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2006年04月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■RGN/死の表現関連 言及していただいたもの
9日は本当に多くのすばらしい方にお集まりいただきありがとうございましたー!
いやー、手伝っていただく方のツテも、各種広報もほとんど個人のお手製でやっていたので蓋を開けてみて超ビツクリした次第です。反省点も多くのこりましたが、精進していきたいと思いますので、今後もみなさまご来場いただければ幸いです。次回はゲーム論者の誰もがリスペクトするid:hally氏による発表を予定しております。詳細は決まりましたらまた広報ということで。
で、さて、
死の表現のエントリとあわせて、RGNに言及いただいたものをいくつかご紹介させていただきます。いい指摘たくさんもらったので、一つ一つにちゃんと応答しときたいんですがとりあえず、一ぺんにこれだけの量を処理する処理速度と時間がないので、まずは並べてご紹介まで。
http://gamestudy.org/eblog/
韓国の偉大なるゲーム評論家パク・サンウ氏による論文レビュー。日本語の論文を送らせていただいたら、がっちり読んでいただいて、しかもこんながっちりコメントまでもらえるとは…ありがたすぎて恐縮しまいます。。。
But this article leaves something to be desired. First of all, it doesn’t touch the most important games, which deal the death in the revolutionized way. For example, it can be took [Planescape Torment], [Baroque] and [Go beyond my body!].
Also it doesn’t touch the death in MMORPG. In Korean MMORPG scene, the suicide of ‘Drakedog’ becomes the most famous episode. (You can see this episode in this site.) How can we explain the phenomena like this? And is there different between death in single game and death in MMORPG? Maybe these problems can be solved through the co-work of Korean researchers about MMORPG and Japan researchers about single game.
まさか、韓国の方から『バロック』をやっとけ!と薦められるとは思ってなかったです。前に一度やったことがあったのですが、改めてプレイしておきます。あと、他の事例についてもちょっとすぐにどれのことを指しているのかわからない事例もあるのですが、とりあえず入手するところからはじめます!
あと、MMORPGの死について考慮されていないという話は、RNGの当日もhallyさんからミス・ノルウェイの事例として提示されましたが、ここらへんの話もぼくの弱いところで面白そうな部分ですねー。
あと、MMOにおける死の話として単にインターネットの話としてではなく、ゲームにおける死としての特性を端的に語っている名文だと思えるものが、篠房六郎『ナツノクモ』(P23-P24)にあって、引用すると、
- ところで君はどう思う?特定のプレイヤーを殺したり、消滅させることについてだ。
- そんな事を、どうして?
- 何、心理的にどのくらいの影響があるかと思ってね。
- ―――そうですね。結論から先に言えば、前者はゲームで、後者は只の作業です。外装が生きている状態でPCが接続を切った場合、外装は接続していたボードからただログアウトするだけです。体力が0になった場合、外装は死亡状態になりますが、PCはステータスの低下と引き替えにいつでも復旧することが出来ます。問題は死亡状態でPCが接続を切った場合です。その場合、外装は2分間でそのデータを全てを失い消失します。PCは殺されたところでたいした事はないのですが、消滅させられれば取り返しがつきません。殺すか殺されるかは純粋にゲームの腕の競い合いですが、「仕事」ではあくまで標的のPCの消滅を狙う以上、その後の作業もまた必要になる訳です。
- ―――作業?
- ゲーマーの間では、拷問と呼ばれています。そういうのにはあまりお詳しくないようですね。
- ―――ああ、それで。
- つまりは、殺されたPCも消滅するのは嫌ですからその場で復活し続ける。消滅させたいほうは相手が諦めて接続を切るまでずっと殺し続けるって状況が出来る訳です。その殺し続けることを称して拷問と言うんですよ。どのくらい忍耐力があるかっていうだけん、只のつまらない単純作業に過ぎないという訳です。
http://hpcgi1.nifty.com/sawaduki/nicky/nicky.cgi?DT=20060409A#20060409A
当日、せっかく壇上にあがっていただいたにも関わらず、ぼくの圧倒的な不手際によって、本来コメントしていただくはずであったはずの内容をこちらでコメントしていただいてしまった、沢月さん。。。
今回は、せっかくお呼び立てしたのに、最後にきちんとしゃべるディスカッションの時間がさっぱり足らず本当に申し訳ありませんでした。。。
要するに、ゲームで作家性を論じるには限界がある。それがゲームを論じる難しさの一つなのだろう。
だれかが死ぬ場面を描かなければ「死の物語を経験させる」ことができないとは限らない。死ぬ場面の描写がなくても「死の物語を経験する」ことはできるだろうし、それがゲーム固有の表現として立ち表れることは十分に可能だと思う。
たとえばアトラスのRPG「 BUSIN」(PS2)。主人公は仲間と協力し、人助けをしつつ事件を解決していくかに見える。だが実際に主人公がやっていたのは、とうに死んでしまった街で、死による終わりを迎えられなかった人々を正しい神のもとに導くことだったということが、終盤に明らかになる。主人公があがくのは生きようとしてではなく、仲間を助けようとしてでもなく(なぜなら、仲間は既に死者だから)、仲間や人々のライフストーリーを終わらせるためだった。直接死ぬ描写がなくても、進むほどに重苦しくのしかかってくる死の重みを感じるゲームだったと思う。
http://realtimemachine.sakura.ne.jp/collisions/event/RGN01.html
dotimpactさんレビュー。
感想への応答は個人的にメールしましたが、ほとんんど言い訳がましいものになってしまったので。。。もっと、きっちりとしたコメントをあらためてさせていただきたいところです。
ゲームにおける死はその複数性(ルール)や固有性(物語)そのものではなく、その二つのレベルの(ゲーム作者による)操作と対比において、そのリアリティ(あるいはそこにある限界)が浮かび上がるものである、という主張は十分可能だろうとも思えました。ゲームはプレイヤーに、ある立場を与え実際に手を下させることができ、そのプレイヤー自身の体験は覆せないとすれば、ルールや物語のレベルでは隠蔽されてしまう、たとえば「死」を、プレイヤー自身の体験によって担保する形式というのはゲームにはありえるのではないでしょうか。井上さんが発表で例示された(詳細は伏せる)「いままでプレイヤーが『倒した(殺した)』と考えていたものにある時点でプレイヤー自身がなり代わり、まったく同じルールで倒されて(死んで)しまう」というような表現は、ゲームが原理上死を記号的に扱わざるを得ないという限界に拮抗するものになりえるはずだと僕は考えます。
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060407
http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20060408/ (id:tdaidoujiさんへのコメント)
こちらも全体的にいい指摘。さまざまなコンテクストを参照しながら話がすすむので、いろいろなコンテクストも同時にわかって、おもろい。
それと、dotimpactさんのコメントにもありましたが、プレイヤー/プレイヤーキャラクターといった 要素に着目しつつ期待の裏切りなどの問題について言及していく方向性を示唆していただいくことが多いのですが、これってやっぱり『ポートピア殺人事件』あたりのころからずーっとある話なので「裏切り」だけで話を整理してみるというのも面白いのかもなー、と最近思ったり。
あと、コメンテーターのハマノくんからコメントあったとおり、物語/文学の区分についての議論の混同みたいな部分も多くの方にツッコんでもらいました。いや、まーこれは本当にそのとおりだと思うので、どうにかしたいですねー。
あと、
tdaidoujiさんのコメントではゲームバランスの話を「フェア/アンフェア」という区分けによって語っているのもいい議論のたてかたですね。
ゲームにおけるフェア、アンフェア、すなわちゲームバランスという話になる。ゲームとしてフェアであることを尊重するほど記号性は高まり「死」は遠ざかる。「強いリアリティを持った死の表現」を求めるてのは、制度を、システムを、ゲームであることを破壊することに他ならないわけで。
http://gmk.9bit.org/note/20060409-immortal.htm
ゲーモクさんからは、コメンテーターのid:AYSさんからの発表にもあった、『アウターワールド』の事例よりもさらに、キターーー!雰囲気のする『ウイザード・オブ・イモータル』についてご紹介。
死んで死んで死にまくらなきゃ乗り越えられないのに、セーブはフロアごとでしかもパスワード制、コンティニューは回数制限ありという厳しいゲーム内容を目の当たりにすれば、今を精一杯生きることの大切さを嫌でも考えさせられるだろう。トラップだらけでクリアもままならぬダンジョンはままならぬ我が人生と重なり、ことあるごとに無惨な死に様をさらす主人公は明日の我が身としか思えない。ゲームの死はリセットできる言うけれど、じゃあリセットを繰り返せばクリアできるとでも言うのかよ馬鹿野郎。
http://d.hatena.ne.jp/SiFi-TZK/20060409
終わった後に気づいたという、id:SiFi-TZKさん。よろしければ次回はどうぞ。
FFの野島氏と植松氏が「人の死を扱いたい」「人の死なないゲームがいい」という正反対な発言をしていた対談が思い出される
おおー、これはすばらしい。ネタ元どこだったか探しときたいですね。
http://d.hatena.ne.jp/Dryad/20060409
実は会ってみたら、前から顔を知っている人だったということが判明したid:Dryadさん。
今回のぼくの枠組みを、リネージュ2の事例に適用して論じることを試みていただいております。
- ゲームの世界観を元に、「死の固有性」を中心としたシリアスな物語として再編する。
- 上記の公式ストーリーなど。戦闘シーンは、必ずしもゲームの仕様に忠実ではない。
- 「死」は登場人物の持つ背景ストーリーの中でのみ語られ、戦闘の結果として死人が出ることが徹底的に回避される。
- 「お約束」に沿った、ゲーム的な戦闘シーンの描写。
- ゲーム世界においては「死の複数性」を前提としつつも、「ゲーム内のキャラクターを操作する現実のプレイヤー」を物語世界の範疇として取り込むことにより、ゲーム世界における「死の固有性」を担保する。
- プレイヤーがゲームを継続する意欲を失ったり「現実に死亡」することにより、ゲーム世界におけるキャラクターは「真の死」を迎える。
http://d.hatena.ne.jp/work_memo/20060410
急用でこられなくなったid:work_memoさん。アルフレッド・シュッツ「多元的現実論」から、UOやPSOの事例にまで言及しつついろいろな話を列挙していだだきましたー。言及のあったもので未読のものはなるべく読んでおきまする。
シュッツというのはそーいう社会学者がおりまして、「多元的現実論」ちゅーことを言ってたりするのです。第二次世界大戦後くらいだったか。んでどーいう話かっつーと、もともとシュッツの問題関心としては科学論なんですが、日常ぽけらーと生きている自分を振り返ってみると、現実構成の様式が変容してる時、リアリティがちょいズレてる時がある。代表例として挙げているのが「夢」とか「科学的思索」とか挙げてまして、シュッツは挙げてませんがコンピュータ・ゲームとか本読むとかメディア経験なんかも大多数ソレにあてはまると思うんですけど、とりあえずべたーっと同じ「日常」が続いているんじゃなくて、それぞれ自律したルールを持つ現実ちゅうのがちょこまかとあって、んでその中に他者と出会い相互行為をしていく「至高の現実paramount reality」ちゅーのがあり、その場その場で主体が現実として生きているという意味では各「多元的現実」は対等なんだけれど、至高の現実はそれらに卓越してるんだみたいなことを言っていたような前世紀のうろ覚えな記憶なのです。
じゃあなんで至高の現実は至高なのかっつーたら、シュッツは明示してはいないのでよくわからんのですが、一つはそこで死ねるから。『アヴァロン』は、セピアソフトフォーカス気味の「ゲーム外の現実」と、やっぱりセピアの「ゲーム内の現実」が交互に描かれていくんですが、「ゲーム内の現実」からさらにもう一段入った「裏モード」に突入すると、それはフィルターをまったく通さない、現実のポーランドの都市の描写になってるわけです。おそらく、主人公のアッシュより観客の方が軽くぶたまげるのですが、そこで結局アッシュがなにさせられるかというと、字義通りのネトゲ廃人としてリアルでは病院で介護されている昔の知り合いと「なにがリアルなのか」をめぐっての対話と殺し愛。「ゲーム内現実」ではCMとかで流れていたように、3Dで逃げまどっていた人々(基本的には実写をコンピュータ処理してると思うですが)が、一瞬静止して、2Dの薄い板に描かれたような絵にそのまま変化し、ついでそれが飛散するという描写がされているのですが、「裏モード」で殺された死体はどーなんのか。それが「このモードがリアルなのか非-リアルなのか」の最終的な試金石となるわけですみたいな。
死んで肉体が腐っていくのはリアルのみ。死して屍拾う者なし。
また、こんどお会いできる日を楽しみにしております。
http://d.hatena.ne.jp/shiroham/20060409#p2
歴史的に遡ると「ゲームにおける死」なんてのは「試合における負け」とか「鬼ごっこにおいてタッチされた」くらいの意味しかそもそもはなかったわけで,そんなところに過剰に思い入れるのはそもそもナンセンスじゃねーかなーと思ってしまうのですよ.
こちらはRGN当日のツッコミだと、hallyさんの前半部のつっこみに近いですかね。ナンセンスじゃん!と思ってしまう感覚が成立するというはまったくそのとおり。ぼくの立場は、その感覚がごくふつうなものであることを前提としつつも話をするみたいな感じでしょうか。
http://poem.6666.to/angelus-novus/note.html
あとこちらからも大変いい指摘が。
しかし、それなのになぜかわれわれはゲームから倫理的なものを受け取りうる。しかもそれは普通考えられているようにストーリーを通じてだけでなく、ゲーム性によって表現される次元においても、われわれは倫理的なものを受け取りうるのだ
まったくその通りですね。完全同意。
http://d.hatena.ne.jp/kenjiito/20060410
で、最後に。こちらは全然別の視点ですが、いろいろと当日中すばらしいコメントをいただいた伊藤憲二さんから。ゲームを「研究」と言う視点から語ることについてのこれまたすばらしいエントリ。泣ける!っていうか泣いた!
そもそもゲーム研究者がゲームについて独占的に語る権威を持つということ自体が幻想なのである。ゲームについて語る権利は誰にもであるべきだ。ただ、そのなかに色々な種類のものがあるに過ぎない。ゲーム研究者のゲームについての分析が、一プレイヤーのゲームについての洞察より優れていると考える理由はないし、さらに言えば優れている必要すら必ずしもない。アカデミズムのなかでなされた分析は他の場所(たとえば2ch)でなされた分析とは別の機能を果たすというだけのことである。
とりあえず、研究会おわって体がヒーヒーいってるので、FF12をクリアーまでプレイすることを当面の目標にして生きていきたいと思います。
2006年04月08日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■事務連絡:懇親会とか。
日曜の研究会の申し込みをしたあとに、懇親会の参加の意志のある、なしを伝えていない人はおはやめにー。
あと、参加者がだいぶ増えてきたので、事務方で手伝ってもいいヨ!という人がいらっしゃったら、ぜし!いまのところ、応対等もすべて僕が日常業務のあいまに一人でまわしている状況なので。。。いろいろと対応がヘタレた感じなるかしれませんので、何か忘れてるようだったりしたら、つついてください。
それと、あと、日曜はドアが閉まってるのでなるべく時間までに来ないと会場に入れないおそれがありますので、開始後1時間とかにいらっしゃる方は、休憩時間までまってもらうことになるかもしれません。ご注意ください。
2006年04月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「死の表現」をめぐって#02
1.『人間ども集まれ!』
テンパりつつも逃避する井上です。
9日の研究会関連の話題で。死の表現に関するネタとして人とだべっていて、「手塚は死のリアリズムにむきあっていた、とかって話があるけど、手塚にとっての<死の表象>つっても実は手塚ってダークな死の欲望というか、なんか、人間狩りとかそういう死の話を書くのが大好きな人でもあるよね」とかそういう話を今日の晩飯くいながらしてました。
そんなわけで以下、晩飯での話+ちょっと発展版。
手塚の死の表現に関して話すとそれこそ、死ぬほどネタがあると思うんですが、話していた人は順当に『ブラック・ジャック』とかがいいよねと。ぼくが特に思い出したのは、手塚中期の傑作『人間ども集まれ!』。
なぜに『人間ども集まれ!』がいいのかというと、あれって性の話でもあると同時に、死の話でもあって、大量にひとが死んだりするのをガンガン描く話なんですよね。手塚にとって、差別と人間狩りみたいな話を書いた比較的初期の傑作と言う点では『ロック冒険記』とかもすばらしいといえばすばらしくって、『ロック冒険記』は、「鳥人間」という亜人種の宇宙人をガンガン殺して奴隷化して狩っていく話なんですよ。だけれどもあそこで描かれる人間狩りの問題というは、どちらかといえばアウシュビッツ的な記憶の再生産に近い。差別という問題の枠組みの中で描かれる悲劇の問題だと思うわけです。だけれども、『人間ども集まれ!』における「人間狩り」の問題が決定的に新しいと思えるのは、そこで「戦争ゲーム」というものをイベントとして興行してしまおうという話が盛り込まれていることなんですね。
この作品中で語られる「戦争ゲーム」というのはネタとしては本当にいまでも斬新だと思うのですが、たしかにそもそもは、亜人種に対する差別問題と言うのを発端にはしています。だけれども、ここでは「人間狩り」の問題が単に差別の問題じゃなくて、快楽の問題として提示もされるわけです。それは、「戦争ゲーム」イベントの興行屋の書いていたパンフレットか何かにでてくるんですけれども、「戦争こそが最大の娯楽なんだ」というようなことをものすごく自覚的に言って見せる。悪魔のような所業をなす興行屋がそういうことを言うわけです。そこでは、それこそ「リアルな死」があり、同時に「数字的にカウントされていく死」もあり、「快楽としての殺人」も全部一挙に混在しているんだ、と。
で、そうした、「死」のありようを「娯楽」として眼差す視線が世界には強力に成立しうるんだ、ということを手塚は示すわけです。リアルな戦争のゲームを、「イベント」として開催されうるのではないかという想像力を提示して見せることで、単に死がリアルであるとか、リアルでないとかゲーム的である云々という批判とはまったく別の水準において、われわれは人の「死」をめぐる事態を娯楽として楽しんでしまうのだという、死と快楽の問題をものすごく明瞭に提示してみせる。
それはもちろん単純には肯定できるようなものではないけれども、逃れられないものである、として提示してみせる。
そんなわけで手塚の「死」をめぐる表象はブラックジャック的に、(こんなことを言ったら叱られるかもしれないけれど)、ある意味ベタに、死をめぐる倫理を扱うような方向性を描く。それと同時に、「死」をめぐる倫理が決定的に崩壊する世界も描く。手塚が「死のリアリズムを描いていた作家だ」という言うとき、それは手塚が、個人個人の換えがたい生命を丁寧に描く作家だという意味での「死のリアリズムを描く作家だ」というような議論は、非常に一面的なものでしかなくて、「個人の死のリアリティというものが失われるリアリティがありうる」ということを描くことについての情熱を持つ人だったという意味において、手塚の描く死のリアリズムとはリアルだったのだと思います。そして、それが十全によく描かれているのが『人間ども集まれ!』という作品だったのではなかろうか、と。
2.『City of God』
そういえば、これに似た話として、おととしから僕がものすごくプッシュしている『City of God』というリオデジャネイロのスラム街という社会を描く話があるんですが、同じくブラジルのスラム街的なものの延長にあるブラジルの刑務所を描いた『カランジル』という映画をみました。『カランジル』は一人一人の囚人の生き様を丁寧に描いて、それが大量虐殺されたという実話(?)を描く話でテーマ自体は大変に重い話だったのですが、『City of God』と比べると別にこれといって、「いい」思えなかったも同じ理由であるような気がします。
死の表象というのが、単に個々人の尊厳をリアルに描いたものであってもそれはものすごく不謹慎な言い方になるけれども、「ベタ」といえばベタで、実はそういう死はもう描かれすぎてきたといってもいい。『City of God』がすばらしさを僕は前に「『蠅の王』の実話版」という言葉でいっていたのですけれども、それは何かといえばまさに死の固有性のリアリティが崩れる世界を説得力をもって描いていたことです。
そこでは実は人種差別だとかそういうタイプのありがちな道具立てすらない。僕らは人種差別とか、そういうものはとりあえず捨て去った―――とか、そういうことになっているけれども、そういう典型的な種類の「人間」を「非人間」として扱う概念装置である「差別」とか「戦争」とかというものから逃げ去ったとしても、まだ。それでもまだ、固有の死のリアリティとかいう言葉で呼んでいるものが崩壊する瞬間を迎えてしまいうる世界がある。それは圧倒的な日常の中にある。
そういう形の恐怖を、まさに現在のブラジルのスラム街という場所から描きえていたという点において『City of God』は圧倒的に傑作だったと僕は思っているのだと思います。
3.ゲームにおける「人間」の「非人間」化装置の問題
で、これまで描いてきた話は人間であるはずのものが、非人間化されて死が快楽として機能してしまったりする瞬間があるよね、と。だいたいそんな話でした。*1
「人間が、非人間化される」という世界。
これはでも、一般的な小説とか映画の物語の世界だとこれを描くことが一つの重大なテーマになりえたりするわけですが、ゲームだとこの話は実は逆転してしまう。
なぜか。
理由は明確で、はじめからゲームにおいてはNPCとかモンスターというのは、ものすごく非人間的なものとして配置されているからですね。別にそれを殺すことにためらいを覚えるゲームプレイヤーはものすごく少ない。だけれども、だからこそ、逆説的にここで問題になるのはものすごくベタな固有の死を描くということになるのかもしれません。
つまり、小説や映画においては「人間の非人間化という恐怖」を、人間的なものが非人間的なものになってしまう瞬間を描くことで表現する。だけれども、ゲームにおいてはそもそも登場するキャラクターたちは、はじめからものすごく非人間的な存在として成立している。だからこそ、ここで必要とされるのは、はじめから非人間的なものを非人間的なものとして描いてもどうしようもないので、「非人間的なはずのものが人間的なものに思える瞬間」を描くことになってくるのかもしれないな、と。
たとえば、それは茂内さんじゃないけれど、やっぱり『ACE COMBAT04』のラストとかがものすごく秀逸で、あれはまさにそういうものなんですよね。それまでほぼ完全に非人間的なものであったはずの敵の戦闘機が、いきなり人間的なものとして現出してくる。
そこにおいてはじめてプレイヤーは自らが残虐な虐殺者であったことを認知しうる。自分のみつめる世界における人間と非人間的なものとの境界が極めてあやうげにうつろうものであることを自覚する可能性がそこで与えられる。
もちろん、こういうことを言うと暴論だという言う人がいるのかもしれない。
それはたとえば次のようなことだと思います。同じエースコンバットについて話せば、「『ACE COMBAT03』をみてくれ」と。「『ACE COMBAT03』は最初から複数の人間をちゃんと描いていって、それが死ぬ話じゃないか。」と。人間ははじめから非人間的ものとして登場するのじゃなくて、ちゃんと人間の面をしてるじゃないか、と。あるいは、エースコンバットじゃなくてもいい。最初から敵がきちんとした人間の顔をかぶっているものなら別になんだっていいと思います。
でもこういう反論は本当にそうなのだろうか、と。いうことも同時に思うわけです。
具体的に言うと、はじめから人間の顔をかぶっているゲームこそ、次第に相手が人間であるということに頓着しなくなってくるのではないか、と。ゲームの中の人間が何度でも生き返ることがわかってるし、相手が人間である、というのは<物語設定>上の問題であって、戦闘中に相手に一撃をくらわせたりすることはまったく問題ないんじゃないか、と。次第にそういう感覚が蔓延してきて<物語設定>の問題と、戦闘行為との問題の分離というのがただ単に横たわるだけになってしまう。*2
コンピュータ・ゲームというのはこうした形でものすごく人間を、非人間的な水準で扱いつつもそれを解離的にどうにかしてしまうような、きわめてややこしい装置になってます。僕が話したいことはこの解離的な状況というのがいいか/わるいかという問題ではなく、こういう先に挙げた『人間ども集まれ!』とか『City of God』のような意味での死の恐怖を書きうるならば、それはどのようなものなのだろうか、と。
そういう話なのかなー。と。これを書きつつ。
いま手元に用意してるのは、べつの話なんだけど…
4月9日の研究会はこんな感じの話になるかどうかわかりませんが、とりあえず、興味のあるかたは申し込みしてウェルカム。
*1:もう少し正確にいったら、ほんとは、人間的な死が非人間的なものに変わってるから、殺人が快楽になるんじゃなくて、人間的な死が人間的な死であるからこそ殺人は快楽なのかもしれないけれど、その話にまで言及すると、話の軸がブレそうなのでやめます
*2:でもまー、こういう話をいいはじめると、ACE04だって似たようなもんだという、ところがないでもない。ややこしー。この感覚の分離の問題は、9日の研究会でとりあげます。あと前に書いたhttp://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050717#p1とか参照
2006年04月06日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■宣伝。研究会主催&発表します。
直前広報!GDC報告会の翌日デツ!
http://www.glocom.ac.jp/j/labs/azuma/project/game/
参加人数けっこう多めになってきたので、はやめのお申し込みを。とはいっても多分、いまのところ断りをいれるほどにはなってないので大丈夫です。「ムリです」というメールのいかない限り来ていただいてOKです。ただ、来る意志だけは事前にお伝えしていただかないと、椅子の数が用意できないと思いますのでその点だけよろしくお願いします。
あと、参加人数がかなり多めになってのに対応して懇親会をちゃんとセッティングすることにしました!
最初のご案内で懇親会参加についてお知らせがいっていなかった方は、懇親会参加するかどうかについても僕のほうまでお知らせいただければ。
イベント当日までばたばたしてると思うので、返信がちょっと遅れたりやたらと早かったり変なペースになってるかと思いますが、ご容赦いただければ幸いです。
RGN:第一回「死の表現をめぐって」
ゲームは死を描けるのか?
評論家として知られる大塚英志はキャラクタ小説の入門書(大塚英志『キャラクター小説の作り方』2003、講談社)において、小説を描く上で立ち上がってくる重要な問題の一つとして「死をどう描くか」という項目を設け、数十頁にわたり念を入れて解説している。
大塚は「記号的でしかありえない表現が現実の死を以下に描き得るかという問いかけ」がジャンルを問わず、多くの作家たちが直面している問題として指摘する。と、同時にゲームにおける死の表現が「人の死をパラグラフの数値として示し、リセット可能なものとして描いてきた」「映画やまんがやミステリーが人の死を記号的にしか描けないという限界を自覚した上で「現実」との関わりを模索しているのに対して「ゲーム」や「ゲーム」を出発点とする「ゲームのような小説」はその努力がぼくには乏しいように思えてなりません」とゲームの表現に対する危惧を表明している。
大塚の問題意識はこうした表層的な死を表現するゲームの悪影響に対する危惧というだけではない。大塚は安易な死の表現を批判すると同時に、いかにしてフィクションの中で描かれる死が、現実の生身の身体の死に近いリアリティを持って描かれうるか、ということを問うている。表現の表層性を非難すると同時に、強いリアリティを持った死の表現を確保せよ!と叫ぶものでもあり、これはゲームの表現がその水準に達していないという批判でもある。
本発表では、ゲームの死の表現の可能性や限界に焦点をあてる。まず、ゲームにおける死の表現の内容分析を行う。その次に、この死の表現パターンに対応するかたちで、ゲームについての批判的/批評的言説が分布していることを、言説分析によって確認する。そして最後に、ゲームにおける死の表現法の、新しい視点を提示できればと考えている。
概要
■発表者・司会:
井上明人(http://www.critiqueofgames.net)
■コメンテーター:
hally(http://www.vorc.org/)
茂内克彦(http://www.intara.net/)
濱野智史(国際大学GLOCOM研究員)
場所:国際大学GLOCOM
日時:2006年4月9日(日) 13:00~
13:00 開場
13:25 冒頭のご挨拶
13:30~14:30 発表
14:30~14:40 休憩
14:40~15:40 コメンテーターによる発表+ディスカッション
15:40~15:50 休憩
15:50~16:40 ディスカッション
16:40~17:00 質疑応答
■申し込み
メールのタイトル(Subject)を
「RGN#01 申し込み」
として、inoue@glocom.ac.jpまで下記をご記載のうえよろしくお願いいたします。
[ご所属(貴社名・学校名)]
[所属部署]
[役職]
[ご氏名]
[E-mail]
[TEL]
[FAX]
[郵便番号]
[所在地]
[ビル名]
[懇親会への参加] する・しない (3500円)
※懇親会は、一人3500円
「フィヨルド」にて
17:40~20:00を予定しております。
なお、定員になり次第、締め切らせていただきますのでご了承ください。