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ビデオゲームをめぐる問いと思索 http://www.critiqueofgames.net/

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2003年04月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

日記の

日記のほうをはてなダイアリーさんの方に移行しましたので、"http://muchan.net/diary/a_inoue/"のほうに直リンクしてた方々は、URL変更をお願いします。

はてなダイアリー

○ちなみにこのはてなダイアリーは、トピックごとにまとめ読みができるらしいのですよ。ビデオゲームの話題ならば、ビデオゲームで。更新情報ならば、更新情報で。例えば、上の太字部分の[web]をクリックすると、web関連の日記のネタが全て見れるらしい。

○あと、同じキーワードに注目している日記どうしをつなげたりする機能だとか、他の日記に参照された場合、そこで「参照されました」という情報をかなり細かくデータとして出力してくれるんだそうな。すごいですねい。

Webcat

 それと、下の方にWebcatの検索機能つけときました。全国の大学図書館の所蔵目録がほとんど出てくるというスグレものです。とりよせはできませんが。

深夜放送をする番組をもうちょっと選ぼうじゃないか。

夜中の三時にNHK教育つけたら『さわやか三組』やってて、なんかビビッた。丑三つ時にさわやか三組はないだろ。こわいよ。ちょっと。「さんさんさん♪さわやかさんくみ~♪」って、言われても夜中の三時だよ。あなた。

2003年04月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ニュールーマニア

友人宅で、『ニュールーマニア』*1を少しやらせてもらう。ネジ最高。

パナウェーブ研究所、じゃなくてクリスト&ジャンヌ=クロード

白装束の集団(パナウェーブ研究所http://www.panawave.gr.jp/)が、そこらじゅうのものに白の布をはりめぐらせているのを見ると、多くの人が思い出しただろうが、やっぱりクリスト&ジャンヌ=クロードの「作品」を思い出してしまう。以下、パナウェーブ研究所の話とはまったく関係ない。

 クリスト&ジャンヌ=クロードのドイツの旧帝国議会議事堂をまるごと梱包するというプロジェクト《梱包されたライヒスターク、ベルリン、1971-95》WRAPPED REICHSTAG,BERLIN,1971-95の公式記録映画『議事堂を梱包する』という映画を前にみたけれど、あれは24年がかりのプロジェクトで、当初はドイツの政治家に反対されたりして何度も却下されたりしていたが、頑張って政治家連中に働きかけ、ドイツ国会を動かし、なんとかして国会で可決されるまでもっていくという、おそろしい情熱と粘りをもって行われたプロジェクトの記録だった。だいたいプロジェクトの総費用10億円という巨額の資金が、スポンサーも助成金もなくすべてクリスト個人の努力によって資金調達がなされている、というのも驚く。

 クリストのこのプロジェクトは傍からすれば、その気力は一体どこから湧いてくるのか、という不思議さに満ち溢れているけれども、特に奇妙に聞こえたのは、記録映画の中で「芸術の自由」という言葉が声高に叫ばれていることだった。

 彼らは、あくまでドイツ国会の承認を得ることにこだわって、きちんと現代社会の中で許容される手続きに沿って活動をしているわけだし、金も人手もとんでもなくきちんとした量を集めてやっていて、そこで成立している「自由」というのは全然ストレートな意味においてではない。そこで言われている「自由」は時代的・地理的な特殊性と結びついた意味での「自由」である。だから悪いとかいいとかという話ではないが、どうしてここで「自由」などという言葉が叫ばれなければならないのだろうか、というのがとても不思議な気がした。そのような言葉でなくても、いくらでも言うことはあるだろうに。

 ――強引にパナウェーブ研究所の話とからめると、パナウェーブ研究所の作り出した白い空間は、クリストのそれとは違って、カップメンやらなんやらのゴミが山積しているのがとても印象的だった。

 あれを宗教芸術と呼んでしまっていいかどうかは微妙だが、宗教芸術とかの世界っていうのは、その内部で生きる人々の生活と直接にかかわりながら微妙にダサく――というか生活臭を漂わせながら存在するもんなんだなあ、と。

2003年04月28日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

『久遠の絆 再降臨』(DC)

 粗いくくりで言わせてもらうならば『Air』『Kanon』系と言いたい。(そっち系が好きな人に言わせれば、全然違う作品だとは思うが)

 私にはついていけない世界。

 ついていけない世界であるがゆえに、この手の作品がどういった次元で「いい」「悪い」という評価をうける基準となっているのかもよくわからない。

2003年04月26日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

『メダルオブオナー』(PS2)

 いい作品だとは思うのだけれども、方向性にちょっとだけ違和感がある。やりたいことがわかるような、わかんないような。

 まあ、一面なんかはそのまんま『プライベート・ライアン』だし、アンケートハガキにも「『プライベート・ライアン』はご覧になりましたか」と書いてあるように、『プライベート・ライアン』がやりたかったんだ、ということはわかるのだけれども、『プライベート・ライアン』をどのようなものとして表現したかったのか、ということがよくわからない。

2003年04月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

椹木野衣『増補シミュレーショニズム』

 半分読了。っていうか、現代美術用語があまりワカランので激しく飛ばし読み。 面白いっちゃ面白いのだけど、ストレートに説得されるとかという意味での面白さというよりも、この本自体を「資料」として読むのが面白い、という感じだなあ。 ボードリヤールの話がこういう風に、再構成されたりもするんだなあ、と。ボードリヤールの応用例の一つとして面白い。

 あと、思ったことの半分はここの書評とかと近い。 心を鷲掴みにするような表現に満ち溢れてるけど、議論粗いよな、とか。単なる歴史の読み替えにすぎねぇんじゃねえの?とか。

 でも、まあ、これ読んで、もうちょっと美術史とか、芸術論とかに足を踏み込んでみようかな、と思いました。というか、今までが知らなさすぎなので。

2003年04月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

『スーパーギャルデリックアワー』

 バカギャルゲーなのではあるけれど、

ENIX+Polygons(http://polygons.tv/)+WaveMaster(http://www.wave-master.com/

 という強力タッグで、けっこー意外によくできてる。

 つまんないっちゃー、つまんないんだけど、深夜番組くさい雰囲気とか、連打ゲーとか、下らないものをまさに下らないものとしてキチンとつくってある。不毛だけれども。

2003年04月21日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

中森明夫が1983年に書いた文章。

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Bingo/1049/people/otaku.html

"おたく"という言葉の起源が中森明夫が1983年に書いた文章だということは知ってましたが、現物ははじめて読みました。

2chテンプレ

http://hocchie.tripod.co.jp/2chlog/RPG.html

 2chのゲームサロンでされている「RPGの問題点と今後の方向性スレ」のテンプレート。なんかうちのサイトもリンクされてるみたいだけど、全部読む気力&時間は流石にないかも。

2003年04月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

谷徹『意識の自然』

 第一部第三章で、イデアリテールと、リアリテールという用語が何を言っているのだかさっぱりわからなくなり脱落。わかる人いたら教えてください。

『ワールドネバーランド』リバーヒルソフト(PS 1997)

 20時間ぐらいプレイしたところでいいかげんに疲れてきた。

 本作品の副題は“Experience of fiction Life”で、数百人のNPCがガンガン動き回り、プレイヤーは、恋人をつくるなり、修行にいそしむなり、クエストを解くなり好きなことをやればOK。

 まあ、言ってみれば、『シムピープル』や『ガンパレードマーチ』をしょぼくした感じの一品。好きなことをやれるといっても、やれることはあまり多くない上に、かなり単調なので、『シムピープル』や『ガンパレ』に浸かってしまった人間にとっては、微妙につらい。

 ただ、『シムピープル』や『ガンパレードマーチ』よりもまちがいなく勝っているといえるのは、NPCの数。これだけのNPCを同時に動かしているというのは正直スゴイ。もっとも、これだけたくさんのNPCを登場させてしまったがゆえに、一人一人のNPCがあまりにも単純な「プログラム」くさくなってしまっていて、プレイヤーの中にフィクションの世界としてのリアリティを喚起させるのにあまり成功していないのだけれども。

 まあ、「たくさんの人間」が同じ世界の中に“いる”というのは、正しいといえば正しいのだけれども、我々の日常で、密接に関係を持つ他人っていうのは少ない人なら2~3人、多い人でも100人にはならないのではないかと思う。そう考えると、密接に関係を持つ他人である5人~15人ぐらいがきちんとしたキャラクターを持って登場していればまずはそれで十分なんじゃないか、という気がする。ただし、それだと世界を構成しているのがそこに登場している「5人」だけという雰囲気で、どうもものたりない、というのならば親密な他人よりももっと力を抜いた形で(インタラクティブな振る舞いをしない形で)遠くにいる他人を描くとかしたらどうだろうか。

 少なくとも100人のAIをぜんぶいっぺんに動かす、というのはあんまり手法として成功していないように思う。10人だけにフルパワーを使って、20人ぐらいはちょっとインタラクティブなふるまいをするだけ、80人ぐらいはテキストデータと画像データが貼っ付けられているだけとか。