4月 19日 土曜日
木尾士目『げんしけん』(2002)
90年代後半〜の「オタク」の“典型的”人物像および、彼らによって構成さるる「現代視覚文化研究会」なるサークルを忠実に描いた作品。
ただし、この作品を読んで面白いと思えるためには、ここで描かれている「オタク」本人か、あるいはその周辺の人間(友人や知り合いにそのような人物がけっこういる)でないとネタをわかった上で楽しむことがまず困難。連載誌アフタヌーンの読者層はまさにそのような人たちによって構成されているだろうから予想されるようなウけ方をしたのだろうけれど、この文化圏をまったく知らない人からすれば、まったく違う読まれ方をするのだろうなあ。あと20年経ったら、絶対に注釈なしでは読めない一品……だと思う。むしろ、20年後も「ハイハイハイ。あのお約束の言葉ね」って感じで読まれてしまっっていたら怖いものがある。
4月 18日 金曜日
●東浩紀と小川びいの往復メール
http://www.st.rim.or.jp/~nmisaki/topics/btoazuma.html
不毛なやりとり。暇人用。
誰をどう「オタク」とカテゴライズするかなんてどーでもいー話じゃないか、という東浩紀の感覚はとてもとてもよくわかる話だが、まあ「オタク」のカテゴライズに拘泥する人々を刺激するような仕事をしているのだから、まあこういう疲労感に襲われるやりとりをしなきゃならんというのも、ある程度は仕方ないことでしょうな。ご苦労さまです。
しかし、東浩紀も近況報告(→http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/prof/profile.html)がいつもちょっと喧嘩腰なものが多すぎる。まあ、それが人を惹きつける芸でもあるのだろうけれど。
ちなみに、私自身はこんなサイトを持ってるわけなので「オタク」と眼差されれば、それをむりやり拒否はいたしませんが、自身が「オタク」だという自意識も持っていませんし、サブカルの人だとかそういう自意識もございません。まあ、そういうカテゴライズはめんどくさいのでどうでもよいと考えることにしております。
●ついでに、
「彼らのモチーフは、要は、1980年代の渋谷をいかに克服するか(あるいは、すでに克服されたことを証明するか)なのだ。そして、それは、僕自身の『動物化するポストモダン』とも深く通底するモチーフである。」(http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/prof/profile.htmlより)
と書いてあるけれど、「Xを克服する」などという思考の型で考えてしまうこと自体がすでに「X」に強く規定されてしまっているのでは??
どうして「克服」という言葉によって思考されなければならないのだ???
●田中克彦『チョムスキー』について(>T.Aくん)
http://members.jcom.home.ne.jp/nohoho/tanaka.html
当該書籍を知らない人にはどうでもいい話だけど。田中克彦ファン用。
4月 17日 木曜日
●ナムコがセガに合併申し入れ
http://www.asahi.com/tech/asahinews/TKY200304170137.html
●世代論とか時代論とか(4月10日からの続き)
10日に書いたことに微妙に反応があったので、ちょっと考えを整理しなおして続きをば。(議論の構成がだいぶ違うものになってますが)
ま、興味のない人は読み飛ばして。
***
東浩紀の時代論は動機がわかるが、岡崎のはよーわからん、と書いたのは、東のような「理解し難い他者」(=『Kanon』や『Air』に泣き崩れる「オタク」)のリアリティを「説明」し、イメージするための世代論、時代論というのは普通に理解できる話だな、と思ったのですが、岡崎京子の世代論、時代論というのは、必ずしもそういったような、違う世代を理解したり、説明するための方便としての世代論や時代論という構造をなぞっていないように思えたから、と言ったらもうちょっと正しいでしょうか。(※とかゴタゴタ言っても、他には『pink』と『リバーズ・エッジ』ぐらいしか読んでないのですが)
***
・まず疑問の一点目:他者表象と自己表象の関係性
『ジオラマボーイ・パノラマガール』の書かれた当時の著者の「25」っていう年齢は、どこまでが「自分とは違う世代」のこととして女子高生を書き、どこまでが「自分と同じ時代的雰囲気を共有した世代」として女子高生を考えていたのか、というのが不思議な感じがしたのですよ。
整理すると、
1.他者表象のための手段としての世代論(若者論とか)
2.自己表象のための手段としての世代論(自分達の世代論)
というものの関係性がどうなっているのかな、と。
まあ、“普通”の「若者論」とかであれば、他人である「今の若者」をある特定の型にはめて語ることで、それとは対照をなす異なった特性をもったものとして語り手たち自身の世代を表象するというシステムだと思うのですが、25の岡崎京子が描く「女子高生」は、半分は他人のことを描いているのだけど、半分は自分のことを語ろうとしているような感じかなあ、ということをなんとなく思ってしまったわけです。それってなんか奇妙な話だと思えてしまった、ということが一点。
つまり「若者」は「私たち」を反射して映し出す鏡ではなく、直接に「私たち」の一部でもあるという感じですな。でも、微妙に鏡にもなっているという不思議さ。
***
・疑問の二点目:「私たち」の成立と、「私―私たち」の関係
単なる感想ですから、論理的には飛躍しますが、もし、そこで語られようとしていることが、必ずしも「彼女たち」という他人ではなく「私たち」というものであるとしたら、そのような「私たち」を語ろうという発想ってのは何なのだろうかと。
「私」を語ろうとする感覚というのは「本当の自分探し」などというアレな話にいかなくとも、その時々の自己評価、自己規定を求める欲望として、理解可能な話なのだけど、それが「私」ではなく「私たち」という複数形になるのは何でなのかが不思議だということ。
ストレートに考えるのならば、「私」を語りたいのならば、「私たち」などと複数形のものを語らないで、そのまま「私」を語ればいいではないですか。――と考えられるわけですが、それが、どういうわけだか「私たち」という複数形になってしまう(※それはただ単に「私」のことを語っても他人から読まれることはなくって、「私たち」のことを語らなければ他人に影響力を与える媒体にはならないから、という程度の理由かもしれないけれど)。「私」の延長としての「私たち」をそのようなくくりとして成立させることで一体何を語りうると感じているのか。
***
・三点目:「世代論」と「時代論」の関係
また、「私たち」の語りが「私」の語りへと回帰することの不思議と同時に、「若者世代」を語ることが「時代」を語ることへと回帰することの不思議というのもあって、「時代論」を語るときに、もちろん若い世代が時代の影響を敏感に受けるというのは、否定しえないことにせよ、当然、若者以外にも30代、40代の語り手自身も同時代人なのだから語られる対象から免れてしまうのはおかしい、というのがあるのにもかかわらず、「時代論」と「若者論」がイコールに近い感覚で成立してしまう。
そして、語り手にとっては「若者論」はあくまで「彼(女)ら」の問題に過ぎないと思うのだけれども、「時代論」となると「彼(女)ら」の問題であると同時に「私たち」の問題にもなりえてしまう。そういう奇妙さがある。
***
これをクソ真面目に「おかしい」とか批判したいわけではございません。
それよりも、疑問の二点目も三点目も結局は他者表象と自己表象の関係性の話でして、そこに成立している、鏡をこしらえようとしているのか、自分自身の身体をこしらえようとしているのか、――その両者が渾然と交じり合っているように見えてしまう「世代論」「時代論」のありようが私にとってはとても不思議で興味深く思えた、ということが、先日書きたかったことかな、と。
ま、だいたいこんなところで。
4月 16日 水曜日
●東京大学大学院情報学環ゲーム研究プロジェクト
全学自由研究ゼミナール「ゲームデザイン&エンジニアリング論」
http://www.igda.jp/utgs2003/
駒場でやるのだそーです。
●音信不通になってる、O田智靖くん、もしここを見ていたら連絡ください。(私信)
4月 15日 火曜日
●ある人が<批判的に本を読む>ということができなくて苦しんだとか、<批判的に本を読める>人がうらやましい、という話をしていたのだけれども、考えてみたら私はそういうことに苦しんだ経験というのはほとんどないかも。
それは、私が批判的な読みができるような教育を受けてきたとか、頭が良かったとか、そういうのとは関係なくて、ただ単に傲慢だったとか、エラソーな読み手だったか、そういうネガティブな要因に起因しているような気がする。これが単に性格的な問題でしかないとしたら、根っから真面目で謙虚な感じの人がそういったことで苦しいとか言っているというのはちょっと気の毒。
しかし、傲慢が過ぎると、<批判的に読む>というのを越えて、「こんな馬鹿の書いたもん読んでいられるか」という態度になってしまって“読まない”という選択をする人もいるから、そこのところはなんともいえないかも。たとえ読むにせよ、あまりにも著者のことを馬鹿にしすぎていると、“こいつは馬鹿だ”というカテゴライズが強力に働きすぎて、何を読んでもネガティブにしか受け取らないということもありうるので、そこのところは、まあ、難しいなあ。
●それにあと、どんなものにでも「批判」はなんらかの立ち位置をとれば常に“可能”ではあるわけですし。「批判的」な人間がはたしてそんなにエラいものなのか、と。
書き手のリアリティや論点をきちんと共有した上で批判できるというのならば確かにすごいかもしれないけれど、「批判的」であることの多くは単に傲慢なだけの場合がほとんどだと思うので、単に「批判的」な人なんて別にエラくもなんともないと思うのですが……
●でも、なんというか、傲慢だろうが謙虚だろうが、何か一つの分野に詳しくなってくれば、その分野について書かれたもののある程度のよしあしはわかってくるもんじゃないのでしょうか。
それにほんとに妥当な“批判”ができるためには、当該分野にある詳しくならないと、なかなか難しいものでしょうし。そんなに心配することでもないのでは?
4月 14日 月曜日
●黒田硫黄『セクシーボイスアンドロボ』第二巻(2003)
これは今までの黒田硫黄作品の中でも随一かもしれない。
4月 12日 土曜日
●吉田戦車「吉電」
http://kodansha.cplaza.ne.jp/yoshiden/
4月 11日 金曜日
●や、桝山寛さん、今、こんなblogを付けてらっしゃるのね。
http://blog.neoteny.com/masuyama/
株式投資とかって、私にはぜんぜん面白さのわからない世界なので、そこに面白さを見出して、商品にしてしまっている桝山さんというのは素直にうらやましい。
「金儲け」とか、「社会勉強」とかそういったベクトルに回収されがちなものを、そういうところに回収しないところで楽しさをプッシュできている、っていうのもけっこう理想的。
4月 10日 木曜日
●岡崎京子『ジオラマボーイ・パノラマガール』
うーん、あー、まー、岡崎京子の作品だなあ、と。いった感じの一品。16、17ぐらいの、ぼさっとした女の子がなぜかゴダールを見ていたり、変に「時代的」であろうとして、微妙に失敗していたり、成功していたりするような感じが、岡崎京子っぽいなあ、と。
しかし、なんつーか、これが書かれたのって、もう1988年なのだなあ。「男闘呼組」などという、もう懐かしいやら、いつの話やら、という単語が出てきたり、「ナウい」がダサいとかなんとか言っていたり、もはや、15年も前の話なのだな。いやあ、古い。
1963年生まれの岡崎京子はこれを書いていた当時は25歳。当時の私はまだ小学生。そして現在、あと数年で私も25歳。いやはや。
私は、時代論とか、世代論っていうが、あんまし好きな人間ではなくて、岡崎京子的な時代論的なものの中で語られていることの当該内容自体については、はっきり言ってあんまり興味がない。それは、私が時代的な空気を感じることのできない「鈍感」な人間だからなのか、あるいはわざわざそれを「拒んで」いるからなのか、他人がこのことをどのように解釈するかはわからないけれども、まあ、とにかくあんまり積極的な興味はない。
(私の父親に至っては、青学やら赤学やら全共闘やら、内ゲバやらリンチやらの強烈な時代に若者だった世代なのにもかかわらず、そういうことにまったく関係がなかったらしく、その手の話をさっぱり知らない。)
たとえばそれを、学生運動とかインターネットとかの強烈な「事件」の経験と結びつけて、特定の層がそれに対してどう感じたか、という話をするのなら、それはよくわかるのだけれども、「時代」というような巨大な変数を設定して一体どれほどのことを言いうるのか、というと、やっぱりそれはあたりまえのようだけれども、冒険的な議論にならざるを得ない。――もちろん、「冒険」は「冒険」としては面白いといえばおもしろいし、説得力の如何を問わなければ読みうるのだけれども、私のヒネくれた興味としては、どうして岡崎京子はこういうものを書きたいと思ったのだろうか、ということの方が不思議でならない。なにゆえに、時代論みたいなことを書きたいと思うのだろうなあ、と。
メタメタな話ではあるが、岡崎京子は、時代論を書いて――その先に一体何が見えると思ったのだろうか。あるいは、何を見出したかったのだろうか。
東浩紀が、『Kanon』や『Air』に泣き崩れる「オタク」に対する「説明」を欲するリアリティというのは、とてもよくわかるのだけれども、岡崎の場合のそれは私にはよくわからない。
そもそも時代論とか世代論とかっていうのは、一体いかなる構造の中で発話されるものなのだろうか。
4月 9日 水曜日
●山口一郎『現象学ことはじめ』日本評論者(2001)
鷲田清一『現象学への視線』講談社学術文庫(1997)
谷徹『意識の自然』(1998)
という三冊の現象学の初歩の本(※谷徹のは違う)を同時進行でちょこちょこ読んでいるのだけれども、三者三様で、雰囲気が全く違って面白い。よくはわからないが、とりあえず、「現象学」を専門とする人の間でも、「現象学」を捉えるリアリティというのは、だいぶ違ったのもものなのだなあ、という感じをうける。
個人的には、巨大な体系構築への意志をはらんで明瞭な議論を展開しようとする谷徹の『意識の自然』っぽい発想のほうがなじみやすいのだけれども、鷲田清一の魅力というのもなんとなくわかる気がする。
4月 7日 月曜日
●ひさびさに、Shiftというサイトに行ったら、トップページに「NO
WAR」とか書いてあって、なんというか、アート畑の素朴ないい人感が漂っておりました。いや、素朴ないい人、というよりも、ヒネてるよーな、素朴なよーな、といいましょうか。
http://www.shift.jp.org/
●なんか、この「NO WAR」はアート系サイトでリング集的にやってるっものらしいのだけれども、ちょぼちょぼと見てまわったら、ここのサイト→http://members.vol.at/plateau/ の映像のもってき方がけっこう気に入る。"i
hate colors"の文字の使い方はもうちょっと工夫できるような気もするけれど、まあ、これは上手いなあ、と。
4月 6日 日曜日
●家族の気まぐれにつきあわされて、横浜動物園ズーラシアへ。
自宅から徒歩で約50分。
●中学生ぐらいの頃に、水族館とか動物園で、動物を「見世物」としてみるという文化がどうしようもなく嫌になってしまって、それ以来行った記憶がないのだけれども、まあ、今になってみてみると、動物園のデザインというのも動物のストレスをよくかんがえているもんだな、というのに気づく。
昔は、動物園というのは、どうしてこんなにも動物が見えにくいのだろうか。動物が隠れまくっているのだろうか。と不思議に思ったものだけれども、今考えてみれば、なんということはない。これは動物達のストレスを軽減するために、わざわざ客の目から隠れやすいように檻の中の生活空間を設計してあるのだな。
しかし、そうなると、動物園の運営者や飼育係にとって「客」というのは何なんだろ。動物にストレスを与える対象であると同時に、サービスを提供する対象でもあるわけで、それって一体、どういうもん何だ?
4月 5日 土曜日
●安野モヨコ『ツンドラブルーアイス』(2000、集英社)
なんかメルヘンチックで、かわいいもの好きの女の子の好きそうなお話。
作品としては、別にどうということもないのだけれども、安野モヨコ本人の「女の子」っぷりを感じざるを得ないという意味で面白い。まあ、普通に考えて、安野モヨコの作品といえば『ハッピーマニア』『花とミツバチ』あたりが彼女の作品のウリだと思うのだけれども、あそこらへんでわりきって商売を続けないで『脂肪と言う名の服を着て』とか『パトロール・QT』みたいな、なんともフォローの入れがたい作品を描いちゃう不思議さ、というのもまた彼女のなぞめいたところだった。
それが『ツンドラブルーアイス』を読んでみて、もしかしたら、なんつーか、この人単にわがままなだけなんじゃないか、という気がした。わがままな女の子が、「私はこういう作品を描いときたいんじゃあー!!」といっているだけなんじゃないだろうか。そうだ、絶対、そうに違いない。
それはそれで『ハッピーマニア』の主人公の生き方を地で行っているような感じの風景が想像できて、「あっはっは、安野さんはさすがだなあ」と。
4月 4日 金曜日
●椎名高志『GS(ゴーストスイーパー)美神極楽大作戦!!』 〜18巻まで
いやー、これはまた激しくわりきった感じの人だなあ。このくらいさばさばとした感じの人も珍しいような気がする。
●ちなみに、椎名高志さんも私と同じく「誰にも萌えないけど『サクラ大戦』が面白い」プレーヤーらしい。以下参照(椎名百貨店the
web [http://www.ne.jp/asahi/cna100/store/]内)
http://www.ne.jp/asahi/cna100/store/manga/sakura1/sakura01.htm
http://www.ne.jp/asahi/cna100/store/manga/sakura2/erikyu01.htm
3月 31日 月曜日
ご連絡
明日から一週間ぐらい、ネット上で連絡されても音信不通になるかもしれませんので、携帯の番号をご存知の方はそちらの方に連絡をお願いします。
3月 27日 木曜日
●ようやく〆切りに追われていたものを仕上げ、まあ、人様に顔向けできる、ということで、二ヵ月ぶりに日記のほう、更新させていただきました。
3月 26日 水曜日
●O先生いわく、
・はじめて書く論文なんて、だいたいみんなまとまりがなくなって破綻しているもの
・逆に<序論で述べられた論文の目的と、論文の構成がきっちりとまとまっている>ということの方が不自然に感じられる。――というかありえないことであって、論文の構成がきっちりとまとまって内容的にも充実しているものなどというのは、いくところまでいきついたような人でないと書けないもの
・内容的にきっちりと構成されているものっていうは、その後ろには97%とか98%ぐらいのものが捨て去れているものなんだし、最初のうちはアレも書きたい、コレも書いておきたい、となるのはむしろ当然だし、仕方のないこと。
とのお言葉をいただきました。
ハハー、そういうものなのでございますね、と、ただ感じ入っておりました。
●で、あと、似たような話、というのでもないのだけれども、Tくんが「(学者やら論壇人などで)雑食性でない人というのはむしろ信頼できない」と言っていて、「エッ?そうか?」とも感じた(※1)けれども、感覚的にはとてもよくわかるなあ、と。
ある一つの仕事をどれだけ専門性にこだわってやっていくか、というだけでなく、そもそも、ある職種を選択するということ。ある分野を選択するということ。自分特有のある「ウリ」を選択するということ。それらの全ての段階で、自分が選択しなかった数多くの可能性というのはあるわけで、自分が選択しなかった数多くの可能性というのが「一体どのようなものなのか」ということが、ある程度吟味されているのでなければ、自らの立ち位置に関して自覚的になることは難しいし、自らの立ち位置に一体いかなる価値があるのか、ということも本当のところはよくわからない。(※2)
なるべく完璧に納得しなけば気がすまないというようなある種のバカ正直さを持ち合わせたタイプの人というのが、まさにバカ正直にものを考えていこうとしたら雑食性に人間ができあがってしまう、というのは、まあ、そうなのかもしれないなあ。(※3)
10代前半の頃から「難しいこと」をぐちぐち言ったりして、まわりは皆バカだと思っているようなタイプのガキんちょであったU原は、去年会った時には「A=Bである」というタイプの主張を成立させるためにはやっぱり方法論上の問題を考えていかなければいけないんだ、ということで、統計学の分野に進むんだ、というようなことを言っていたが。まあ、私もU原と発想としては遠からず、「<P→Q>であるべきだ」という主張に根拠付けを与えようと思ったら倫理学だろ、と思ってしまって、倫理学に大きな魅力を感じたりしているわけだけれども。当のTくんにしても、おそらくは私と同じような文脈で(※4)倫理学に対して魅力を感じているようで、まわりを小ばかにして理屈をぐちぐち言うようなタイプで、この種の発想に落ち着く人は実はけっこう多いのかもしれないなあ。私も含めて。
(※1.インプットのレベルで雑食性でない人がいかがなものか、というのはわかるにしてもアウトプットのレベルでまで雑食性である必要はないよな、ということで。)
(※2そして、自らの立場がどのような価値をもつのか、というのは自覚的に認識されるよりも、多くの場合は他人から「あなたの立場は××という点で役に立つ(面白い)し、不可欠だ」というような評価を通して、なんとなく認識されていくものだったりするんだろうなあ。自分の立場の相対的な位置っていうのは自分だけではどうしたって見えないのだから、そのような他者の評価を経由してなんとなく認識してくしかないし。
ま、それに、何をやるにしても、「完全に主体的な選択」などというのはある程度のところまで嘘でしかないわけだし、どのようなタイプの人であっても他者の評価が、自己の相対的な立ち位置を確認するための手がかりとしては強力なものにならざるをえないだろうなあ。)
(※3.とは言っても、やっぱりそうじゃない人もいるのかもなあ。)
(※4.違ったらゴメン >T君)
3月 25日 火曜日
●「井上さんはゲームが好きだということは(アウトプットされたものの量から見れば)わかるのですけれど、しゃべっているのを聞いていても淡々としていて、どうもとらえどころがないという感じがするのですよね。
……
『はい。ゲーム好きですよ。それが何か?』という感じっていうんでしょうか…」
と、研究会の人に言われまして、大笑いしてしまいました。
「とらえどころがない」と感じられるのは、そのように感じる当人のリアリティの問題ですから、コメントがしにくいですが、「『はい。ゲーム好きですよ。それが何か?』という感じ」は私自身の、自意識のあり方としてはまったくそのとおりで、たしかに私自身そのように感じているので、あまりにも的確で面白かったのと、そのようにイメージされた私というのが、ベイグラントストーリーのシドニー似の指導教官O先生の持つ人間離れした感じからくる滑稽さにつながっているように思えたために、笑ってしまいました。
●「とらえどころがない」と思われるのは、つまり「X」について大量に語る人というのは、語られる対象である「X」についての知識や解釈を莫大に所有しているということのみならず、語られる対象「X」について並ではない思い入れを持っていて、そこにアイデンティティを賭けているのが普通だ、という認識があるからでしょうか。
ま、語る対象「X」について、人が驚くぐらいの量を語る、ということと、対象「X」について語り手がアイデンティティを投入しない、ということは、うちのO先生なんかを見ていても、まあ、それはそんなにめずらしいことじゃないのではないかな、と。
じゃあ、どうして、対象「X」について、それほどまでに、激しく調べたり考えたりするのか、と。そのテンションはどこから沸くのか―――というと、まあ性格的に、いささかサバサバしていることも手伝ったりしているのかもしれませんが、対象に対する接近の仕方というのが、他人が了解しやすいような、直接でわかりやすい接近の仕方をしていない、ということなのだろうと思います。確かに私の場合は「ゲームが好きだから、ゲームを語る」という接近の仕方ではなくって、もっと他の偶然的な要素の方が沢山はたらいた結果として、ゲームについて語っているのでしょう。
3月 22日 土曜日
●戦争反対に対するなかなかにやる気のないデモと、やる気があるんだかないんだかわかんないデモと、やる気に満ち溢れたデモと、やる気があるがゆえにデモなんてしない人と、まあ、そもそも、そんなものどーどもいーだろ、という人と。いろいろな人がいて、面白いですな。
ちなみに私は、戦争反対かと言われれば反対だけれども、デモとかはどーでもいい人。まあ、言うまでもない人には言うまでもないことかもしれないけど。
●ちなみに、私の周辺ではなんとなくだけど、<「人間の盾」とか「"No,War"とか叫んでいる人々」に対する反感を抱いている人>というのが目立ったような気がした。主に若いインテリ系青年諸氏の友人達から特にそんな感じの人が多かったかなあ。なんか意外な人が意外に熱かったりして驚いた。
わざわざ<反感を抱く>、とか<批判する>っていうのもなんだかエネルギーにあふれちゃってる感じがしてしまって面白い。その手の人たちっていうのは基本的には
1.戦争に対する苛立ち
2.デモをしている人たちに対する苛立ち
(「あんなことをして、何になるのだ」というような類の)
といういうような二重の苛立ちを抱えているようでして、私としては、そういう人たちに対して、ワイドショーのアホなコメンテーターの発言を許せないというような野暮ったさを感じてしまうのと、あともう一点として、全くスマートではありえない自らの状況に対する嫌悪感というようを彼らが共通して持っているような感じというのが、根本の発想がインテリくさいというかエリートくさい雰囲気をうける。「戦争に対して無力な自分」が苛立たしいっていうのは、そもそもの発想の立て方自体が(私からすれば)奇妙なところからはじまっているように思える。
そもそも誰も"スマート"なんかじゃたりえていないわけだし、私は"スマート"でありたいという発想をすること自体が、受け入れ難い。そのような形で、あなたがたが“世界に対峙する”必要などないでしょうよ。
●2chで「人間の盾を生暖かく見守るスレッド」というのが、立っていたけれども、これは面白い。少しぐらいヒネくり返った感性が交換され、安息しうる場所としての、2chという場所の機能がよく発揮されているように思える。
3月 19日 水曜日
●ほどなく戦争が起ころうとしているわけだけれども、今回の戦争は、全般にえらく不透明なのがとても不気味
戦争に対するなんらかの「説明」というのは当然、可能ではあるが、当分は、今回の政策決定過程が浮き彫りになるような説明にはお目にかかれなさそう。
●「9.11」は、なんだかいつのまにか、事件を起こした当事者たちの状況が「こういうものだったのだ」という説明が成立し終えているかのような印象になってしまったけれども、あの事件もまだ不気味なままだしなあ。
状況の展開の急速さを前にして一つ一つの事件があまりに不明瞭なまま過ぎていっているような気がする。なんだか、9.11以降、なにがなんだかよくわからなくなった。
3月 16日 日曜日
●「禁ゲー宣言」
http://members.tripod.co.jp/exgamer/
ここの管理人さんが、MMOに依存症的に関わることによって失ってしまったものが沢山あるというのは、よくわかる話なのではあるが、ギャンブラー・アノニマス協会の12ステップのようなものに向かってしまわれているということが、どうもやりきれない。
ギャンブラー・アノニマス協会のようなものではなくて、もっと別の組織によって「きちんと」されなければいかんよなあ、と。
3月 15日 土曜日
●『FF-TA』終了。まあ、こんな感じか、と。
『FF-T』と比べるとかなりよかったのではないかな、と。
『FF-T』の中にあった、『タクティクスオウガ』という傑作との関係性の中で悩んでいるように感じられる作り手の微妙な戸惑いというか、なんというか、そんなような感じとくらべると、遥かにすっきりと新しいステージに入っているような感じがして。おお、さすがは松野泰己だな、と。
3月 11日 火曜日
●中島誠一『触覚メディア』1999、インプレス
着想はともかくとして、書き上げられているものはひどい。自分の娘の自慢話とかそういうことが書かれている本はひさびさに読んだ気がする。
しかし、よくこれだけで一冊の本にまで引き伸ばしたなあ、と。
3月 9日 日曜日
●証明写真をとりに、近所のスーパーの隅にある証明書写真ボックスにいったら、なんかソフトウェアが高性能になってて驚く。
何度も撮影しなおして、好きな結果をプリントできるようになっているらしく、まあ、これで、不細工な顔の証明写真ができる確立は減ったわけだ。
公共の自分の写真は、いつも「この人は誰??」とか友人にもいわれてしまうぐらいに変な写真が多かったのだけれども、ついにその日も少し終わりに近づいたかと思うと嬉しいが、「変な顔で写ってしまった証明写真」というジャンル自体が消滅するのもちょっとさみしい。
3月 8日 土曜日
●入手困難の中、なんとかゲームボーイアドバンスSP入手。
これはすごい。
贅沢品かなあ、と思っていたけれど、これは、もう、ちょっと格の違う商品でございますな。
ライトがついているため、今までの携帯ゲーム機に比べると圧倒的に見やすい。(というか、見やすいとか、見にくい、とかそんなことをわざわざ意識することがないくらいに、よく見える。)
しかも、アダプターが標準で付属の上に、バッテリーつき&超長持ちのバッテリー。電池代やら、ライトやら、アダプターやらの周辺機器を購入することまで考えると、SPの方が経済的にもオトク。
これは、もう、月とスッポン。
今後、GBAを買おうというのならば、絶対にSPしかありえないね。ほんとに。
●で、何のために、買ったかといえば、『FF-TA』ですよ。アナタ。
ビバ松野。
3月 6日 木曜日
●茂内さんから貸していただいた『ゲームの大学(※難しい「学」の字)』をちょろちょろと読んでいるのだけれども、平林(久和)さんの、カイヨワの四分類の引用の仕方が、ちょっとマズイ。
細かいことを指摘するようではあるが、この平林さんの引用の仕方だと、カイヨワの書いていることとそもそもの話が違ってしまう。
平林さんは、
「分類する際、尺度としたのは、「遊戯者の意志が働いているか、いないか」(横軸)「ルールがあるか、ないか」(縦軸)でした。その結果彼は、人間の遊びは以下の四種類があると定義したのです。」(『ゲームの大学』145頁〜146頁)
と書いているが、それは嘘である。カイヨワ自身は意志・ルールの変数の有無を軸にして遊びを分類するようなことはしていない。それは、講談社学術文庫版の訳者解説358頁〜359頁の中で、訳者である多田道太郎がカイヨワとは関係なく勝手にホイジンガの議論を参考にして分類したやり方に過ぎない。カイヨワの分類のつくり方はもうちょっと直感的なものであって、「ルール」や「意志」といった変数が設定されてから行われたというようなものではない。
●カイヨワの四分類が完璧なものでもなんでもないことは、読めばすぐにわかることだと思うのだが、平林さんのような形での「遊戯者の意志の有無」「ルールの有無」というような、A対非Aの分類法によって、議論が展開されている、というような発想を植え付けられてしまえば、そういう錯覚が起こってしまうのもわからないではない。
だが、A対非Aという形の分類法は、「完璧」に分類をなしうるものではありえても、だからどうしたのか、という性質を孕みやすいものでもある。たとえば、地球上の全ての空間を「トイレである空間とトイレでない空間」だとか、そういう無意味な形であってもとりあえず<分類>をすることだけはほぼ完璧に近い形で可能になる。
だが、そのような単なる<分類>それ自体では、対象について考えるための手がかりとしては必ずしも機能しえない。そこのところを間違えてはイカンだろうよ。
●もちろん、カイヨワの四分類も、多田道太郎の行った分類方式も、興味深いものであることにはかわりないが、それを完璧だとかなんだとか、そういうふうに思い込ませるような書き方はやめてもらわないとなー。ちょっと。
2月 23日 日曜日
●新宿にて茂内さん、児玉さんと会う。
2月 22日 土曜日
●意外なことにフリーセルにはまってしまった。
これがなかなか面白い。ゲームの表象システム論云々とかなんて話とは全然関係がないのだけれども、ひさびさに数学的な頭脳を要することをやっている感じがして、燃えてしまった。
[フリーセルサイト]
http://www9.plala.or.jp/t_shrg/
#11982とかは未だ解かれていないらしい。
2月 19日 水曜日
●別冊宝島167『学問の仕事場』
廣松渉、阿部謹也、網野善彦、白川静、大野普、多木浩二、江川卓、加藤尚武、奥出直人、加藤秀俊、鶴見良行、藤森照信など、各分野の研究者として超有名どころの人々の地味ーな、方法論の話。とにかくえらく地味。読んだり聞いたりするのは面白いけれども、これはやったらつらいだろうなあ、と。
特に地味度が激しかったのが、白川静、網野善彦、大野普あたり。
おそろしく地味である。
もう、なんつーか、やっぱりこれはマゾが入っていないとこんな作業はできないものなのだな、と。一流の学究の徒たらんとするものは、すべからくマゾであるべし、という感が漂ってくる。誰も見向きもせず、一見すると何も面白くない資料をコツコツコツコツコツコツ……と読み込む。書き写す。統計を取る。しかもそれを10年も20年もやる、というのだから、ほとんど常軌を逸しているといった感も少なからず漂う。
ただしかし、とにかくマゾヒステリックな作業を続けていれば、頭の良し悪しはともかく、ある程度何か見えてくるものがある、と考えると、マゾであることは、ある種の明るい展望も与えてくれる。
2月 17日 月曜日
●さくらももこ『あこがれの魔法使い』
イラストレーターのエロール・ル・カインの話を延々とさくらももこが書いた話。ル・カインの絵はともかくとして、さくらももこってこんなに文章が下手だったっけ??? やたらと素人くさい。
2月 15日 土曜日
●ヴィーナス&ブレイブス購入。
●前作(『モールモースの騎兵隊』)のクロニクルモードのシステムにそのままストーリーを、織り交ぜる、という、妥当な判断。ただ、敵が弱すぎたり、完全に子供向けのシナリオだったのが、微妙に中途半端なものになっていたりするのは気になるけれど、まー、なかなか。商品としては、とてもとてもよろしい感じだといえるんでしょうね。これは。
ただ、まあ、個人的には、前作の方がいろいろな面であらけずりではありましたが、圧倒的に光るものが秘められていたように思えてしまって、なんだかまあ、判断の妥当さについては拍手を送りたいけれど、前作のファンとしてはなんだか少しがっかりした気分。
前作が、若い天才だとしたら、この作品はそこそこの年齢の秀才という感じでしょうか。まあ、いいものであることは間違いないのだけれども。
2月 14日 金曜日
●『漂流教室』読破。
●いやいや、これは、驚いた。というか、読んでおくべきだったな、と。『チャイルド・プラネット』なんかは堂々とこれのニューバージョンとして作られているものなわけだし、『ドラゴンヘッド』だって、この作品との強力な関係性の中で描かれた作品なんだなあ、と。
特に『ドラゴン・ヘッド』のような巨大な作品が描かれたことで、そのイメージの参照先として機能した作品として、「古典」といった感じに見えてしまう。いやはや。
2月 6日 木曜日
●「らいむずすくえあ」
http://www3.coara.or.jp/~wens/
男性コスプレイヤー。
なんだかたくましさすら感じる。自らの趣味を押し出していくことにこのくらいにまでなれるというのは、本当にすごいことだ。