.ne.jp/~bros/multi/index.html
の2つが似ていることを今更気付いた。
まあ、当時ものごころついてなかったしな。
2004年07月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■部屋を掃除しました。
今日は、新しい本棚を購入したので、部屋を掃除&整理していました。
ついでに、積んであったCD/DVD媒体のゲームも全て本棚に収納したところ、セガハードのソフト(サターンとドリキャス)と、ソニーハードのソフト(PSとPS2)がほぼ同数になっていることが発覚。
なんというか、アレですね。
意外とセガファンなのかも。自分。
2004年07月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ユーザーの社会階層と消費傾向の関連性調査って調べた人いる?
あるところでチラッと社会階層の話が出たので話そうと思っていたことを思い出したのだけれど、CESAゲーム白書(http://report.cesa.or.jp/)とかでもそうだけど、ゲームに関して、所得格差とユーザー層の関連性を分析したものってみたことがない気がする。
CESAゲーム白書の場合は、年齢、性別、へビー・ミドル・ライトユーザーによるゲームへの参加や好みの格差なんかをけっこう頑張ってバリっと出していて、もうそのあからさま加減がすごく楽しいのだけれども、回答者の社会階層に関係するようなタイプの質問項目というのが無い。前に、友人Hが、とあるギャルゲーオタコミュニティに顔を出してみたら、まわりが超高学歴だったという話をしていたけれど、社会階層とユーザー層の形成との関連は多分あると思うんだけどなあ。
社会的属性に関する質問項目はあるのだけれども、「学生」とか「自営業」とかっていう形でのアンケートであんまり社会的階層でどうたら、って発想はなさげ。
もっとも、そういう調査ってのも難しいのかもしれないけれど。特にゲームの場合、最も顕著にマニア化・細分化してきている20代男性みたいな、キーとなる世代が一番社会階層を計りにくい時期にあるので、やろうと思ったらかなりしんどいことになるのかも。*1
*1:20代男性の社会階層を切りにくい理由は、佐藤俊樹『不平等社会日本』みたいな、社会階層を出してみることを主眼にすえた調査でも論じられいる。なぜかというと、20代男性のエリート街道の会社員っていうのが、区分上は管理職にまだついてない状態の平社員をやっているため、エリート街道平社員も、そうじゃない平社員も表面的に区分できない。という話だった。はず。
2004年07月09日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■2004年度上半期売り上げ(FROMファミ通)
今週のファミ通にて、今年度上半期売り上げベスト100が掲載されていたので確認。
何よりも残念だったのは、塊魂が47位で12万本までしか売り上げていないってこと。そりゃまあ、この数字でも十分立派といえば立派なのかもしれないが、もうちょっと買おうよ。みんな。
ちなみに、売り上げとは関係ないですけど、いつのまにやら、そーやくんが、塊魂つくった高橋恵太さんの話(@IGDAセミナー)をログにしてますね。→http://ahaa.s53.xrea.com/archives/000034.html
2004年07月03日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2004年07月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■お、けっこうよさげなサイトが。
つい二週間前に立ち上がったらしいゲームの批評サイトですが、
http://homepage3.nifty.com/cafe-in-the-junkyard/
かなり頑張って議論をしていらっしゃいます。
特に、サイト管理者の方も書いてますが、「バイオハザード」の批評はなかなかに見事にまとまっているのでおオススメです。
バイオハザードの恐怖を説明するために、第一に<敵キャラ>の「資源と脅威」という両義性を確認しつつ、その両義性が意図的にズらされたところで成立する恐怖、という論じた部分は、「おお」と手をたたきました。
まだ、たちあがったばかりらしいので今後に期待。
2004年06月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■CEDEC2004の申し込み開始したそうです。
ゲーム開発のための技術・ビジネス情報カンファレンスであるCEDECが今年度は9月6日(月)、9月7日(火)、9月8日(水)に開かれるそうです。
場所は工学院大学(西新宿キャンパス)。
申し込み期限は8月27日までとのことです。
(8月6日までに申し込めば優先割引あり)
■「テレビゲームとデジタル科学展」のウェブサイト開設されてます
上野の国立科学博物館で2004年7月17日(土)~10月11日(月)にわたって開催される「テレビゲームとデジタル科学展」の公式ホームページが開設されたようです。
http://www.kahaku.go.jp/game/index.html
ウェブページから割引クーポンをプリントアウト可能。
具体的にどういったこころみで開かれるのかがよくわかりませんが。
2004年06月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■パントマイムが熱い。
『スペースチャンネル5』や、『Rez』などでUGAへのアドバイザーとしても活躍していたというパントマイムの達人、荒木シゲルによる『荒木シゲルのアニメーションサイエンス』(DVD)をたまたま見る機会があって、ぼんやりと見ていたのだけれども、これは予想以上に面白い。
まずは、喜怒哀楽の詳細な表現パターンを人体でどのようにみせるかといったような「人体」をいかに記号的に見せるか、という発想を強力におしすすめ、次に、人体の記号化をいかにして破壊し、ズらしてみせるか、という形で議論をすすめる。単に身体の計測不可能性について語るのではなく、また、逆に身体の計測可能性についてのみ語るわけでもなく、身体のディテールに対して細かい解説を加えていく手腕が見事。
ここで荒木シゲルが展開しているような知識をまったく欠いていたのが、90年代後半の3Dポリゴンゲームの演出作法だろうと思います。
2Dの時代は、手塚治虫が「漫画記号論」という話をしていたのとまったく同様に、ゲームのキャラクター映像も「記号」のイメージだったわけです。それは単に、キャラクターがドットであらわされているという意味ではなくて、笑った表情だとか、悲しんでいる表情というのが、非リアル系漫画と同様に簡単なお約束ごとの集積として表現されているという点です。露骨なのは、目がアーチ型になっていれば「笑っている」の記号になり、それに水滴型の汗のマークが加われば「苦笑い」の記号になる、といったような。
それが、3Dになってから、いきなりそういう記号的表現をやめてしまった。それは、開発者の頭が悪いからやめたわけではなくて、2D的な記号表現を3Dに持ち越すことが難しくなり「できなくなった」からやめたわけです。そして、そのような単純な記号的表現をやめたところで、あらたな表現をきちんと獲得できたのか、というと、それには失敗していた(これは、例えば、FF8あたりの、8頭身キャラのぎこちない動きを見ればあからさまに感じる)。
最近になると、3Dでの身体を記号的に取り扱うための、荒木シゲル的な、3Dキャラクターの身体動作をいかに記号的に見せていくか、という知識が不可欠だということが開発者の側にとっても常識になりはじめ、ようやく見れるものになってきた印象があり、最近のグラフィッカーの人々は、当然のようにこの種の知識をもっているはずと思われますが、ここらへんの知識がきっちりと普及してきたのは本当にここ数年のことでしょう。
2004年06月28日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■TheBestシリーズの値段がすごい安くなってる!
あの『もじぴったん』がTheBestシリーズで出るという話を聞き値段を調べてみたら、なんと1800円!
この値段は驚き。どうやら、SCEIも、『The・地球防衛隊』のようなTheシンプルシリーズの登場を前にして、TheBestシリーズとの価格競争を意識しはじめたようだ。ちなみに調べてみたら、『ICO』『ぼくのなつやすみ2』*1なんかも1800円。これらの作品は、この7月発売のイチオシ商品といった模様。特に『ICO』を1800円にしたのにはかなりの本気度が感じられる。ちょうど宮部みゆきの小説版『ICO』も出たことだしね。時期的にいっても、ここでいっきに『ICO』の再ブームでも狙ってるんでしょうか。
あとは、もう半年以上前だけれども、『シャドウハーツ』なんかもなかなかの値段で売られていて、1980円。
*1:っていうか、これじゃあPSのBest版『ぼくのなつやすみ』の2940円よりも、安いじゃん(笑)
■TheBest vs Theシンプルシリーズのみならず。価格競争激化中。
調べてみたら、これも安いぞ。こちらはコナミ殿堂セレクション『サイレントヒル2』が1890円
ここ5,6年の中古ゲーム市場では1000円台後半の値段を出せば中古でTheBestシリーズレベルのクオリティの商品を購入することはいくらでもできたが、新品で2000円以下商品のクオリティがここまで高くなってくるとは思ってなかった。
シンプルシリーズも『The・地球防衛隊』クラスの作品をある程度コンスタントに出していかないと生き残りが図れなくなってくるだろうな。値段的に言えば、最近出てきた「ファミコンミニ」のシリーズも1000円台後半で勝負をかけてきていることだし。ライトユーザーの食いつきは4000円台のソフトでさえいままでのような食いつきが得られない状況だろう。
PS2とGBA以外のハードで、GameCubeだと、実売価格が2000円以下で売られている名作ソフトは、『ゼルダの伝説 風のタクト』が1000円台後半で売っているのをよく見かけるぐらいだろうか。
この価格競争では、個別のソフトは当然利益を見込んで値段をつけているのだとは思うが、ゲーム市場全体をみたときに、この価格競争が結果的にどのような状況を生んでしまうのだろうか。
2004年06月24日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ヤバイ。『GTAIII』がわかんない。
二ヶ月ぐらい前から、PS2で『GTAIII』を合計で30時間ぐらいはやっている(バイスシティじゃない方)のだけれども、ゲームで理屈を語る身としては微妙に気まずいことに、皆が言っているようなこの作品の面白さが今ひとつ体感的なところでわからない。
クオリティが高いのは、見りゃわかる。でも、ハマってしまう面白さってのがさっぱり響いてこない。まずいなー。ごめんなさい。
で、私としてはうーん、これじゃまずいな、と思って、誉めてる人の議論を色々と読んでみたんですが、どれもこれも「……そう…かな?」といった印象なわけです。
例えば、amazonのレビューを見るとこう書いている人がいます
朝。今日もさわやかに。さっそく自宅の前を通り掛ったタクシーを奪う。アクセル入れっぱなしで信号を悉くブッちぎる。過ってパトカーにぶつけてしまい、追われる。あせって崖を踏み外し、10m下へ落下。車は横転し大爆発。町の人たちが集まってくる所へ火炎瓶を投げ一網打尽。お金を大量ゲット。たまたま近くにギャングのアジトが。パトカーを奪い、サイレン鳴らして突入。逃げ惑うギャングを轢き殺しまくる。夜、スクラップ同然のパトカーを自宅のガレージに入れ、眠りにつく。以上のことは、全てゲーム本編と何ら関係のない所で行う事のできる遊びだ。ゲーム内に社会的、物理的なルールがしっかり構築されていて、邪悪な想像力を働かせればどんな凶悪犯罪者にもなれる。
まあ、こういうタイプの「自由(度)」がすばらしいことを強調するというのがよく言われているところでしょう。Game Studies(http://www.gamestudies.org/)に掲載されている、Ludologyで有名なGonzalo Frascaの長文(http://www.gamestudies.org/0302/frasca/)も、私とは違って、素直に『GTAIII』を楽しめたようで、なぜ、『GTAIII』が楽しいのかということを『シェンムー』との比較分析の上で頑張って議論してます。基本的には、上に引用したレビューの路線で丁寧に議論しているといった印象で
具体的には
- (1)シェンムーと違って、可能な行動/命令される行動をやっている時に全てが退屈ではない。一般的なゲームの場合は「手段」でしかないような、車での「移動」というアクションすらGTAIIIでは面白いものに仕上がってために、「おつかいをさせられている」感じが抜けている。
- (2)NPCから人格が排除され、無機質なオブジェクトとして成立させていること。シェンムーの場合は、ハエの幼虫程の知性しかないようなNPCと面倒な会話をさせられてウンザリするが、GTAIIIのような人格のないオブジェクトとのインタラクションの方がよほど楽しい。(殴り殺すのに躊躇もいらないし)
- (3)目標や物語を押し付けられることがない。ミッションを受け取るためのボスは一人ではなく、好きなときに好きなボスからのミッションをやればいいし、ミッションを行わないことすらたいした問題ではない
といったことを挙げて、結論としてはやっぱ押し付けられる物語のあるゲームよかプレイヤーになんでもさせてくれるシミュレーターみたいなゲームのほうがいいよね(と言っているはず。私の訳が正しければ。)と結んでいます。
いやー、でも、私の感想としてはそれを読んでも「そうなんだー。へー。」って印象しかなくて、やっぱりもともとの面白かった、という体験自体を共有できていないなあ、ということを確認するだけ。
私の思うことはGonzalo Frascaさんとは全く逆で
- (1)シェンムーのほうが作りこまれていて「おつかい」させられてる印象は少なかった。むしろ、GTAIIIのほうが「おつかい」させられている印象モリモリ
- (2)シェンムーのほうが、奇妙な受け応えをリピートする人々に囲まれてシュールな世界に迷い込んだような味わいがありました。人格が完全に削ぎ落とされたNPCを殺しても、淡白すぎて、すぐ飽きた。虚構世界がそこに存在しているかのようなリアリティを感じないことには、手触りの空虚な世界に対しては働きかけをしようという意欲がわかない。
- (3)目標を押し付けられないのは結構だけれども、目標を押し付けられない場合には、他にやりたいと思えるようなアクションが多数用意されていなければダメなわけです。私はGTAIIIで行うことのできる複数のアクションにはあまり魅力を感じることができなかった。
という感じでしょうか。
別にシェンムーをすごい支持するってわけじゃないのだけれども、GonzaloFranscaさんの印象とはぜんぜん逆だな、と。まあ、シェンムーを楽しめた人なんてマイノリティなんだろうけど、とにかく、いくら人の議論を読んでも、「体験が共有できないなー」というところにとどまってしまってます。
2004年06月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ガンパレの移植版発売署名運動はじまったみたいです
2004年6月23日~7月22日の期間を設けて『GPMの移植、またはバグフィックス版の発売』の署名運動をやっているらしいです。
http://www.alfasystem.net/petition/
ガンパレは、発売して数年以上経つのに未だに中古価格が4000円を割らないという異例の事態に達していて、この中古価格に「需要が多いわりに供給が少ない」ことが如実にあらわれてます。むしろ、いままで移植がされてないのがおかしい。
2004年06月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■恋愛ゲームのハイプ曲線
http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/nex18.htm
おお、なんかハイプ曲線グラフがキャッチーだ。このグラフは面白いっす。
でも、その後の分析がやや一方的ではないか、という印象を受けるので、図の説明がもっと充実しているともっとよかったのですが。
▼以下、具体的に、分析の中でひっかかった点を挙げます。
ときメモ=恋愛シミュレーション系や、同級生=フィールド移動アドベンチャー系が影を薄くしていった理由を「入力負荷とそれにより享受できるレスポンスの「快」のROI(投資対効果)」のバランスが悪いから「面倒」なので消え去った、という説明だけで切っていますけれども、そこんところは私の印象としては、消費者層がマニア化していったというか、消費形態を特化させたユーザー層が顕著になってきたから開発サイドもそれを見込んで作品内容を特化させていった(あるいはそういう特化させたものが自然と生き残っていった)ではないか、と思うんですが。
例えば、私なんかの場合、同級生は確かに面倒だったけど、ときメモはまあそこまで面倒だったという印象もなくて、むしろ『Air』『Kanon』とか『雫』『痕』といったいわゆる葉鍵系作品の名作と言われているもの方がものすごく面倒です。それはなぜかというと、私が、葉鍵系作品で語られる「キャラクタと物語の消費」をぜんぜんもとめないユーザーだからです。テキストを延々と連打して飛ばしてプレイしているために、もう何も楽しくない。(ってか、むしろ、何でやっているのか、という感じですが)
むしろ、『ときメモ』であればシミュレーションゲーム好きのプレイヤーとしてはある程度シミュレーションゲームの部分を楽しむことができたわけです(これは多分、私だけのことではなくて、「ギャルゲーオタに鉄槌を!」で知られたゲーム右翼であっても、「ときメモ」に関しては同様の文脈で肯定的評価を下していることからも、私のようなユーザーが決して少なくなかったことがわかります)。『ときメモ』や『サクラ大戦』などのギャルゲーは、現在の葉鍵系ユーザーのような存在ばかりではなくて、女性のユーザーもそこそこの数を獲得していて、ライトユーザー層にもある程度ウケがよかったかと記憶しております。ライトユーザーをある程度獲得できた、というのも、『ときメモ』『サクラ大戦』が「キャラクタと物語の消費」だけに特化せず、窓口を広めに設けていたからこそ、多様なユーザーにとっての「快感」を提供しえたのではないか、と。
もっとも、LovelessZeroの秋風さんが分析する時の観点が、完全に「恋愛系ゲームユーザー」という特化された層からの反応のみをベースにして議論しているのならば納得できる話で、恋愛系ゲームユーザーにとってみれば、「キャラクタと物語の消費」がメインになるので、『ときメモ』が飽きられたという説明は理解できます。
ただ、その前提が抜きだと、ギャルゲー、エロゲーのような文化的ポジションが特殊な位置にあるものを「入力対快感のバランス」というモデルで語るとなると、一般的に測定可能な「入力」を想定することはなんとか可能でも、「快感」を一般的に測定するのはプレイヤーの特性によってバラけるところが多いでしょうから、それを一般的測定が可能なもののようにして議論してしまうのは問題があるのではないでしょうか。*1
*1:ちなみに、「入力行為」そのものが快感である、という見方もできます。例えば、フライトシミュレーターのゲームなどであれば、<飛ぶ>という行為自体を求めてユーザーはプレイするという部分が強いので、目的(快感)-手段(入力)という構図が成り立ちにくいソフトだといえます。
2004年06月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『WinningPost5』がやたらダサいのはなんでよ。
競馬ゲームでは、ゲームをするのと同時並行で勉強したり、本を読んだりできるということを、『ダービースタリオン』をやってみて強く思い知ったので、『WinningPost5』(2002,コーエー,PS2)を980円で購入。*1
『ダービースタリオン』と比べればいろいろなことができるし、やっていてつまらなくはないのだが、何よりも閉口してしまったのが、美術スタッフのクオリティの異常なほどの低さである。ゲームをはじめて何よりもはじめに、「ダッサ~…」と呟いてしまった。
もっとも「レースシーンの映像を3Dでリアルにする」という部分だけは努力が払われているが、それ以外のインターフェイスまわりや、フォント選択、2Dの人物グラフィックスの水準がとても一流のゲームブランドが発売している名前の知れたゲームの水準とは思えない。(予算も開発期間も人材も足りていないようなタイプのクソゲーの水準と言ってよい)
たとえば、何の意味もないところで色々な種類のフォントを使ってみて、無駄に見にくくしていたり、リアル系グラフィックを使ってもドッターのレベルが低いために、処理がひどく汚くみえてしまったり、といった部分が至るところにある。
コーエーの他の作品は、確かに『NeoAtlas』や『エアーマネジメント』をやったときも、決してまともな水準の美術スタッフがいるとは思えなかったが、本作は特にひどい。美術・デザイン関連の素養が限りなくゼロに近い素人のおっさんが、とりあえず時間だけはかけて作り上げたといった風情を漂わせている。
しかし、おそらくこのゲームを主にプレイする層*2にとっては、このダサさは大して問題にならないということなのだろうか?そして、当然、コーエーとしても、それを見越してこの水準でかまわない、ということなのだろうか?
例えば、『Kanon』『Air』のようなギャルゲーの場合は、絵がヘタレであっても、あれはあれでああいう絵が喜ばれる世界があるのだろうけれども、本作の場合は、このセンスが喜ばれる層がいる、というイメージすらわかない。少なくともコーエーの美術スタッフの軽視っぷりには私はついていけない。
2004年05月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2004年05月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『カオスシード』が異常にすばらしい
またもや、かなり昔のゲームですが、セガサターン版の『カオスシード』にはまってます。
これは心の底から大傑作。今まで触れていなかったことを強く後悔しました。
この作品は、一般的な知名度はそれほどじゃないかもしれませんが、一部のコアユーザー、特にサターン時代からのセガファンならばまず知っているタイトルで、セガサターンマガジンでの読者投票での最終順位が、1156本中の15位と大変に評価の高いソフトです。*1
売り上げが、推定販売本数が1万9963本で、出回っている数自体があまり多くないゲームなので、手に入る機会もあまり多くないかもしれませんが、手に取る機会に恵まれた方は是非やってみることをお勧めします。
*1:セガサターンマガジンの読者レースで上位にランクインしているエロゲー、ギャルゲーを除外した場合には8位に。
2004年04月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2004年04月03日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『AZITO2』は思ったよりも普通。
近年再評価されてきた『AZITO2』を安くで入手したので、即クリアー。
普通にお金のやりくりをベースにして、基地を運営・成長させつつ、敵基地との攻防戦を繰り広げるという内容で、確かによくできてるけど、思っていたよりかは普通の建築シミュレーション。まあ、ちょっと面白いのは、正義のヒーローでプレイすることも、悪の総督としてプレイすることもできるのだけれども、悪の総督としてプレイした場合に、バスジャックとか、銀行強盗とかをできるっていう点でしょうか。
2004年03月31日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2004年03月24日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『塊魂』のステージ9プレゼント発見される。
ステージ9の「プレゼント」がなかなか見つからず、あらゆる攻略サイトも、2chの攻略スレのお手上げになってから4日間が経過していた、本日の午後15:00ごろ。2chの攻略スレに「ステージ9のプレゼントアイテムハケーン!!」の報があり、その後数分後にガセネタでないことも確認され、その情報に従って私も難なくプレゼントアイテムゲット!
ネット全体で一体感を持って攻略をしているのを感じられた瞬間でした。
ステージ9のアイテムを難しいところに配置してくれたナムコの人ありがとう!!まさか、ネットでこれだけ攻略情報が安易に見ることの出来る時代に、攻略できないことで全員で盛り上がれることがあるとは思わなかったですよ。
2004年03月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『塊魂』のステージ9のプレゼント捜索大会。
攻略サイトで活躍中です。
攻略後のお楽しみのステージ9のアイテムが発見できずに現在、ネットに接続しているプレイヤー総出で捜索中です。見つけた方は是非ご一報を。
2004年03月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2004年02月26日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ニュージーランドのゲーム雑誌は少なかった。
引き続きニュージーランドに滞在しております。
今日は本屋に来たのでニュージーランドのゲーム雑誌はどんなもんかと思って見てるんですが、ニュージーランド最大の都市オークランドにある大きめの本屋に来てもPCゲームの雑誌が一冊と、XBoxやPS2の情報が簡単に載ってる雑誌が一冊あるだけでした。
日本とはぜんぜん状況が違うけれども、イギリスが『EDGE』みたいな評価されてるゲーム誌がある、というような違いじゃなくて、単に栄えていない印象。
■ニュージーランドのゲーセンはおさがりだった
さて、次はゲーセンにいってきました。
が、これもショボーい感じが満開っつーか、耳をすませたら日本語が聞こえてくるのでよく見てみたら、日本のゲーセンで1年~7年ぐらい前に置いてあったような筺体がまったくそのまま、日本語の文字と音声をのせたままで放置してありました。
SEGAとかバンダイとか、もうバッチリと日本のメーカーの日本向けの筺体が古くなったから輸入されてきましたって、感じで無造作にたくさんおいてあります。
2004年02月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ニュージランドのインターネットカフェは子供の遊び場だった
現在、諸事情あって、ニュージランドに滞在しております。
で、せっかくなのでこの国のインターネットカフェをのぞいてみようと思って『カウンターストライク』やってるんですが、まず気づいたことが(1)インターネットカフェに子供が結構多い。なんか小学4,5年生ぐらいの雰囲気の男の子達が連れ立ってワラワラと遊びに来てます。
そして(2)予想されたことではあるけれども、チャットの内容が全て罵詈雑言。ってか、「Fuck!!!」は枕言葉か何かか?ってぐらいに、全ての発言にFuckの文字が入ってます。これはこれで余りにも自動化された発言であるゆえに、悪意が希薄にしか感じ取れない雰囲気でありますが。
あと、(3)値段が安い、NZドルで、相場が一時間2ドル~3ドル。つまり140円~210円ぐらいでプレイできる。
2003年12月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『BLOOD』上下巻クリアーしました。
プロダクションIGが本格的につくったらしい『BLOOD -THE LAST OF VAMPIRE』の上下巻をクリアーしました。(映画じゃなくてゲームのほうね)
映画のほうはけっこう盛り上がって見ていられたのだけれども、ゲームのできは微妙。
いままでに、やるドラシリーズは『雪割りの花』しかやったことないから、あれに比べれば、相対的にかなりマシな出来ばえとはいえるし、アニメシーンのクオリティはおそらくこれでは、利益が出なかったのではないかと思える金のかかりっぷりだが、話をつなげるために用いられている「Blood」システムという新規システムが完全に失敗しているといってよい。
『逆転裁判』がつくられるときに、巧舟さんが「完全にリアルタイムでつっこみを入れる試作品をつくったら、どこでつっこみをいれればいいかわからないものになってしまった」という趣旨のことを書いていたけれども、多分、このゲームみたいなものだったんだろうな、と。(これを磨き上げたら『逆転裁判』になれるのかどうかはわからないけれど)
2003年11月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■意外や意外。ウイニングイレブン。
先月に、「ウイニングイレブンやってる人がまわりにいない」とか書きましたが、よくよくしらべてみたらそんなことはなかった、ということがわかりました。
というのも、ゲームをよくやる、ゲーマー系の知り合いに「ウイニングイレブンってやったことある?」って聞いたら、ほとんど誰も、「いやぁーやってないねー」ぐらいの雰囲気だったのだけれども、私のまわりで全然ゲームをやっていなさそうな人たちに話を振ってみたところ意外や意外、おそろしい数の人がやっているのだな、ということが発覚。しかも普通に私なんかよりも遥かにうまい。っていうか世界が違う。みんなフリーキックとかを普通に決められる、らしい。よくわかんないけど。
しかし、これはすごい。世界がパックリとわれている!そしてゲーマーはウイニングイレブンから疎外されている!とか思ってしまいました。
もっとも、きちんと調査してみれば、どっぷりゲーマーな人でもウイニングイレブンのプレイヤーというのも一定数以上はいるのでしょうが、私の周辺に関して言えば、おそろしくわかりやすい形で分裂気味。
ゲームをあんまりやらない人たちっていうのは、
「ゲーム?ああ、マリオぐらいしかやらないですね」とか
「ドラクエぐらいならやりますねー」とか、
いまだにそんなもんかと思っていたが、最近は
「ゲーム?ああ、ウイニングイレブンぐらいならちょっとやってますけど」
というコメントをたくさん聞くことができたのでした。
ぜんぜん認識してなかったな、と反省しつつ、松谷さんに感謝。
2003年11月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ウイニングイレブン
どうも、ひさびさに日記の更新いたします。
忙しい――というほどに忙しかったりはしないのですが、ネット上に出没するのがどうも億劫な気分のする日々をすごしておりました。
で、ここ最近何をやっているのか、というと、ゲームに関して言えば松谷さんのお言葉に素直に従って、『ウイニングイレブン5 final evolution』を480円で購入し、そのあと『ウイニングイレブン6』も480円で購入しました。他にも『ザ・ゲームメーカー』が意外にも面白かったり、『ゲーム日本史』の出来が超絶的に(直接的な意味ではなく)「すごい」状況だったりしたのを発見してました。
さて。はい。
話を戻して、『ウイニングイレブン6』なんですが、私がサッカーゲームを今までぜんぜんやってこなかったせいなのかどうなのかわかりませんが、難しいですねー。これ。やたらと。NPCのレベルが高いような気がするのは私が下手なせいなのでしょうか?10時間ぐらいやってもノーマルレベル(★三つ)のNPCが倒せません。NPCのルーチンが優秀なんでしょうねー。(多分)
『ウイニングイレブン6』の作品としての出来のよさは「おおー、なんかけっこうすごいなー」みたいな感動はあるんですが、他のサッカーゲームに今までの人生でほとんど触れてこなかった分、ほとんど素人みたいな反応しかできないので「何がすごいのだかよくはわからないけど、なんだかけっこうすごいよくできてるなー」という、そのレベルの感動にとどまってます。すみません。
2003年10月24日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■2003上半期売り上げ。
http://www.dengekionline.com/soft/ranking/ranking2003dokami.html
これはまた、しょんぼりとした売り上げ結果。
しかし、唯一ミリオンとばしてるウイイレ7は、ぜんぜん触れたことがないなあ。私のまわりで、やってる人がいない。これってまずいだろうか。
2003年10月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「クソゲー」という商品ラベル。
dotimpactさんのところより。
http://www.kaisoku.com/dotimpact/qv/index.php?itemid=58
「RPG」というような商品ラベルと同等の扱いで「クソゲー」というラベルをはられて「クソゲー」が売られていたそうです。
素晴らしいですね。単純にものすごく欲しい。
2003年10月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■レベルX
まわりの人に話したら意外とみんな知らないことに気づいたので一応広報。
2003年12月4日(木)~2004年2月8日(日)の会期で東京都写真美術館(@恵比寿)にてテレビゲームの展覧会レベルXが開催されます。
http://www.tokyo-photo-museum.or.jp/level-x/index.html
テレビゲームミュージアムが水戸芸とかでやってたのと比べると近くていきやすいかと思います。
私はとりあえず12月の土日ぐらいに行こうかな。と。
■残しておきたいゲームサイト
そういえば、リンク集ですが、この前チェックしたらいくつかのサイトが通じなくなっていたので、インターネットアーカイブ(http://www.archive.org/)で捕捉しておきました。インターネットアーカイブ使うなコラ!という方がいらっしゃいましたらご連絡ください。
インターネットアーカイブ使ったサイトは以下の通り
- ゲーマーズターミナル:ゲームサイト検索エンジンとしては最大手だった。登録・更新ができなくても、単純にデータベースとして残っているだけでもいいから閉鎖しないでおいてほしかった。
- コンピューターゲームの黄昏:ゲームの評論サイトとして、きちんとした読み物を提供している数少ないサイトの一つ。
- ゲェム右翼総本山:主張に賛同するかしないは別にしても、ゲームに対する態度表明として、こういった特徴的な主張が行われ、それが反響を与えたということは、議論の土台作りとして、非常に価値があった。どういう主張をしていたサイトか、というのは、以下の「党首宣誓、党ノ基本理念」からの引用を読んでいただければわかるだろうと思う。
「ゲェム右翼」。
それは、ギャルゲー&エロゲー (以下「エロゲー」に統一) 全盛という現代の腐りきったゲーム界を憂う者たちのやりきれない情念が生み出した、新しい組織である。
昨今のゲーム界は、エロゲー好きのおたく共が支持する「ゲーム改革派」の動きが活発になりつつある。きゃつらのような極左集団を、日本ゲーム界の旗手とする訳にはいかない。ここは我々ゲーム保守派が「ゲェム右翼」を結成し、断固闘うべきである。
このたび私は僭越ながらこのゲェム右翼を創設し、党首として活動を行うことを宣言する。
世のゲームマニア諸君!
諸君が現状のゲーム界に不満を持つならば、アカを廃絶すべく、私と共に活動を行おうではないか!
未来の明るいゲーム界は、諸君の手にかかっているのだ!
私はここに宣言する!
「エロゲーに死を!おたく共に死の鉄槌を!」
「ゲームの本質は、『殴る!蹴る!撃つ!壊す!殺す!』
これを行わずはゲームに非ず!」
ごく個人的で勝手なことを言えば、ゲーム右翼なきあと、「エロゲー&ギャルゲーファン」を敵とするのではなく、任天堂ファンVSスクウェアファンとかみたいな対立構図を象徴的にあらわしてくれるようなサイトなんかも今後登場してくれないかなー。
2003年10月19日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■Family Computer 20th Anniversary Calendar
任天堂からファミコン20周年のカレンダーが届いた。表紙と裏表紙はファミコンのハードウェアがそのまま図案になっていてよくできてる。
中は
- 1月 DONKEY KONG3,DONKEY KONG,DONKEY KONG JR
- 2月 MARIO BROS.
- 3月 DUCK HUNT,WILD GUNMAN
- 4月 CLU CLU LAND,URBAN CHANPION,EXITEBIKE
- 5月 BASE BALL,TENNIS,SOCCER
- 6月 SWORD OF MANA(©SQUARE ENIX)
- 7月 SUPER MARIO BROS.
- 8月 LEGEND OF ZELDA 1
- 9月 XEVIOUS(©NAMCO)
- 10月 ICE CLIMBER,BALLON FIGHT,WRECKING CREW
- 11月 MAPPY(©NAMCO)
- 12月 FINAL FANTASY CRYSTAL CHRONICLES(©SQUARE ENIX)
という微妙によくわからない構成。特にシメがFFCCというのは何故?はじまりがドンキーコングなのはわかるけど。
2003年10月14日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ダビスタは、忙しい人のためのゲームです。
ある人が「学世時代何やってました?」と聞かれて迷い無く「ダビスタ」と即答していた面白い光景を見て、自分もダビスタはちゃんとやっとこうかなー、とか思ってしまい、ここ数週間、実は延々とPSのダビスタをしています。成沢大輔+CB's Project『ダービースタリオン全書』も購入しちゃいました。
で、まあ、そんなにドはまりするようなものかといわれると、そこまでめちゃくちゃはまってるわけではないんですが、ダビスタの素晴らしいところは、やっぱり世代交代もののシステムの大御所、として、というのもあるけれど、やっぱダラダラと片手間にできるのが最高にいいですね。これは。
ダビスタやりながら、すでに本を10冊近く読めました。文章も、10000字ぐらいは軽く書いたような気がします。いやー、やっぱこのぐらい、手の開くゲームは素晴らしいなー、と「弱いプレイヤー」として幸福を感じております。
ドラクエのときはオート戦闘中に、年賀状を書いたり、飯を食ったりできたし、『シェンムー第一章』のときは英語の問題集を一冊やりおえるぐらいはできましたが、ダビスタはかなり暇ですね、これ。しかも、きちんと画面を見ていてもそれなりに熱くなれる。やっぱ、これからの時代はオート戦闘だな、とか適当なことを口走りたい気分ですね。ほんと。
2003年10月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『パックランドでつかまえて』田尻智 ファミ通Books 2002(1990)と「ゲーム史」
ポケモンの田尻智のエッセイ集。
ゲームそのものの話というよりも、ゲームプレイヤーである田尻智の1980-1990年の思い出話といった方が正しい。なので例えば、田尻さんの『新ゲームデザイン』のようなタイプの話を期待しているのならば、ほぼ関係ない。
ほのぼのとしたエッセイの好きな人とかならば面白いと思って読めるのかもしれないけれど、うーん、どうだろう。こういうゲームプレイヤーのゲームに関する思い出というのはそんなに面白いと思われるものだろうか…。
ごく個人的な興味で言えば、田尻さんが1980年代にどういうゲームにどのくらい入れ込んだか、という記録は一回り以上世代の違う私からすれば、田尻さん世代の「ゲーム史」のリアリティと、自分の世代の「ゲーム史」のリアリティの違いを感じられる、というところではとても面白い。
自分の世代の感覚で言えば「インベーダーブーム」とか「ゼビウス」「ドルアーガの塔」などが熱かった時代というのはものごころ(ゲームごころ?)がついた頃には既に過去の時代の話になっていたので、80年代前半のゲームセンターというのは、確かに同時代を生きてはいるけれども、その現場に居合わせるような年齢ではなかったので、単なる知識としてしか知らない。
それにあとがきに書かれている田尻さんの
ビデオゲーム史に照らし合わせてみれば、名作に値するタイトルが多かったのは1980年代であろう。1コイン100円すら持ち合わせてなくても、当時のゲームセンターには入ってみるだけで特別な何かが味わえそうな高いテンションが場を支配していた。思春期の青少年にとって、ある意味色香すら漂わせた黄金時代といえるだろう。
みたいな記述も、「ああ、そうなのか、田尻さん世代(1965年生まれ)にとっての『ゲーム史』はやはり1980年代を黄金世代とする認識で形成されてるのか」というような世代間の違いを感じさせるような記述としてしか読むことができない。
1980年代の後半からファミコンに触れた私の「ゲーム史」の感覚は「ファミコン」で与えられたものというのが一番初期の状態なので「ファミコン=ゲームとはこういうようなもの」というような認識からはじまって、それゆえに「ファミコン」の時代は進化とも何とも感じられず、それ以降の90年代の発展こそが、「ゲーム史」の中核を占めているような印象が強い。私にとっての印象深い作品はせいぜい1987年、1988年からはじまって、90年代中盤ぐらいがピークで『DQV』『伝説のオウガバトル』『タクティクス・オウガ』『ライブ・ア・ライブ』あたりの自分の中高生ぐらいの時期にやったものというのが、一番「勢い」を感じていた。
もちろん、私の認識は前の世代からも、後の世代からもちょっとリアルには認識できないようなおかしなものにうつるんだろうと思う。(もちろん、同世代であっても異論はたくさんあるだろうけれど)
私の知っている88年生まれの子供は、『FF7』(1997年1月発売)が一番インパクトが強いゲームだったと言っているし、私よりちょうど5歳上のある人は、きっちり5年ぐらいずれこんで「ファミコンの頃でゲームデザイン的な進化はだいたい終わった」が持論になっている。(私になると「90年代の発展っていうのはすごかった」という印象になる)
小学生の子供のゲーマーで知ってる子もいるけれども、その子にとってインパクトのあるゲームというのはまだないのかもしれない。でも、とりあえずその子は今、『OnePiece』とか『Naruto』のゲームを必死こいてやっている。私の世代ならば、アニメとのタイアップ作品なんて、中途半端な感じのものが多くて必死にやれるようなものは少ないという印象が強いと思うのだけれども、『OnePiece』とか『遊戯王』をやっている世代の認識は違うんだろう。そもそも、ゲームに対する認識が開始された瞬間に『ICO』とか『AC04』みたいなものが出回ってるんだから、「映像のリアリティ」というのはさほど賞賛すべきものでもなんでもなく、単なる映像のバリエーションに過ぎないんだろーなー、とか思うと、すごい話だ。そしておそらく、『ICO』のレベルからはじまった世代は1980年代を中核とするような「ゲーム史」の感覚も1990年代を中核とするような「ゲーム史」の感覚もおそらくほとんど理解してくれないだろうし、そもそも理解できないんだろう。しかし、彼らは2000年代を中核とするような「ゲーム史」や、2010年代を中核とするような「ゲーム史」であれば、多分、ものすごく明瞭にそれを感じることができるんだろう。と思うと、なんだかうらやましくなってきた。いいなあ、それ。
2003年10月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■シムシティ2000
そういえば、同じEQネタだけれども、だいぶ前、セガサターン版のシムシティ2000をやったら、市民の教育レベルが「EQ」で表示されるというとんでもないことになっていたのを思い出した。
セガサターン版以外はどうなのか知らないけれども、あれには驚いたなー。どうしちゃったんだろうか、ウィル=ライト。とか真剣に思ってしまった。それとも、あそこの指標を「EQ」にしたのはウィル=ライトは関係ないんだろうか?
ちなみに、はてなアンテナのキーワードで「EQ」の解説を見ると、心の知能指数じゃなくて、MMORPGの『EverQuest』の略だと言われる。イカスなー、はてなアンテナ。のユーザー層。
2003年10月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2003年10月02日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『ジャンピングフラッシュ』(PS)
280円で購入。
さすがに今やると古いなー。90年代中盤の3Dになりたてぐらいのころのやつは何をやるにしてもどうにも難しい。シミュレーションやRPGならなんとかできたりするし、SFC時代のドット絵が極められたぐらいの時期のものはほとんど古さを感じないけれど、90年代中盤のものって本当に古い感じがする。
■『ドラゴンクエストモンスターズ1・2』(PS)
ドラゴンクエストモンスターズだなあ、と。
あいかわらず、まあ、普通に面白い。
ただ、インターフェイスがちょっとドラクエっぽくないフォントだったり、使い勝手だったりするのが、ちょっと気になった。そのぐらい。
2003年10月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ 夜光虫
夜光虫に続いて、また、ショックウェーブサイトですが、
- SURFACE http://surface.yugop.com/
- 816babi http://www.816babi.com/
両方とも、非常にきれいだし、面白いインターフェイス。
少し前に、宮本茂さんが、講演で、「ゲームよりもメディアアートの方が最近は面白い」というようなことを発言されてましたが、こういうものを見ると、けっこー、ほんとにそうだよなー、とか思ってしまいますね。
2003年09月27日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2003年09月26日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『塊魂』
『塊魂』の体験版にふれる。かなりいいかも。あんまヒットはしなさそうだけれども、このセンスは好き。ナムコいいものつくってんなーと、思いました。
2003年09月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■東浩紀DVD
人から、東タンの動物化どーたらのDVDをちょっとだけみせてもらう。
http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/dis/dvd1/dvd1.html
最後のほうで、ギャルゲーについてグダグダ語っているところが、一般の「オタク」と何も変わらないようにしか見えなかったのが、かなりウケた。
もし、これが東浩紀だと知らされてなければ絶対に「あー、ギャルゲーについて秋葉原の住人が語ってるなあ」ってな雰囲気が印象的。ナイス。
2003年09月24日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『ダービースタリオン』(PS)
いまさら。
いままでほとんどやってこなかったんだけれども、あー、これはやっぱりすごいわ。馬鹿にできん。と思いました。やっぱり名作はやっとくべきですね。
2003年09月17日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『XI(sai)』(PS)
だいぶ前の作品だけれども、中古屋で安くなってたので購入。これは確かにけっこう楽しめる。よくできたパズルゲーム。
■『GADGET』(PS)
これも安くなってたので購入。一応『MYST』系のものを論じるうえでの重要な作品だということで、さわっとこうかな、と思ったけれども、ちょっとだけやってみて脱落。やっぱり『MYST』のようなタイプのアドベンチャーをやると、なんか滅入ってしまってできない。弱いゲーマーには無理です。
そういえば、このまえ茂内さん(http://www.intara.net/)とも話したんですが、最近、『ゼルダの伝説』の風のタクトや、ムジュラの仮面なんかもぜんぜんできないぐらいに弱いゲーマーになってきていて、なんか、こう、こういうのって、どうにもならないんだろうか。
■『カルネージハート』(PS)
これも古いけれども一応、ひっそりと有名な一品。ロボットの戦闘用プログラムを自分で組んで、戦わせるという明らかにマニア向けの一品。
一応、日本人スタッフのみで作られた作品なのだけれども、ノリが明らかに洋ゲー。これって、そういうマニア的ノリなんだろうか?
そして、ウリである戦闘プログラムを組もうと思うと、チュートリアルとかがまったく付いてないので、ほとんどまともなものが組めない。よほどがんばれば別なのだろうけれども、ちょっとやそっとの気概では、なかなか満足にプレイできない。
これを作ったプログラマーの人は優秀なことには優秀なんだろうけれど、せめてチュートリアルとかつけてほしかったなー・・・とか言ってしまうのはヌルゲーマーでしょうか?
でも一応「初級」はクリアーしました。
2003年09月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『ウルティマオンライン』
ちょっと前からウルティマオンラインをやっている。
ネットワークRPGは、PSOからかぞえて2作目。MMORPGは、はじめて。
20時間ぐらいやったけれども、うーん、まだいまひとつ面白いと思えず。徒労感のほうが強い。
■『エターナルカオス2003』
ついでに、最近コンビニで500円という格安で売られ始めたMMORPG、ラグハイム、こと『エターナルカオス2003』もプレイ中。
こっちはウルティマオンライン2Dなんかとは違って、それなりにきれいな3Dなのだけれども、システム的にはウルティマオンラインよりも、やれることは少なくなってる様子。
でも、システムがちょっと複雑なのよりも、グラフィックがちょっときれいなぐらいのほうがプレイするテンションがわく。まあ、やりこんでいったら違うのだろうとは思うけれど。
■ネットワークゲームの現状
ネットワークゲームの現状については、まだまだMMOとFPSを少しやったことのある程度ではあるけれど、なにか、こう、物足りない感じをうけてしまう。
もちろん、単純に新しいものである、という点と、<面白さ>の在り方の確実な違い、という二点でもって、それだけで評価はできると思うし、世の中に、ネットワークゲームで廃人になっている人が多くいる、という状況をみても、すごい現象であることには間違いはない。この「現象」そのものは非常に面白いと思うけれども、ことMMOに関しては、どうしても、自分がその現象そのものの当事者として、その状況を純粋に楽しむ一人にはどうにもなれない。これは半分は個人的な性格の問題なのだろうと思うけれども、それは言い換えてみれば、つまり、僕のような性格の人間にとってはMMORPGの世界は、まだたいしたものを提供できていない、とも言える。*1
もちろん、そう言っても多少は楽しい。
多少は楽しいけれども、それよりもむしろ徒労感の方が圧倒的に強い。「MMORPG最高!」という人の言葉は、言葉としての理解はできても、実感としては、ぜんぜん理解できない。理解したいとは思うのだけれども。
*1:別に言い方をすれば、私の方が、まだ出会っていないだけとも言える。
2003年09月15日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『ピクミン』はいろいろとすばらしい。
いまさらだが、友人から『ピクミン』を貸してもらってプレイ。これは傑作。シムアント、レミングス、LOLあたりで、「イイ!」と感じられる人には強く推奨。
にしても、『FFCC』でも用いられているが、「日記」システムというのはなかなかにすばらしい。例えば、ゲームの上でプレイヤーが偶然に起こした事件というは、いままでのゲームであれば、それを「事件」として成立すためには、プレイヤーがそれを「事件」として意識しうるか、どうかという点にかかっていた。
大体の場合は、ゲームの上で生じた事件――例えば、ピクミンであれば、誤ってピクミンを死なせてしまったようなこと、というのはプレイヤーによっては単なる「ゲームプレイ上のミス」としてしか捉えない。「やべぇ!ミスッた!」とか言って淡々とプレイしていくだけだろう。
だが、ピクミンでの「日記」のシステムはそのような、偶発的なプレイが、「日記」に書き込まれてしまうことで、それをただの「ゲームプレイ上のミス」というポジションではないところへ変換してしまう。日記に「今日は私のミスでピクミンを死なせてしまった。あの悲しそうな目が忘れられない」と書き込まれたのを見たときに、そこでピクミンをしなせてしまったプレイヤーのミスはただの「プレイヤーのミス」という何度でも繰り返し反復されうるものではなく、PCにとって反省すべき悲しき「事件」としての固有性を刻まれることになる。
2003年09月14日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2003年09月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『ベストセラー本ゲーム化会議』麻野一哉、飯田和敏、米光一成
なんか普通に三人ともインテリだなあ。というだけわかった。「ゲーム化」にかんしてはさほど真剣な会話ではなくふざけ半分といった感。まあ、気を抜いて読むのにはいいけれどそのくらい。
■『ゲームデザイン誇大妄想狂』清水亮
まだパラパラとしか読んでませんか、まあ、広く浅く、できるだけ総合的によくかいてあるなあ、といった印象。ただ、さほど目新しいことが書いてあるという感じはあまり、ありませんでしたが、まあ、これからもう一度きちんと読みます。
2003年09月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■セガガガのアニメの気合の入りっぷりがすごいんだよね。意外と。
セガガガクリアーしました。
バランス調整とか、ヌルヌルだったり、グラフィックとか壮絶に手抜きだったりして、ひどいんですが、そんなものなのにもかかわらず意外と楽しめてしまいました。楽しめてしまう自分がちょっと嫌。この作品に反応できてる自分はそれなりにセガファンなのかもしれない・・・!とか、自分の気づきたくない部分を気づいてしまったような気持ちです。
基本的には、ヌルいRPG+ヌルいシミュレーションという構成で、あとはセガファン的に共有されるであろう自虐ネタが楽しめるかどうか。「究極のリアルは自由の中にある!!フリィィィィィィィィ!」とか叫ぶ人が登場した瞬間に「この人は!」とプレイヤーが思えるかどうかがカギかもしれない。例えば、サムシング吉松の『セガのゲームは世界いちぃぃぃぃ!』の読者ならばまず間違いなく楽しめるだろう。
また、この作品は、初級・中級のセガファンがさらなる上級のセガファンをめざしてステップアップするためのアイテムとしても使用可能になっていて、マークIIIとか、アレックスキッドとかそういう古めのセガネタがでてきて、そこらへんが勉強(?)にもなったり。まあ、そんなものに詳しくなってどーするのか、という話でもありますが。
あと、特筆すべきは、アニメの気合の入りっぷり。
やっぱり極度にネタ的なのですが、ラピュタ、エヴァ、ナウシカ、ナディア等のパロディが入り混じり90年代のオタアニメコンテンツってこんな感じ!っていうサンプリングの仕方が見事。
2003年09月09日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■shockwave
- これだけのゲームがShockwaveでできるとは驚き。話題のZookeeperやら、チューチューロケットやら、まあ、かなりよさげなパズルゲーム等そろっております。
ShockWave.com
http://jp.shockwave.com/games/games.html
- あと、何人かにおすすめした、「夜光虫」。メディアアート好きの人とかはぜひ。(チュンソフトのサウンドノベルではありません。)
2003年06月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ 話題の
話題の"Half Life 2"のプロモーション映像をはじめて見る。これは驚き。
デモムービーはだいたいここらへんで見れるはず。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20030523/e3valve1.htm
http://www.3dgamers.com/games/halflife2/
力技のブレイクスルー。
2003年06月14日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■メタルギアソリッドII
友人から借りたメタルギアソリッドIIをクリアー。
評価したいようなしたくないような。
2003年06月04日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ブレスオブファイアVが方向転換したのはなぜだろうか。
友人から借りたブレスオブファイアVをクリアーする。
ブレスオブファイアーシリーズは、一応シリーズ一作目から四作目まではプレイし、三作目以外は全てクリアーしているが、ブレスオブファイアVの方針変更は意外だった。
ブレスオブファイアシリーズといえば、私の中でのイメージとしては、日本一、手堅く「和製RPG」というジャンルの「正統派」を延々と作っているシリーズというイメージがあって、今までのブレスオブファイアシリーズにはどの作品にも、今まで「和製RPG」というジャンルでなされてきた創作の技術がFFよりもDQよりもぎっちりと研究し尽くされて、凝縮されていた。
それが、PS2参入後初の5作目にして非常に大きな方向転換をしたのだ。今までの作品は基本的にはよく出来たファンタジーの世界(というか、ありがちなRPGの世界、と言ってもいいが)を10代の少年少女達が冒険するというごく「普通」の設定の作品だった。だが、今回は、舞台が地下。地上を目指して延々と洞窟の中をつきすすみながら冒険が展開してゆくというだけである。イメージとしてはアフタヌーン連載の漫画『BLAME!』や、松野泰己の『ベイグランドストーリー』に近い。そして、エンディングテーマが鬼塚ちひろ、という設定な上、主人公も目の下にクマのあるようなシンジくん系の少年で、陰鬱なムードの漂う話になっている。
作品自体のクオリティは安心できる水準にあり、プレイしていて特に不満はないのだが、何よりもこの方向転換が決断したカプコンの意思決定過程のほうに興味がわく。
ブレスオブファイアシリーズは基本的にはライトユーザーにも通じる全方位型の作品作りだと思っていたのだが、本作は少なくともライトユーザー志向ではない。これは、つまり、いままでの作品のユーザー層を分析した結果として、ライトユーザーがあんまりいなかったから、コアユーザー路線に転換しても問題ないや、ってことなんだろうか。
まあ、実際、FFやDQ以外、スクウェア以外のRPGをやっているユーザーなんて、ほとんどライトユーザーではないというのが現状だろうから、本作の果たした方向転換はそれを見込んでのことなのだろうか。
2003年05月06日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆 朝日文庫
なかなかよかった。
細かいケチがつくところもかなり沢山あるのだけれど、まあ、この種のエッセイに細かいケチをつけるというのもアレなので、細かいことはとりあえず捨て置くとして。
で、なにより、本エッセイは、ゲームをまったく知らない人でも読んで楽しめるようにできているのが、素晴らしい。特にSimCityに関する文章や、RPGに文章など、とくに目新しくはないし、凡庸といえば凡庸ではあるが、読み物としてきちんとしたものが書かれているのがうれしい。ゲームを知らない人にもきちんと読み物として成立させている、というこのスタイルは素直に見ならいたい。
■『面白懐かし 人気ゲーム 99の秘密』二見書房
可もなく、不可も無く。まあ、わざわざ読むような内容はあんまりなさげ。
2003年05月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■村上隆“芸術道場”
http://www.kaikaikiki.co.jp/dojo/index01.html
毎回ことなったお題で、一般から論文公募。村上隆、竹熊健太郎、椹木野衣などが審査員を務め、段位認定。この回のお題は「ゲームと芸術」ということで。これから読みます。そして、できればコメントつけます。
しかし講評の笠原恵美子さんの歯に衣着せぬ――そしてまた、極めて真摯な物言いは、ちょっとすごいですな。ファンになりました。
2003年04月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2003年04月28日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『久遠の絆 再降臨』(DC)
粗いくくりで言わせてもらうならば『Air』『Kanon』系と言いたい。(そっち系が好きな人に言わせれば、全然違う作品だとは思うが)
私にはついていけない世界。
ついていけない世界であるがゆえに、この手の作品がどういった次元で「いい」「悪い」という評価をうける基準となっているのかもよくわからない。
2003年04月26日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『メダルオブオナー』(PS2)
いい作品だとは思うのだけれども、方向性にちょっとだけ違和感がある。やりたいことがわかるような、わかんないような。
まあ、一面なんかはそのまんま『プライベート・ライアン』だし、アンケートハガキにも「『プライベート・ライアン』はご覧になりましたか」と書いてあるように、『プライベート・ライアン』がやりたかったんだ、ということはわかるのだけれども、『プライベート・ライアン』をどのようなものとして表現したかったのか、ということがよくわからない。
2003年04月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『スーパーギャルデリックアワー』
バカギャルゲーなのではあるけれど、
ENIX+Polygons(http://polygons.tv/)+WaveMaster(http://www.wave-master.com/)
という強力タッグで、けっこー意外によくできてる。
つまんないっちゃー、つまんないんだけど、深夜番組くさい雰囲気とか、連打ゲーとか、下らないものをまさに下らないものとしてキチンとつくってある。不毛だけれども。
2003年04月21日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■2chテンプレ
http://hocchie.tripod.co.jp/2chlog/RPG.html
2chのゲームサロンでされている「RPGの問題点と今後の方向性スレ」のテンプレート。なんかうちのサイトもリンクされてるみたいだけど、全部読む気力&時間は流石にないかも。
2003年04月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『ワールドネバーランド』リバーヒルソフト(PS 1997)
20時間ぐらいプレイしたところでいいかげんに疲れてきた。
本作品の副題は“Experience of fiction Life”で、数百人のNPCがガンガン動き回り、プレイヤーは、恋人をつくるなり、修行にいそしむなり、クエストを解くなり好きなことをやればOK。
まあ、言ってみれば、『シムピープル』や『ガンパレードマーチ』をしょぼくした感じの一品。好きなことをやれるといっても、やれることはあまり多くない上に、かなり単調なので、『シムピープル』や『ガンパレ』に浸かってしまった人間にとっては、微妙につらい。
ただ、『シムピープル』や『ガンパレードマーチ』よりもまちがいなく勝っているといえるのは、NPCの数。これだけのNPCを同時に動かしているというのは正直スゴイ。もっとも、これだけたくさんのNPCを登場させてしまったがゆえに、一人一人のNPCがあまりにも単純な「プログラム」くさくなってしまっていて、プレイヤーの中にフィクションの世界としてのリアリティを喚起させるのにあまり成功していないのだけれども。
まあ、「たくさんの人間」が同じ世界の中に“いる”というのは、正しいといえば正しいのだけれども、我々の日常で、密接に関係を持つ他人っていうのは少ない人なら2~3人、多い人でも100人にはならないのではないかと思う。そう考えると、密接に関係を持つ他人である5人~15人ぐらいがきちんとしたキャラクターを持って登場していればまずはそれで十分なんじゃないか、という気がする。ただし、それだと世界を構成しているのがそこに登場している「5人」だけという雰囲気で、どうもものたりない、というのならば親密な他人よりももっと力を抜いた形で(インタラクティブな振る舞いをしない形で)遠くにいる他人を描くとかしたらどうだろうか。
少なくとも100人のAIをぜんぶいっぺんに動かす、というのはあんまり手法として成功していないように思う。10人だけにフルパワーを使って、20人ぐらいはちょっとインタラクティブなふるまいをするだけ、80人ぐらいはテキストデータと画像データが貼っ付けられているだけとか。