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2005年04月09日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■権威でないことの価値と、権威であることの責任
ただ、浜村の「ユーザーと同じ気持ちになること」発言は、単に浜村通信という一個人がやってしまった保身の愚かさというものとして片付けられるわけでもない。
おそらく、浜村が「同じ気持ち」発言をしている背景にはクロスレビューが「権威化」したことと密接な関係がある。先ほど引用した昨年の浜村通信の発言には、次のような文章が続いている。
それなりの教養とスキルを積み、好みにおいてつねに中立を保てるスタンスを貫けること…(略)…そんな評価者を育てるということは、生半可な訓練でできることではないのだ。しかし、ゲーム雑誌の本来の役割は、よいゲームを見つけ、ファンに忠実に届けること。評価者の育成は、じつはゲーム雑誌の命運を分けるほど重要な課題となるはずだ
クロスレビューの利点はもともとは、価値(嗜好)の多元性を前提と据えつつ、多様な立場からの意見を集積していくことだった。価値の多元性を押し出すがゆえに「バカ」なレビューもありえた。だが、それが「ファンと同じ気持ち」になり「教養」を身につけた「中立性」のある<理想的な評価者>*1になるのだ、などといいはじめた。つまり、権威あるレビューをやってやろうではないか、ということだ。
だが、言うまでもなく、小規模な統計調査であるクロスレビューは「権威あるレビュー」をするための装置ではない。むしろ、多元的な価値を持つ個々人のレビュアーが「権威でない」ことを前提としてはじめて利用可能になるものだった(だから、文章自体は短くてもよい)。みんなが同じ評価をしないとわかっているから面白いのであって、みんなが同じ方向性で評価を下してしまうのでは意味がない。だが、それが90年代前半にファミマガを抜き売り上げダントツナンバー1のゲーム誌となり、売り上げは97年まで年々拡大してゆき*2、ファミ通側の意図はどうあれ業界内での声が大きくなってしまい事実上の「権威化」がなされた。*3浜村の「同じ気持ち」発言は、そのときに沸き起こってきたファミ通外部からの「権威としての責任を」という声に応じた、ファミ通内部からの反応にすぎなかったのだろう。「おまえ権威なんだから責任もて!」と言われて「じゃあ、権威にふさわしいものになってやろうじゃないか」と。
そこでおそらくSoftwareImpressionのようなコーナーを充実させることも考えたのだろうが*4、実際に業界で大きな声を持ってしまったのはそんな人気のないコーナーではなく、人気のある「クロスレビュー」コーナーだったわけだ。そして、クロスレビューをどうするか、とさんざん悩んだ末が「同じ気持ち」発言なのだろう。*5権威として、大御所としての振る舞いとしては「同じ気持ち」発言に行かざるをえなかった感覚はわからないでもないのだ。
*1:昔の読者論であったような「理想的な読者」に近い議論をやっていると思います。
*2:「出版指標年報」より。ファミ通含む、ゲーム雑誌全体の売り上げは各年度の出版指標年報のデータを拾い上げてみると94年75億、95年103億、96年114億、97年134億、98年104億、99年96億、00年87億、01年67億、02年60億、と推移している
*3:また、こういったクロスレビューの「権威化」を支えたシステムの一つとして、四人の総合得点による「ゴールド」「シルバー」「プラチナ」殿堂入りをさせるという、四人の総合点の重視をさせてしまうような仕組みを押し進めてしまったという点も挙げられるだろう。四人、という少ないサンプル数の中で総合点や平均点の重視などをやったら当然のように一人一人の点数が重みを持ったものとして捉えられてしまうのも仕方がない。
*4:このコーナーの存在を知らない人も多いのでは。ファミ通の中にある長文のレビューコーナーです。
*5:だが、「同じ気持ち」発言までいくような悩みがどうこう以前に、結局ファミ通クロスレビュアーは、「ファミ通の編集者」という同質性に強く束縛されていて、権威を目指す以前に、サンプルとしては偏っていて使えないかも…という問題はけっこうあった。この問題もかなり重要なので、サンプルとしてあまりに偏っているとなると「各人が思ったこと書けばいいんでないの?」ということも気軽に言えない。