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2006年01月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■<学習過程>としてゲームを捉える~「おもしろい」のゲームデザイン~
Raph Kosterの『「おもしろい」のゲームデザイン』(原題:"A Theory of Fun for Game Design")読み中。
ゲームの形式について論じていても仕方ナイジャン!っつって、プレイヤーの意識のほうにアプローチしようと思うと、しばしばチクセントミハイの「フロー体験」とか引き合いに出してそれ以上の理論的な進展の方向性にアタリがつけなくなる場合が多い。だけれどもRaph Kosterは、「フロー体験」とかで説明してもよさそうなところを、「フロー体験」には言及するにとどめ、「チャンク」とか「パターン」といった概念によって、ゲームにおける学習過程を説明することで独自の議論の深め方を行っていく。この点は大変に興味深い。
で、こうした、ゲームについて説明をしようとするRaph Koster氏の欲求は、たぶんJesper JuulとかEric Zimmermanらとはたぶんちょっとだけ別のところにある。*1
この本を読んでいて、Raph Koster氏的な立ち位置があるということで(1)同時に自分がZimmemanらに対して抱いていた物足りなさ、(2)前々からゲーム性の定義を「学習過程」として捉えるようなid:ityouさんのような議論を計りかねていた 二点もスッキリ納得できた気がしますた。
えー、これだけ言ってもなんのコッチャイという感じだと思いますが、
そこで、はてなダイアリーキーワード「ゲーム性」に以下の記述を加えてみました。
「ゲーム性」という概念の統合的な捉え方
ゲーム開発者の桜井政博はこの概念を「リスク&リターン」という枠組みで捉えればよいのではないか、と提案している。ほかにも、多くの論者がいろいろと考えた末に、この概念を「駆け引きの妙」だとか「トレードオフ」といった側面から捉えられるのではないかと論じており、ここには一定の共通性がみられて面白い。
また、他の有力な捉え方としては、「トライアンドエラーでスキル向上をしていく学習過程」というような方向性も挙げられる。こちらは"A Theory of Fun for Game Design"(邦題:『「おもしろい」のゲームデザイン』2005)のRaph Kosterあたりが代表格だろうか(「ゲーム性」って言葉は実は使ってないけど、ゲームの面白さの本質を記述しようとする姿勢は海外の人もおんなじ)。Raph Kosterはゲームプレイ時において生じる学習過程を「チャンク」「パターン」などというようなゲームプレイヤーによる意識の形成から説明し、ここにゲームの面白さの発生の仕組みを見出している。
両者は、双方ともにゲームの「面白さ」を説明しようという点においては一致点を見出せる。だが、なぜこのような差異が生じるのか?
私見を述べると、前者の「トレードオフ」「駆け引き」といった捉え方ではゲームのルールの形式や構造に着眼されており、後者の「チャンク」「学習過程」といった捉え方では、ゲームのルールをプレイするプレイヤーの意識、感覚に着眼されている。そう見るならば、両者の定義するところには異なっていても実は着目する対象が少し異なっているだけということであって、両者の立場は対立しているというよりも相互補完的なものであると考えられるだろう。
なにわともあれ、ゲームプレイヤーの主観的な意識の構成について説明しようとする立ち位置はマジで貴重なので、その意味で本書は大変に重宝できるかと思われます。
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追記。
Raph Koster Website
著者への松浦雅也氏によるインタビュー
*1:邦訳版の16ページでは、実際そういってる。Zimmermanらに言及した上で「しかし、おもしろさは非常に根源的なものでもっと基本的な概念で理解できると思えませんか?」といって、Zimmermanにちょいとケンカ売ってます。
2006年01月06日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■2005年度―今年のゲーム十選
2004年の十選にひきつづき、2005年度分も選んでみました。ちなみに、プレイしたソフトの数は約40本
- ひぐらしのなく頃に(PC、鬼隠し編~皆殺し編)
- ワンダと巨像(PS2)
- 雪道(PC、フリー http://f8.aaa.livedoor.jp/~sanctuar/)
- なめ消し塩(PC、フリー http://ishi.blog2.fc2.com/blog-entry-158.html)
- 大神 体験版(PS2)
- メタルギア・ソリッド3(PS2)
- STAR WARS BATTLE FRONT(PS2)
- カスタムロボ(GC)
- エイリアン・クロスファイア(PC)
- 英雄伝説6(PC)
2005年度やってみてダントツによかったのは『ひぐらしのなく頃に』です。間違いなく。
これとあと、『ワンダと巨像』の二作をプレイしたことで、本年度は幸せな気分になれました。
全般的には、同人・フリーなどで製作された比較的開発規模の小さなものを本年はガシガシあげていますが、これは特に意図したわけではありません。
以下、気の向くままに、各作品へ締まりのないコメントしてゆきます。
続編だけど…『メタルギアソリッド3』『英雄伝説6』
他のみなさんが高い頻度で挙げているのに、挙げなかったものとして『地球防衛軍2』『みんな大好き塊魂』『ロマンシング・サガ~ミンストレルソング』とかは挙げませんでした。はい。もちろんとってもとっても面白かったんですけれども。
そもそも前作『塊魂』は人生のベスト5とかにも挙げてたぐらいに高く評価してるんですが、主観的な評価だけでいえば僕は続編とかリメイクとかとよりも、新しい体験を与えてくれるような新作であれば多少みおとりする部分があってもそっちを選ぶんだ、というようなところがあるようです。それは、客観的な評価として「エポックメイキングなもののほうがえらい!」とかっていうようなモノシリ顔で評価してるわけじゃなくって、単に一ゲーマーとしてゲームにそういうものを求めているものだと思われます。
これは、浜村通信がしばしば嘆いているような「オリジナルタイトルが減って悲しい」というような話に通じなくもないのですが、オリジナルタイトルなのか続編なのか、って議論って実は作品内容の話というよりも、その作品が流通にのりやすいか否かというようなマーケティングの議論だと思うのでちょっぴり違います。
アガー。
はやい話がぼくがゲームをやりつづける理由は、ある似たような楽しみを再現/量産することにあるのではなくて、別種の世界や別種の知覚を提示してくれるというところにこそもとめられるのかもしれません。むかし、あるネットゲーマーの知人に「このゲームだけで2年は軽く遊べるYO!金もかからなくって経済的だYO!」とネトゲーをやるようにすすめられたことがありました。ですけれど、推薦してくれた知人の思惑とは真逆に、そんなゲーム絶対やりたくないな、と思った次第です。二年も同じ世界などを見せられていたら、ぼくにとっては苦痛なのです。
そんなわけで、今回続編モノのなかで10選に挙げた『メタルギアソリッド3』『英雄伝説6』は、オリジナルタイトルではなかったわけですが、ゲームプレイヤーに新しい世界を見せてくれるものだったと思います。
『メタルギアソリッド3』は具体的には、衛星による敵兵の位置把握システムをなくして迷彩によるカモフラージュによる潜入システムを実装してくれたところにかなり大興奮でございました。草むらの中に延々と佇む緊張感はすばらしいの一語につきます。あとネタバレになるので控えますが、ラストの死の表現もサイコーですた。基本的には回避不可能な死を表現しつつも、プレイヤーに操作可能性を付与することで、プレイヤーが<死>に対して積極的なコミットメントを・していたか・というような手触りを与える、とても面白い手法でした。
『英雄伝説6 FirstChapter』は、ほとんどの部分は基本的に「ウェルメイドなものとして優秀なクオリティのRPGだ」という程度にとどまるのですが、物語展開の手法としてラスト付近で一挙に見所が増えます。物語のナゾが解けるという側面に加えて、続編モノとしての「ヒキ」をみせるというあたりはもちろんよいです。ですが、実はいちばん面白いと思ったのは、最後まで延々と発行されていたゲーム内の「新聞」というシステムかもしれません。*1。この作品は実はけっこう意図的かどうかわからんのですけれど、19世紀の近代的メディアの成立と近代市民の誕生みたいなものとかを意外と描けてしまってるようなところがあります。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』で記述される「公定ナショナリズム」だとか、新聞メディアを通じてプレイヤーキャラクターがとりあげられることで公共的感性がグイっと獲得されちゃう雰囲気だとかが感じられて、それが大変に面白い。もちろん、世界観はファンタジーなのでこれを19世紀フランスだとか、ブラジルだとかって主張したら途端にドキュンに感じられてしまうものですが…。こういう近代ナショナリズムの成立みたいなものを描くことがゲームって可能なんだな、と感じさせてくれたことで「ゲームって面白いんだな」と改めて思ったぐらいです。プレイヤーが積極的に世界に参与してゆく、という主体性があるがゆえに、価値観の主体化がはかられる、みたいな。そういう可能性を示唆してくれるものとしてぼくはたいへんにおもしろかったのです。
思想とあわせておいしい『雪道』
ゲームとしての機能美もさることながら、開発者の思想もあわせておいしい作品としてPornさんの『雪道』。以下、Pornさんの「思想」http://f8.aaa.livedoor.jp/~sanctuar/text/thought.html より部分的に引用
あまりに再現クオリティの高い仮想世界を見てしまったがために、主人公が現実と仮想の区別を失ったことを『悲劇』あるいは『バッドエンド』として描くことで暗に“現実寄り”の価値観を読者に強制しようとする物語を非難したところで、この現状が覆るわけでもない。仮想は現実を越えられない。それは認める。ならば我々の目的は、これを否定することではない。
しかしながら、人間の認識はこの物質世界ほど強固ではない。巨大なディスプレイをガラス窓と見まがうことはあるし、フィクションとそうでないものを混同することだってある。カルト問題や仮想現実物語の使い古されたテーマではそれは危険な落とし穴として扱われるが、我々はそこにこそ、新たな世界を切り拓くチャンスを見る。RPGでもいい。カードでもいい。麻雀のようなテーブルゲームでもいい。まるで現実の自分の預金残高のようにその数値を愛した心理状態とサイコロの偶然とが創り出した一瞬に、一度でも奇蹟を感じたことがあるなら、そして再びそれに手を伸ばそうと思うのなら、あなたは我々の同志だ。
こういう形で一つの明確な立ち位置を主張する人っていうのは多くないんですが、Pornさんは開発されている作品内容とあわせて、この議論がたいへんに説得力があります。『雪道』というは誤解をおそれずにいえば、「不思議のダンジョン」「Rogue」シリーズのさらにエッセンスを搾り取って、精錬したような作品です。
「不思議のダンジョン」をプレイしている感覚を思い起こしてもらえればたぶん想像がつくと思うのですが、二時間、三時間とプレイしたときゲームプレイヤーである我々は、ある数字が並べられていることになにか超越的なものを見取ったような気分になることがあります。むかし糸井重里が80年代に『ファミスタ』をやりながら、ありもしないはずの「ここの腰のひねりが…っ!!」とかって叫びながらプレイをしていたという話がありますが、それとも似たようなものかもしれません。
『雪道』はどんどん極めて、極めていこうとすれば、並べられた数字の一桁一桁の裏にある不在のはずの物語のようなものを見取ってしまう境地にまで至ります。コンピュータ・ゲームにおけるインタラクティブなコミュニケーションの表現が、実際には人間的な会話よりも遥かに劣るとみられるような「フラグ」だとか「パラメータ」によって管理されているというのは周知の事実です。これに対してPorn氏はコンピュータ・ゲームにおけるコミュニケーションのあり方が「フラグ」や「パラメータ」といった極めて数値的なインタラクションである/でしかないことに失望を覚えるのではなく、むしろそこを前提とするところからはじめて、どこか超越的なところに至れるのではないか、と問うているように思えます。
これは、かつて存在していたゲェム右翼のような「打つ!たたく!はしる!それこそがゲームの本質!」というようなタイプのゲーム性至上主義とも違いますし、その逆にFFの「映画性」を賞賛するような<ゲームの芸術性>への評価とも異なる立場です。
「不思議のダンジョン」を賞賛するような立場はふつう、「ゲーム性が高いからすばらしい」というような「ゲーム性至上主義」とかに回収されてしまいがちですが、フラグやパラメータといった数値的なコミュニケーションのあり方を、単に代替可能で管理可能な資源としてクールに見つめるのではなく、きわめてホットにそうしたものと向き合う可能性がありうるのだ、ということをPornさんの立ち位置は主張している。
二次元と三次元の往復 『大神』(体験版)
3Dの世界の改造度があがるにつれて、ゲームの映像は意外と同じようなつくりのものがふえてきましたが、わかりやすい形でそれに対するオルタナティブを提示してみせたのが『大神』でしょう。
ひどく単純なコメントとしては「墨で3D世界を描くだなんてスッゲェェ!」という一言になっちゃうんですが、それだけだったら本作はけっこう普通の3Dアクションゲームなのですよね。
そういった技術的な優位以上に『大神』がすぐれて新しいのは、三次元の世界を三次元の姿態をもったプレイヤーキャラクターが動き回ることにあるのではなく、三次元の世界に対して、二次元からの統御が行えることにあります。
これは大神が「筆」というモチーフを扱ったことからある意味、必然的に欲望されたことなのかもしれませんが、三次元の世界を我々は平面に配置されるはずの「筆」によって描かれた映像を通して認知しています。そこで、我々に与えられる三次元の世界は実は、三次元の世界によってではなく、むしろ二次元のものによっても干渉可能な世界なのではないかというような欲望がフツフツと沸いてきます――それは、たとえば、三次元の存在であるはずの風景をパシャっと写真にとって、写真に傷をつけたら、現実の世界にも傷がつけられてもいいのではないか?――というような欲望です。
では、そういうことがができるのか、どうか?
なんと、『大神』の世界はそれを実現してしまっているわけです。これに比べたら実は、世界が筆のタッチで描画されていることなど、実はホンのオマケにすぎません。
また、今思えば、『大神』において実現されたこうした欲望は、かつて1999年にドリームキャストから発売された傑作『ジェットセットラジオ』においてお実は強力に欲望されていたものだったように思えます。
『ジェットセットラジオ』は、3Dの世界をマンガディメンション――今で言うトゥーンシューディング――というコミック調の方法で描画したもののハシリですが、あの作品も実はそういう欲望の(たぶん)名残だと思うのですが、三次元の世界にラクガキというのをどんどんやっていくわけですね。それっていうのは、三次元の世界を、三次元の世界としてそのまま成立させるのではなく、そこにペンキを投げかけて、ドロドロに塗りたくって、三次元の世界なのだけれどもそこを強引に二次元のツールによって文字通り「塗り替えてしまおう」というような試みとして最初はあったはずだろうと。ビルを全部黄色く塗りたくってしまったらそれは三次元の物体なんだけれども、極めてフラットな形のものとして再構成されるような可能性をもってしまう。そもそも、わざわざ三次元のものを二次元の感性をベースにして描画しよう、という試み自体が極めて倒錯的というか、ちょっと捻った欲望の成立の仕方なわけで、そういう倒錯的なやってしまう欲望によってはじめて『ドラゴンクエスト8』とかも作りえていたわけで…うーん、なんか話がまとまらなくなってきたので、寝ます。
*1:いままでも、ゲームがすすむにつれて「新聞」などのようなアイテムが配置されていくというようなことはあります。もちろん。