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2005年04月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ひさびさに

 北田暁大『意味への抗い』(せりか書房、2004年)を買ったまま読んでいなかったので、この前読んでみたら所収の「ポピュラー音楽にとって歌詞とは何か」がゲームの話にけっこうそのまんま転用可能*1だと思えたので、ためしに大枠の論理構造を「なるべく」似せてゲームの議論にうつしかえようとしてみた……のですが、途中でちょっとゆきづまって書きかけです。

 書きかけでもいいから載せないと、いつまでたっても更新しない性質なのでとりあえず以下のURLにアップしますた。

 → http://www.critiqueofgames.net/talk/009.html

 書きかけのまま放置する可能性も否めませんが…

*1http://d.hatena.ne.jp/noza/20031027さんが映画についてこの議論を簡単に転用してみせています

2005年04月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ゲーマーに推奨する映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』

映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ

 ヤバイ。かなりよかった。一般に評判のいい「オトナ帝国」よかずっと面白かった。

 安定感のあるシナリオ、こってりとまとめてあるカメラアングル。そして、最後の戦闘シーンがとてもすばらしくて、良質な3Dアクションゲームをやっているような興奮がありますた。

 CinemaScapeでのレビューを見ると、「西部劇」という道具立てとの対比で萎えまくっている人が多いので、名誉挽回のために書きますが、これを楽しみたいんだったらそんな映画オタ的な視点よか、ゲームですよ。断然ゲーム。『FFタクティクスアドバンス』、『侍』、それとあと『パンツァードラグーン』でも『Rez』でもいいから何か3Dアクションの傑作を2,3本やってから見てみたら本作は多分ぜんぜん印象が変わるでしょう。映像的な水準で言えば、3Dゲーム。世界観は『侍』の西部劇版。シナリオ的な部分で言えば『FFTA(FFタクティクス・アドバンス)』。そういう感じです。

 『FFTA』と同様シナリオについて、すごくベタに見てしまう人は<映画の世界の中でまどろむのを拒否する>という行為にテーマ設定を見出すのかもしれませんが、それよりも本作がすばらしいのはまどろむことを拒否することをごく当然の良識(#であるがゆえに退屈な良識)として保持しつつも、そこでまどろむことへの欲望を隠しえないことをもまた堂々と認めてしまう。そのアンビバレンツな心性そのものが提示されているところにこそ本作の到達が……というか、まあ安心して見ていられるものを感じます。

 あと、同じ日々が繰り返されている風景をCinemaScapeのほうで「恐怖感の漂う」と書いている人がいましたが、それもゲームの世界ではものすごくオーソドックスな恐怖ですよね。『侍』や『FFタクティクスアドバンス』『ガンパレードマーチ』などをやってみればわかりますが、ループしまくる世界の中にドコーンと放り込まれて、終焉はプレイヤーが勝手にどこかで決心して決めるしかない。まどろむことを自ら拒否しない限り半永久的にまどろむことができる<時間の止まった世界>。近年のゲームファンにとってはもはや見慣れた光景といってもいい。

2005年04月18日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

メタルギアソリッド3 

METAL GEAR SOLID 3 SNAKE EATER 予約特典CD付き

 クリアー。

 それにしても、今回は、1作目、2作目と比べてもだいぶ大幅な変更が加えられていてちょっと違うゲームをやっているような感じ。特に、衛星からのレーダーによって敵位置を把握するという、あの若干リアリティのないぐらい反則的なシステム(笑)がなくなったことにより、敵に見つかる確率が数段上昇。クリアーまでにだいぶ無駄な殺生を重ねてしまった。

 服を着替えまくってステルス性を上昇させて隠れる!という新システムもそれなりに活用していたのだけれども、最後のほうになればなるほど、隠れのが難しくなり道をふさぐ敵兵はほとんど狙撃銃で排除しながら進めていくというありさまで、えらい殺伐としたムードに。ステルス性の潜入ミッションというよりも、ほぼ完全に一人で敵兵全員を殺戮していくダーティーなプレイをしてしまった。いかんな、と。

 GTAIIIのような殺伐とした内容のものはあまし好みではないので、こういうプレイをしてしまったことは我ながらちょっと残念。

 ただ、その点は別にして全体としてみれば相変わらず最初から最後まで安心してプレイできるし、こまごまとした新システムもよく考えられていてプチ感動がいろいろとございました。

 

 あと、ゲームそのものとは関係ないですが、MGS3の公式サイトに掲載されているSECRET THEATERのムービーの出来が遊び心でやるにしては異常に気合が入りまくっていて仰天。

 こういうところにまでこれだけエネルギーがあふれているスタッフというのは素直にすごいですね。MGS3をクリアーされた方はぜひ。一見の価値あり。

2005年04月17日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

なめ消し塩

各所で評判のd_of_iさんの「なめけし塩」。

フリーゲームですが確かに面白いです。

(ブラウザのJava aplletをonにする必要あり)

2005年04月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

デーヴ グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

戦争における「人殺し」の心理学

 先日 tomoyoさんことid:tdaidoujiさんから進めていただいた、『戦争における「人殺し」の心理学』を読み中。

 以下、ざっと内容を紹介。

 著者自身がアメリカ軍人だけあって、部分的にアメリカ軍人的な戦争観が下敷きになっているようなところも面白いが、戦争における<殺人>行為の心理をいかに扱うか、という問題設定にもとづいた本で充実した内容。

 まず、著者は、古来の戦争から第二次大戦におけるまでほとんどの戦争において「発砲しない兵士」が大勢(約8割以上!)を占めていたということを数々の資料から明らかにし、通常戦闘では<発砲を拒否する>という行為がきわめてノーマルなものだということを論じる。

 だが、それが二次大戦後、軍の教練プログラムの修正努力によって20%に満たなかった発砲率が朝鮮戦争では55%、ベトナム戦争では90%以上の発砲率を実現するに至ったという事実も提示し、このような「発砲率の上昇」がいかなるテクノロジーによって実現されたのか、ということが本書の主題となっている。

 そして、ベトナムにおける発砲率の飛躍的な上昇をもたらした訓練が持つ主な特徴として著者は(1)脱感作(2)条件付け(3)否認防衛機制 の3点を挙げると同時に、そういった強引な訓練法による「副作用」としての兵士へのPTSDなどの影響も指摘する。

 と、ここまでが本論。*1

 その後の試論的な補稿のようなものとして「アメリカでの殺人」の60年代以降の急激な増加への考察があり、その中でテレビゲームの話は出てきている。

 その中で著者は「暴力を可能にするプロセス」として、1.古典的条件付け、2.オペラント条件付け 3.社会的学習における代理モデルの観察・模倣 の三つが作用していると言い 1.の古典的条件付けをテレビや映画館の映像が担い、2.のオペラント条件付けにはテレビゲームが役割を果たし 3.の社会的学習として『13日の金曜日』のジェイソンなどがヒーローとして機能している という議論をしている。

 特にゲームに関してはオペラント条件付けが達成されているのにも関わらず軍隊での「上官」にあたるような行動を束縛する「倫理」がセットになってないことがまずい、とのこと。


 この本は「戦争での殺人」を考慮した本論は非常にすばらしい内容なのだが、それを応用しようと試みた「アメリカでの殺人」については、メディアの影響論などについての先行研究の引用や国際比較といった観点も乏しく、指摘にはもっともな部分もあるものの、誰もがうなづけるほどに練りこまれてはいないといった感を受けるのが残念。(これは、ゲームが悪者にされたから言っているわけではなく、読んでもらえればわかるがホントに最後の40ページぐらいで付け加えるようにして唐突に話題にでてきている)

 ただ、著者の言うことがどの程度まで妥当なのか、もっときちんと検討してもいいと思えるような内容ではあるだろう。

*1:本当はもっと細かくいい話がたくさんあるのですが、ぜんぶはしょりました。

2005年04月15日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

『スパイ・キッズ3-D ゲームオーバー』

スパイキッズ 3-D : ゲームオーバー 飛び出す ! DTSスペシャルエディション ( 初回限定 3D & 2D 2枚組 )

 wowowで撮っておいたのを見ました。

 ストーリーは、「トイメーカー」という悪人がヴァーチャル・ゲーム(なんかMMOのようなゲーム)『ゲームオーバー』の中で電子生命体みたいな状態になりつつも全世界征服を企んでいるので、それを阻止するために子供のスパイがヴァーチャル・ゲームの中に入り込んで奮闘する…という内容。

 ストーリーはさておき、映像的にはスノーボーダーゲームやら格闘ゲームやらの雰囲気をけっこう上手く再現している部分もありなかなか面白かったです。あと、『Halo』や『メトロイド』が解説不要の名作扱いをされていたりするような部分もあり、アメリカのゲーム事情が垣間見えるようなところもあります。

 とは言っても全体的にはどうしようもなくB級映画なので、破綻してるプロットとかに耐えられない人とかには全くおすすめできないですが…

 まあ、これを見るぐらいなら『空談師』やら『Hunter×Hunter』のグリードアイランド編の方がMMO的な題材の物語化としては圧倒的に面白いかもしれません。

2005年04月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ファイアーエムブレム訴訟

 今月にファイアーエムブレムの新作が出て、来月にティアリングサーガの新作が出るということで、ファイアーエムブレムファンは財布の中身が気になる昨今。ファイアーエムブレム訴訟が任天堂一部勝訴で高裁判決確定(毎日新聞)したそうです。個人的にはどちらが勝つか、負けるかということ自体にはそれほど興味がなかったりしますが、

 毎日新聞の記事によれば

任天堂は、ゲームソフト会社「インテリジェントシステムズ」が開発したゲームソフト「ファイアーエムブレム」にキャラクターや内容が酷似しているとして、ソフトの製造・販売の停止と約2億6000万円の支払いを求め、01年7月東京地裁に提訴した。

02年の東京地裁判決では、任天堂側の請求を棄却。04年11月の東京高裁判決では、エンターブレイン側の当初のゲーム名が「エムブレムサーガ」だったことを重視、「需要者の購買の意思決定に大きな影響を与えた」として不正競争防止法違反に当たると認定。任天堂側の主張を一部認め、約7600万円の支払いを命じたが、ソフトの著作権違反は認めなかった。

 とのことで、著作権じゃなくて、不当競争防止法でいっちゃうのかー、と。それがちょっと残念。

 不当競争防止法で判決が下ると、判決が早いのは実務的な問題からいけばいいことなのだとは思いますが、こういう形だと判決文とかあんまり興味沸かないんですよね(別に私の興味を引く必要なんてどこにもないけれども。)

 「ときめきメモリアル メモリーカード事件」なんかだと判決文がクソ面白いんですよね。たとえば

 …プレイヤーが到達したパラメータの数値いかんにより女生徒から愛の告白を受けることができるか否かが決定される。本件ゲームソフトにおいては,初期設定の主人公の能力値からスタートし,あこがれの女生徒から愛の告白を受けることを目標として主人公自身の能力を向上させていくことが中核となるストーリーであり,その過程で主人公の能力値の達成度等に応じて他の女生徒との出会いがあるという設定となっており,そのストーリーは,一定の条件下に一定の範囲内で展開されるものである。

(荒竹純一Netlaw 「ときめきメモリアル事件」判決全文より)

 とか、

 本件メモリーカードのブロック1ないし11のデータを使用すると,入学直後の時点でストレス以外の表パラメータのほとんどが極めて高い数値となり,これがあこがれの女生徒に合った達成度でプレイできるような数値である結果,入学当初から本来は登場し得ない女生徒が登場する。

 また,本件メモリーカードのブロック12又は13のデータを使用すると,ゲームスタート時点が卒業間近の時点に飛び,その時点でストレス以外のすべての表パラメータの数値が本来ならばあり得ない高数値に置き換えられ,かつ,あこがれの女生徒から愛の告白を受けるのに必要な隠しパラメータの数値を充たすようにデータが収められており,必ずあこがれの女生徒から愛の告白を受けることができるようになっている。

(荒竹純一Netlaw 「ときめきメモリアル事件」判決全文より)

 とか。

 「あこがれの女生徒」という表現は、裁判官のおっさんが色々悩んだ末にその言葉に着地したのであろうという感じがそそります。ぜひ、判決文読み上げの現場に居あわせたい。

2005年04月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ゲームジャンルの出自

Cafe in Junkyardさんより

RPGとかSLGなどといったゲームジャンルってのはいつごろから作られ出したのだろう。…いつごろから誰がどういうふうに使い始めた名前かわからない

 日本でそういった呼称が使われはじめた時期についてだけなら、けっこう調べました。簡単に経緯を書いておくと、

 まず、SLGやRPGなどのジャンルは海外のアナログゲーム → 海外のコンピューターゲーム → 日本のコンピューターゲーム という形で二段階の輸入を経ています*1。日本に「RPG」「シミュレーション」「アドベンチャー」という言葉が輸入されてからゲーム雑誌*2等で頻繁に使われるようになるのは1983年の後半頃です。この頃に一挙にゲームジャンルを指す言葉がマイコンゲーム雑誌のレベルでは一般化しています。それ以前には海外のゲームジャンル区分がないため、今のアクションゲームのことを「反射神経ゲーム」と呼んだり*3、パズルゲームやシミュレーションゲームを「知的ゲーム」といった言葉で頑張って呼んでいました。

 そして、1983年に一般化したジャンル区分はマイコン雑誌の「ASCII」から分離独立した「ログイン」→「ログイン」から独立した「ファミコン通信」などといった形で80年代中盤頃に乱立して創刊する家庭用ゲーム雑誌の世界にも受け継がれていきます。

 当然、その頃はジャンル区分の親子関係も今のような形とは少し違っています。当時、文学部四年生だった浜村弘一が書いている『パソコンゲームランキングブック』(旺文社、1983年10月)などでは、「RPG」は「アドベンチャー」のサブジャンルとして区分されたりしています。

 ジャンルを示す言語が輸入された後も、何がRPGで、何がシミュレーションなのか、といった意味内容と意味表現の一致が現在のような形になるまでにはさらに数年が必要で、今現在のジャンル区分の水準からしてほぼ(95%ぐらい?)しっくりくるぐらいの状況*4がやってくるにはさらに後。だいたい1987年~1989年ごろぐらいでしょうか。そのころには意味内容と意味表現が現在の水準とほぼ同じといっていい状況になっています。

 その後に出てくる細かい区分が普及してきた経緯はケースバイケースに出てきているので一概には言えませんが、単に言葉が普及した後も、いろいろな意味の読み替えが行われたりしてごちゃごちゃとしてますね。

 それと、細かいジャンルを示す言葉を誰がどういう経緯でいい出したか調べるのは難しいです。普及した時期だけならデータを追っていけば比較的すぐにわかりますが、誰が言い出したか、となるとゲームに関する雑誌資料、広告、番組等々はアホみたいな量がある割に、国会図書館に行っても保存されているものに限りがありますからね(特に創刊間際のゲーム雑誌なんかは保存されてません)。それに最初にその言葉を作られたきっかけと、その言葉が普及するきっかけはまったく別物だったりするので厳密な意味での言葉の「起源」は限界があったりもします。

 あと、海外の事情はさっぱりわからんです。多分、id:hallyさんとかがすごい詳しそうです。

ゲームのパッケージにジャンル名なんて記載されだしたのはいつからだ?

 パッケージは調べたことないですが、先にも述べたとおり1983年の後半にはいきなりジャンル名がたくさん使われはじめているので、その言葉の輸入元であった海外のゲーム市場だったら、もしかすると80年代初期ですでに「パッケージにジャンル名を記載する」というものがあったのかもしれません。

*1:アドベンチャー、アクションは元ネタがいまひとつわかりませんが。

*2:当時は主にマイコンゲームを扱った「I/O」「ASCII」「マイコン」などの雑誌

*3:また、80年代初期は、アクション、シューティングゲームなどのことを「アーケード」というジャンル名でくくっていたりすることがありました。いうまでもなく、これはゲームセンターという場所を示す言葉がジャンルを示す言葉になってるんですね。なお、アーケードという言葉の起源についてはhallyさんが詳細にまとめています → http://d.hatena.ne.jp/hally/20040710#p1

*4:家庭用ゲームの一般ゲーマーの認知水準まで含めた意味で。

総プレイ時間

NGMさんより

 ヘビーゲーマーとまではいかないが趣味の一つとしてゲームを楽しんでいるという人は、「総プレイ時間」表示のことを(悪い意味で)気にする傾向がある。『真・三国無双』を○○○時間もやっちゃってさー、みたいな話は、自虐的な語り口でされる話題だ。6800円でそんだけ長い時間楽しめたんだから安上がりじゃないか、とかいうフォローを入れても、彼/彼女らにとってその時間は「無駄に過ごしてしまった時間」という思いが拭いがたくあるようだ。

 我々ヘビーゲーマーは……あえてこう自己規定するけど……そのような罪悪感からは自由だ! 高らかに宣言したい! そんなちっぽけな自意識はとうに捨て去ったのだ、と!……とか言いたいところだが、私の「総プレイ時間」表示フェチも、結局のところこの罪悪感の裏返しのような気がしないでもない。

「『ファミ通ゲーム白書2005』が5月12日発刊」

ここによれば28000円だそうです。CESAゲーム白書と違って個人で買うのはつらい値段っすね。

2005年04月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

独自の統計/比較調査

 過去に作ったものや、はてなで取ったアンケートやらをいくつかまとめて手を加えて公開しときました。

http://www.critiqueofgames.net/data/statistics/index.html

 まえにid:ConquestArrowさんがフォローしてくれた、「最近のゲームはつまらなくなったな」と感じたのはいつごろのことですか」という質問とかも、世代ごとの比較も加えてのっけときました。

 今回、公開したデータの中では、ゲーム関連書籍の集計とかも面白いんですが、個人的にオススメするのは死の表現をまとめたリストです。

DQ1

王様「おお ×××!しんでしまうとはなにごとだ!」

DQ2

王様「おお ×××!しんでしまうとはなさけない…。」

DQ3

王様「おお ×××!しんでしまうとはふがいない!」(アリアハン)※セーブ地点によって違いあり

 とかいう比較ができるわけで、あなたの人生に役立つこと間違いなし。

2005年04月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

「からっぽの権威」化装置:ファミ通クロスレビュー

 昨日の記事について松谷さんのコメントは、自分がフォローしなかった部分をざらっと書いてくれていて、とてもいい指摘でした。感謝。議論としてもほぼ同意です。

 ただ一応、何点か。

『パラッパ』登場時には、従来のゲーム好きは「単純」って評価しかできなくなって、たしか殿堂入りさせなかったんだよね。

 これについて、一応当時のファミ通確認しますた。

 サワディ・ノダ「8」、ローリング内沢「9」、イザベラ永野「9」、忍者増田「5」で、合計得点は、「31」で確かに殿堂入りしてませんね。今だったらシルバー殿堂入りしてるところなんですが、この頃って「32点以上を殿堂入りとする」というシステム*1が初めて採用されてから三週間後*2だったので、惜しくも後一点足らず殿堂入りならず、という形のようです。

 5点をつけた忍者増田のコメントは確かに松谷さんの記憶通りで、

…斬新な内容だが、ラップのリズムにのれない御仁には、ただのボタン押しゲームということになっちゃうだろうし。拙者も残念ながらそっちのクチ。…

 という記述が見えます。

 ただ、忍者増田以外は、8点、9点、9点ですから「ピタリとはまると超楽しい」「すごく単純。なのに、夢中になってしまう」「スゲー楽しい」などなどみんな絶賛してますね。

 個別の話で議論してても微妙にマヌケかもしれませんが(すみませんw)、この程度なら「小規模な統計調査としてのクロスレビュー」はけっこううまく機能していた感じがします。この路線ならぜんぜん悪くないですね。むしろ歓迎したい。これを見る限り、この当時はまだ言うほど「古いレビュー基準と実態が齟齬」は起こってる感じじゃない*3。斬新なものに4人中の1人がついていけないというのはしっくり来ます。

 昨日のエントリの注でちょろっと書きましたが、殿堂入りシステムっていうのが「権威化」を支えてしまったというのもあるんですよね。「総合点」で問われるから、誰か一人が低い点数を付けてしまうと「殿堂入り」としてカウントしなくなってしまう。中央値ではかればパラッパは8.5だけれども、総合点÷4 をした平均点だと7.75点になっちゃう。こういう形で成立した「権威としてのクロスレビュー」としては、一人が好き勝手につけるような「小規模な統計調査としてのクロスレビュー」ができなくなっちゃう。「新しい価値」に全員のレビュアーがついていくように強制されてしまう。

 殿堂入りシステムこそは「権威化」を加速したものですけれども、まさにこれが「からっぽの権威」を作り出すための装置に他ならないのではないかと。


[関連エントリ→http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050807#p1 ]

*1:32点ではじめて殿堂入りする、というシステムであるために、90年代末には殿堂入りさせる/させないを意識したがゆえの「31点止め」があるのかどうか、ということで業界関係者の間では気にされていたらしいです。永倉にゅうさんの「LOVE GAMES」による検証によれば、合計点数の分布はだいたい正規分布を描いており、特に作為的に31点が増加しているのは認められないとのことですが、32点・31点のソフトの売り上げTOP5を並べてみると、31点のソフトの方が倍近く売れているということが明らかであるということが提示されています。この「31点」「32点」というのが一般ユーザーとファミ通編集者サイドとの受け止め方の違いを示す分水嶺なのかもしれませんね。雰囲気的に。

*2:確認した限り、96年11月22日号(No414)でSS『デジタルピンボール ネクロノミコン』が9.8.8.7で殿堂入りをしたのが、殿堂入りシステムの最初みたいです。これって、すっごいこっそりとはじまってるんですね実は。

*3:とは言っても、その10ヶ月前に『ポケットモンスター』に8.7.7.7とか付けてたりもしますが。松谷さん的な議論をする上ではポケモンに対するこの評価のほうがあからさまでわかりやすいですね。「ソフトウェア的な見地からの使い勝手=「仕様」が悪いもの、を指していると思うんですね。けっしてゲームデザインやコンセプトの評価を中心としていたものではないんじゃない」という議論がそのとおりだなあ、と思うのはまさにこれですね。ポケモンなんて「学校」という遊技場で交換ができなかったら「8.7.7.7」ぐらいの「仕様」のソフトだろ、という。この評価の足並みの揃いっぷりも見事な感じがします。逆にパラッパぐらいあからさまに新しそうなものだと、「これは評価しなくては…!」みたいな意識がはたらきやすいとかっていうのもあるのかもしれません。

2005年04月09日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

「真実の読み解き」評論

 友人が『攻殻機動隊S.A.C 2』にはまり、エヴァ本ブームのときの「エヴァの真実」のようなタイプの「読み解き」を行うような評論を読んでいる。で、それを「お前も読め」と進められたのだけれども、そういう評論には微塵も食指が動かない。

 別にそういう評論が嫌いだとか、ダメだというわけではないが、積極的に読みたいとは全く思わない。興味が無い。そもそもそういった評論というのは作品自体に対して、「読み解き」を行った末に立ち現れるであろう<深遠さ>のようなものを期待する態度が備わっていなければ読むことも書くことも無理だ。私が押井守の信者で、『攻殻機動隊S.A.C 2』を聖書だと思えるような人間ならばそこにコミットしていくことも可能だったのかもしれないが。

 ……

 などということを先月考えていたのだけれども、件の友人は別に押井信者というほどの信者でもなく、何の作品に対してでも「読み解き」的な評論を読めてしまうらしい。たとえば、『2001年宇宙の旅』の評論とかもそういうものが多いが、あれでも読めるのだろう。私にはそういったものの読者になりうるということが不思議。

 そういった鑑賞方法そのものが体に染み付いてしまっているとかってことなのか。私はそこに積極的な価値をほとんど見出せないのだけれども、積極的な価値を見出すためにはどういう思考回路を経由すればいいんだろうか。

「思春期病」患者への防衛意識とファミ通クロスレビュー

 話は変わってファミ通クロスレビューの話。と、ファンへの防衛意識。

http://gmk.9bit.org/note05q2/050406-shisyunki.htm

彼らの存在を意識すると、好きだからこそ苦言を呈する行為さえハイリスクなものに思えてくる。ゲーム系ブログ運営者はもちろん、商業誌を作る人々でさえこの問題には神経質だ。現に今のファミ通クロスレビューでは、4人が4人とも同じようなことを書き、無難な点数しか付けなくなっている。これがスポンサーを恐れるからではなく、思春期病患者を恐れるからだと言えるのは、近年『斑鳩』のようなゲームに不自然な高得点が付いていることからもわかるだろう。中小メーカーとの関係が悪化したところで出版社にたいした影響はないが、それでも「人を選ぶゲームだ」なんて本当のことを書いて低い点を付けた日には、思春期病患者から脅迫状を送り付けられることだろう(これはネタではなく実際よくある)。こういう患者が増えると世の中が息苦しくなる。

 文句を付けてくる人を「病」として見なそうとは思わないが、状況をうまいこと言いあてている。

 実際、90年代中盤ぐらいを境にファミ通クロスレビューのそういった防衛意識は急速に高まっていった感はある。93,94年ぐらいまでは、スクウェアの新作に対しても6点、7点をつけたりして読者から恨まれていたりした時期があった。実例を挙げると「ファミコン通信」93年12月17日号のクロスレビューでは『ロマンシング・サ・ガ2』の評点が8・5・7・6*1と大変に低い点数がつけられている。この点数が妥当と思えるかどうかということはさておくとして、90年代中盤においてファミ通クロスレビューは確実にその性格を変えていっている。少なくとも、今のファミ通がスクウェアエニックスの一押しの新作にこの点数を付けるとは到底考えにくい。*2

 ファミ通クロスレビューがそのように性格を変容させると同時に、90年代後半には「ファミ通クロスレビュー」が権威的なものとして捉えられる文脈が確実に成立していて、同誌に連載の鈴木みそ「大人のしくみ」の中で、飯野賢治*3と浜村通信がクロスレビューについて討論を交わすというような場面もあった。そして、90年代後半以降、クロスレビューに触れて繰り返し浜村通信が言うようになったことの一つとして「実際のゲームプレイヤーの気持ちになることが重要だよね」(以下、「同じ気持ち」発言と略す)というものがある。実際の発言から引用すると

最近とくに、ターゲットの狭いソフトが増えてきている。気をつけているのは、ターゲッティングされたユーザーと同じ気持ちになること。製作者も納得してプレイしているのにレビュアーだけが文句をつけているなんてね。レビューの意味がないもんねぇ(2001/9/21ファミ通増刊「クロスレビュースペシャル」)

という発言がわかりやすいが、昨年(2004年)4月のには同様の主張を繰り返した後「もちろんいまのファミ通の評価は、その考えを前提において採点されている」*4とまで言っている。苦情を言ってくるファン層への防衛意識を換言すれば、なるほど、このような言い回しになるのだろう。*5

*1:評者はそれぞれ浜村通信、ローリング内沢、渡辺美紀、ジョルジョ中治。完全に余談だが、この評価は93年当時、私もびっくりしたし、開発者の河津さんなどはだいぶ根に持っていたようで、つい数年前の「コンティニュー」誌のインタビューでこの評価に対するグチと思われるような発言をしていた。

*2:その傍証として、現場の証言としては大沢良貴『ゲーム雑誌のカラクリ2』などがある。たとえばP52~「アスキーにいた時代末期でしたが、当時スクウェアの話題作『ファイナルファンタジーVIII』の発売が間近に迫っておりました」/ この時機、さすがに注目作だけあって『ファミ通』に届いたサンプルに対する情報がけっこう流れていたものですが、このときはなかなか顕著なものがありました。別に『ファミ通』編集部に近いというわけでもないのに、「あっちゃー」という印象が流れまくっているのですから、サンプルをプレーした人の感想は押して知るべし。というより、実際に聞いてみると本当に評判が悪かったりするのですから始末に負えません。/しかし、その後の『ファミ通』では『ファイナルファンタジーVIII』が一押しのまま、300万本売れてくれて、めでたしめでたしというオチになりました。/ こういった現象に対して「広告もらってるからだろ?」「接待されたからだろ?」といったスキャンダラスな言葉で片付けるのは簡単でしょう。しかし、広告や接待で記事の扱いが変わるのであれば、かつて財閥系の大資本がゲーム業界に参入したときに失敗するわけはないし~~中略~~ / そもそも、どのゲーム雑誌もメーカーもそうですが、暗黙の了解のうちで業界を牽引していくタイトルやメーカーというものを決めてしまっています。はっきり言ってしまえば、ゲーム雑誌などはゲームの出来などは別として、その発売時期にあわせて特集を組んでしまっているので、実際にサンプルを遊んだ人々の正直な感想が入る余地などまったくありはしないのです。」

*3:はたまた完全に余談だが、飯野賢治が最も尊敬されていた「1997年」という年はゲーム雑誌が一番売れていた時期。スクウェアが一番強かった時期とも重なっている。

*4:ファミ通2004.4.16日、800号、P277

*5:「防衛意識の言い換えでしかない」というのはちょっと言いすぎかもしれないが。

システム的に「良い」レビュアーの誕生

 少し話は変わるが、この一年ほどamazonでレビュアーをやってみてわかったことがある。ご存知のように、amazonの読者レビューには一つ一つのレビューについて、匿名の第三者がそのレビューが参考になったかどうかについて「はい」「いいえ」で投票することができる。そして、多くの人から「参考になるレビュー」として認められるレビューを書いていくと優秀なレビュアーとしてランキングされる。優秀なレビュアーとしてランキングされることは、amazonでレビューを書く人々の動機のひとつになっている。

 優秀なレビュアーとしてランキングに載るためには「参考になるレビュー」をどんどん書いていけばいいわけだが、それは裏返して言えば、読者から「不評を買わないレビュー」をしていくことに他ならない。このときにレビュアーとして効率的に評価されていくためには、「ファンの多い作品のファンに媚びを売る」のが一番いい戦略である。たとえば、一般的に人気の高い『One Piece』関連の書籍であれば、絶対に褒めたほうが「良いレビュアー」として評価されやすい。なぜならばそのレビューを閲覧して、レビューに対して「良い/悪い」を投票する人のほとんどが、One Pieceのファンである確立が高いからだ。間違ってもOne Pieceについて貶したり、高踏的に捉えられるようなレビューを書いてはいけない。レビューを閲覧する人々の中の90%ぐらいを(たぶん)占めるであろうOne Pieceのファン達からすれば、そのレビューは十中八九「参考にならないレビュー」である。One Pieceのファン達のほとんどはOne Pieceについての批判的な感想は求めていない*1。ファンの多いものなのだから、とにかく褒めておけば間違いない。

 逆に「アンチの多い作品」は「これはクソ」と言っておけばよい。そうすれば、「これはクソ」と思っている多くの人が「参考になるレビュー」だと認めてくれるはずである。ネットに常駐する人々の90%以上に批判しようとされるようなタイプの本を想定してみよう。仮に、『インターネットという麻薬~非行の温床としてパソコン文化~』とかいうタイトルの本があったとしてみる。タイトルからしていかにもダメっぽいが、意外にいい内容の本だったとしてもこの本について「参考になるレビュー」を書くために中身を読む必要はまったくない。手にとる必要もない。ネット上のほぼ全ての人々を敵にまわすようなタイトルである。この本については「どうしようもない本。誤解の嵐。」と一行書けば、それだけで十分である。ネット上のほとんどの人がその意見に賛同してくれる。アンチの多そうな本だと思ったら、貶しておけば大丈夫である。

 身も蓋もないことを言うようだが、周りの評価さえ気にすればよい。つまり「ファン」と「アンチ」の比率さえ気にすれば、自分で頭を使わなくてもいいのだ。「ファンの多い作品」をチョイスして、「素晴らしい」という評価を繰り返していくだけでも、おそらく「良いレビュアー」としてシステム上は集計されることになるだろう。実際にレビュアーとして「不評」であるという証拠はないわけだ。amazon的に「良いレビュアー」を目指すゲームとは、レビュアーが誰にも不評を買わないように保身に走るのことが一番効率的なゲームなのである。

 だが、少し冷静になって考えてみると、これは決して歓迎できる事態ではない。そのレビュアーは個々の商品レビューの参考としては、そのように「良いレビュアー」としていつの間にか機能しはじめるが、少し長期的なスパンでみるとそのようなレビュアーによって侵食されたレビューの集積は「沈黙の螺旋」*2ががっちり実現されただけだ。「ファンの多い本に批判を書いてはいけない」というゲームの勝利法に気づいたレビュアーたちばかりで、構成されたレビューシステムとは、「ファン」でない他者が沈黙しただけの場所になってしまう。

 そのような評価の集合を目の前にして、事情を知らなければ「これが世間の声か!」と勘違いすることも可能だが、事情をなんとなくわかってきた読者にとってみればそんなレビューは「高く評価するファンがいるかどうか」という情報以上の価値はない。レビューを一番熱心に読むファン層(あるいはアンチ層)から多少の賞賛を得られたとしても、「ちょっと興味を持った人」ぐらいの層からは単純に参考にならない。『One Piece』や『Final Fantasy』のファンが多い、ということがわかったとして、ファンでもなんでもない人にとっては何もうれしくない。

 今のファミ通はそのような「参考にならない」レビュー街道をまっしぐらである。浜村の言う「ユーザーと同じ気持ちになる」ということは、ユーザーでない人とは同じ気持ちにはなっていないということだ。

(あるいは、個別の商品レビューの場合でも、100%ファンしか買わないものならまだしも、40%のファンと60%のファンでない人が接する商品のレビューにおいては、そういう「ファンの声を重視する」戦略は完全に破綻するという問題もある。)

*1:言うまでもないが、One Pieceは例に出しただけである。別に、ハリーポッターでも、Narutoでもなんだっていい。ここではOne Piece自体の是非を言っているわけではない。

*2:というには大袈裟かもしれないが。「沈黙の螺旋」についてはhttp://www.socius.jp/info/clinical04.htmlを参照。一言でいうと、一つの意見で場が支配されているような雰囲気に圧されて将棋倒し式にみんな沈黙してしまうこと。

権威でないことの価値と、権威であることの責任

 ただ、浜村の「ユーザーと同じ気持ちになること」発言は、単に浜村通信という一個人がやってしまった保身の愚かさというものとして片付けられるわけでもない。

 おそらく、浜村が「同じ気持ち」発言をしている背景にはクロスレビューが「権威化」したことと密接な関係がある。先ほど引用した昨年の浜村通信の発言には、次のような文章が続いている。

それなりの教養とスキルを積み、好みにおいてつねに中立を保てるスタンスを貫けること…(略)…そんな評価者を育てるということは、生半可な訓練でできることではないのだ。しかし、ゲーム雑誌の本来の役割は、よいゲームを見つけ、ファンに忠実に届けること。評価者の育成は、じつはゲーム雑誌の命運を分けるほど重要な課題となるはずだ

 クロスレビューの利点はもともとは、価値(嗜好)の多元性を前提と据えつつ、多様な立場からの意見を集積していくことだった。価値の多元性を押し出すがゆえに「バカ」なレビューもありえた。だが、それが「ファンと同じ気持ち」になり「教養」を身につけた「中立性」のある<理想的な評価者>*1になるのだ、などといいはじめた。つまり、権威あるレビューをやってやろうではないか、ということだ。

 だが、言うまでもなく、小規模な統計調査であるクロスレビューは「権威あるレビュー」をするための装置ではない。むしろ、多元的な価値を持つ個々人のレビュアーが「権威でない」ことを前提としてはじめて利用可能になるものだった(だから、文章自体は短くてもよい)。みんなが同じ評価をしないとわかっているから面白いのであって、みんなが同じ方向性で評価を下してしまうのでは意味がない。だが、それが90年代前半にファミマガを抜き売り上げダントツナンバー1のゲーム誌となり、売り上げは97年まで年々拡大してゆき*2ファミ通側の意図はどうあれ業界内での声が大きくなってしまい事実上の「権威化」がなされた*3浜村の「同じ気持ち」発言は、そのときに沸き起こってきたファミ通外部からの「権威としての責任を」という声に応じた、ファミ通内部からの反応にすぎなかったのだろう。「おまえ権威なんだから責任もて!」と言われて「じゃあ、権威にふさわしいものになってやろうじゃないか」と。

 そこでおそらくSoftwareImpressionのようなコーナーを充実させることも考えたのだろうが*4、実際に業界で大きな声を持ってしまったのはそんな人気のないコーナーではなく、人気のある「クロスレビュー」コーナーだったわけだ。そして、クロスレビューをどうするか、とさんざん悩んだ末が「同じ気持ち」発言なのだろう。*5権威として、大御所としての振る舞いとしては「同じ気持ち」発言に行かざるをえなかった感覚はわからないでもないのだ。

*1:昔の読者論であったような「理想的な読者」に近い議論をやっていると思います。

*2:「出版指標年報」より。ファミ通含む、ゲーム雑誌全体の売り上げは各年度の出版指標年報のデータを拾い上げてみると94年75億、95年103億、96年114億、97年134億、98年104億、99年96億、00年87億、01年67億、02年60億、と推移している

*3:また、こういったクロスレビューの「権威化」を支えたシステムの一つとして、四人の総合得点による「ゴールド」「シルバー」「プラチナ」殿堂入りをさせるという、四人の総合点の重視をさせてしまうような仕組みを押し進めてしまったという点も挙げられるだろう。四人、という少ないサンプル数の中で総合点や平均点の重視などをやったら当然のように一人一人の点数が重みを持ったものとして捉えられてしまうのも仕方がない。

*4:このコーナーの存在を知らない人も多いのでは。ファミ通の中にある長文のレビューコーナーです。

*5:だが、「同じ気持ち」発言までいくような悩みがどうこう以前に、結局ファミ通クロスレビュアーは、「ファミ通の編集者」という同質性に強く束縛されていて、権威を目指す以前に、サンプルとしては偏っていて使えないかも…という問題はけっこうあった。この問題もかなり重要なので、サンプルとしてあまりに偏っているとなると「各人が思ったこと書けばいいんでないの?」ということも気軽に言えない。

「理想的な評価者」は可能か

 に、しても、浜村通信の言うような理想的な評価者の存在は可能なのだろうか。

 結論から言えば、そんなものありえないと思う。文芸批評にせよ、映画批評にせよ、漫画批評にせよ、教養のある批評家や、分析が面白い・鋭いと言われる批評家が存在したことはあっても、それは別に中立的な価値の上にファンの気持ちを代弁してたからではない。

 一昔前のヨーロッパとかなら、貴族の教養階級が「俺は洗練された趣味を持った偉い批評家なのであって、おまえらバカな大衆どもは啓蒙されればいいのだ!」という感じで<良き趣味>の押し付けも可能だったかもしれない。しかし、ゲームで啓蒙といっても一体何するの?という問題もあるし、「洗練された趣味」は「ファンの気持ちを大切にすること」とは両立しないだろうし。

 ただ、一応留保をつけておくと、「ファミ通」ではムリでもへヴィーゲーマー向けの「コンティニュー」などの雑誌であれば、理想的な評価者<まがい>の人物はギリギリ登場できなくもないかも。とは思う。

 なぜならば読者層がある程度似たような人々であると思われるので、似たような前提を共有する批評家/読者の間であれば、解釈や価値の多元性とかにそこまで極端に配慮しなくとも、済んでしまう可能性はある*1。ただ、それは「コンティニュー」読者層というスモールワールドを抜け出してしまえば別に理想的な評価者でもなんでもない。

 で、なんだか、いつのまにか話がやたらと長くなってしまったので結局ファミ通のクロスレビューをどうすればいいのか、という話に戻そう。

 結論を言うと私としては、ファミ通のクロスレビューはなくしちゃっていいんじゃないか派、である。もう最近では自分も年に数回ぐらいしかクロスレビューを読んでいないし、バイヤーズガイド的なものはほとんどPlaystation mk2やネット上のものを参考にしている。浜村通信がいくら頑張ったところで構造的にムリなところにきてしまっているのではないか、と。

 ちなみに浜村通信は尊敬しています。

*1:似ている、とは言っても、それなり以上に多様な嗜好を持つ読者層ではあるかもしれないがファミ通と比べれば読者層のわかりやすさは圧倒的だろう。

2005年04月08日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

Political Compass

http://www.politicalcompass.org/

Economic Left/Right: -2.00(Left寄り)

Social Libertarian/Authoritarian: -3.85 (Libertarian寄り)

でした。

2005年04月05日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

つなげました

ネットにつなげるようになりました。

応答

ということで、遅れましたがZOEさんのコメント(3月23日)と、Tatsukiさんのコメント(3月24日)に応答を書きます。

ZOEさんのコメントについて(1) 

>「名作ゲームとは面白いゲームではなく良いゲームのことだ」

 この指摘から言いたいことを類推するに

  1. 「面白さ」が「良さ」の全てではない、ということ。「面白さ」は「良さ」の部分集合に過ぎない
  2. 「面白さ」という一般的な基準とは別途に、ゲームというメディア独自の「良さ」を見出せるのではないか。

 という二つの方向性を想像しました。前者は、わかりやすぎて面白くないので、後者のセンで勝手に妄想して応答してみます。(笑)

 後者の指摘だった場合、何が面白いのか、というと「ゲームメディア独自の良さ」なるものを抽出しようというある種のゲーム原理主義みたいな方向性ですね。「面白さ」というようなゲームを測る際のとても一般的な基準をシャットアウトしてしまって「ゲームメディアそれ自体」の自立的な「良さ」を想起するとすればどのようなことになるのか。

 強引に想像してみると、ゲーム=フォルマリズム*1のようなものを想定しているのかな、と。*2こういったゲーム原理主義って今までにもあるにはありましたが、「面白さ」を取り込むのではなく、排除してしまおうという方向までつきすすむとなるととても珍しいものになります。

 

 さて、どんどんとZOEさんの議論からはずれていき、勝手に話を展開させてしまいますが、「優良なゲーム」をめぐる議論はこのような「ゲームというメディア独自の価値」とそれ以外の「良さ」の基準――例えば「面白さ」でもいいし「社会的な道徳性」といった点でもいいですが――それらとの対にして考えたとき、これは古典的な議論へとつながるかもな、と思いました。*3

 じっさい詩や絵画の価値を、それが現実の世界認識に対して持つ真理性や、現実行動の規範を提示する道徳性に求める考えかたは、ふるくからある。すでにプラトンは、詩や絵画といった模倣の術は、もともと真実在であるイデアの写しでしかないわれわれ人間の経験世界を、もういちど影像として写しとることで、真理をゆがめいつわる仮象として、これを断罪した。これに対してアリストテレスは、人間には模倣をよろこぶ本能がそなわってえおり、しかもこのよろこびは、模倣をつうじて、それが模倣している現実のものがそもそもなんであるかを推論するという、人間に固有の知と認識のよろこびに由来するとして、模倣の術の価値を、現実認識の真理性にもとめる。ヘシオドスは、「われら、ほんとうらしい多くのいつわりをあまた語るを得、はまたまねがわくば、真実を語るを得」というムーサイの言葉をつたえているし、また詩のもつ認識機能の教育的効果については、ホラティウスが、すぐれた詩人は「快楽と有用をいっしょにして、読者を楽しませ、同時に教えをあたえる」と述べている

 このような考えかたは、近代において、芸術がそれまで社会に対してはたしてきた宗教的・共同体的、イデオロギー的効用から独立に、それに固有の価値を主張しはじめたとき、いっそう純粋なかたちで強調されることになる。というのも、すでに見たように、「美しい芸術」というあたらしい概念が、まずは美的な快楽をその共通項として成立したにせよ、それだけでは、これまでの社会的効用に取ってかわる自己主張としては不十分だからである。フランス古典主義による「有用の快楽」説も、このような文脈における自己弁明であった。それがドイツ・ロマン派および観念論による精神の美学のなかで体系化されて、芸術は人間精神による真理把握の特権的な一領域となる。

 現代のわれわれもまた、いぜんとしてこの伝統にたっている。

(西村清和『現代アートの哲学』P74)

 さて、ここで、もう一度振り返って東京都の認定基準を見てみましょう。

>(1)社会の良識と倫理観念のかん養に役立つもの

>(2)正しい知識と教養を深めるもの

>(3)人間的愛情を豊かに育てるもの

>(4)美に対する感覚を洗練し、豊かに育てるもの

>(5)健全な娯楽作品として優れたもの

>(6)思考力、批判力又は観察力を養うもの

>(7)前各号のほか健全な心身の成長に役立ち、福祉の向上に資するもの

 すると、この基準はいかにも西村清和の言うところの「近代」の「伝統」にたっているような気がしてきます。

 (4)や(5)あたりは「美」あるいは「娯楽」といった独自性の範疇ですが、(1)(2)(3)(6)(7)あたりは社会的・道徳的価値であったものが芸術の中にゴリッと融合してしまってる感じですね。

(だからなんだ、という話ではありますが)

*1:フォルマリズム:「1910 年代半ばから 20 年代末にかけてロシアの若手研究者や言語学者を中心に展開された文学運動。…(略)… 〈文学ではなくて,文学性,つまりある作品をして文学作品たらしめているもの〉こそ文学研究の対象とすべきであると主張した。…(略)…彼らは,それまでの文学研究が文化史や社会史,あるいは心理学や哲学に依拠していることを批判するとともに,文学作品を自立した言語世界としてとらえ,言語表現の方法と構造の面から文学作品を解明しようとした。すなわち,〈何が〉書かれているかではなく, 〈いかに〉書かれているかがまず問題とされた。シクロフスキーの言を借りれば,芸術の目的は事物を異化・非日常化することにあり,知覚を困難にし長びかせるのが芸術の手法である。すなわち〈手法こそが唯一の主人公〉であった。」(平凡社、世界大百科事典より引用)

*2:あ、でも「科学的・理論的にゲームの評価を誤解無く行うことは不可能だと思っている」とおっしゃっているので、そういうことはないのか。

*3:普通は、「面白さ」をシャットアウトしてまで「ゲームそれ自体の良さ」を主張するという方向性は稀有なのでこんなところにつながったりしないのですが

ZOEさんのコメントについて(2)

>「統計的な評価は現実的には期待できない。たくさん売れたタイトルが有利になる可能性が高い」

 これについては、おそらく統計的評価について少し誤解があるのではないかと思います。

 例えば、統計的にゲームの評価を行っているPlaystation mk2を見ていただければわかりますが

 2004年発売のPS2のRPGについて見てみると、確かに売れ行きの高かった『ドラゴンクエストVIII』はランク「A」で平均点も74点となっており高い評価を得ていますが、それよりも注目は『真・女神転生III-ノクターン マニアクス』の「S」ランク、平均点81点となっているところですね。

 多言を要さないと思いますが、単純な得票数で集計するような形の「統計」だけではありません。個々人の評価の「平均点」というものを導入するだけで、「売れたタイトルが有利になる」という可能性は避けられます。

 ただ、ZOEさんの言うような「売れたタイトル/売れないタイトル」がネット調査系の統計手法として問題があるとすれば、マイナーなゲームやニッチな市場に向けたゲームとメジャータイトルを比較した場合に評価者の同一性が保持できないということかと思います。

 シューティングマニア向けの5万本も売れれば十分のタイトルと、ドラクエのような300万、400万といった規模で子供からお年寄りまでやるタイトルでは評価者の傾向が全く違ってきますからね…

 一応、これもCinemaScape/映画批評空間なんかだと、映画ごとに「ゴダール好きの人の評価は平均9点」「チャップリン好きの人の評価は7点」「ジャッキー・チェン好きの人の評価は4点」などと言った形で、評価者の傾向まで可視化できるようにされてます。(ゲームではここまでデータマイニングをやってるところはまだないようですが…)

Tatuskiさんのコメントについて

 「ゲームをめぐる議論が影響論で埋め尽くされていくのは嫌だなぁ」「影響関係を中心とした議論からは、ビデオゲーム経験自体がいったいどういったものなのか、といった問いがなされてこない」というのは全く同意見です。

 ただ、「前提を作るための本来ありうる幾多の議論が日の目を浴びなくなってしまう」というのは、なんともいいかねます。どちらかといえば、その後でTatsukiさん自身がおっしゃるように「そもそもそうした状況が現れるのはまさしくゲームに関する人文・社会科学分野の立ち遅れが大本にある、とも思う。すでに立脚しているものを叩くより、やるべきことは他にある」という認識のほうですかね。自分も