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ビデオゲームをめぐる問いと思索 http://www.critiqueofgames.net/

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2004年12月19日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

メディア間の相互作用って面白いな、と。

id:ConquestArrow:20041219

タイアップやメディアミックスの話にふれて。

どのメディアでも面白い、どのメディアでも楽しめる、などというのは幻想だ

なるほど。

まあ、確かにそれはそれで妥当だとは思うのだけれども、「タイアップ」とかっていう言葉自体が持っている含みのようなもの自体が問題にされてもいいのではないか、という気もします。

「タイアップ」というと、いかにも、商業主義バリバリな感じがして、「うん、まあ、ゲームでも出しときゃ、原作も人気あるし売れるだろう」的なノリを感じてしまったりするわけですが、逆にタイアップとかメディアミックスっていうのを肯定的に語るとすれば、決してそういうものだけではない、という部分もあるのではないか、と。

 例えば、去年、理由あって、小学校6年生の男の子とけっこう沢山話す機会があったんですが、その子が、『NARUTO』の大ファンで、『NARUTO』の格闘ゲームなんかもバリバリとやっておりました。で、話をしようと思ってもその子の熱い『NARUTO』話についていかれないので、『NARUTO』をわざわざマンガ喫茶に行って全巻一気読みしたりしたんですが、やっぱりついていけない。で、なんだか知らないが、どのワザをどう出すか、とか、どのワザがどう強いか、という話を延々と講釈され、その子にいわせれば「ホントにそれで読んだの??ワザの名前とか全然覚えてないじゃん。ワザの名前覚えてなかったら、意味なくない?」という名言をいただきました。

 このことについて考えてみるのに、例えば、以下のような議論を引用してみます。

東浩紀ほか『不可視なものの世界』P251~252

東:さっきも行ったように、アニメの基本はセル画にあるから、ファンの一部はその細かな動きをどこまで分けてみることが出きるかにすごく情熱を燃やすわけ。少なくとも八〇年代の前半には、戦闘場面や群集場面で数コマだけ遊びのフレームを入れるというサブリミナル的な演出が流行したことがあって、そのときにね。バカげた話だけど。

 とはいえそういう身体性は面白いとは思うんだ。というのも、現代思想系の身体論はたいてい「計測不可能性」に焦点をあててきたわけだね。世界の表面には言葉で文節化された―――丸山圭三郎の言う「言分け」された世界があって、その下に記号では文節化できない身体があるといった話ね。メルロ=ポンティ風にいえば、まさにその身体こそが「見えないもの」なわけだけど、これはつまり、浅い/深い、見える/見えない、計測可能/計測不可能の対立でできている世界観だ。けれどオタクの身体性はどうも違っていて、もっとガジェット感覚というか、身体も機械みたいに捉えられている。

 実際、そういうことは現代思想でも八〇年代から言われ続けていて、サイボーグとかテレプレゼンスとかが注目されているのは、そういう文脈だよね。

阿部:(中略)

東:実際に、その変化が九〇年代に最もラディカルに現れたのが格闘ゲームの身体でしょう。三つのボタンのみを媒介にキャラクターと同一化する、というのはつまり、まったく計測可能な約束事でしかないのに、プレイヤーはそこに計測不可能な身体を感じてしまっているということだよ。ボタンをそのまま身体として感じられる、というのはとても不思議な現象だと思うんだ、少なくとも、メルロ=ポンティのような身体論では説明できそうにない。

 えー、引用してみて、議論がつなげられるかどうか不安になりましたが、(というか、この引用が適切だったのかどうかが不安になりましたが。)それはさておき、

 先にあげた12歳の少年は別にオタクではないわけですが、まず、ここで東さんが言っているような「三つのボタンのみを媒介にキャラクターと同一化する」という現象にバッチリと沿う形で、ゲームをプレイしています。しかも、それは単に、ゲームのプレイヤーキャラクターと自己とを同一化させているわけではない。

 (1)マンガ(あるいはアニメ)において表現されている物語上の登場人物としての「ナルト」や「サスケ」といった自分とは隔たった存在のリアリティと、(2)ゲームにおいて自分が操作する対象たるプレイヤーキャラクターである「ナルト」「サスケ」という自己の分身としてのリアリティがダブルで存在しつつも、相互に影響しあっている、ということがまずあります。

 で、タイアップ的な「オリジナルが売れてるから、これも売れるだろ」的な発想からいけば、(1)のオリジナルとしてのマンガ・アニメのリアリティのほうが強烈にあって、(2)ゲームのリアリティなどそのフォロー。付録に過ぎない。 という話ができそうです。

 だけれども、「ワザの名前覚えてなかったら、意味なくない?」発言で面白いのは、そのような「オリジナル→タイアップ作品」という主従関係を決定的に覆している点にあります。

 12歳の彼の話を聞いていると、格闘ゲームにおいて誰が強いか、とか、どのワザが強いか、という序列の問題がものすごく強烈に主張されており、ゲームでの体験を下敷きとして、はじめてアニメを鑑賞しているようでした。アニメを見つつ「あのワザ出したら、大変だよ!自分もダメージすげーくらちゃっうんだよ!リーやばいよ!やばいって!」とか叫んでいました*1。ここでは明らかに、(2)の格闘ゲームにおけるリアリティが(1)本来オリジナルであったはずのマンガ・アニメにおけるリアリティ、を支えている。

 そのような鑑賞法を採っているからこそ「ワザの名前を覚える」ことが彼にとって有意義な――格闘ゲームのプレイの上でも、アニメ・マンガの鑑賞法としても、双方に重要な要素として「ワザの名前を覚える」というところに意識が自然とスライドしていったのではなかったか、と思います。

 ワンソース(オリジナル)があって、それが各メディアに波及していく、というようなタイアップ的なモデルが12歳の彼の中では逆転して、一方のメディア経験が、一方のメディア経験を支える、という相互性を発揮する――このような側面において、タイアップ、メディアミックスといった商売手法がかつてない特殊なリアリティを子供たちに与えることを可能にしているだろう、と。そのような観点において、私はメディアミックス肯定派です。すごく面白いじゃないか、と。*2

*1:うろ覚えです。

*2:ナルトや、ポケモン、遊戯王に限らず、ちょっと別の例で言えば、『三国志』だって中国史マニアにとってみればバリバリのそういう体験だろうと思いますが。

2004年12月14日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

はてなの質問たち その2

昨日にひきつづき、はてなのちょっと面白かったゲーム関連の質問たち

  • 視覚障害者向けの、視覚を用いずに聴覚のみを用いるゲームを探しています。
  • http://www.hatena.ne.jp/1089783845
    • こういうものって、やっぱり、あったんだ、……とか、思ったら、なんか『Air』とか『加奈』とか書いてあるんですけど。まあ、音声&字幕というダブルでフォローが付いているからいいのか。そうか。
  • ファミコン、又はその時期のゲームのBGMに歌詞をつけた歌って何かありますか?
  • http://www.hatena.ne.jp/1068450940
    • 高橋名人の冒険島に歌詞なんてついていたのか…
  • 「ファミ通」の出しているゲーム攻略本と、それ以外の会社の出している同じゲーム攻略本の売り上げの比較について教えてください
  • http://www.hatena.ne.jp/1057673286
    • 論文でも書くのだろうか。
  • はてなの質問「テレビゲームが原作になっている映画の情報を教えて下さい」
  • http://www.hatena.ne.jp/1053910936
    • こんなに、いろいろ映画化されたのか。知らんかった。あと、ここに出ていないのでは、実はシェンムーも映画化されているらしいけど、誰も言及してない…
  • メディアはいかにしてアイデンティティ・リアリティを構築するのか?
  • http://www.hatena.ne.jp/1075207716
    • こういう質問まで、はてなでするのか。ってか、「アイデンティティ・リアリティ」とだけいわれても。

2004年12月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

はてなのゲーム関連の質問たち

「人力検索サイト はてな」より、ちょっとマニアックな質問たち。

  • キャラがダメージを受けた時に点滅する表現を、最初に取り入れたビデオゲームは何ですか?
  • http://www.hatena.ne.jp/1102206274
    • なんとマニアックな。80年前後ということ。でも、こういう質問でけっこうそこそこの答えが集まっているというのは面白い。
  • パチンコ、パチスロ、麻雀、競馬、将棋、囲碁、テレビゲーム等の参加人口が、年代別に集計されているデータはありませんか?
  • http://www.hatena.ne.jp/1055395827
    • CESA白書とレジャー白書以外にも、「レジャー産業白書」などが紹介。これも知らなかった。
  • ちっちゃい子供の前でどういう風に気を使いながらゲームをするか
  • http://www.hatena.ne.jp/1090312604
    • これは面白い!こんな問いも、解答もまったく想像の範囲外でした。
  • 昔の裏技はリークとかしてたの?
  • http://www.hatena.ne.jp/1095506669
    • デバッカー経由かあ。その話は初耳。でも確かに考えられる話ではある。
  • 最近のゲームはグラフィックばかり向上し、シナリオが昔と比べて薄くなっていると思いますがみなさんはどう思いますか
  • http://www.hatena.ne.jp/1083768187
    • そう思う、が63%、思わない18%、気にしたことがない 19%
    • この質問は、あるようでいて、実はちょっと予想外だった。というか質問の仕方によっては結果もかわっているのではないか、と。
    • 「最近のゲームはグラフィックばかり…」と続いた場合、頻出するパターンは「ゲーム性が薄くなっている」「ゲームの本質が置き去りにされている」という場合のほうで、「シナリオ」や「ストーリー」は、グラフィックとは普通、敵対関係には置かれていないことのほうが多いように思う。
    • つまり「シナリオが長くなって、ゲーム性が…」と「グラフィックばかりでゲーム性が…」という質問は、似たような形で問われるが、「シナリオVSグラフィック」という対立構図は、いままで実はあんまり見たことがなかったよな、ということ。
    • だから、この質問、「シナリオばっかりにこって、ゲーム性が…」と質問したらどうなるのだろうか、と。

2004年12月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

「ブーム」と「プレイ」をつけるとなんでもポップになる

みうらじゅん曰く、(http://media.excite.co.jp/book/interview/200210/p05.html

マイナスとされているものを、ポップに見せたりすることが好きなんですよね。とりあえず、なんでも「ブーム」と「プレイ」をつけると、ポップになるんですよ。「童貞ブーム」とか「親孝行ブーム」、「失恋プレイ」「貧乏プレイ」とか、「プレイ」ってことにしちゃえば、ポップな感じになるんですよね。

 「××プレイ」、ということが「ポップ」の方向性へと絡められるってのはちょっとすげーな、と。

 これを、私なりに言い換えてみると、行為の選択決定というのを自分自身の責任の中で行っていませんよ、ってこと表明し、そしてそれ(わたしが選択していないこと)を他人にも認めさせようとする、ということだよね。

 自分の行為が、あらかじめ社会的に組み込まれ用意された選択肢の一つでしかないことを半ば強引に周囲の他人に了解させて行動をするから、その行為がかつていかに「特殊なもの」として表象されていたようなものであったにせよ、「××プレイ」と名づけられた瞬間に社会的な「ブーム」あるいは広義の意味での「ゲーム」の中での、一般的な固有名を持たないプレイヤーの一人に落とし込めちゃんだぞ、と。そうか、選択しているのを選択していないように見せかけるのが、ポップということなのか、と。

 みうらじゅんのたとえで言えば、「親孝行」などという概念をベタで持ち出してしまって、そんな行為をやろうと思うなどというのは、若者的感覚からいけばまずヘンだというのがある。だけれども、それが、「親孝行プレイ」という表現をうけることによって、「ベタ」から「ネタ」へ。「親孝行プレイをしてみせるゲーム」などという参照項があたかも存在するかのような表現を引っ張り出してくることによって、そういうことが起こるのだ、と。

 に、しても、あらゆる行為の特殊性・異常性を漂白してしまうものとしての「ゲーム」をもってくる、というのは、とてもじゃないが、ビデオゲームの議論の中からは出てこない話だ(笑)。*1

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 これをちょっと強引にビデオゲームの話にからめて考えてみる。

 ビデオゲームの場合は、「どのゲームを選択するか」ということの中に個人の特殊性は透けて見えてくるのが普通だ。例えば、何か新作ゲームを買おう、という時に『ドラゴンクエストVIII』へと向かうのか、『サクラ大戦V』へと向かうのか、あるいは『half-life II』なのかで、話はまったく違う。

 「どのゲームを選択するか」≒「どのルールの中で行動をしたいか」ということ*2を選ぶことと、どのような<プレイ>を表明してみせること、はあまりにも距離がある。*3

 だが「(ゲーム)プレイをする」という行為であるという点においては両者は同様の地点に見出されるものである――はずである。

 はずであるのだけれども、その両者が、「この場にゲームが組み込まれている(いた)ことを表明して見せること」(社会的な単位でのゲームプレイ?)と、「個人的にビデオゲームをプレイすること」(個人的な単位でのゲームプレイ?)*4というベースとなる部分の差異において、両者は実はここまで別様のものとしてたち表れることになってしまいうるのか、と。

 うーん、なんかあんまりいい説明ができてないような気もするが、そんな感じでみうらじゅん発言を「すげーな」と感じたのでした。

*1:そもそもこのような社会的、広義の意味での「ゲーム」からは関心として断絶がなされているわけだし

*2:この両者は、あくまでニアリィイコール、でしかないです。もちろん。

*3:いや、ドラクエVIIIを買って見せることなんてのは、別に特殊性を透けて見せようとすることでも何でもないかもしれない。あるいは特殊性がない、一般的であることのパフォーマンスか。単に「おれ、ゲームちょっと好きなんだよね」程度のパフォーマンスか。そんな程度だろうけど。

*4:この、社会/個人という区分はあんまりイクナイ。イクナイけれども、まあ話がわかりやすくなるかな、程度に。

2004年12月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

GameStudiesが更新

 英語圏のゲーム研究のポータルサイトGamestudies(http://www.gamestudies.org/)が約一年ぶりに更新されたようです。

2004年12月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ゲーム関連書籍

引き続き更新。

http://www.critiqueofgames.net/data/booklist_date.html

攻略本・ファンブック以外のゲームの関連書籍を計654件ほど激しく網羅してみました。寸評とかは面倒なのでさすがにやめましたが、網羅件数だけでいけば、かなりのものになっているかと思います。

ジャンル分類がいいかげんなのと、ページが重いのはご容赦くださいまし。

2004年12月09日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

リンク集追加

[ 追加した研究室 ]*1

今回リンクしたのは読めるものが掲載されているところだけですが、網羅的な研究室リストとしてIGDAの記事↓

http://www.igda.jp/modules/xfsection/article.php?articleid=44

などでかなりフォローされているようです。

*1:東京大学 馬場研究室 ゲーム研究プロジェクトhttp://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/baba/game.htm  、GAP ゲームアーカイブプロジェクト 立命館大学 http://www.kyoto-one.ad.jp/gap/ 、ゲーム学会 大阪電気通信大学 http://www.dmic.org/game/ についてはこっちのほうでリンクをはってあります

2004年12月08日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

Weblogサービス増えすぎ。

 多くの人が感じていることだとは思うが、この半年ぐらいの間にWeblogサービスが激増した印象が強い。とりあえず、登録しているウェブサービスのほとんどがWeblog(もしくは日記)サービスをつけているような気がする。

 今、自分の登録しているものだけでも

 などなど。*1

 いまや、Weblogサービスは「ウリ」となるサービスではなく、他のサービスに差をつけられないための「最低限のサービス」になってしまってる感がある。やりたい/やりたくないに関わらず、やらざるを得ないのだろう。

 ここでちょっと何種類同時に日記を付けられるのかということを考えてみよう。

 mixi日記を「裏日記」としつつ、その他のところでの日記を「表日記」とする人は多く見かけるようになったが、裏/表という以外のモードといえば、あとは「オフィシャルな日記」(会社とかのサイトの「社長の日記」)と「プライベート日記」とのモードの違いぐらいだろうか。いや、でも、裏日記と表日記ができてしまったら、「プライベート日記」はたぶんそのまま裏日記にズレこんでいく可能性が高いだろうから、結局ほとんどの人は「裏日記」「表日記」という二種類のモードを使い分けるのがせいぜいか。ついでに一つ加わるとしたら、友達にも見れないように書く完全プライベート日記ぐらいかな。

 あと、考えられるのは「●●観察日記」とかといった用途を特化したレポートのような使い方かなあ。それを考えれば、かなり特殊なケースとしては10種類とかの日記を同時使用している人っていうのも考えられなくはないわけだけれども、普通の人が使い分ける必要のある日記の用途はせいぜい「表日記」「裏日記」「自分用日記」3種類ぐらいしかありえないと思える。

 で、親密圏オリエンテッドなプライベート日記は現在のところmixi日記が圧勝しており、それに続く可能性がありそうなのはMSNとはてな。完全プライベート日記 *2は測定不能。残る公共圏オリエンテッドなところでは争いが白熱しているが、何も決め手がない。そんな感じだろうか。

 に、してもこんなにWeblogサービス増やされてもなあ……一体、何個ぐらい同時に日記を付けてほしんだろうか。 

*1:自分の登録していないものでも、他にExciteBlogとか、まだまだありますが。

*2:そういえば、完全プライベート日記というと、出会わない系サイト「lonely」みたいな冗談サイトができましたな。

2004年12月04日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

今必要なのは政権交代ではないか

これはちょっと面白い。

菅直人の今日の一言2004-10-24 (Sun)の一言

それに加えて新潟で地震。あい続く天災をストップさせるには昔なら元号でも変えるところだが、今必要なのは政権交代ではないか。

あい続く天災をストップさせるに、今、必要なのは私の来年の行き先が決まることではないか。

2004年12月03日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

2004年12月02日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

教育ゲーム、シリアスゲーム

id:ConquestArrowより

先進工業諸国で平均IQが上昇していく「フリン効果」や、テレビゲームを脳の情報処理能力の向上に利用しようとするアメリカの研究、「ゲーマーとしての養老孟司」などの話題を紹介しています

茂木健一郎 クオリア日記: テレビゲームは本当に脳に悪いのか

 ゲームが頭をよくするかも…的話題がきっちりまとめられたのは僕も見たことがありませんが、そういう種類の言説は80年代からけっこうあったかと記憶しています。例えば、将棋界隈とかで若い世代が強い!とかってことの説明として「やつらはゲームを介して効率的に定石を覚えたりしているから~」などといった話や、教育機器としてのゲームの有効性みたいな話はファミコンブームの起こった86年にも「これをなんとか有効利用できないか」的な文脈で、盛んにいわれてましたね。アメリカとは違ってその後日本ではそういった教育機器系の話が本格化することなく、中途半端な<教育ゲーム>が断続的に発売されるにつれて、「ゲームで教育しようなんてバッカじゃねーの?ゲームは遊ぶモンだって。」みたいな態度のほうが強くなってしまいましたが。

(ITmedeiaニュース)

遊ぶだけじゃない“シリアスゲーム”の可能性

 にしても、英語圏での「シリアスゲーム」という呼び方には個人的にはどうも奇妙な感じを覚えます。エディテイメントとかラーニングとか、そういう名前で呼んでもよかったはずなのに、なんでそう呼ばれているのかがよくわからない。最初「シリアスゲーム」と聞いたときには、一瞬ゲームの中での文学的実存がうんたら、とかっていう話なのかな、とでも思ったんですよ。それだって「シリアス」という話だろうに、この「シリアス」ってのは要はゲーム自体でコンサマトリーではないような、「消防士の訓練に役立つ」とか「学校教育に役立つ」とか「米軍の新兵募集や訓練に役立つ」というような社会にとっての手段的価値を見出せるゲームって話ですよね。なんで手段的であることを「シリアス」などと言ってしまうのか*1。はっきり言って解せない。端的に言えば、アメリカ軍の訓練に使われるゲームが「シリアスなゲーム」で、タクティクスオウガは「シリアスじゃないゲーム」とかって言われたら、腹立たしくはないのか、と。*2

 この「シリアスゲーム」という名称が、アメリカのゲーム業界が内部からイメージ戦略的に流通させたのか、ゲーム業界の外部から貼られたレッテルなのかは知らないですけど、もうちょっと呼びようがあるだろうに。

 ゲームが社会にとって手段的に使われる方向性をも見出している、という状況そのものについて、大枠で言えばいい話だと思いますし、マーケットとして魅力的とかっていうような商業的な問題意識抜きでも非常に面白い話だとは思っています*3。います…が、そこで出てきた言葉がなんでほんとにこれなんだろうか、ということに落胆を感じます。

*1:とはいっても、もちろん、類推は可能です。遊び論にありがちな「遊び」の定義の一つとしては、しばしば、「遊びとはそれ自体が目的であり、手段的ではないもの」みたいな定義があるので、多分その定義を単純に裏返したらこんな話になってしまったのではないか、と思いますが。

*2:ってか政治右翼だけが真剣で、文化左翼は真剣じゃない、みたいな話にも聞こえますよね。解釈によっては。

*3:例えばRichard D.Duke『ゲーミングシミュレーション 未来との対話』で展開されているようなイデオロギーとして、「ゲーム」という形式を「会話」「文字」「マルチメディア」よりもさらに上位のコミュニケーション手段としてしまって、ゲームはコミュニケーションのための最高の様式である!と主張するような、イかれた話がありますが、そういうところに接続されていくであろう可能性とかには非常に魅力的に感じます。分野としては発展してほしいことこの上ないところです。

2004年12月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

2004年コンピュータゲーム十選

ドラクエをまだ開封してませんが、今月から来月の半ばまで、期間限定でゲーム断ちをいたしますので、本年度にやったゲームの中からよかったものを10個*1、早々にえらんでみました。ちなみに今年度プレイしたタイトル総数はクリアーしていないものを含めれば、たぶん50本ぐらいだと思います。

[ 今年度よかったもの10個 ]*2

  • 塊魂』(PS2):今年度やったものの中でダントツによかったです。こういうものが毎年一本ぐらいで出てくれれば幸せです。 → id:hiyokoya:20040709id:hiyokoya:20040322id:hiyokoya:20040323id:hiyokoya:20040324
  • カオスシード』(SS版):今年度一番時間をもっていかれました。ネット上では「埋もれた名作」としてプチ有名な一品です。 → id:hiyokoya:20040513
  • シムシティ4000』(PC):さらに複雑になった因果関係の輪。
  • 絶対絶命都市』(PS2):古典的なゲーム作りの文法に、状況設定を上手に加えたことでいままでなかった新しさを演出してます。 → id:hiyokoya:20040908
  • 三国志戦記』(PS2):「三国志」を戦略性と爽快感重視でガラリと作り直してます。
  • The地球防衛軍』(PS2):出たのは去年ですが。「廉価ゲーム」の意味合いを変えた一本。どうでもいいですが、いつも「地球防衛隊」だったか「地球防衛軍」だったかを忘れます。 → id:hiyokoya:20040331
  • 逆転裁判3』(GBA):クオリティに信頼を置いていいシリーズとしての安定感がでてきました。 → id:hiyokoya:20040703
  • エースコンバット05』(PS2):ものとしてはあまり新しくはないですが。シリーズを重ねるごとにブラッシュアップされていってます。
  • サーヴィランス』(PS2):「やるドラ」がようやく開花し、可能性をいっきに開いてくれた感じです。 → id:hiyokoya:20040911
  • 3年B組金八先生』(PS2):一番評価に迷ったのはこれかもしれません。ゲームプレイヤーとしてやっていたのか、ただたんに物語消費をしていたのか。何にせよ、注目に値する何かだったとは思います。 → id:hiyokoya:20040906

なお、今後続々と追加されるであろう他の方のゲーム十選はこちらに。ついでに2ch系で盛り上がっている「良ゲー駄ゲー オブ ザ イヤー 2004」(RPG板ウォッチィ!)なんかもどうぞ。

 以下、全般的にコメントすると、

1

 最初に二つあげた『塊魂』と『カオスシード』と出会えたことで今年度はとても幸せな気分になれました。それなりにヘビーゲーマーとしての自負をもつ私のゲームライフ全般の中で見てもド級の破壊力のある作品だったことは間違いありません。

2

 時間を鬼のようにくわれたゲームという点でいうとやはり『カオスシード』とあとは『三国志戦記』でしょうか。『三国志戦記』はマニア的な知名度もそれほど高くはないですが、単に戦略性が高いだけでなく、極めてダイナミックに状況を変化させることのできる戦闘システムを備えておりウォーシミュレーション好きならば触れて損はないかと思います。あとはやりこみゲーマーの要望にまでこたえることができたらパーフェクトだったという気がします。

3

 ポジティブな意味でのゲーム市場の成熟を感じさせるソフトとしては『逆転裁判3』と、『エースコンバット05』『シムシティ4』が抜きん出ていました。いずれも、シリーズを重ねながらも、決してダレずに映像/音楽/シナリオ/ゲームバランス/緊張感の演出などなどあらゆる部分への気の配りようがますます熟成されてきた感があります。『エースコンバット05』は『エースコンバット04』の神がかった水準から比べると、いくらかがっかりした点もありましたが、しかし、それで不満だなどと述べていたらバチがあたりそうな気がするので、あまりしゃべらないことにします…

4

 開発者が頭をいかに悩ませて作ったかがよく伝わってきた作品という点では『サーヴィランス』と『絶対絶命都市』を挙げたいと思います。もちろん他の作品もありとあらゆる知的な労働力が支払われているのは間違いないでしょうが、ゲームの文法そのものをどのようにして構築するか、どこにどのようなコストを投入するのかを悩んだ末に開発し、そして成功をおさめた作品ということでは、この二作が印象的だったのは間違いありません。『サーヴィランス』はいままで駆け引きをはらむ狭義のゲームとしてはほぼ枯れたジャンルであるという印象すら与えていたやるドラという領域を根本的な水準で練り直し、再構成して見せてくれたという意味で革命的な作品でした。『絶体絶命都市』はゲームのすすめ方にはそれほどかわったところはありませんが、いままで構築されてきたゲームの文法をいかに応用し、文脈を変更することによって文法を再活性化させるか、という試みを成功させた作品として大変に高く評価できると思います。

5

 「ゲーム」としての境界例的でありながら、ゲームの今後そのもののあり方を決定付けるようなインパクトを持った作品という観点からは『The地球防衛軍』『3年B組金八先生』の二作でしょう。

 『The地球防衛軍』はとても2000円とは思えない圧倒的なクオリティをみせつけることによって、ゲームの産業構造そのものに少なからぬ波紋を投げかけたのは誰もが同意するところでしょう。『3年B組金八先生』は、そもそもゲームとして評価すべきなのかどうか…やるドラのようなものをやったような印象が強い作品でしたが、こういう作品がチュンソフトから出て、流通しはじめるというのはとても面白い事態です。

 以上、簡単でしたがこんなところで。

*1:本年度に発売されたものではありません。

*2:特に順位はつけてません