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2004年12月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■「ブーム」と「プレイ」をつけるとなんでもポップになる
みうらじゅん曰く、(http://media.excite.co.jp/book/interview/200210/p05.html)
マイナスとされているものを、ポップに見せたりすることが好きなんですよね。とりあえず、なんでも「ブーム」と「プレイ」をつけると、ポップになるんですよ。「童貞ブーム」とか「親孝行ブーム」、「失恋プレイ」「貧乏プレイ」とか、「プレイ」ってことにしちゃえば、ポップな感じになるんですよね。
「××プレイ」、ということが「ポップ」の方向性へと絡められるってのはちょっとすげーな、と。
これを、私なりに言い換えてみると、行為の選択決定というのを自分自身の責任の中で行っていませんよ、ってこと表明し、そしてそれ(わたしが選択していないこと)を他人にも認めさせようとする、ということだよね。
自分の行為が、あらかじめ社会的に組み込まれ用意された選択肢の一つでしかないことを半ば強引に周囲の他人に了解させて行動をするから、その行為がかつていかに「特殊なもの」として表象されていたようなものであったにせよ、「××プレイ」と名づけられた瞬間に社会的な「ブーム」あるいは広義の意味での「ゲーム」の中での、一般的な固有名を持たないプレイヤーの一人に落とし込めちゃんだぞ、と。そうか、選択しているのを選択していないように見せかけるのが、ポップということなのか、と。
みうらじゅんのたとえで言えば、「親孝行」などという概念をベタで持ち出してしまって、そんな行為をやろうと思うなどというのは、若者的感覚からいけばまずヘンだというのがある。だけれども、それが、「親孝行プレイ」という表現をうけることによって、「ベタ」から「ネタ」へ。「親孝行プレイをしてみせるゲーム」などという参照項があたかも存在するかのような表現を引っ張り出してくることによって、そういうことが起こるのだ、と。
に、しても、あらゆる行為の特殊性・異常性を漂白してしまうものとしての「ゲーム」をもってくる、というのは、とてもじゃないが、ビデオゲームの議論の中からは出てこない話だ(笑)。*1
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これをちょっと強引にビデオゲームの話にからめて考えてみる。
ビデオゲームの場合は、「どのゲームを選択するか」ということの中に個人の特殊性は透けて見えてくるのが普通だ。例えば、何か新作ゲームを買おう、という時に『ドラゴンクエストVIII』へと向かうのか、『サクラ大戦V』へと向かうのか、あるいは『half-life II』なのかで、話はまったく違う。
「どのゲームを選択するか」≒「どのルールの中で行動をしたいか」ということ*2を選ぶことと、どのような<プレイ>を表明してみせること、はあまりにも距離がある。*3
だが「(ゲーム)プレイをする」という行為であるという点においては両者は同様の地点に見出されるものである――はずである。
はずであるのだけれども、その両者が、「この場にゲームが組み込まれている(いた)ことを表明して見せること」(社会的な単位でのゲームプレイ?)と、「個人的にビデオゲームをプレイすること」(個人的な単位でのゲームプレイ?)*4というベースとなる部分の差異において、両者は実はここまで別様のものとしてたち表れることになってしまいうるのか、と。
うーん、なんかあんまりいい説明ができてないような気もするが、そんな感じでみうらじゅん発言を「すげーな」と感じたのでした。
*1:そもそもこのような社会的、広義の意味での「ゲーム」からは関心として断絶がなされているわけだし
*2:この両者は、あくまでニアリィイコール、でしかないです。もちろん。
*3:いや、ドラクエVIIIを買って見せることなんてのは、別に特殊性を透けて見せようとすることでも何でもないかもしれない。あるいは特殊性がない、一般的であることのパフォーマンスか。単に「おれ、ゲームちょっと好きなんだよね」程度のパフォーマンスか。そんな程度だろうけど。
*4:この、社会/個人という区分はあんまりイクナイ。イクナイけれども、まあ話がわかりやすくなるかな、程度に。