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2005年11月04日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ゲームの「定義」をめぐる立場
http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/comment?date=20051102#c
のhallyさんのコメントに対する応答です。
私もhallyさんやjuul氏の立場をまだまだ理解・整理できていないと思います*1ので、お互いの立場を手探りしていくように議論につきあっていただければ幸いです^^
1:立場について
まず、「定義できる/できない」というのではなく「定義することの意味をどこまで、どのように重視するか」というのがhallyさんと私の差異ではないでしょうか。私は定義そのものが無用だ、とは思っているわけではありません。
2:境界設定の問題について
そのような立場の違いが生じる理由は、hallyさんの言うように「境界領域」の問題にどのようなスタンスをとるのか、ということにかかってくるかと思います。この「境界領域」の問題を大きく
A.範囲設定の問題:どこまでが、どの程度「ゲーム」か?
B.中心設定の問題:典型的な「狭義のゲーム」は何か?
という二つに区分けして考えてみると、Juul氏の議論は、[A]範囲設定の問題に対しては「ゲーム」を構成する要素を分解しつつその組み合わされ方を立体的に提示してみせることによって見事に回答し、網羅的な定義になりえていると思います。単に網羅的であるだけの定義は「広義の定義」というだけに過ぎませんが、ボーダーライン・ケースの内側/外側というような段階的なイメージをしてみせることによって、ただの「広義の定義」というレベルを超えるものになっているところがJuul氏の定義の卓越した点かと思います。
ですが、[B]中心設定の問題についていえば、Juul氏の定義では、これを回避することができないのではないでしょうか。チェスや野球などの古典的ゲームをを典型的なゲームとして捉えた場合と、日本で人気のあるような物語メディアとしてのゲームのようなものを典型的なものとして捉えた場合とではそこから見えて光景へ違ってくるものになるはずです。
『クエイクIII』、『エバークエスト』、チェッカ、チェス、サッカー、テニス、『ハート』、ソリテア、ピンボールはゲームであり、『シムズ』や『シムシティ』といった無期限シミュレーションゲーム、ギャンブル、完全確率ゲームはボーダーライン・ケースであり、交通、戦争、ハイパーテキスト・フィクション、フリーフォームな遊び、薔薇の花輪づくりは非ゲームである。
という境界設定をJuul氏は行っていますが、これは彼の仕事を成立させるために必要な記述であると同時に、限界を設定するものでもあります。この[B]の問題をクリアーしようとした場合には、Juul氏のような精緻な議論によって境界例を探っていくような方法よりも、もっと別の一行ぐらいでできてしまうような「コンピュータを用いてディスプレイから映る映像との間にインタラクションを計れるもの」だとか「勝ち負けのあるもの」だとかといった緩い定義が価値を持つ場合もありうるだろうと考えます。(後述)
3.「よい定義」とは何か
そもそもこのような議論をする前に必要となる前提を確認させていただきたいと思います。「ゲームは定義できない!」というラディカルな立場をとらないことを前提*2とした上で「よい定義とは何か」という議論について、Juul氏は
1.「ゲーム」であると事前に想定したものに対してきっちりと網羅性を持つこと。
2.境界例の内側/外側がきちんと存在すること
3.境界例がなぜ境界例であるのか、という点について理解させてくれること
という三点を挙げて、定義に対する評価基準としています。
また、Salen&Zimmerman[2003]は、英語において"play"と"game"という言葉の区分があるということをきっかけにして、その両者の差異をうまく設定できるようなものが"game"のよい定義なのではないか、と言っています、
Juul氏の定義もZimmermanらの定義も自ら課した課題に対してはうまくクリアーするような定義を提出しえているとは思います。そして、そうした形での定義に対する評価基準を設定しておけば、定義を行った後に、単に定義をしただけではなくそれについての評価をしてみることも可能になるという意味で評価基準を設定しておくことは必要なすぐれた戦略です。
しかし私が問題としたいのは、Juul氏やZimmermanのように、「定義に対する評価基準」を何らかの方法で用意した場合に、それが普遍的な評価基準として機能するのかどうか、ということです。Juul氏の定義が良い定義といえるかどうか、という議論をしようとしたとき、それがJuul氏の前提とするような評価基準をもとにしていう限りでは、Juul氏の定義はすばらしい定義だと思います。
だけれども「<定義>というのはそもそも何のために必要だったのだろうか?」という問いが忘れられてしまうと、せっかくのJuul氏の議論が片手落ちになってしまう可能性を予感してしまいます。
「定義とは何のために必要なのか」
この問いに関してとりあえず答えるとすれば、厳密な議論をしたいとき――たとえば、論文を書くときや、多くの人の誤解を与えないようなものを書く必要にせまられたとき――に、「私が議論の対象としたいものはこういうものですよ」と、議論の対象を明示してみせるときに定義というのは必要とされるものだと考えています。*3
このような観点に立った上で改めてJuul氏の定義を評価するとすれば、Juul氏がゲームの対象として設定しているようなものを論じたい場合にJuul氏の定義は使える定義だと言えます。私も今後は、Juul氏が対象として設定したようなゲームを対象として論じたい場合には、「Juul[2003]を参照」という言い回しをぜひ毎回使わせていただきたいと思います。その意味でJuul氏の定義はとても「使える」定義です。
Juul氏の定義よりも他の定義がよい場合というのも考えられます。たとえば、桝山寛『テレビゲーム文化論』での「ゲームとは何か」という問いに対する答えは、<「相手をしてくれる」メディア>というものでした。桝山氏の議論の視野は、この後にゲームの議論をAIBOなどのコミュニケーションしてくれるゲーム以外のメディアへと接続されてゆくことを目的としています。「コミュニケーション・メディアとしてゲームを評価をする」というような発想に立つならば、<「相手をしてくれる」メディア>という定義をもちこんだほうが、議論の全体的な視野をよくするために、Juul氏の定義よりもよく機能するものだといえるのではないでしょうか。むしろ、ここでJuul氏のような定義を前提にしてしまうと、桝山氏の論旨が、不明瞭になってしまうだろうと思います。
4.諸芸術の定義は確立されてきたか?
この話もたぶん、私なんかより、よっぽど詳しい人がガリガリいると思うので微妙におそれつつ書きますが…
多くの芸術・芸能は境界領域の問題を抱えながらも定義を確立させてきた
これは私の認識とは違います。
確かに、多くの芸術・芸能は境界領域の問題を抱えていることを前提にしつつ定義をつくるという営為をやってきました。ですが、同時に現代芸術は芸術の定義を崩すような、「芸術の意味そのものを問う」というメタな水準での何かをやろうとする世界でもあります。よく知られたもので言えば、マルセル・デュシャンがそこらへんのトイレをもってきて展覧会に出品した『泉』のような作品をはじめとする、メタ・アート的な作品*4が当然のようにみなされている世界です。
分析美学の西村清和氏の言葉を引用すれば「こんにちのアートの、あまりで多様な錯綜したさまざまな現象のあいだに、これらをひとつの定義によって包括するような共通の特性や本質をさがしもとめようとすれば、ひとはたちまち困惑してしまうだろう」(『現代アートの哲学』1995)というのが、現代芸術の現状かと認識しています。
ただし、こういう話をしても仕方のない空間というのが一方ではあります。実際には美大ではデッサンの授業があったり、ハリウッドの映画学校ではシナリオ作成技術のイロハを教える授業があるでしょう。「よい美術作品であることとデッサンの技術とは一欠けらの関連もない」ということを断固として主張する人は、デッサンの授業にいかなる価値も認めないはずです。今現在、美大でデッサンの授業というものが行われている前提には<美術作品の水準>が、<デッサンの技術>と相関している/あるいは相関可能だ、という認識が少なからず存在しています。
このような授業が行われている現状を取り出すのならば、諸芸術が「定義を確立させてきた」とまで言わないまでも、諸芸術が自らの扱う範囲に一定の前提を置いていることは事実でしょう。そしてまた、一定の前提を共有することによって諸分野が発展してきたのも事実だと思いますし、そもそも何かしらの前提を共有していなければメタ・アート的な性質持つ作品そのものが成立しないということも指摘できます。
このような議論の上で、Juul氏やZimmermanらの議論がいかなる意味で必要なのか、ということを考えてみることもできると思います。Juul氏やZimmermanらの議論は、メタ・ゲーム的な作品までを問うという視野によって、議論をしようとしているのではないということはおそらく明らかです。Zimmermanは著書の中でも自分を「アカデミシャンではなく「実践」の側の人間だ」と言っていますし、彼らは自らが仕事をしていく前提を作る上で必要となる議論をしているのだろうと思います。つまり、美大でデッサンの授業をするまえに前提となる認識が必要であるように、市場に売り出していくためのゲームを製作していくための前提となる認識を丁寧につくりあげようとしているのが、Juul氏やZimmermanたちなのだろう、と。
繰り返しになりますが――Juul氏やZimmermanらがそのような立場にたっていることを、彼らの「限界」として見出すことは可能です。だが、それよりも特定の立場を明確にしていくことが可能な彼らの議論は、技術をより精緻に深めていくための強みとしても機能するものだろう、という観点にたつこともできます。彼らの議論が精緻であることのすばらしさは評価されてしかるべきだと考える私の立場は、結局はhallyさんをはじめとする多くの方と近いところにいるものだと思っています。
*1:が、以下の議論では勝手にJuul氏の立場を憶測した上で議論しますが…
*2:注釈「2」の部分でヴィトゲンシュタインに言及。ヴィトゲンシュタインは言語の使われ方が、社会的な営みの中で調整され、変容していくものだという観点から定義することの不可能性を論じた。興味のある人は「言語ゲーム + ヴィトゲンシュタイン」あたりでググると乙。あるいは「ヴィトゲンシュタイン+探求」「ヴィトゲンシュタイン+後期哲学」
*3:もちろん、別の回答もありうるでしょう
*4:ゲームの世界で言えば、美大出身の飯田和敏による『太陽のしっぽ』はまさにそのような文脈において提出されています。元美大生だったid:TRiCKFiSHは、『太陽のしっぽ』において「目的の不在」が自覚的に盛り込まれたゲームである論じ、メタ的にゲームを問うものとして高く評価しています。もちろん、このような評価は別の文脈においてはガリっと逆転して『超クソゲー』という大ヒットした本の中で『太陽のしっぽ』はクソゲー=面白くないゲームとして位置づけられています。