« はてなの質問たち その2 | メイン | ゲームをやりはじめた時期 »
2004年12月19日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■メディア間の相互作用って面白いな、と。
タイアップやメディアミックスの話にふれて。
どのメディアでも面白い、どのメディアでも楽しめる、などというのは幻想だ
なるほど。
まあ、確かにそれはそれで妥当だとは思うのだけれども、「タイアップ」とかっていう言葉自体が持っている含みのようなもの自体が問題にされてもいいのではないか、という気もします。
「タイアップ」というと、いかにも、商業主義バリバリな感じがして、「うん、まあ、ゲームでも出しときゃ、原作も人気あるし売れるだろう」的なノリを感じてしまったりするわけですが、逆にタイアップとかメディアミックスっていうのを肯定的に語るとすれば、決してそういうものだけではない、という部分もあるのではないか、と。
例えば、去年、理由あって、小学校6年生の男の子とけっこう沢山話す機会があったんですが、その子が、『NARUTO』の大ファンで、『NARUTO』の格闘ゲームなんかもバリバリとやっておりました。で、話をしようと思ってもその子の熱い『NARUTO』話についていかれないので、『NARUTO』をわざわざマンガ喫茶に行って全巻一気読みしたりしたんですが、やっぱりついていけない。で、なんだか知らないが、どのワザをどう出すか、とか、どのワザがどう強いか、という話を延々と講釈され、その子にいわせれば「ホントにそれで読んだの??ワザの名前とか全然覚えてないじゃん。ワザの名前覚えてなかったら、意味なくない?」という名言をいただきました。
このことについて考えてみるのに、例えば、以下のような議論を引用してみます。
東浩紀ほか『不可視なものの世界』P251~252
東:さっきも行ったように、アニメの基本はセル画にあるから、ファンの一部はその細かな動きをどこまで分けてみることが出きるかにすごく情熱を燃やすわけ。少なくとも八〇年代の前半には、戦闘場面や群集場面で数コマだけ遊びのフレームを入れるというサブリミナル的な演出が流行したことがあって、そのときにね。バカげた話だけど。
とはいえそういう身体性は面白いとは思うんだ。というのも、現代思想系の身体論はたいてい「計測不可能性」に焦点をあててきたわけだね。世界の表面には言葉で文節化された―――丸山圭三郎の言う「言分け」された世界があって、その下に記号では文節化できない身体があるといった話ね。メルロ=ポンティ風にいえば、まさにその身体こそが「見えないもの」なわけだけど、これはつまり、浅い/深い、見える/見えない、計測可能/計測不可能の対立でできている世界観だ。けれどオタクの身体性はどうも違っていて、もっとガジェット感覚というか、身体も機械みたいに捉えられている。
実際、そういうことは現代思想でも八〇年代から言われ続けていて、サイボーグとかテレプレゼンスとかが注目されているのは、そういう文脈だよね。
阿部:(中略)
東:実際に、その変化が九〇年代に最もラディカルに現れたのが格闘ゲームの身体でしょう。三つのボタンのみを媒介にキャラクターと同一化する、というのはつまり、まったく計測可能な約束事でしかないのに、プレイヤーはそこに計測不可能な身体を感じてしまっているということだよ。ボタンをそのまま身体として感じられる、というのはとても不思議な現象だと思うんだ、少なくとも、メルロ=ポンティのような身体論では説明できそうにない。
えー、引用してみて、議論がつなげられるかどうか不安になりましたが、(というか、この引用が適切だったのかどうかが不安になりましたが。)それはさておき、
先にあげた12歳の少年は別にオタクではないわけですが、まず、ここで東さんが言っているような「三つのボタンのみを媒介にキャラクターと同一化する」という現象にバッチリと沿う形で、ゲームをプレイしています。しかも、それは単に、ゲームのプレイヤーキャラクターと自己とを同一化させているわけではない。
(1)マンガ(あるいはアニメ)において表現されている物語上の登場人物としての「ナルト」や「サスケ」といった自分とは隔たった存在のリアリティと、(2)ゲームにおいて自分が操作する対象たるプレイヤーキャラクターである「ナルト」「サスケ」という自己の分身としてのリアリティがダブルで存在しつつも、相互に影響しあっている、ということがまずあります。
で、タイアップ的な「オリジナルが売れてるから、これも売れるだろ」的な発想からいけば、(1)のオリジナルとしてのマンガ・アニメのリアリティのほうが強烈にあって、(2)ゲームのリアリティなどそのフォロー。付録に過ぎない。 という話ができそうです。
だけれども、「ワザの名前覚えてなかったら、意味なくない?」発言で面白いのは、そのような「オリジナル→タイアップ作品」という主従関係を決定的に覆している点にあります。
12歳の彼の話を聞いていると、格闘ゲームにおいて誰が強いか、とか、どのワザが強いか、という序列の問題がものすごく強烈に主張されており、ゲームでの体験を下敷きとして、はじめてアニメを鑑賞しているようでした。アニメを見つつ「あのワザ出したら、大変だよ!自分もダメージすげーくらちゃっうんだよ!リーやばいよ!やばいって!」とか叫んでいました*1。ここでは明らかに、(2)の格闘ゲームにおけるリアリティが(1)本来オリジナルであったはずのマンガ・アニメにおけるリアリティ、を支えている。
そのような鑑賞法を採っているからこそ「ワザの名前を覚える」ことが彼にとって有意義な――格闘ゲームのプレイの上でも、アニメ・マンガの鑑賞法としても、双方に重要な要素として「ワザの名前を覚える」というところに意識が自然とスライドしていったのではなかったか、と思います。
ワンソース(オリジナル)があって、それが各メディアに波及していく、というようなタイアップ的なモデルが12歳の彼の中では逆転して、一方のメディア経験が、一方のメディア経験を支える、という相互性を発揮する――このような側面において、タイアップ、メディアミックスといった商売手法がかつてない特殊なリアリティを子供たちに与えることを可能にしているだろう、と。そのような観点において、私はメディアミックス肯定派です。すごく面白いじゃないか、と。*2