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2005年04月09日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「理想的な評価者」は可能か
に、しても、浜村通信の言うような理想的な評価者の存在は可能なのだろうか。
結論から言えば、そんなものありえないと思う。文芸批評にせよ、映画批評にせよ、漫画批評にせよ、教養のある批評家や、分析が面白い・鋭いと言われる批評家が存在したことはあっても、それは別に中立的な価値の上にファンの気持ちを代弁してたからではない。
一昔前のヨーロッパとかなら、貴族の教養階級が「俺は洗練された趣味を持った偉い批評家なのであって、おまえらバカな大衆どもは啓蒙されればいいのだ!」という感じで<良き趣味>の押し付けも可能だったかもしれない。しかし、ゲームで啓蒙といっても一体何するの?という問題もあるし、「洗練された趣味」は「ファンの気持ちを大切にすること」とは両立しないだろうし。
ただ、一応留保をつけておくと、「ファミ通」ではムリでもへヴィーゲーマー向けの「コンティニュー」などの雑誌であれば、理想的な評価者<まがい>の人物はギリギリ登場できなくもないかも。とは思う。
なぜならば読者層がある程度似たような人々であると思われるので、似たような前提を共有する批評家/読者の間であれば、解釈や価値の多元性とかにそこまで極端に配慮しなくとも、済んでしまう可能性はある*1。ただ、それは「コンティニュー」読者層というスモールワールドを抜け出してしまえば別に理想的な評価者でもなんでもない。
で、なんだか、いつのまにか話がやたらと長くなってしまったので結局ファミ通のクロスレビューをどうすればいいのか、という話に戻そう。
結論を言うと私としては、ファミ通のクロスレビューはなくしちゃっていいんじゃないか派、である。もう最近では自分も年に数回ぐらいしかクロスレビューを読んでいないし、バイヤーズガイド的なものはほとんどPlaystation mk2やネット上のものを参考にしている。浜村通信がいくら頑張ったところで構造的にムリなところにきてしまっているのではないか、と。
ちなみに浜村通信は尊敬しています。
*1:似ている、とは言っても、それなり以上に多様な嗜好を持つ読者層ではあるかもしれないがファミ通と比べれば読者層のわかりやすさは圧倒的だろう。