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2006年01月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■<学習過程>としてゲームを捉える~「おもしろい」のゲームデザイン~
Raph Kosterの『「おもしろい」のゲームデザイン』(原題:"A Theory of Fun for Game Design")読み中。
ゲームの形式について論じていても仕方ナイジャン!っつって、プレイヤーの意識のほうにアプローチしようと思うと、しばしばチクセントミハイの「フロー体験」とか引き合いに出してそれ以上の理論的な進展の方向性にアタリがつけなくなる場合が多い。だけれどもRaph Kosterは、「フロー体験」とかで説明してもよさそうなところを、「フロー体験」には言及するにとどめ、「チャンク」とか「パターン」といった概念によって、ゲームにおける学習過程を説明することで独自の議論の深め方を行っていく。この点は大変に興味深い。
で、こうした、ゲームについて説明をしようとするRaph Koster氏の欲求は、たぶんJesper JuulとかEric Zimmermanらとはたぶんちょっとだけ別のところにある。*1
この本を読んでいて、Raph Koster氏的な立ち位置があるということで(1)同時に自分がZimmemanらに対して抱いていた物足りなさ、(2)前々からゲーム性の定義を「学習過程」として捉えるようなid:ityouさんのような議論を計りかねていた 二点もスッキリ納得できた気がしますた。
えー、これだけ言ってもなんのコッチャイという感じだと思いますが、
そこで、はてなダイアリーキーワード「ゲーム性」に以下の記述を加えてみました。
「ゲーム性」という概念の統合的な捉え方
ゲーム開発者の桜井政博はこの概念を「リスク&リターン」という枠組みで捉えればよいのではないか、と提案している。ほかにも、多くの論者がいろいろと考えた末に、この概念を「駆け引きの妙」だとか「トレードオフ」といった側面から捉えられるのではないかと論じており、ここには一定の共通性がみられて面白い。
また、他の有力な捉え方としては、「トライアンドエラーでスキル向上をしていく学習過程」というような方向性も挙げられる。こちらは"A Theory of Fun for Game Design"(邦題:『「おもしろい」のゲームデザイン』2005)のRaph Kosterあたりが代表格だろうか(「ゲーム性」って言葉は実は使ってないけど、ゲームの面白さの本質を記述しようとする姿勢は海外の人もおんなじ)。Raph Kosterはゲームプレイ時において生じる学習過程を「チャンク」「パターン」などというようなゲームプレイヤーによる意識の形成から説明し、ここにゲームの面白さの発生の仕組みを見出している。
両者は、双方ともにゲームの「面白さ」を説明しようという点においては一致点を見出せる。だが、なぜこのような差異が生じるのか?
私見を述べると、前者の「トレードオフ」「駆け引き」といった捉え方ではゲームのルールの形式や構造に着眼されており、後者の「チャンク」「学習過程」といった捉え方では、ゲームのルールをプレイするプレイヤーの意識、感覚に着眼されている。そう見るならば、両者の定義するところには異なっていても実は着目する対象が少し異なっているだけということであって、両者の立場は対立しているというよりも相互補完的なものであると考えられるだろう。
なにわともあれ、ゲームプレイヤーの主観的な意識の構成について説明しようとする立ち位置はマジで貴重なので、その意味で本書は大変に重宝できるかと思われます。
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追記。
Raph Koster Website
著者への松浦雅也氏によるインタビュー
*1:邦訳版の16ページでは、実際そういってる。Zimmermanらに言及した上で「しかし、おもしろさは非常に根源的なものでもっと基本的な概念で理解できると思えませんか?」といって、Zimmermanにちょいとケンカ売ってます。
2005年10月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■同姓同名
以下のような書籍を私と同姓同名の方が出されるそうですが、私とは全くの別人です。
井上明人『30歳からの進化論―仕事の仕方を成長させる29の知的ノウハウ』文芸社(2005/11)
そもそも年齢も違いますし…
仕事のノウハウなんて、人に教えられるような身分ではないですし…
2005年08月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■テレビゲーム解釈論序説―アッサンブラージュ 八尋 茂樹 (著)
まだ精読はしていませんが、以下は数時間かけてざらっと読んだ限りの簡単な感想です。もう一度読んだら感想がかわるかもしれません。という留保付きで。
1.
著者が私なんかよりも数倍努力しているであろうことは素直に認めます。それほどにこの著者はものすごく頑張ってこれを書いています。参考文献もけっこうがんばって引っ張り出してきているし、データ作りにかけている時間も単純な量としては「すごい」と思いました、
2.
ただし、それだけの美点を本書が持っているにせよ、本書にいまひとつパッとしないもの感じてしまったこともまたまぎれも無い事実です。章ごとの問題設定や結論といった部分がまったくクリアーではない。本論の中でいろいろな方法論によってRPGの諸要素を配置・解析しようとしているのはわかるし、個別のネタの水準でいえば比較的に面白いものも少なくないです。それは間違いのないことです。しかし、何を言いたいのか、何を悩んでいるのか、そういったことがまったくよくわからないといった印象を持ちました。結論がパッとしないことを責めるのが酷であるにせよ、せめて問題意識の明瞭さ/あるいは議論の仕方そのものにもう少し深みのあるものが欲しかったというのが正直な感想です。*1
羅列、分類をしてみせたその先が見えない。あるいは羅列するにしてももう少し計量的にやってみせるという方向性に行きえたのならば、まだ興味深く読みえたとも思うのですが。
3.
全てを影響論*2にからめつつ論じて見せようという意図=統一的な議論をしてみせようという戦略は見て取れます。だが、それは本書の中心となっているというよりかはむしろ、毎章ごとに「なんか変なところにつながっていくなー」と感じさせてしまうような、妙な「下心」といった印象におさまってしまいました。影響論にからめることで多くの人に興味をもって読んでもらえるのではあるまいか…!という戦略は間違っていないとは思います。ですが、しかし著者はたぶん本当に影響論に興味のある人だとは思えません。それはおそらく切り口でしかない。だがしかし、興味がないけれども、むりやりに影響論をベースにしてしまおうとしています。このような論文の目的の分裂傾向が、けっきょく分析の焦点を常に中途半端な着地点へとしか着地させていないのではなかろーか、と。
4.
ですが、最後にもう一回誉めますが、間違いなく労作ではありますし、今後同様の試みを目指す人にとっておおいに参考になる一冊であることは間違いないでしょう。著者の今後の活躍を期待します。
と、こんな感じでしょうか。
ほかに感じたことは
5.
個別の話になりますが強烈に感じたのが「調査概要の書き方」なんですが、調査したゲームのタイトルを各章ごとにダーっと挙げるというだけというのは調査概要の書き方としてこれでよいものだろうか、と思われました。これは八尋氏個人への批判というのではなく、ゲームを調査する、といったときにどういった形の調査方法を提示しえるのか、というフォーマットが開拓されていないことにも起因していると思うので、ここらへんは大きな課題ですね。
6.
また、手堅い内容?というか、むしろ「批判可能な内容」は含んでいないとは思いましたが、いまの時期のゲームの議論をするのに、このようなスタイルは本当に必要とされているのだろうか、というのが本書に対する疑問の一つとして感じもしました。もう少し議論を引き起こすような冒険をしてナンボなのではあるまいか、と。アカデミックな人であればあるほどにもっと批判可能な形式のものを書いてもよいのではるまいか、と。*3
7.
著者の経歴が「早稲田教育・英文学科」→「茨城大・教育学研究科修士」とだけ書かれており、年齢とかがよくわからないのですが、この人の学問的な教養のベースは海外文学なんだろうな、と思われました。社会学的?な分析らしきこともやってはいるのですが、どうも引用とかの内容をみてると海外文学への造詣の深さのようなものを感じます。私は文学系の批評ではない「日本人の書いた海外文学の学術論文」の作法というのは不案内ですが、中途半端に社会学とかのフリをしたりするのはやめて、もっとガリガリに文学野郎な雰囲気で全編押し通してみてくれたほうが面白かったのではないかという気もしました。
2005年04月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■デーヴ グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』
先日 tomoyoさんことid:tdaidoujiさんから進めていただいた、『戦争における「人殺し」の心理学』を読み中。
以下、ざっと内容を紹介。
著者自身がアメリカ軍人だけあって、部分的にアメリカ軍人的な戦争観が下敷きになっているようなところも面白いが、戦争における<殺人>行為の心理をいかに扱うか、という問題設定にもとづいた本で充実した内容。
まず、著者は、古来の戦争から第二次大戦におけるまでほとんどの戦争において「発砲しない兵士」が大勢(約8割以上!)を占めていたということを数々の資料から明らかにし、通常戦闘では<発砲を拒否する>という行為がきわめてノーマルなものだということを論じる。
だが、それが二次大戦後、軍の教練プログラムの修正努力によって20%に満たなかった発砲率が朝鮮戦争では55%、ベトナム戦争では90%以上の発砲率を実現するに至ったという事実も提示し、このような「発砲率の上昇」がいかなるテクノロジーによって実現されたのか、ということが本書の主題となっている。
そして、ベトナムにおける発砲率の飛躍的な上昇をもたらした訓練が持つ主な特徴として著者は(1)脱感作(2)条件付け(3)否認防衛機制 の3点を挙げると同時に、そういった強引な訓練法による「副作用」としての兵士へのPTSDなどの影響も指摘する。
と、ここまでが本論。*1
その後の試論的な補稿のようなものとして「アメリカでの殺人」の60年代以降の急激な増加への考察があり、その中でテレビゲームの話は出てきている。
その中で著者は「暴力を可能にするプロセス」として、1.古典的条件付け、2.オペラント条件付け 3.社会的学習における代理モデルの観察・模倣 の三つが作用していると言い 1.の古典的条件付けをテレビや映画館の映像が担い、2.のオペラント条件付けにはテレビゲームが役割を果たし 3.の社会的学習として『13日の金曜日』のジェイソンなどがヒーローとして機能している という議論をしている。
特にゲームに関してはオペラント条件付けが達成されているのにも関わらず軍隊での「上官」にあたるような行動を束縛する「倫理」がセットになってないことがまずい、とのこと。
この本は「戦争での殺人」を考慮した本論は非常にすばらしい内容なのだが、それを応用しようと試みた「アメリカでの殺人」については、メディアの影響論などについての先行研究の引用や国際比較といった観点も乏しく、指摘にはもっともな部分もあるものの、誰もがうなづけるほどに練りこまれてはいないといった感を受けるのが残念。(これは、ゲームが悪者にされたから言っているわけではなく、読んでもらえればわかるがホントに最後の40ページぐらいで付け加えるようにして唐突に話題にでてきている)
ただ、著者の言うことがどの程度まで妥当なのか、もっときちんと検討してもいいと思えるような内容ではあるだろう。
- 補足(2004年6月):
- より詳しい紹介としてはid:Gomadintimeさんのところの記事が詳しいです。http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/20040821
- 最近のデーヴ・グロスマンの動向についても同氏が http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/20050322 でフォローされてます。
- 反暴力メディアイデオローグとしてご活躍らしいです。
*1:本当はもっと細かくいい話がたくさんあるのですが、ぜんぶはしょりました。
2005年04月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「『ファミ通ゲーム白書2005』が5月12日発刊」
ここによれば28000円だそうです。CESAゲーム白書と違って個人で買うのはつらい値段っすね。
2005年03月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
2004年12月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ゲーム関連書籍
引き続き更新。
http://www.critiqueofgames.net/data/booklist_date.html
攻略本・ファンブック以外のゲームの関連書籍を計654件ほど激しく網羅してみました。寸評とかは面倒なのでさすがにやめましたが、網羅件数だけでいけば、かなりのものになっているかと思います。
ジャンル分類がいいかげんなのと、ページが重いのはご容赦くださいまし。
2004年11月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『フリーター亡国論』丸山俊
タイトル、表紙からして一見「フリーターの若者たち」が「国を滅ぼす」という本かと思わせるが、問題設定からしてけっこうきちんとしていて「フリーターの若者たち」という主体を問題とするのみならず、「フリーターを生み出す社会・経済構造」というもの自体を問題化し、統計データ等を駆使しつつ、経済学的にフリーターの置かれている現状および企業のおかれている現状を分析している。
安易なフリーター非難ではない、きちんとした分析です。
個人的に面白かったのは、都道府県別のフリーター率で、ハンゲームに都道府県別の「合戦」というのがあるのだけれども、ハンゲームの「合戦」で強力な都道府県が、フリーター率と微妙にだぶっているところとかが、ちょっと見逃せない気分になりました。
でも、この著者78年生まれかあ…うーむ、あんまり自分と変わらんなあ。
2004年11月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『コンテンツ消滅』小林雅一
アニメ、ゲーム、音楽産業のケーススタディを通して、現在Winnyなどによって到来してきた「コンテンツの消滅」の危機の問題にいかに対処するか、というもの。
タイムリーなだけで、あまりよく調べないで出されたタイプの本っぽいな、と思って期待せずに読んだのですが、思ったよりよかったです。
ゲームの部分に関してのみ言えば、著者の提案の部分はゲームを知らない人っぽさがただよってましたが、インベーダーの西角さん、中村光一へのインタビューでは、いままでに表にあがってなかったような発言や過去の証言*1もいくつか聞き出せていますし、オンラインゲームの現状についてもコーエーの松原さん*2へのインタビューなどを通してよくフォローできています。ホイジンガや、去年出た『ゲーム産業の経済分析』などといった本にもきちんと目を通しており、ジャーナリストとしての仕事をきちんとできる人だし、している内容です。
本書のテーマである、インターネットの、特にP2Pの登場などによる「コンテンツの消滅」の危機をめぐる問題については、最後にクリエイティブ・コモンズなどを紹介しつつコンテンツの「完全管理」か「開放」か、の二極ではない第三の道の可能性として、双方の「管理」と「共有」のバランスが取れる状況があったらいいよね、というのを提示するにとどまっていて、各分野への綿密なリサーチが結論へときちんとつながれていないのは残念なところですが。
2004年09月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■英語圏のゲーム研究文献
IGDAのサイトの方に英語圏のゲーム文献紹介の翻訳があったので、読みました。非常によくフォローされており参考になりますが、元記事が2002年12月とちょっとだけ古いようで、ゲームの歴史関係の本などいくつかフォローされていないようです。
ということで、以下、amazon.comの方でゲーム関係の文献のウィッシュリスト作成中↓
2004年09月18日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』遥洋子
書評を書いていたらamazonの規定を超える長さになってしまったので載せます。ゲームには何も関係ないですし、あまり万人に「面白いから!」とすすめるような本ではないですが。
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数年前に話題になった、タレントの遥洋子が東大上野ゼミで経験を書いた本。あまりのり気で読んだわけではなかったのだけれども、これが意外と面白かった。この本に対する評価は、数パターンあるが、総合的にいえば色眼鏡をつけないで読んでみてよかったな、と。
まず何よりも評価できるのは(1)
「タレント」といういわば東大の社会学の大学院ゼミからすれば、まさしくエイリアンともいえる存在である遥洋子という存在が社会学とであったときに、それを自らのタレントとしての実生活といかに折り合いをつけながら、受容していったのか、というドキュメントとして、本書は大変に素晴らしいと思う。
ソシュールのソの字も知らず、「ヘゲモニーって何?」というような、社会学などは同じ日本の中にいながら全くの異文化としてしか受容できなかったであろう著者が、タレントと学生との二重生活を送りながら数年間の間にこれだけの勉強をこなした、というその単純な勉強量と努力の姿勢について素直に尊敬の念を抱くだけでなく、関西の芸能界という、およそ上野ゼミのフェミニズムなどからすれば無理解、無知な信じられない世界のような場所の中にいながら、それを成し遂げている様子を書いていることが素晴らしいのだ。
(1A)両極ともいえる二つのコミュニティの中で、常識以下のレベルで通用している倫理基盤がこれほど異なるにも関わらず、それをどのようにして折り合いを付けていくことを彼女が個人として実践していったのか。そして、そこで折り合いを付けていく過程で、著者である遥洋子は、徐々に関西の芸能界のタレントという文化の中を生きるだけの存在でもなく、だがしかし東大の上野ゼミの文化の中を生きるだけの存在でもなくなっていく。ほとんど重なることのない二つの極を同時に生きてしまった彼女は両方の文化の中でエイリアンとなり、どちらにとってもエイリアンであるというどこにも属すことのない立場を手にしてしまう。だからこそ彼女の苦悩は、彼女の苦悩としての独自の魅力を放っているし、そこまで極端でなくとも、社会学的な知を手にしながら実社会の中に偏在する偏見に対してイライラした思いを経験したことのある人にとってみれば共感可能、想像可能な苦悩の言葉だ。
(1B)また、それは苦悩の独自性という魅力のみならず、その特殊なエイリアンとしての立場が半ば必然的に関西の芸能界という場所の特殊性と、東大の上野ゼミという場所の独自性の双方を同時にあぶりだす。
東大上野ゼミに準じるようなコミュニティに属する者や、関西の芸能界に属する者にとってみれば、<エイリアンの目から光を当てられた自己の姿を確認する>という極めて刺激的な自己認識の経験となる。上野千鶴子本人が本書に「これは、私の知らない私です」という言葉をよせているが、おそらく本書の中で最も中心的に語られている上野当人にとってみれば、自分の知らない自分を書かれることは目をそらしがたいぐらい興味深い体験だったのではないだろうか。
だが(2)
議論の仕方のノウハウ本としては私はこれを支持しない。そもそもの前提からして支持することができない。(2A)「議論」の範疇を、勝負というメタファーでしか捉えていないことに対して、そして、(2B)その「勝ち負け」判定をめぐる捉え方があまりにもナイーブであるという二点に関して私は本書を支持しない。
まず(2B)に関しては、上野も言うように、アカデミックな根拠をめぐる妥当性の論争などの、勝敗の判定基準が論者間およびその聴衆にとっても予めある程度了解された限られた場でも無い限り、その勝敗を決めるのはその議論に関わった論者およびその聴衆であると言うことできる。その立場においていかなる形が「勝ち」であるのかは、その場その場ごと、人ごとにアドホックに決定される種類のものでしかない。確かに遥洋子が提示するような議論の方法が、「勝ち」に見える状況を作りだす場合が多いことは否定しない。だが、遥洋子の提示する方法が、時には全くピントの外れた状況を生みだしかねないこともまた考慮されてよい。
(2A)に関しても、本書はあまりにもナイーブだ。本書は「議論」という行為を「ケンカ」との延長でしか考えいない節がある*1。議論はケンカであるとは限らない。「議論」という言葉で括られた現象を捉えるモデルは様々だ。例えば「議論」をとらえるメジャーなものの一つに勝ち負けではなく、「互いの合意を形成する行為」とか「論者が互いにより妥当な結論に至るための相互協力行為」といったモデルがある。そういったモデルで「議論」を捉えているものにとってみれば、本書は「はぁ?捉え方があまりにも一面的すぎるんだけど」と一顧だにされずに終わるかもしれない*2。あらゆる観点から書くべし、というのではないが、せめて「議論」をめぐる捉え方が数種類あることを前提として、自らの観点が限界をはらんでいることを自覚して欲しいと思う。
そして(3)
いきなり下世話になるが、本書から濃厚に滴り落ちてくる「上野千鶴子への憧れエキス」のようなものが、強烈で面白い。上野千鶴子を高く評価している人間は多くいるが、その多くは2chで言われるような「信者」であるわけではない。私は、プライベートの上野千鶴子はちょっと…という感じだし、著者のような信仰の感覚とは程遠い。それは学者としての上野への評価とは別問題として「気が合いそうかどうか」「個人的に好きになれそうかどうか」とかそういうレベルの話としてだ。
だが、著者の上野を語る口調は、「神様との食事会」「神様に…」という表現を恥ずかしげもなく用いる。もちろん、それは文章の上での比喩としての「神様」ではあるのだが、だとしても、著者の上野信仰はあまりにも眩しい。何といったらいいのだろうか。教会の中で、信者と神との邂逅の風景―――神におそるおそる告白する信者と、それに暴力的に教え正す神の姿が展開される情景を描いているような。芸能界と東大上野ゼミという両極が接触したときに、東大の中にいきなり宗教的空間が発生してしまったのを見ているような感触だ。その異様な風景に、「なんじゃこりゃ」と立ち止まり思わずまじまじと見入ってしまう。
最後に(4)
本書は上野千鶴子ゼミで勉強したフェミニズム関連の記事についても多くのページが割かれており、フェミニズムのお勉強本としても機能するだろう。もっとも、その紹介は整理されて提示されているとは言いがたく、はじめは日常語ばかりでがんばっていたのに、後半になるにつれて言葉が一般読者向けではなくなってしまっていったり、雑多な問題意識や論点が不安げに並べられている風景を指して「未熟」ということもできるだろう。人文・社会科学系の教養のない読者はもしかすると後半になって読むのをあきらめた人もいるかもしれない。だが、その雑然としたした文章こそが彼女自身の苦心した感触が生々しく伝わってきて素敵だった。
2004年09月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■amazonギフト券あたった。
アマゾンの本に最初のレビューを書くと抽選で3000円のギフト券があたる!というのがあるのだけれども、77個のレビューを書いて、はじめてあたったようです。
うーん、時給に換算すると、一時間300円ぐらい…
2004年08月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『ダンジョンズ&ドリーマーズ』書評
またもやamazonが載っけてくれないようなので、amazonに投稿して載せられなかったレビューを転載します。
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★★★★★ 大変な力作
本書は、2003年8月に米国で出版された米国ゲーム史の詳細なドキュメント。
おおまかな内容としては、主に前半は1970年代以降、米国ゲーム史を作り上げてきた英雄達―――リチャード・ギャリオット、ジョン・ロメロ、ジョン・カーマック、ウィル・ライト等に焦点をあてて彼らの生い立ちから紹介し、その成功物語を詳細に綴っていく。
後半は、90年代中盤以降のMMOやFPSなどのオンラインゲームの動向に着目し、オンラインゲームコミュニティを形成するゲーマー当人達を描き出すのみならず、コロンバイン高校の銃乱射事件との関わりや、CPLをめぐる意図、ゲームの開発当事者達の抱えていた問題点など、現在のオンラインゲームコミュニティの状況を極めて多角的に描き出している。
今までも、任天堂について書かれた『ゲーム・オーバー』や、ポケモンについて書かれた『ポケモン・ストーリー』など、日本のコンシューマー市場について主に<開発者達の成功物語>という観点から描き出した力作はいくつかあったが、米国のPCゲーム市場の歴史をここまで詳細に描いたものは初めて読んだし、何よりも開発者だけではなくプレイヤーにもスポットを当てていることが素晴らしい。
「開発者の成功物語」という視点からのみ描かれたものも確かに面白いが、単なる「成功物語」ならばゲーム業界以外にだって存在しているのだから「ゲーム」というメディアの革新性を伝えるための表現としては弱くなってしまう。そこで敢えて開発者のみに焦点をあてるのではなく「プレイヤー」達のゲームへの接し方、および、それをめぐる多層性を描き出そうとしたことによって、いかにゲームが新しい存在なのかを垣間見せることに成功している。著者が真剣に頭を悩ました上で、戦略的に本書を仕上げていることがよくうかがえる。心から賞賛を送りたい。
唯一、不満を挙げるとすれば、ゲームの画面写真が全くないことだろう。著作権関係で仕方のなかったことかもしれないが、文中で挙げられている当該ゲームをほとんどやったことのない人には不親切と感じられるかもしれない。
2004年08月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■夏目房之介『マンガと戦争』
以下はamazonに二週間前に投稿したレビューなのですけれど掲載してくれなかったようなのでこっちに載せときます。
誉めてはいないものの、それほど批判的な文章でもなかったので、ちょっと不思議。
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戦後マンガをいろいろととりあげて時代ごとの作品・作家レベルでの「戦争」イメージの変遷をたどる、ということが目的、とのことで、手塚から宮崎、庵野と幅広く、夏目さんなりの表現分析をベースとしたそれなり以上に鋭い分析者としての解説が加えられる。だが、全体的には、『マンガはなぜ面白いか』などと違い、それほど力をこめずに自由きままに書いているような印象があった。
だが、「力がこめずに」というのは、夏目さんのようなかたちで真剣にマンガの「批評」「分析」にとりくんでいるようなスタンスの人にとっては、むしろそれこそが、苦痛であり、妥協の産物なのかもしれないな、と思って読んでいたら、あとがきには、予想通りそういうことが書かれていた。
夏目さん自身が告白をしているとおり、マンガの緻密な表現分析をベースにして、批評を展開していく夏目さんの真骨頂ともいえる部分が本書では十分に発揮されているとは言いがたく、夏目さん自身が批判的であったはずの、作品を時代・社会的変化の単純な鏡のようにして扱うという反映論の立場を導入せざるをえなくなっている。
このような苦い選択を夏目さんがしなければならなかったと言うのは、本書のような「戦争イメージの変遷を追う」という目的をかかげた場合に、夏目流の表現分析だけでは、限界がある、ということを示しているのかもしれない。
だが、表現分析が多くの限界を含んでいるとしても、ここで夏目さんが採ったような反映論にゆかなくてもいいだろうという気はする。分析のための手段は他にもあるはずだ。
表現分析以外の多彩な分析手法をどれだけ獲得していけるのか―――それこそが、今後のマンガ研究をより豊饒にするための手立てではないだろうか。
2004年06月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■amazonレビュアーの投票システムはアテにならない。
自分がアマゾンのレビューシステムに少し加わってみたことでいくつかわかったことがある
(1)アマゾンのベスト××レビュアーというシステムには、大した意味がない
- レビューに対する、「参考になった」票-「参考にならなかった」票の合計数が問題なだけなので、レビューの質でランキングされているという側面はかなり薄い。ベスト1000レビュアーとかベスト500レビュアーになりたければ、単に数多くの人の目にレビューが触れるようにして、誰にも反感を買うことのないようなレビューを書かないようにしていればいい。そうすれば、わざわざ、「参考にならなかった」という票を入れてくる人もいなくなり、「参考になった」人の合計数だけが貯まってくるのだから。(あるいは、反感を買うようなレビューについては匿名 or 別名でやるとか。反感を買ったレビューについては、あとになって削除していくとかしてもいいかも。)
(2)「このレビューが参考になった」はい/いいえ をつける人は参考になったから、「はい」をつける、というよりも同意見だったから「はい」をつける人が多い(っぽい)
- これは一概には言えないけれども、「お、そうそう、そうだよ、キミ、わかってるねー!」っていうノリで得票をできることがかなり多いようだ。別に、良し悪しに関するきちんとした理由を述べているわけでもなければ、参考になるような予備知識を書いているわけでもないようなレビューであっても、「参考になった」票を得ることがかなり多い。
- 『塊魂』のレビューなんて「イイ!!」みたいなことしか書いてないのに、だいぶたくさんの人に、「参考になった」らしいし、『ハリー・ポッター』は、「私は楽しめなかった+現代的な話だな、と思った」と書いただけなのに、たくさんの方の反感を買ってしまったようで、「参考にならなかった」票をたくさんいただきました。
2004年06月09日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■amazonのレビュー掲載可否の手順はけっこう人為的のようだ
先日(6月1日)、「バカ」という表記をいれたレビューがamazonに載らないのでは?ということを書きましたが、どうやらだいぶレビューを投稿してから、一週間して掲載されたようです。ただし、完全にそのまま掲載されたわけではなくて、
- 「なんて不快なバカなんだろう」という表現が「なんて不快なんだろう」という表現に変更
- 「バカにしていたが」という表現はそのまま
という処理が施されておりました。多分、「バカ」は完璧にNGワードというわけではなくて、とりあえず、チェック対象になり、それをamazonの人が読んで手を加える/加えないというのを決めるのでしょう。
また、★5の評価を下したものがすぐに掲載されるのに比べ、★1や★2の評価を下したものについては掲載されるのが遅いという傾向があるようです。おそらく、これについてもamazonの人が評点の低い作品についてはレビューに多少は目を通した上で掲載の可否を決めているのでしょう。
Webのデータマイニングの象徴的存在とも言えるamazonにあっても、これだけは自動化してフィルタリングにかけることもできないようで、amazon社員の方は大変お疲れ様です。
2004年02月26日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ニュージーランドのゲーム雑誌は少なかった。
引き続きニュージーランドに滞在しております。
今日は本屋に来たのでニュージーランドのゲーム雑誌はどんなもんかと思って見てるんですが、ニュージーランド最大の都市オークランドにある大きめの本屋に来てもPCゲームの雑誌が一冊と、XBoxやPS2の情報が簡単に載ってる雑誌が一冊あるだけでした。
日本とはぜんぜん状況が違うけれども、イギリスが『EDGE』みたいな評価されてるゲーム誌がある、というような違いじゃなくて、単に栄えていない印象。
2004年01月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■いろいろと本を買いました。
ボチボチとここ最近で買った本をメモっておきます。
こんな本買ってますということで。
ヘタレなので、読み終わるのはいつになるかわかりませんけれど。
- 中村元『論理の構造(上)』
- 印度哲学本。という特殊ジャンルのため、哲学本の中でも、かなり固有名詞についていけない部分の多い一品だが、不思議と読みやすく、興味深い。
- 立岩真也『自由の平等』
- 立岩本。2冊目。しかし前に購入した『私的所有論』も未だ読んでない…
- 杉田敦『権力』
- ダールの権力論から易しく概説。
- 杉田敦『node 反電子主義の美学』
- 権力論の杉田敦がこんなわけのわからん美学本を?!と思ったが、多分違う人。「反電子主義」などという副題だったので買いました。でも、はやくも序章を読んでげんなりしています…
- 西村清和『現代アートの哲学』
- ゲームや遊び論でも本を書いている西村さんによる、分析系の美学入門教科書らしい。
- 井上達夫『他者への自由』
- 井上達夫触れたことなかったので、触れてみようと思い初購入。
- ロスバード,マリー『自由の倫理学』
- 古典。読み終えられるだろうか。
- ボードリヤール『不可能な交換』
- 昔はバカにしていたけれども、ボードリヤールの議論は意外とバカにしたもんでもない、と最近思えてきたので
- 『自由のバラドックスと弁証法』
- 議論の水準は今ひとつな印象を受けたが、リサーチがご立派。
- G・E・ムーア『倫理学』
- 功利主義の歴史に大きな足跡を残した一冊。なかなか読まずに所有してるだけの年月が長くなる予感。
- 橋爪大三郎『<言語派>社会学』
- 実は、橋爪さんの本をあまり持ってないということに気づいた。
- 高根正昭『創造の方法学』
- 社会科学に携わる人間なら読んどいて損はないぞ、と言われたので。
2003年10月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■サイード死去
サイードたん、先月に亡くなってたんだ。知らなかった。
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/hito/20030926/K0025200708093.html
『オリエンタリズム』は上下刊を古本屋で揃えた後、いまだに100ページも読み進められていないのだけれども。
そういえば、大物の死去といえば、前に2chで「次に死ぬ大物を当てるスレ」で、「ブランショなんてどうよ」とかって言ってたときに、ほんとにブランショが死んだのには驚いた(2003年2月26日)。ブランショの死を予測した2chネラーの人すげぇ!っていうか、私はブランショがまだ生きているということが驚きだったね。だって、1907年生まれでしょ。あの人。去年死去したガダマーなんて1900年生まれだし。最近*1の大物は長生きしすぎじゃねえ?
とか思ってたらサイードはまだ67歳という年齢で死んでしまった。若い!*2
2003年10月18日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■北田暁大「嗤う日本のナショナリズム」
network stylyのハマノくんに教えてもらって、『世界』11月号。「嗤う日本のナショナリズム ─「2ちゃんねる」にみるアイロニズムとロマン主義」を流し読んでみました。
手元にテキストがないのでうろ覚えだけれども、全体的には「2ch論」をやったというよりも
- 80年代の若者のテレビ的笑いの「ネタ」と2chの関係性
- ニュース速報板あたりのスレの雰囲気
について言及しているような印象。パッと読んだ感じだと、「確かにちょっとそういうところもあるよね」ぐらいのことを言っていたような。とりあえず80年代的な「ネタ」の生産のされ方と、2chとを繋いで論じるっていうのはけっこううまいと思った。
けれど、なによりも、議論の妥当性はどうかというと、やっぱり「2chってそもそもどこのどいつがどんな感じでどの程度、書き込んでるのかがわからん」という激しく根本的な問題があるので、かなり一方的な決め付けで話を強引に転がしているような点がちらほら。もっとも、決め付けでもしないことには話を進ませようがないのだろうけれども。
っていうか、私のコメントどうこう以前に「北田暁大」がキーワード化されてるっていうのははてなダイアリーはちょっとすごい空間ですな。何なんだいったい。
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[追記]
北田さんがキーワード化されてる、というのは、2chについて書いたためにネット界隈で有名になったから、ということみたいですね。どうやら。私個人の印象としては、東さんが言及したり、2chについて書く前から、なんとなく知っていたので驚いたんですが。
2003年10月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『パックランドでつかまえて』田尻智 ファミ通Books 2002(1990)と「ゲーム史」
ポケモンの田尻智のエッセイ集。
ゲームそのものの話というよりも、ゲームプレイヤーである田尻智の1980-1990年の思い出話といった方が正しい。なので例えば、田尻さんの『新ゲームデザイン』のようなタイプの話を期待しているのならば、ほぼ関係ない。
ほのぼのとしたエッセイの好きな人とかならば面白いと思って読めるのかもしれないけれど、うーん、どうだろう。こういうゲームプレイヤーのゲームに関する思い出というのはそんなに面白いと思われるものだろうか…。
ごく個人的な興味で言えば、田尻さんが1980年代にどういうゲームにどのくらい入れ込んだか、という記録は一回り以上世代の違う私からすれば、田尻さん世代の「ゲーム史」のリアリティと、自分の世代の「ゲーム史」のリアリティの違いを感じられる、というところではとても面白い。
自分の世代の感覚で言えば「インベーダーブーム」とか「ゼビウス」「ドルアーガの塔」などが熱かった時代というのはものごころ(ゲームごころ?)がついた頃には既に過去の時代の話になっていたので、80年代前半のゲームセンターというのは、確かに同時代を生きてはいるけれども、その現場に居合わせるような年齢ではなかったので、単なる知識としてしか知らない。
それにあとがきに書かれている田尻さんの
ビデオゲーム史に照らし合わせてみれば、名作に値するタイトルが多かったのは1980年代であろう。1コイン100円すら持ち合わせてなくても、当時のゲームセンターには入ってみるだけで特別な何かが味わえそうな高いテンションが場を支配していた。思春期の青少年にとって、ある意味色香すら漂わせた黄金時代といえるだろう。
みたいな記述も、「ああ、そうなのか、田尻さん世代(1965年生まれ)にとっての『ゲーム史』はやはり1980年代を黄金世代とする認識で形成されてるのか」というような世代間の違いを感じさせるような記述としてしか読むことができない。
1980年代の後半からファミコンに触れた私の「ゲーム史」の感覚は「ファミコン」で与えられたものというのが一番初期の状態なので「ファミコン=ゲームとはこういうようなもの」というような認識からはじまって、それゆえに「ファミコン」の時代は進化とも何とも感じられず、それ以降の90年代の発展こそが、「ゲーム史」の中核を占めているような印象が強い。私にとっての印象深い作品はせいぜい1987年、1988年からはじまって、90年代中盤ぐらいがピークで『DQV』『伝説のオウガバトル』『タクティクス・オウガ』『ライブ・ア・ライブ』あたりの自分の中高生ぐらいの時期にやったものというのが、一番「勢い」を感じていた。
もちろん、私の認識は前の世代からも、後の世代からもちょっとリアルには認識できないようなおかしなものにうつるんだろうと思う。(もちろん、同世代であっても異論はたくさんあるだろうけれど)
私の知っている88年生まれの子供は、『FF7』(1997年1月発売)が一番インパクトが強いゲームだったと言っているし、私よりちょうど5歳上のある人は、きっちり5年ぐらいずれこんで「ファミコンの頃でゲームデザイン的な進化はだいたい終わった」が持論になっている。(私になると「90年代の発展っていうのはすごかった」という印象になる)
小学生の子供のゲーマーで知ってる子もいるけれども、その子にとってインパクトのあるゲームというのはまだないのかもしれない。でも、とりあえずその子は今、『OnePiece』とか『Naruto』のゲームを必死こいてやっている。私の世代ならば、アニメとのタイアップ作品なんて、中途半端な感じのものが多くて必死にやれるようなものは少ないという印象が強いと思うのだけれども、『OnePiece』とか『遊戯王』をやっている世代の認識は違うんだろう。そもそも、ゲームに対する認識が開始された瞬間に『ICO』とか『AC04』みたいなものが出回ってるんだから、「映像のリアリティ」というのはさほど賞賛すべきものでもなんでもなく、単なる映像のバリエーションに過ぎないんだろーなー、とか思うと、すごい話だ。そしておそらく、『ICO』のレベルからはじまった世代は1980年代を中核とするような「ゲーム史」の感覚も1990年代を中核とするような「ゲーム史」の感覚もおそらくほとんど理解してくれないだろうし、そもそも理解できないんだろう。しかし、彼らは2000年代を中核とするような「ゲーム史」や、2010年代を中核とするような「ゲーム史」であれば、多分、ものすごく明瞭にそれを感じることができるんだろう。と思うと、なんだかうらやましくなってきた。いいなあ、それ。
2003年10月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『【こころの知能指数】EQテスト』袰岩奈々
また下らない本です。すみません。
で「くっだらないなー。<こころの知能指数>?なにそれ?」とか思いながらやってみました。どうやら、この本ではEQの指標が6つ*1あるらしいんですが、私の場合、自己認知力と衝動のコントロール力だけがほぼマックスで、楽観性がほぼゼロでした。他は平均よりもちょっと上。
「楽観性」の質問項目15個はこんな感じ。
- 「なんとかなるさ」が口癖 :いいえ。
- 「もし、こうなったらどうしよう」と心配ばかりしている :どちらかといえば「はい」。
- 初めての人でも自分から声をかけて知り合いになっていく。:どちらかといえば「いいえ」。
- 人と比べて自分には能力がないような気がする。:なんとなく「はい」
- なにごとにつけおもしろい面、良い面がみつけられる。:そのつもりなので「はい」
- 大失敗をしても、落ち込むだけ落ち込んだあとはケロっとしている。:よくわからないので「いいえ」
- 周りの人が楽しそうにしていると、自分がのけものになったような孤独感を感じる。 :かなり「はい」
- うまくいかないことの理由や、自分にはできないという言い訳が、つい口をつく :どちらかといえば「はい」
- 不安で眠れないということは滅多にない :「はい」
- なんとなく人から見下されるのではないか、裏切られるのではないかと心配になる:積極的に「はい」
- 物事のだめな面、足りない面についつい目が行く。:「はい」
- 自分には自分なりの良さや能力があるという自信がある。:「いいえ」
- 人からの援助の申し出を受けたり、悩みを友人に打ち明けたりすることに抵抗がすくない。:「いいえ」
- 人に何か頼んだり、人から手助けされると、自分の能力に問題があるように感じる:実際には能力に問題があるわけじゃないかもしれないけど「はい」。感じます。
- 占いでは良いことが書いてあるときだけ信じる:「いいえ」
結局、楽観性は15点中の2点と平均を大きく下回り、この結果がでたことでこの本に「おまえは自制+自省心ばかり強くって、楽観性が足りない!」とか素で叱られているような気分になってしまいました。
こういうものは、どう考えてもあほらしいんだけれども、どんな形であるにせよ、こういうような結果が出てしまった、ということのは意外とショックなことで、実際的な有効性とかはさておき、「楽観性が足りない!」という結果が出たことによって、何かが明らかにされて、何か確からしい説得をされたような気分になってしまう(まあ、私の楽観性がこの指標からすれば「平均以下」というのは確かに明らかになったわけだけど)。あー、これは魔力だな、というか、何かの答えが出されたような気がする(下らないけれど)。そして、回答しながら「俺、だめだ、よわい。よわよわだ」という気分までしてしまう(それはいつものことなのだけれども)。
なるほどなー、これか。馬鹿だけど、こういう馬鹿なものであっても、「指標」によって「分類」をしただけで何かしらのことをやったかのように見えてしまうのってすごい。それだけは意外と馬鹿にしたもんでもない。
そして、説得されてしまうダメな私…そうかー、もっと楽観的なほうがいいのか…
*1:自己認知力Self Awareness,共感力Empathy,衝動のコントロール力Impulse Control,楽観性Optimism,社会的器用さSocial Deftness,粘り強さPersistenceとわかれるらしい
2003年09月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■斉藤孝『スポーツマンガの身体』文春新書
素晴らしくくだらない。
斉藤孝さん流の「丹田に力をこめる」「身体論」が炸裂していて、ついていけない感じなんだけれども、最後まで読んでしまった。全般に斉藤さんのオイシイキャラがたまらない(以下、引用)
P18
(大リーガー養成ギブスについて)一見非人道的な道具のようだが、子供たちには当時非常に人気があった。私も、当時流行っていたエキスパンダーという、バネを引っぱって筋肉を鍛える用具を解体して、作ってみたことがある。飛雄馬が素肌の上にそのままギプスをつけていたのに影響されて、私も裸になってエキスパンダーのバネを体中に巻きつけてみた。結果はお粗末なものだった。
まず、効果がない。バネの巻き付け方が下手だったせいもあるが、投球動作をするときに必要な筋肉に、緊張を与えるようなバネの引っかかりが上手く出せなかった。小学生の私は、それでも大リーグ養成ギプスの効果を疑うことはなく、むしろ一徹の手先の器用さに感心していた。私の作ったギプスには、もう一つ重大な難点があった。バネを伸ばした後、それが縮むときに、皮膚が挟まって痛いのである。あちこちが挟まれて痛くて集中できない。つねられる痛みに耐えたからといって球が速くなるわけではないので、がっかりしてあきらめた。
しかし、今でもよくできたギプスがあればつけてしまいそうだ
小学生がエキスパンダー解体して大リーガー養成ギブスまがいのもの作るって…それかなり大変そう…。
そして、悟ったようにして「まず、効果がない」と力説しているあたりはブラボーです。斉藤さんのこと、好きになれそう。
P26
エネルギーのすべて使い果たして、ぶっ倒れ、這いずって行く。この状態に私たち野球少年は、猛烈にあこがれた。そのために効果があるのは特訓することだった。倒れるまでやるという梶原一騎の美学が、脳にすり込まれてしまった。しかし実際には、完璧に疲れきって倒れるというのは難しいことだ。そこでわざと転がって泥まみれになることで、雰囲気を味わったりした。
■小谷野敦『もてない男―恋愛論を超えて』ちくま新書
議論そのものはとりたててどうというようなものでもないと思うのだが、著者小谷野の激しいコンプレックスが面白い。
それとあと、オナニー用具を実際にためしてみた話が馬鹿らしくていい。
P51
「おかず」ではなく、オナニー用具というのもある。ヘンリー・ミラーの小説に、「リンゴを使ったことはあるか」という会話が出てくる。リンゴの芯をくり抜いて中にポマードを塗りこむのだそうだ。メロンもいいとかいう話もある。ただし、これらは、そのまま使うと冷たくてダメである。煮るとかして温めて使うのが本当らしいが、そんな手間をかけるのもばかばかしい気がする。あと、カップラーメンを使うというのもある。お湯を入れて三分どころではなく、しばらく待って麺が膨れ上がったところでおもむろに「使用」する、というのだが、これは実際にやってみてひどい目にあった。まず熱い。大切なものを火傷するところであった。それから下を向けると当然中の麺が汁とともに落ちてくるから、上向きのままやらねばならず、しんどいやら情けないやらで全然オナニーの快楽というものがない。
2003年09月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『ファウスト』
雑誌『新現実』のメンバーの半分ぐらいのメンバーがそっくり移行したと思われる『ファウスト』購入。
あんまり読む気力も起こらず、小説とかはぜんぜん読んでないんだけれども、佐藤友哉×滝本竜彦×斉藤環の対談での、佐藤・滝本両氏の弱々しい感じがとてもすばらしい。いいなあ。もうダメ。
2003年09月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『日本の童貞』渋谷知美 文春文庫
本書は私が依拠することもけっこう多い、構築主義的アプローチとか言説分析とかいわれている方法論によって、日本における1880~現在までの「童貞」をめぐる<言説>がいかに構築されてきたかを克明に解き明かす研究書。著者の修論のやきなおしである。赤川学さん(『セクシュアリティの歴史社会学』オナニー言説史の決定版)周辺の人らしく、資料も多く共有している様子。
その種の研究所としてまじめに読んでもいいのだけれども、そういう視点を持たずとも、素でバカウケしてしまうネタがてんこもり。
具体的に引用すると以下のような感じ。
●P18------------------------
・・・ちょっと信じがたいことだけれども、澤田は、オナニーをしたら童貞ではないと考えていた。
ある人から澤田のもとに手紙がきた。それにはある質問が記されていた。現代語にするとこうなる。
「童貞を、異性と性交したことのない者と、狭い意味で解釈することは理解している。では、1.異性との性交を空想したことのある童貞はどうなるのか。おそらく純粋な童貞と見なされないだろうが、肉体的には童貞として通用するのか。2、オナニーをした者の童貞性は無価値なのか」という質問である(澤田前掲論文、二〇-一頁)。
澤田は「条理ある質問にこそ思った」と膝をうっている。そして丁寧に解説する。
1については、もちろん純粋な童貞とはいえない、としている。しかし・・・
●P120------------------------
『微笑』は、経験の多い女性にむけて、いかにして童貞男性を迎え入れたらよいかを指南する記事作りをした。「童貞夫 いま激増中の”清潔な男”との初夜と性生活 不安なあなたへ!」(74-02)、「年齢に似合わず、まだ女を知らない。あるいはプロの女性のみ経験――こんな性に未成熟な男性がいっぱい。もし、あなたがめぐり合ったら」(84-02)という両記事は、いわば女性むけ「童貞対応マニュアル」である。
童貞夫に自信を持たせるよう、夫の好きな料理を作ってあげなさい、ワイシャツのボタンが外れたらすぐ付けてあげなさい、朝の出勤時は駅まで送っていきなさい、などの日常生活の心得から、「最初のキスで、あなたから下を入れてはいけません!男はリードされ過ぎるとシラケルのです」「脱いだ下着は、夫にまかせておきます。もし枕元においたらそっと隠してください」といった性交時のアドバイスまで、記事は過剰なまでの親切心であふれかえっている(74-02)。きわめつけは、「”処女を装う”エクスタシー用語集」だろう。
お母さん・・・初めてへの不安とこわさ。/許して・・・受身の女性らしい表現。/こわい/痛いい・・・イ音を引っぱると女らしく響く。痛いワァの言い方ですととてもエレガントです。/あたるゥ・・・男性自身が触れたとき。/イヤ、イヤ、許して・・・頭を左右に振ると効果的。女性の本能である拒絶反応を意味する。/ダメダメ(声を出したほうが親密度が高まる)(74-02)
こんなことを本当にいう女性がいたら、そのことのほうが「こわい」。…
…(中略)…男性が性行為に失敗したら「慰めたり、励ましたりは逆効果」「あなたから先手を打って彼に思わず抱きつき『こわいわ』とささやくなど、彼に屈辱感を与えない配慮を!」と男性の自尊心を守るノウハウを伝授する(84-02)
●P126------------------------
刺激的なセックス記事でならした『平凡パンチ』ですら、創刊まもない一九六四年の文体はおとなしく、まじめな印象だ。それは『平凡パンチ』の回顧録を記したマガジンハウス書籍編集部をして「今、これを読み返すというは(略)古色蒼然たるものがある」といわしめ、「この時代はいわば、マスメディアの世界での若い世代の男女交際の記事作りについては黎明期というべき時期にあった」と結論させる時期の文章である(『平凡パンチの時代』六五頁)
体験者は、ほとんどセックスライフの意義を、童貞者より重く見ている。/セックスライフの意義を正当に評価しながら、しかも、女性に対して、やたらと性の妄想にわずらわされないようになること――これが、正常なオトナになるということだろう。(64-02)
それが一七年たつと、こうなる。、一九八一年の『平凡パンチ』からである。
〔体験後は〕ナオンに対する印象も変わる。たとえば、ナオンがあの時に発するあえぎ声。股をおっぴろげた、あられもない姿。/もちろん、こういうことは、オレたちとしても、先刻ご承知だ。が、そうは言うものの、知識として知っていることと、実際に経験することとの間には、赤ん坊のポコチンと怒髪天を突き、毛むくじゃら、亀頭りゅうりゅうたる巨根くらいの差がある(81-02)
●P171------------------------
目をひくのは、歌手の松任谷由実の、恋愛相談での回答である。「努力しているのにガールフレンドができない」という男性にたいして、松任谷は「あなた、童貞じゃないのかな?〔略〕ハタチすぎた童貞というのは”ニキビの先が黒い”という感じでね。どうしても気持ち悪く見えてしまうんだ〔略〕だから、どんな捨て方にしても、とにかく童貞を捨てること」(80-01、引用は初出の『GORO』一九七九年七月一二日号より)と回答している。
「ハタチすぎた童貞」を「気持ち悪」いと簡単にいってしまうことにも驚きをおぼえるが、「どんな捨て方にしても」というのも恋愛の神様らしくない。「どんな」というのには性風俗での童貞喪失もふくまれるだろう。だとすると、北方謙三の「一日も早く、女を知れ!商売女でもいいから、女を知れ!」(『試みの地平線』三二頁)とかぎりなく近くなる。「恋愛の神様」として当時の若者の絶大な支持を集めた女性歌手と、ハードボイルドな作品で名をはせるマッチョな男性作家は、意外にも童貞について意見が一致していた。
2003年09月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『ベストセラー本ゲーム化会議』麻野一哉、飯田和敏、米光一成
なんか普通に三人ともインテリだなあ。というだけわかった。「ゲーム化」にかんしてはさほど真剣な会話ではなくふざけ半分といった感。まあ、気を抜いて読むのにはいいけれどそのくらい。
■『ゲームデザイン誇大妄想狂』清水亮
まだパラパラとしか読んでませんか、まあ、広く浅く、できるだけ総合的によくかいてあるなあ、といった印象。ただ、さほど目新しいことが書いてあるという感じはあまり、ありませんでしたが、まあ、これからもう一度きちんと読みます。
2003年05月06日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆 朝日文庫
なかなかよかった。
細かいケチがつくところもかなり沢山あるのだけれど、まあ、この種のエッセイに細かいケチをつけるというのもアレなので、細かいことはとりあえず捨て置くとして。
で、なにより、本エッセイは、ゲームをまったく知らない人でも読んで楽しめるようにできているのが、素晴らしい。特にSimCityに関する文章や、RPGに文章など、とくに目新しくはないし、凡庸といえば凡庸ではあるが、読み物としてきちんとしたものが書かれているのがうれしい。ゲームを知らない人にもきちんと読み物として成立させている、というこのスタイルは素直に見ならいたい。
■『面白懐かし 人気ゲーム 99の秘密』二見書房
可もなく、不可も無く。まあ、わざわざ読むような内容はあんまりなさげ。
■『〈対話〉のない社会』中島義道 1997 ちくま新書
言いたいことはわかるのだが、議論としてはひどくお粗末。
中島義道自身が考えるところの「日本的」な文化状況の所為で、中島が苦い思いをしているのは非常によくわかるし、中島の構想するところの〈対話〉という行為が望ましいというのも感覚的にはわからんではないのだが、これじゃ単に「マイノリティー」たる中島の表明に過ぎない。〈対話〉が「社会」にとって、望ましいとされる理由がないじゃん。一般書とはいえども学者の書いたものなんだから、もうちょっとロジカルな議論として構成して欲しいなあ。げんなり。
■『哲学案内』 谷川徹三 講談社学術文庫
昭和29年にかかれているという古さを感じさせる一冊。
実存主義が「ニヒリズム」というレッテルを貼られて非難されているのとかが面白い。「てめえのはニヒリズムじゃねえか!」という攻撃の仕方というのは、けっこう昔からの定型的な非難の仕方なのかしらん。
2003年05月04日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『なぜ人を殺してはいけないのか』永井均×小泉義之 1998 河出書房新社
はじめから期待はしていなかったが、もうちょっと読むに足る内容であって欲しかった。特に小泉さんの議論には絶望的なものを感じる。永井さんの方は、議論の実りのなさをよくよく認識されているようだし、異論がないわけでないが言っていることはよくわかる。しかし、小泉さんの議論は一体なんなのか、と。特にロールズへの批判はなんなんだ、これは一体。レヴィナスってこんなに陳腐な話になるんかい。ただ難解なだけのオヤジの説教だろ、これじゃー。
そして、さらに落ち込むのは、倫理学に批判的である永井さんの方が、実際には倫理学的な議論をして(=行動選択の基礎となる論理を構築している)いて、“レヴィナスの倫理”をふりかざす小泉さんの議論がただの説教オヤジにしかなっていない、という、この状況。がっくり。
2003年04月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■Webcat
それと、下の方にWebcatの検索機能つけときました。全国の大学図書館の所蔵目録がほとんど出てくるというスグレものです。とりよせはできませんが。
2003年04月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■椹木野衣『増補シミュレーショニズム』
半分読了。っていうか、現代美術用語があまりワカランので激しく飛ばし読み。 面白いっちゃ面白いのだけど、ストレートに説得されるとかという意味での面白さというよりも、この本自体を「資料」として読むのが面白い、という感じだなあ。 ボードリヤールの話がこういう風に、再構成されたりもするんだなあ、と。ボードリヤールの応用例の一つとして面白い。
あと、思ったことの半分はここの書評とかと近い。 心を鷲掴みにするような表現に満ち溢れてるけど、議論粗いよな、とか。単なる歴史の読み替えにすぎねぇんじゃねえの?とか。
でも、まあ、これ読んで、もうちょっと美術史とか、芸術論とかに足を踏み込んでみようかな、と思いました。というか、今までが知らなさすぎなので。