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2004年11月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

デスノート4巻 と 「罪を犯す自由」。

DEATH NOTE (4)

 本格ミステリマンガとして目下大ヒット中の本作ですが、今まで「頭の良さ」をがんばって描いてきただけに、今回はそれが反転する形で「頭の悪さ」の感触というのをリアルに描くことにものすごい成功を収めていて楽しいです。ここまでミステリ中心にゴリゴリやってきたところに情をゴツンと盛り込んでしまうあたりも素敵。

 それと、ソシュール的に言えばありえないはずの言霊実在論みたいな部分もお話としてかなりハッチャけてるんですが、他の部分でも思考実験的に読んでもイケるなあ、とか思いました。

 具体的に何が思考実験的に読みうるかというと、警察がキラを非難するときの口上ですね。

 このマンガで登場する犯罪者「キラ」というのは、まあ言ってみれば死刑推進論者が、いきなり神になってしまって実際に死刑をガシガシとやってしまっている人なわけです。もちろん、そんな人がいたら近代国家的には、マジかよ、と。ありえないYO!、と。そういう存在だからこそ、「キラ」は犯罪者として位置づけられている。

 とはいったものの、基本的には「キラ」が殺している人というのは、(おそらく)国家ごと、時代ごとの法制度によっては死刑になったり、終身刑になったり、懲役50年ぐらいになったりするぐらいの、非常に微妙な対象に対して「死刑」を執行している。「悪」の選定がそこまで独善的なわけでもなく、単に「死刑」のための基準ラインを少し低いところに設定したというぐらいに過ぎない*1。これが州知事時代のブッシュJrなんかはもっと大胆に低く基準ラインを設定してガシガシ死刑をやっていたりする。だけれどもブッシュの場合は民主的、法的な手続きを経て州知事となりこれをやっているから少なくとも「犯罪者」として扱われはしない。この場合に「キラ」が「犯罪者」である、ということを言うための論理というのは、(若干の議論の無理を承知で言えば)「手続き的に正当でない」という程度のことしか実はない。

 警察としてはそんなパッとしない論理を言うわけにもいかないので、もうちょっと派手にキラを「犯罪者」として扱うためにメディア上では、彼を「恐怖」として語り、四巻のP81には

「キラの恐怖から世界の人々を救う―――」

などといった言葉によって彼を非難する理由を用意するわけですが、一体、警察の言う「世界の人々」にとっての「キラ」の恐怖とは何なのか。

 少なくともそれは、罪を犯すこともなく日常的な生活を送っている人にとっての「恐怖」などでは全くない。「善良な市民」を救おう、という話をしているのではない。では誰を救おうとしているのか、といえば、「キラ」に殺される可能性のある重犯罪者や、将来自分が重罪を犯すのではないかという不安を持っている人を「救おう」といっていることになる。

 彼らを救わなければいけない、といっているというのは、言ってみれば、「ある程度の重罪を犯しても殺されない自由。生きていける自由」*2を確保しましょうね、と。そういう話です。

 一般的に言えば、それって言うのは必ずしも肯定も否定もしえないかなり微妙なラインの話なわけですけれども、これを微妙だと知りつつ、あからさまに「そんな自由はない」として行動してしまう人を取り締まるためには、「いや、その自由は認めなければいけないのだ」と一旦いってしまわなければ、そういう人を取り締まるための明瞭な論理を発見できない

 そういう描写がされているあたりを、なるほどなー、とか思った次第です。

*1:少なくとも一巻のはじめの時点では

*2:一言で一般的に言ってしまえば「犯罪者の人権」ですが。