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2004年06月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■CEDEC2004の申し込み開始したそうです。
ゲーム開発のための技術・ビジネス情報カンファレンスであるCEDECが今年度は9月6日(月)、9月7日(火)、9月8日(水)に開かれるそうです。
場所は工学院大学(西新宿キャンパス)。
申し込み期限は8月27日までとのことです。
(8月6日までに申し込めば優先割引あり)
■「テレビゲームとデジタル科学展」のウェブサイト開設されてます
上野の国立科学博物館で2004年7月17日(土)~10月11日(月)にわたって開催される「テレビゲームとデジタル科学展」の公式ホームページが開設されたようです。
http://www.kahaku.go.jp/game/index.html
ウェブページから割引クーポンをプリントアウト可能。
具体的にどういったこころみで開かれるのかがよくわかりませんが。
2004年06月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■パントマイムが熱い。
『スペースチャンネル5』や、『Rez』などでUGAへのアドバイザーとしても活躍していたというパントマイムの達人、荒木シゲルによる『荒木シゲルのアニメーションサイエンス』(DVD)をたまたま見る機会があって、ぼんやりと見ていたのだけれども、これは予想以上に面白い。
まずは、喜怒哀楽の詳細な表現パターンを人体でどのようにみせるかといったような「人体」をいかに記号的に見せるか、という発想を強力におしすすめ、次に、人体の記号化をいかにして破壊し、ズらしてみせるか、という形で議論をすすめる。単に身体の計測不可能性について語るのではなく、また、逆に身体の計測可能性についてのみ語るわけでもなく、身体のディテールに対して細かい解説を加えていく手腕が見事。
ここで荒木シゲルが展開しているような知識をまったく欠いていたのが、90年代後半の3Dポリゴンゲームの演出作法だろうと思います。
2Dの時代は、手塚治虫が「漫画記号論」という話をしていたのとまったく同様に、ゲームのキャラクター映像も「記号」のイメージだったわけです。それは単に、キャラクターがドットであらわされているという意味ではなくて、笑った表情だとか、悲しんでいる表情というのが、非リアル系漫画と同様に簡単なお約束ごとの集積として表現されているという点です。露骨なのは、目がアーチ型になっていれば「笑っている」の記号になり、それに水滴型の汗のマークが加われば「苦笑い」の記号になる、といったような。
それが、3Dになってから、いきなりそういう記号的表現をやめてしまった。それは、開発者の頭が悪いからやめたわけではなくて、2D的な記号表現を3Dに持ち越すことが難しくなり「できなくなった」からやめたわけです。そして、そのような単純な記号的表現をやめたところで、あらたな表現をきちんと獲得できたのか、というと、それには失敗していた(これは、例えば、FF8あたりの、8頭身キャラのぎこちない動きを見ればあからさまに感じる)。
最近になると、3Dでの身体を記号的に取り扱うための、荒木シゲル的な、3Dキャラクターの身体動作をいかに記号的に見せていくか、という知識が不可欠だということが開発者の側にとっても常識になりはじめ、ようやく見れるものになってきた印象があり、最近のグラフィッカーの人々は、当然のようにこの種の知識をもっているはずと思われますが、ここらへんの知識がきっちりと普及してきたのは本当にここ数年のことでしょう。
2004年06月28日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■TheBestシリーズの値段がすごい安くなってる!
あの『もじぴったん』がTheBestシリーズで出るという話を聞き値段を調べてみたら、なんと1800円!
この値段は驚き。どうやら、SCEIも、『The・地球防衛隊』のようなTheシンプルシリーズの登場を前にして、TheBestシリーズとの価格競争を意識しはじめたようだ。ちなみに調べてみたら、『ICO』『ぼくのなつやすみ2』*1なんかも1800円。これらの作品は、この7月発売のイチオシ商品といった模様。特に『ICO』を1800円にしたのにはかなりの本気度が感じられる。ちょうど宮部みゆきの小説版『ICO』も出たことだしね。時期的にいっても、ここでいっきに『ICO』の再ブームでも狙ってるんでしょうか。
あとは、もう半年以上前だけれども、『シャドウハーツ』なんかもなかなかの値段で売られていて、1980円。
*1:っていうか、これじゃあPSのBest版『ぼくのなつやすみ』の2940円よりも、安いじゃん(笑)
■TheBest vs Theシンプルシリーズのみならず。価格競争激化中。
調べてみたら、これも安いぞ。こちらはコナミ殿堂セレクション『サイレントヒル2』が1890円
ここ5,6年の中古ゲーム市場では1000円台後半の値段を出せば中古でTheBestシリーズレベルのクオリティの商品を購入することはいくらでもできたが、新品で2000円以下商品のクオリティがここまで高くなってくるとは思ってなかった。
シンプルシリーズも『The・地球防衛隊』クラスの作品をある程度コンスタントに出していかないと生き残りが図れなくなってくるだろうな。値段的に言えば、最近出てきた「ファミコンミニ」のシリーズも1000円台後半で勝負をかけてきていることだし。ライトユーザーの食いつきは4000円台のソフトでさえいままでのような食いつきが得られない状況だろう。
PS2とGBA以外のハードで、GameCubeだと、実売価格が2000円以下で売られている名作ソフトは、『ゼルダの伝説 風のタクト』が1000円台後半で売っているのをよく見かけるぐらいだろうか。
この価格競争では、個別のソフトは当然利益を見込んで値段をつけているのだとは思うが、ゲーム市場全体をみたときに、この価格競争が結果的にどのような状況を生んでしまうのだろうか。
2004年06月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■アクセス数が増えたと思えば森昭雄さん。
『ゲーム脳の恐怖』の書評を掲載して以来、たまになんかアクセス数が増えたな~、と思って調べてみると、ほとんどが著者の森昭雄さんが動いたときなんですよね。
また今回、佐世保の事件に関連して何かご発言をされているようでうちのサイトのアクセス数がググっと100/dayぐらい伸びたんですが、『ゲーム脳』に関しての一般的認知度はさておき、森さんご本人の一般的認知度ってのはいかほどのものなんでしょうか?発言するたびに注目をあびるほどのものとは思えないので、逆にゲームコミュニティの反応がすごく敏感だな、という印象を受けます。
2004年06月24日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ヤバイ。『GTAIII』がわかんない。
二ヶ月ぐらい前から、PS2で『GTAIII』を合計で30時間ぐらいはやっている(バイスシティじゃない方)のだけれども、ゲームで理屈を語る身としては微妙に気まずいことに、皆が言っているようなこの作品の面白さが今ひとつ体感的なところでわからない。
クオリティが高いのは、見りゃわかる。でも、ハマってしまう面白さってのがさっぱり響いてこない。まずいなー。ごめんなさい。
で、私としてはうーん、これじゃまずいな、と思って、誉めてる人の議論を色々と読んでみたんですが、どれもこれも「……そう…かな?」といった印象なわけです。
例えば、amazonのレビューを見るとこう書いている人がいます
朝。今日もさわやかに。さっそく自宅の前を通り掛ったタクシーを奪う。アクセル入れっぱなしで信号を悉くブッちぎる。過ってパトカーにぶつけてしまい、追われる。あせって崖を踏み外し、10m下へ落下。車は横転し大爆発。町の人たちが集まってくる所へ火炎瓶を投げ一網打尽。お金を大量ゲット。たまたま近くにギャングのアジトが。パトカーを奪い、サイレン鳴らして突入。逃げ惑うギャングを轢き殺しまくる。夜、スクラップ同然のパトカーを自宅のガレージに入れ、眠りにつく。以上のことは、全てゲーム本編と何ら関係のない所で行う事のできる遊びだ。ゲーム内に社会的、物理的なルールがしっかり構築されていて、邪悪な想像力を働かせればどんな凶悪犯罪者にもなれる。
まあ、こういうタイプの「自由(度)」がすばらしいことを強調するというのがよく言われているところでしょう。Game Studies(http://www.gamestudies.org/)に掲載されている、Ludologyで有名なGonzalo Frascaの長文(http://www.gamestudies.org/0302/frasca/)も、私とは違って、素直に『GTAIII』を楽しめたようで、なぜ、『GTAIII』が楽しいのかということを『シェンムー』との比較分析の上で頑張って議論してます。基本的には、上に引用したレビューの路線で丁寧に議論しているといった印象で
具体的には
- (1)シェンムーと違って、可能な行動/命令される行動をやっている時に全てが退屈ではない。一般的なゲームの場合は「手段」でしかないような、車での「移動」というアクションすらGTAIIIでは面白いものに仕上がってために、「おつかいをさせられている」感じが抜けている。
- (2)NPCから人格が排除され、無機質なオブジェクトとして成立させていること。シェンムーの場合は、ハエの幼虫程の知性しかないようなNPCと面倒な会話をさせられてウンザリするが、GTAIIIのような人格のないオブジェクトとのインタラクションの方がよほど楽しい。(殴り殺すのに躊躇もいらないし)
- (3)目標や物語を押し付けられることがない。ミッションを受け取るためのボスは一人ではなく、好きなときに好きなボスからのミッションをやればいいし、ミッションを行わないことすらたいした問題ではない
といったことを挙げて、結論としてはやっぱ押し付けられる物語のあるゲームよかプレイヤーになんでもさせてくれるシミュレーターみたいなゲームのほうがいいよね(と言っているはず。私の訳が正しければ。)と結んでいます。
いやー、でも、私の感想としてはそれを読んでも「そうなんだー。へー。」って印象しかなくて、やっぱりもともとの面白かった、という体験自体を共有できていないなあ、ということを確認するだけ。
私の思うことはGonzalo Frascaさんとは全く逆で
- (1)シェンムーのほうが作りこまれていて「おつかい」させられてる印象は少なかった。むしろ、GTAIIIのほうが「おつかい」させられている印象モリモリ
- (2)シェンムーのほうが、奇妙な受け応えをリピートする人々に囲まれてシュールな世界に迷い込んだような味わいがありました。人格が完全に削ぎ落とされたNPCを殺しても、淡白すぎて、すぐ飽きた。虚構世界がそこに存在しているかのようなリアリティを感じないことには、手触りの空虚な世界に対しては働きかけをしようという意欲がわかない。
- (3)目標を押し付けられないのは結構だけれども、目標を押し付けられない場合には、他にやりたいと思えるようなアクションが多数用意されていなければダメなわけです。私はGTAIIIで行うことのできる複数のアクションにはあまり魅力を感じることができなかった。
という感じでしょうか。
別にシェンムーをすごい支持するってわけじゃないのだけれども、GonzaloFranscaさんの印象とはぜんぜん逆だな、と。まあ、シェンムーを楽しめた人なんてマイノリティなんだろうけど、とにかく、いくら人の議論を読んでも、「体験が共有できないなー」というところにとどまってしまってます。
2004年06月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■ガンパレの移植版発売署名運動はじまったみたいです
2004年6月23日~7月22日の期間を設けて『GPMの移植、またはバグフィックス版の発売』の署名運動をやっているらしいです。
http://www.alfasystem.net/petition/
ガンパレは、発売して数年以上経つのに未だに中古価格が4000円を割らないという異例の事態に達していて、この中古価格に「需要が多いわりに供給が少ない」ことが如実にあらわれてます。むしろ、いままで移植がされてないのがおかしい。
2004年06月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■恋愛ゲームのハイプ曲線
http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/nex18.htm
おお、なんかハイプ曲線グラフがキャッチーだ。このグラフは面白いっす。
でも、その後の分析がやや一方的ではないか、という印象を受けるので、図の説明がもっと充実しているともっとよかったのですが。
▼以下、具体的に、分析の中でひっかかった点を挙げます。
ときメモ=恋愛シミュレーション系や、同級生=フィールド移動アドベンチャー系が影を薄くしていった理由を「入力負荷とそれにより享受できるレスポンスの「快」のROI(投資対効果)」のバランスが悪いから「面倒」なので消え去った、という説明だけで切っていますけれども、そこんところは私の印象としては、消費者層がマニア化していったというか、消費形態を特化させたユーザー層が顕著になってきたから開発サイドもそれを見込んで作品内容を特化させていった(あるいはそういう特化させたものが自然と生き残っていった)ではないか、と思うんですが。
例えば、私なんかの場合、同級生は確かに面倒だったけど、ときメモはまあそこまで面倒だったという印象もなくて、むしろ『Air』『Kanon』とか『雫』『痕』といったいわゆる葉鍵系作品の名作と言われているもの方がものすごく面倒です。それはなぜかというと、私が、葉鍵系作品で語られる「キャラクタと物語の消費」をぜんぜんもとめないユーザーだからです。テキストを延々と連打して飛ばしてプレイしているために、もう何も楽しくない。(ってか、むしろ、何でやっているのか、という感じですが)
むしろ、『ときメモ』であればシミュレーションゲーム好きのプレイヤーとしてはある程度シミュレーションゲームの部分を楽しむことができたわけです(これは多分、私だけのことではなくて、「ギャルゲーオタに鉄槌を!」で知られたゲーム右翼であっても、「ときメモ」に関しては同様の文脈で肯定的評価を下していることからも、私のようなユーザーが決して少なくなかったことがわかります)。『ときメモ』や『サクラ大戦』などのギャルゲーは、現在の葉鍵系ユーザーのような存在ばかりではなくて、女性のユーザーもそこそこの数を獲得していて、ライトユーザー層にもある程度ウケがよかったかと記憶しております。ライトユーザーをある程度獲得できた、というのも、『ときメモ』『サクラ大戦』が「キャラクタと物語の消費」だけに特化せず、窓口を広めに設けていたからこそ、多様なユーザーにとっての「快感」を提供しえたのではないか、と。
もっとも、LovelessZeroの秋風さんが分析する時の観点が、完全に「恋愛系ゲームユーザー」という特化された層からの反応のみをベースにして議論しているのならば納得できる話で、恋愛系ゲームユーザーにとってみれば、「キャラクタと物語の消費」がメインになるので、『ときメモ』が飽きられたという説明は理解できます。
ただ、その前提が抜きだと、ギャルゲー、エロゲーのような文化的ポジションが特殊な位置にあるものを「入力対快感のバランス」というモデルで語るとなると、一般的に測定可能な「入力」を想定することはなんとか可能でも、「快感」を一般的に測定するのはプレイヤーの特性によってバラけるところが多いでしょうから、それを一般的測定が可能なもののようにして議論してしまうのは問題があるのではないでしょうか。*1
*1:ちなみに、「入力行為」そのものが快感である、という見方もできます。例えば、フライトシミュレーターのゲームなどであれば、<飛ぶ>という行為自体を求めてユーザーはプレイするという部分が強いので、目的(快感)-手段(入力)という構図が成り立ちにくいソフトだといえます。
2004年06月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『WinningPost5』がやたらダサいのはなんでよ。
競馬ゲームでは、ゲームをするのと同時並行で勉強したり、本を読んだりできるということを、『ダービースタリオン』をやってみて強く思い知ったので、『WinningPost5』(2002,コーエー,PS2)を980円で購入。*1
『ダービースタリオン』と比べればいろいろなことができるし、やっていてつまらなくはないのだが、何よりも閉口してしまったのが、美術スタッフのクオリティの異常なほどの低さである。ゲームをはじめて何よりもはじめに、「ダッサ~…」と呟いてしまった。
もっとも「レースシーンの映像を3Dでリアルにする」という部分だけは努力が払われているが、それ以外のインターフェイスまわりや、フォント選択、2Dの人物グラフィックスの水準がとても一流のゲームブランドが発売している名前の知れたゲームの水準とは思えない。(予算も開発期間も人材も足りていないようなタイプのクソゲーの水準と言ってよい)
たとえば、何の意味もないところで色々な種類のフォントを使ってみて、無駄に見にくくしていたり、リアル系グラフィックを使ってもドッターのレベルが低いために、処理がひどく汚くみえてしまったり、といった部分が至るところにある。
コーエーの他の作品は、確かに『NeoAtlas』や『エアーマネジメント』をやったときも、決してまともな水準の美術スタッフがいるとは思えなかったが、本作は特にひどい。美術・デザイン関連の素養が限りなくゼロに近い素人のおっさんが、とりあえず時間だけはかけて作り上げたといった風情を漂わせている。
しかし、おそらくこのゲームを主にプレイする層*2にとっては、このダサさは大して問題にならないということなのだろうか?そして、当然、コーエーとしても、それを見越してこの水準でかまわない、ということなのだろうか?
例えば、『Kanon』『Air』のようなギャルゲーの場合は、絵がヘタレであっても、あれはあれでああいう絵が喜ばれる世界があるのだろうけれども、本作の場合は、このセンスが喜ばれる層がいる、というイメージすらわかない。少なくともコーエーの美術スタッフの軽視っぷりには私はついていけない。
*1:内容が変わらずにバージョンアップを続けるタイプのシリーズは、最新作でない限り中古の価格が異常に安いという状況にある。たとえば、『ウイニングイレブン』シリーズなどでも、これとまったく同じ状況が生じていて、現段階で、『ウイニングイレブン7』が最新作のため『ウイニングイレブン6』の中古価格は480円ぐらいが相場である。(7の相場は3000円ぐらい。)
*2:どこらへんの人がやるんだろう?
2004年06月13日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■『最強伝説黒沢』3巻はすごい。だって、シートン動物記ですよ!
古谷実*1や、蓮古田二郎*2などよりも、問答無用に中年の「負け組」人間を描く『最強伝説黒沢』だが、今回の「『シートン動物記』に感動した!!」という描写は圧巻。
文脈としては、ボロボロな人生を生きてきて、仕事の同僚である工事現場の若者達に対しても決定的な醜態をさらけ出してしまった主人公のおっさんが、生きる気力を失ってフラフラとしているところに、たまたま旅館の備品として置いてあった『シートン動物記』を手にとり、動物達の生き様と現在の自分を重ね合わせて大感動してで立ち直るという話。
ここでいきなり『シートン動物記』という予想だにつかないもののがいきなり登場してくることのリアリティに対して、異常な説得力を感じる。
こういう表現を出してこれるってうらやましい。
2004年06月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■amazonレビュアーの投票システムはアテにならない。
自分がアマゾンのレビューシステムに少し加わってみたことでいくつかわかったことがある
(1)アマゾンのベスト××レビュアーというシステムには、大した意味がない
- レビューに対する、「参考になった」票-「参考にならなかった」票の合計数が問題なだけなので、レビューの質でランキングされているという側面はかなり薄い。ベスト1000レビュアーとかベスト500レビュアーになりたければ、単に数多くの人の目にレビューが触れるようにして、誰にも反感を買うことのないようなレビューを書かないようにしていればいい。そうすれば、わざわざ、「参考にならなかった」という票を入れてくる人もいなくなり、「参考になった」人の合計数だけが貯まってくるのだから。(あるいは、反感を買うようなレビューについては匿名 or 別名でやるとか。反感を買ったレビューについては、あとになって削除していくとかしてもいいかも。)
(2)「このレビューが参考になった」はい/いいえ をつける人は参考になったから、「はい」をつける、というよりも同意見だったから「はい」をつける人が多い(っぽい)
- これは一概には言えないけれども、「お、そうそう、そうだよ、キミ、わかってるねー!」っていうノリで得票をできることがかなり多いようだ。別に、良し悪しに関するきちんとした理由を述べているわけでもなければ、参考になるような予備知識を書いているわけでもないようなレビューであっても、「参考になった」票を得ることがかなり多い。
- 『塊魂』のレビューなんて「イイ!!」みたいなことしか書いてないのに、だいぶたくさんの人に、「参考になった」らしいし、『ハリー・ポッター』は、「私は楽しめなかった+現代的な話だな、と思った」と書いただけなのに、たくさんの方の反感を買ってしまったようで、「参考にならなかった」票をたくさんいただきました。
2004年06月09日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■amazonのレビュー掲載可否の手順はけっこう人為的のようだ
先日(6月1日)、「バカ」という表記をいれたレビューがamazonに載らないのでは?ということを書きましたが、どうやらだいぶレビューを投稿してから、一週間して掲載されたようです。ただし、完全にそのまま掲載されたわけではなくて、
- 「なんて不快なバカなんだろう」という表現が「なんて不快なんだろう」という表現に変更
- 「バカにしていたが」という表現はそのまま
という処理が施されておりました。多分、「バカ」は完璧にNGワードというわけではなくて、とりあえず、チェック対象になり、それをamazonの人が読んで手を加える/加えないというのを決めるのでしょう。
また、★5の評価を下したものがすぐに掲載されるのに比べ、★1や★2の評価を下したものについては掲載されるのが遅いという傾向があるようです。おそらく、これについてもamazonの人が評点の低い作品についてはレビューに多少は目を通した上で掲載の可否を決めているのでしょう。
Webのデータマイニングの象徴的存在とも言えるamazonにあっても、これだけは自動化してフィルタリングにかけることもできないようで、amazon社員の方は大変お疲れ様です。
2004年06月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)
■と近況報告
- ゲーム批評用語と、ゲームクリエイター小事典を大幅に更新しております。
- アマゾンで書評をちくちくと書いてます。
- http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/cm/member-reviews/-/A2IB1XMR2K45LZ/1/ref=cm_cr_auth/249-1494732-6707512
- しかし、アマゾンの書評、結構掲載してくれないことが多いみたいですね。多分「バカ」がNGワードなのか、「バカにしてたけど本作はすごい」とか書いた書評が2つぐらい掲載されてません。
- 来年無職になったらどうしよう。
■ウェブページの更新に関する規範
半年以上更新してなくてすみません。諸事情で更新できない日がちょっと続いて、その後もちょっと更新しないでいたら、どんどんと更新しにくいなあ、という気分が積み重なっておりました。
もしかすると、今年度はこんな調子かもしれません。
そして、二重に申し訳ないことは、私の中で「更新をしなければいけない」という規範が内面化していないことです。つまり、「申し訳ない」という感覚が希薄であることが、申し訳ない。
たとえば、テキスト王の工藤さんが3月1日の日記で語っているような種類の、毎日訪れる「お客様」を意識した「テキストサイト」をやっているんだ、みたいな意識は私にはほとんどないです。それじゃあ、blogの人か、と言われるとblogの人だという意識もないわけですが。