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2004年06月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■恋愛ゲームのハイプ曲線
http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/nex18.htm
おお、なんかハイプ曲線グラフがキャッチーだ。このグラフは面白いっす。
でも、その後の分析がやや一方的ではないか、という印象を受けるので、図の説明がもっと充実しているともっとよかったのですが。
▼以下、具体的に、分析の中でひっかかった点を挙げます。
ときメモ=恋愛シミュレーション系や、同級生=フィールド移動アドベンチャー系が影を薄くしていった理由を「入力負荷とそれにより享受できるレスポンスの「快」のROI(投資対効果)」のバランスが悪いから「面倒」なので消え去った、という説明だけで切っていますけれども、そこんところは私の印象としては、消費者層がマニア化していったというか、消費形態を特化させたユーザー層が顕著になってきたから開発サイドもそれを見込んで作品内容を特化させていった(あるいはそういう特化させたものが自然と生き残っていった)ではないか、と思うんですが。
例えば、私なんかの場合、同級生は確かに面倒だったけど、ときメモはまあそこまで面倒だったという印象もなくて、むしろ『Air』『Kanon』とか『雫』『痕』といったいわゆる葉鍵系作品の名作と言われているもの方がものすごく面倒です。それはなぜかというと、私が、葉鍵系作品で語られる「キャラクタと物語の消費」をぜんぜんもとめないユーザーだからです。テキストを延々と連打して飛ばしてプレイしているために、もう何も楽しくない。(ってか、むしろ、何でやっているのか、という感じですが)
むしろ、『ときメモ』であればシミュレーションゲーム好きのプレイヤーとしてはある程度シミュレーションゲームの部分を楽しむことができたわけです(これは多分、私だけのことではなくて、「ギャルゲーオタに鉄槌を!」で知られたゲーム右翼であっても、「ときメモ」に関しては同様の文脈で肯定的評価を下していることからも、私のようなユーザーが決して少なくなかったことがわかります)。『ときメモ』や『サクラ大戦』などのギャルゲーは、現在の葉鍵系ユーザーのような存在ばかりではなくて、女性のユーザーもそこそこの数を獲得していて、ライトユーザー層にもある程度ウケがよかったかと記憶しております。ライトユーザーをある程度獲得できた、というのも、『ときメモ』『サクラ大戦』が「キャラクタと物語の消費」だけに特化せず、窓口を広めに設けていたからこそ、多様なユーザーにとっての「快感」を提供しえたのではないか、と。
もっとも、LovelessZeroの秋風さんが分析する時の観点が、完全に「恋愛系ゲームユーザー」という特化された層からの反応のみをベースにして議論しているのならば納得できる話で、恋愛系ゲームユーザーにとってみれば、「キャラクタと物語の消費」がメインになるので、『ときメモ』が飽きられたという説明は理解できます。
ただ、その前提が抜きだと、ギャルゲー、エロゲーのような文化的ポジションが特殊な位置にあるものを「入力対快感のバランス」というモデルで語るとなると、一般的に測定可能な「入力」を想定することはなんとか可能でも、「快感」を一般的に測定するのはプレイヤーの特性によってバラけるところが多いでしょうから、それを一般的測定が可能なもののようにして議論してしまうのは問題があるのではないでしょうか。*1
*1:ちなみに、「入力行為」そのものが快感である、という見方もできます。例えば、フライトシミュレーターのゲームなどであれば、<飛ぶ>という行為自体を求めてユーザーはプレイするという部分が強いので、目的(快感)-手段(入力)という構図が成り立ちにくいソフトだといえます。