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1月 27日 月曜日


●そろそろ、このサイトが約一周年ぐらい経つはずでございます。

●このサイトたちあげてから思ったこととして最大のことは、やはり自分はまだまだ勉強不足だなあ。と。ほんとうに、それをしきりに思いました。
(しかし、世の人は、どうしてそんなに勉強をしている人がこんなにいるんだろうか、とかも思う。)
1. 02/04 10:15 1周年おめでとうございます。正月にご挨拶いただき、お返事遅れました。今後とも楽しくよまさせていただきます。インフルエンザには気をつけてください。私はこれから病院に行きます……。(松谷)


1月 26日 日曜日


●最近、私のまわり(友人とかの間)で、ちょこちょこと一青窈さんがイイ! とかって言ってる人を聞くのだけど、なんだかぜんぜんわからない。
 それは「こんなのダサイ」「センスがない」というわけではなくて、むしろ、おじさんが息子のやっているポケモンをながめて「最近の子供はこういうのが面白いのか。俺はよくわからんが。」みたいな感じの理解のできなさで「わからない」。
 私にとってのその種の「わからなさ」は今にはじまったことじゃなくて、GLAYとか浜崎あゆみが、他の「有象無象」の歌手の方々とどこらへんで差異が生じているのかっつーこともわからない。ちょっと前までは、「この人がウけているのは、ここらへんのセンスをいいと思う人が大量にいるからだろうなー」とかっていうのは、だいたいわかっていたような(気が)するのだけれども、ここ数年、どんどんダメダメに。なんか、自分がどんどんオヤジ化していっている感じがする。


1月 25日 土曜日


●『『侍』はこうして作られた』などで知られる、ノンフィクションライターの新清士さん(http://www.jgdconf.com/sakugetu/)のやっている、IGDA(International Game Developers Association : 国際ゲーム開発者協会)の活動を定期的にお知らせするメールマガジンが発行されはじめたようです。(※別に開発者じゃなくても登録可能)
 (詳細:IGDA Japan Web Page - http://www.igda.jp/)

●前にも書きましたが、新さんは、今のゲームライターの中ではかなり良質な人の一人だと思うのですが、現在、かなり苦しい生活をなされているそうです。
 とうことで、興味のある方は『『侍』はこうして作られた』をみなさまご購入されたし。
 # 書店で購入しようと思ったら秋葉原ぐらいでしか見かけないので
 # 買うのならネットですな。ネット。
 # とかいいつつ、まだ、レビューを書いていないので
 # 書籍紹介は新さんのサイトの紹介ページ参照 →http://www.jgdconf.com/sakugetu/Book/Book.htm


1月 24日 金曜日


●いらんことその4:寝る

 寝た。
1月 23日 木曜日


●いらんこと、その3:別のことを考えるのに頭を使う

 今、興味の湧いたことについて、グチグチと論理構造を整理して考えてみた。
 ああ、なんか悪循環。


1月 22日 水曜日


●いらんこと、その2:自分が昔に書いたものを読み返して見る。

 こっ恥ずかしくって嫌な感じ。こんなもん書いてたのかあ。と。なんか、一年以上前に書いた自分の文章って、もうまともに読めないような気がする。
 それと、なんか、人に出したメールの書き出しの文の頭が、「返信が送れて申し訳ありません」からはじまっているものがやたらと多かったりすることに気づいた(笑)


1月 21日 火曜日


●最近気づいたのだけれどもPCのDVD再生ソフトって、PS2と違って
 英語字幕をつけるか、日本語字幕をつけるか、だけじゃなくって、英語字幕と日本語字幕を両方同時に表示させることができるんだね。知らなかった。
1. 01/30 15:30 DVD専用プレイヤーは、早送りの速度を倍速、2倍速、3倍速と調節できるということが判明。あと倍速でも音声が聴ける。すごいや。(A)


1月 20日 月曜日


●やらなくてはいけないことがあるときのほうが、なんだか、いらんことをやりたくなってしまう。
 なにげに一本ゲームをクリアーしてしまった。
 いかん。


1月 19日 日曜日


●(任)電子計算機応用遊興柔物研究会『クソゲー白書』夏目書房 入手
 『超クソゲー』とは違った形で一般ユーザーの声を集めたもの。
 それゆえに、『超クソゲー』のラインナップが、どちらかといえば「クソゲーマニア」にとってのクソゲーであるのに対して、こちらは「クソゲー」と世間で名指されたものが入っている、という感じ。
 つまり『ロマンシング・サガ』とか『FF7』とかが入っている。(私は、ロマサガシリーズは大好きですが。ここではクソRPGワーストランキングNo1となってます。)


1月 18日 土曜日


●岩明均『ヘウレーカ』読了。
 面白いか、っていわれると、話の盛り上げ方とか、そういった意味での面白さとかっていうのは薄いと思うのだけれども、これはけっこうきちんとした評を書いてみたいと思わせる一品でございました。


1月 17日 金曜日


●今週のファミ通(2003年1/24号)で2002年ソフト販売本数トップ100が掲載されているで、ひさびさに(立ち読みじゃなくて)購入。

●今年は売れ行きが悪い、悪い、と言われていたようだけれども、ファミ通の記事によれば、そんなに悪くもなかったのね。
 去年度のTOP100の販売本数が3227万本だったのが、今年は3300万本、と若干上回っているらしい。(TOP100以下のことはわかりませんが)

●でも、この売上TOP100って、ほんとにいろいろと興味深い。
 例えば売上10位、54万本売っている『ONE PIECEグランドバトル!2』なんかは、私あたりのゲームファンの持ってる「皆がやっているゲーム」のリアリティとしては全然存在してないものなので、すごく意外な感じがする。
 小学生の世界においては意外でもなんでもないのだろうけれど。基本的に、バンダイ系のものはぜんぜんわかんない。「誰かがそれを遊んでいる」という感覚が。


1月 16日 木曜日


●思い出したように、書きますが、だいぶ前に「身体論」からゲームを語れないか、と書きましたが、あれ、まだ、たまにそれをネタに何か書こう、とか思ったりはしているのですが、なんか中途半端なものしかかけないでおります。
 っていうか、中途半端に書き溜めたものがたまってきたなあ。


1月 15日 水曜日


「14日に会わないか」と友人が13日に出した携帯メールが今日になって届く。
それは無理。
だって、それ昨日のことだし。

ここで「おととい来やがれ!!」とかって言ったら、この文句の正しい用法なんだろうか。


1月 14日 火曜日


 友人と夜食を買いにコンビニに行ったら、馬鹿でかい魚肉ソーセージが売っていたので、魚肉ソーセージなんて10年以上食ってないなあ、と思って気まぐれに160円出して、魚肉ソーセージを食ってみた。
 そういえば幼稚園ぐらいの頃に食った「○○戦隊ソーセージ」とかってこんな味してたよなあ、ということを思い出したけれど、さほどおいしくはなかった。

 と、それを食ってる自分を見て友人が魚肉ソーセージに興味を持ったらしく、販売元の株式会社丸善のウェブサイト発見。
 http://www.mrz.co.jp/
 たかだが魚肉ソーセージごときをインターネットショッピングなんてやってるらしい。
 http://www.mrz.co.jp/shop/index.html
 で、なんと魚肉ソーセージの正式な商品名は「ホモソーセージ」という、非常にアレな名前らしい。ホモソーセージですか。ホモソーセージ。

 ※同サイトでの、この微妙な名称についての説明

「ホモソーセージ」の『ホモ』は、英単語の"homegenized"(均一する)からとったものです。魚のすり身を全体が均一になるよう、よく混ぜ合わせた生地を使用しているからです。


 ※ホモ商品ネタで、こんなサイトも
 http://www.dik.co.jp/seken/GOGEN/homo.html


1月 13日 月曜日


ハリー・ポッターに凝っているNが『Fantavision』をやっていたら突然に
「ドラコ・マルフォイ!!」
などというので、何かと思ったら、『Fantavision』のムービーに出てくる男の子が、映画のハリーポッターで、ドラコ・マルフォイ役の男の子だというので思わず声をあげてしまったんだそうな。
 言われて見れば確かに。
 こんなとこに出てたのですな。


1月 12日 日曜日


借りた『エースコンバット3』をとりえず全パターンでクリアー。


1月 11日 土曜日


●図書館でゲットしてきた一品ですが
 知恵蔵2001別冊付録『現代日本人名録 日本のキーパースン』
 まず、ツッコむところは「パーソン」ではなくて「パースン」とか表記して、小賢しく発音を気にしているところですが、これ、日本の著名人の生年月日、出身地、出身校、専門分野、現職・所属団体、主な元職、郵便盤後、住所、電話番号が、本人が「載せてもいいよ」といったものについてズラっと載せている、という一品です。
 一頁あたりだいたい40人で、約300ページぐらいあるので、12000人ぐらい、各界の著名人の名前が載せてあるのだけれども、めくってるとほんとにみんな、よくこんなのOKするなあ、という感じがする。(芸能人とかは、自宅ではなくて、勤務先・事務所が掲載されている)

●ただ、これ、ゲーム業界関連の有名人の名前はほとんど載ってない。
 そらまー、本人が掲載をOKしなかったというセンも考えられないこともないけれども、ざらっと見たところ、掲載されている人、いない人はこんな感じ。

 佐藤雅彦 ○(「CMプランナー」として)
 糸井重里 ×(断ったのかな?)
 山内溥 ○(高額納税者だし)
 大川功 ×(2000年当時はご存命じゃなかったっけ?)
 久多良木健 ×(断ったのかな?)
 宮本茂 ×(おや?)
 堀井雄二 ×(おやや?)
 小島秀夫 ×(おやややや?)
 坂口博信 ×(うーん)
 岡本吉起 ×(これは)
 浜村弘一 ×(載っていない様子)
 赤尾晃一 ×(だなあ。)

 と、もうこんな感じで。「ゲームクリエイター」として神といわれる人々は基本的に載ってない。
 漫画家、アニメーター(宮崎駿だけは例外)、ゲームクリエイター等、「サブカル」とくくられてしまうジャンルの人間は、藤子不二夫、鳥山明、大友克洋、押井守etc、全て載っていない(庵野秀明だけは「映画監督」として載っていたが…)。
 別に、このリストに載っていないからといって何か大きなマイナスがあるというわけじゃないだろうけれど、ちょっとだけ淋しいものがある。

●小説家、画家、映画監督などでは、宮本・堀井クラスの人は言うまでもなく載っている(しかもたいていが自宅住所で)。政治、経済人、評論家、大学教授、芸能人なども優先的に載せられているっぽい。
 ちょっと面白かったのが、小説家の人は普通は、小説家とか作家とかって載ってるのに、大江健三郎だけがノーベル賞受賞作家、という別の職業になってた。しかも、大江健三郎ったら、ご自宅の住所の掲載OKしてるし。いいのか。ほんとに。変なにーちゃんが押しかけてきたりしないんだろうか。

●ただ、こういうリストとかを批判する、というのが難しいのはリスト作成者が自分の興味の及ばない範囲や、マイナーな分野についてはそこまで気がまわらないだとか(特に個人でやる場合はいろいろとムリなことってあるので…→_。言い訳ですけどね。)、または「昔の人」を除外するための工夫として「過去10年以内に作品をのこしていない人は載せない」などといった機械的な区分をもうけていたりだとか、いろいろな理由があって、載らない/載せないのは、当人や当該ジャンルに対する評価とは無関係であることも多いため、そんなに批判しようという気は起こらないものなのだけれども、これは多分、意図的に「サブカル」系を除外したんだろーなー、やっぱり。
 別にimidas編集部のこれを作った人々がムカつくということはないけれども、こういう形でのおそらく意図的な除外がなされるためには、編集した人間は「あの人たちはちょっと載せないでおこうか」ということを考えたのだろうし、やはりそこで「掲載させていただいてよろしいでしょうか」という問い合わせをしなかった理屈はなにかあるのだろう。些細なことかもしれないけれど。(多分、庵野秀明だけは「映画監督名鑑」とかなんかを調べててみつけたんだろうなー)


1月 10日 金曜日


●引き続き仏教辞典。

【覚悟】かくご
 原語は、眠りからさめること、目覚めていることを意味する。漢語の〈覚悟〉はさとる、さとす意味で、中国古典の『荀氏』成性、『韓非子』外儲説右下、『史記』孟嘗君伝、『漢書』息夫躬伝など多くの用例が見える。仏教の真理をさとり、真智を開くことを指した例は『隋書』経籍志、仏経に見えるが、すでに漢訳仏典の南本涅槃経16や六十華厳経7などに用例が見出せる。なおbuddha(仏)は〈大覚〉〈覚者〉と漢訳されている。「先生に営まざるがゆゑに、今はすでに一文の覚悟なきがごとし」〔愚迷発心集〕「古歌をよくよく覚悟すべし」〔連理秘抄〕

【理性】りしょう
 理性は事相に対する言葉で、本性的世界を表す。有為の現象世界に対し、そこを貫通する不変の実性が理性である。単に理というのも同じことである。なお仏性に関して、理仏性(真如)と行仏性(智の因、種子など)を分けて説く場合があるが、その理仏性の意味で理性が用いられる場合もある。日本で明治以後、カントのVernunft(推理の能力)の訳語として理性が応用されたりしているが、少なくとも仏教でいう理性は、認識論的よりも存在論的である。「天台宗・真言宗を除きて余の宗は、理性の仏を許さず。故に我が身の中に本有の仏ましますと知らざれば」〔菩提集〕

【自由】じゆう(長いので省略しつつ)
 〈自由〉の語は……(省略。孟子と後漢書からの引用)……いずれも〈自らに由る〉〈自己に基づく〉の意であるが、前者は「道は…自らに本づき自らに根ざす」〔荘子大宗師〕の〈自本〉〈自根〉と同じく、自己自身に立脚する、自己の主体性を堅持する、何ものにも束縛されずに自主的な行動するなどの積極的な意味を持つ。これに対して『後漢書』にいう〈自由〉は…「惟れ辟福を作し威を作す」〔書経洪範〕の〈作福〉〈作威〉と同じく、自分の思い通りにする、勝手気ままにふるまうなどの反価値的な意味を持つ。
 〈自由〉の語のこのような2種の用法は、中国仏教学においてもそのまま引き継がれて、……(引用省略)……ある〈自由〉は前者の用法を承け……(引用省略)……ある〈自由〉は後者の用法を承けている。漢訳経典の中に自由という語は珍しいが、正法華経光瑞品ではsvayam svayambhuvah(独立自存である、それ自身において存する)を〈自由〉と訳している。また解脱のことをsvatantrikaranaと解釈していることがあるが、これこそ〈自由〉(みずからに由る)と訳しうる語である。ちなみに初期の漢訳仏典では……(引用省略)……などのように〈自由〉よりも〈自在〉の語の方が多く用いられている。〈自由〉もしくは〈自由自在〉の語が、煩悩の束縛から離れた解脱の境地を説明する言葉として盛んに用いられるようになるのは、唐宋の禅学文献からである。なお〈自由自在〉の語は、たとえば……(引用省略。『祖同集』)……などにみえる。
 ……〔引用〕……。

●あたりまえかもしれないけれど、仏教用語ってぜんぜん素直に変換されないね。これ。
 ただちょこっと中国史好きだった過去を持つ身としては、「荀氏」「孟嘗君」クラスの人名が、「じゅんし」「もうしょうくん」と打ってもぜんぜん素直に変換されないっつーのはいかがなものだろうか。と。 >IME2000
 まあ、こういうことってケチをつけても詮無いことかもしれないけれど。
1月 9日 木曜日


●図書館がいらなくなった本を配っていたので、面白そうなのを何冊かもらって帰る。
 『岩波仏教辞典』
 『知恵蔵 2001付録 キーパースン 現代日本人名録』
 とか。

●『岩波仏教辞典』
 自分には一生縁のなさそうな本だけれども、読んでみるとこれはなかなかに「ほへー」ってな感じのことがいろいろと書いてある。

【小僧 こぞう】本来は〈大僧〉に対する語で〈しょうそう〉と読む。戒行に欠ける僧、修行の未熟な僧の意で、私度僧の称ともした。〈羊僧〉〈貧道〉などと同じく、僧が謙遜の自称とすることも多い。〈こうぞう〉はその転で、広く年若い僧、年少の僧をさすが、修行未熟という意味をこめた蔑視的用法もすでに平安末期の間に認められる。〈小大徳〉〈小院〉なども類義語。なお現代語で、年少の使用人の称としたりするのは、近世末期ごろよりの、もう一段の転義である。「然らば御前をば、『小寺の小僧』とこそ申すべかりけれ」〔今昔28−8〕

【呵責 かしゃく】[s: avasadayati] 〈呵嘖〉〈訶責〉とも書く。〈呵〉〈訶〉は大声でしかること。漢語としての〈呵責 かせき〉は、きびしく責める意味で『三国志』魏書、高貴郷公伝などに用例が見える。漢訳仏典には雑阿含経に〈呵責〉、中阿含経に〈訶責〉の訳語が用いられている。特に比丘を罰する7種の法の一つで、僧衆の面前で呵責を宣告して35事の権利を奪うことをいう〔四分立行事鈔 僧綱編〕「大師小事に依りて呵責を加へ、勘当しけり」〔法華験気 上11〕

 「へー、そうなんだ」という以上にはどうしようもない知識だけれども、まあ、なるほど、仏教用語に語源のあるもっていろいろあるのだなあ、と。
 ホントにそれだけだけど。



1月 8日 水曜日


●再度、昔買ったきりやってない一品『雪割りの花』(PS)
 実は前にちょこっとやったことがあるのだけれども、あまりのシナリオをヘタレ加減にげんなりしてやめてしまった。けれども、そのままにしとくともったいない、という根性だけでもってもう一回プレイ。

●2時間半ほどやってみて、一応、一番簡単に見れるエンディングだけは見てみて、思ったこととして、これはビデオゲームの物語表現の方法としても支持できないばかりではなく、「なんなんだ、この女は!!」と手をわなわなとさせて「ハァァァ!!」と叫んでコントローラーを投げつけたくなるような、どうしても自分には耐えがたいタイプの人格を持った登場人物たちに閉口してしまって、<たのしんで>プレイするどころの話ではございませんでした。
 いわゆる「クソゲー」の部類に入るような開発予算・スケジュール的な問題を感じさせるオーラこそ放ってはいないものの、個人的には、これは「クソゲー」と呼ばれる部類のものよりもプレイするのが困難な気分がしてしまったので、やっぱりまたもや脱落。一応のエンディングはみたけれども、もう無理です。これがせめて「やるドラ」のような物語を前面に押し出すタイプのものでなければひととおりのプレイはできたのかもしれないけれど。

●ちなみに、ビデオゲームの物語の表現方法として支持できない、と書いたのは、例えばどういうことか、というと、この作品の物語パターンの生成のされ方というのは基本的には『かまいたちの夜』などのようなサウンドノベルといっしょで、選択肢決定とそれにともなうフラグ立てによって管理されて物語が「展開」されていくのだけども、何がとくに気にいらないのか、というとプレイヤーに提示される選択肢の中のいくつかの中には人格的な判断を迫られるような選択肢というのがあって、しかもグッドエンディングにたどりつくための選択肢というのが、あんまり肯定できないタイプの人格的判断のいりまじった選択だったりするものだったりしたので、私としては「なんじゃこりゃー!!」状態だったわけです。

●この話とからめて、話をつなげると、この前のミードじゃありませんが、ゲームプレイ時におけるプレイヤーの行動(意思決定)と人格形成、あるいは人格表出の問題というのはビデオゲームにおける物語表現の問題を考えるときには、おそらくかなり重要な問題の一つで、えーっと、その問題の全体像を考えようとすると大きな作業になると思うので、断片的に思ったことを箇条書きで書きちらすと

[1]プレイヤーはビデオゲームにおいて人格を表に出すか。



『クレイジータクシー』や『GTA3』における行動はプレイヤーの人格と関係するか(おそらく、「ゲームの中で何をやろうと思うか、というのとその人の対人関係におけるパーソナリティは別物だ」という反論があるでしょう)

『雪割りの花』のようなアドベンチャーゲーム(?)の選択肢の決定でプレイヤーの人格は影響するか


[2]逆の発想をして、ゲームプレイ時におけるプレイヤーの行動を「人格」と見なすことができるのか(話を「人格」の定義論にもっていった)



おそらく、『クレイジータクシー』のような運転を実際にしようとするプレイヤーはまずいないと思われるが、『クレイジータクシー』で、速度優先で走るか、破壊を楽しみながら走るか、というプレイスタイルの差異を「パーソナリティの差異」とすることが可能ではないのか。(プレイヤー同士のプレイスタイルの差異の中に、対人関係におけるパーソナリティの差異を「類推する」という作業なのではなくて、対人関係における対応の差異を他の何かに還元するというような手順を踏まず、プレイスタイル=パーソナリティの一種、と見なす。)



●まあ、[2]のような定義論のはなしはひとまず置いておくとして、話を『雪割りの花』に戻すと、<人格的に>対応がバラけるような選択肢にグッドエンドとバッドエンド、というのを用意するという方法で対処するというのはやはりあまり気持ちのよくない話であって、『逆転裁判』のように論理的に類推のはたらかせることが可能な選択肢ならばともかく、まったくそういった類推をきかせる余地がなく、かつプレイヤーの人格に関係するような選択肢については正解や不正解などもうけるべきじゃないだろ!
 と言いたい。(たいしたことのない主張だけれども)

●しかし『火竜娘』や『デスクリムゾン』みたいに、「あ、うん。これはもう仕方ないな♪」というものを見ると、いくら間違ってるなあ、と思うことがなされていても腹が立たないのに、『雪割りの花』とか『FF』みたいに、ある一定以上の優秀な才能、時間、資金といったものがきちんと費やされているものの中で「これはイカン!」というものを見るほうが、なんか腹が立ってしまうものですな。ほんと。


1月 7日 火曜日


●友人SSから『エースコンバット3』を借りてきてプレイ。
 ウヲォ!これはPSにしてはやたらときれいではないか!全体的にもかなりいい出来ではないですか。これは。オオー。


1月 6日 月曜日


「現在マガジンで連載中の大暮維人『エア・ギア』って、ほとんど読んでないんだけど、あれ、いくらなんでも、まずいんじゃないか、『ジェットセットラジオ』に似すぎなんじゃないか。SEGAに何も言わなくてもだいじょうぶなのか。っていうかSEGAはアレに対して何も言わないのか。―――ということをすごく思うのだけれども自分のまわりで、そういうことを言っている人が全くいないので、クロマティ高校のメカ沢君に(皆そう思っているのだけれども)つっこんじゃいけない、みたいな暗黙の了解ができあがっている状態なのだろうか。不安だ。」
 というようなことをセガファンの友人が言っていたので、一応書いておきますが、私もそう思います。
 あれはヤバイ。ほんとに版権とかだいじょうぶなんでしょうか。と。あそこまで堂々とパクられるとむしろ戸惑ってしまうというか。根性がすわってるというか。

 ちなみにネット上でちらりと検索したみたら、どうやらけっこう「似すぎ!!!」っていうのは言われるみたいで、別にメカ沢くん状態ではないようですよ >友人。




1月 5日 日曜日

<遊戯>→<ゲーム>
●翻訳が正直なはなし読みにくい、G・H・ミード『精神・自我・社会』(河村望訳、1995、人間の科学者)の180頁〜200頁ぐらいが遊戯とかゲームとか言ってるのでひろい読み。

●読んでもいまひとつ理解できた気分はしないのだけれども、
   <遊戯> → <ゲーム>
 というような構図をミードも展開したりしていて、この構図はけっこう一般的によく発想されるものなのかな、と。
 他に誰がいるのか、というと、中沢新一の『ポケットの中の野生』における構図もだいたいこういうものだし、カイヨワの『遊びと人間』もこれと一緒の構図を持っていると思う。
 ただ、この構図がいっしょ、と言っても各論者によって<遊戯>と<ゲーム>をどのような定義によって区切るのか、というのと、<遊戯>と<ゲーム>を結ぶこの右矢印「→」はなんなのか、というのが違うわけで、今の自分の理解でなんとなく整理してみると、以下のような感じだろうか。

 ◆中沢新一(※バックボーンはフロイト、ラカン。ついでにレヴィ=ストロース。)
  「遊戯」:世界と自己が未分化な時期の、魔術的なもの
  「ゲーム」(ポケモン):世界を対象化、構造化してとらえるもの
  「→」:今の小学生の精神発達の道のり。世界と自己が未分化な時期から、ゲームを経て世界を対象化してとらえるに至る。

 ◆ミード
  「遊戯」:組織化されないもの。他者および自己の役割が不確定なもの
  「ゲーム」:組織化されたもの。他者および自己の役割、振舞いが一定のレベルで確定的であり、他者の振舞いがある程度以上に組織化されて確定的であるがゆえに、他者の存在をある程度に一定した形で認識できるもの。
  「→」:幼児期、幼少期の自我発達の道のり。まあ、中沢新一とほぼいっしょ。

 ◆カイヨワ(以下はかなり私の解釈)
  「遊戯」:ミミクリ―イリンクスの対
  「ゲーム」:アレア―アゴンの対
  「→」:文明化への道のり

 と、最後のカイヨワはちょっと強引な解釈をいれてしまったけれども、だいたいこんなような感じで、3人の議論を描けるのではないだろうか。
 中沢新一とかミードの議論とかは個人の精神発達段階を説明するのにゲームとか遊戯とかって概念を、おそらくは発達心理学的な発想で使用しているっぽいので、そんなに違わないのけれど、カイヨワの発想は個人の話なのではなくて「文明化への道のり」という壮大な話になってるあたりがなんかハっちゃけててオモろい。
 遊戯とゲームの対象設定についても似てるようでいて微妙に違う。うーん、なんかちょっとなんかのネタにつながりそうな気がする。


1月 4日 土曜日


なんか似たようなネタが続きますが

[チョムスキーにまつわる流言飛語]
http://www.hct.zaq.ne.jp/akubi/chomsky/falserumor.html

 チョムスキー、というのはまあ、9.11関係で精力的に発現したのでおそらくそれなりにいろいろなところで知られるようになった有名な言語学者ですが、こういう流言飛語がとびかってるそーです。
 「チョムスキーの政治的な発言」というのは自分もさっぱり知らなかったので、翻訳があまりよろしくないと言われている文庫の『9.11』(文芸春秋)が安かったのでちょっと前に買ってきて読んでみました。なんか本のサブタイトルが「アメリカに報復する資格はない!」とか書いてあったのでもしかしたら単なる反米的な発言が続くのかとか思ってあまり期待せずに読んだら予想してたよかずっとまともで、反米というよりも、これはまあ、現在の米国政府への批判であって、「反米」というカテゴライズではちょっと違うようです。ただ、まあ単純な「反米」の人だというイメージをずっと推し進めていって過激な妄想を膨らますと上記のURLにあるような「チョムスキーはポルポトを擁護している」みたいなネタがでっちあげられてくるのでしょうか。こういうデマが生成される過程というのはよくわかりませんが。
 で、ちなみに『9.11』(文芸春秋)というインタビューでいいなあ、と思ったのは2001年9月18〜22日、30日、10月5日といったような、アメリカがアフガン攻撃を決定する以前の時期に、かなりはやいタイミングでリアクションをとって、それなりにきちんとしたこと(それは「畑違いの人間のたわ言」というほどレベルの低いものではない)熱心に主張してるというあたりは、坂本龍一がだいぶ時期を逃した上に、しかもとうてい米政府にとどくとは思えない声を集めた『非戦』なんかよかよりもだいぶ頼もしい。まさに「戦う知識人」をやっていて、こういう人は本当に貴重だなあ、と。
(もっとも、坂本龍一の本は米政府に対して云々、というよりも、あの事件と「我々が」どう向き合うべきか、ということについての知識人達の言葉の束とか、そういうものなのかもしれませんけれども。)


1月 3日 金曜日


http://www.zakzak.co.jp/gamezak/dejibata/gamenou06.html
川島教授に対する嫌がらせがどの程度のものかは知らないが、やはりこういうことはあまりあって欲しくないもんだなあ。逆に、今回のことで、ゲーム脳批判派として活躍をしたために嫌な思いをした方もいるようだし。
 なんにせよ、どっちのサイドの人間かとか、そういう見方をされるのは嫌なこった。


1月 2日 木曜日


●岡田斗司夫の『東大オタク学講座』(講談社)
 ゲームに関する部分以外は読み飛ばしていたのだけれども、ほかの部分も読んでみるとけっこう面白い。
 特にゴミ集めを趣味とする村崎百郎さんとの対談は、ほんとうにもう、世の中にはこんな人がいるものなのか……と。
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakusemi/No9.html

●村崎さんが

つまりこの世には俺以外にも人間がいて、そいつらには友達や彼女がいて、結婚して、二次会でこんな風に盛り上がったりもしてるんだなあっていうか、「他の人間がいるんだ」ってのを実感しちまったのよ。

 と言っているのは、自分が1999年にはじめてインターネットに触れた時の感覚に似ているように思った。
 当時のYahoo!とかInfoseekで検索すると、今Googleで検索するよりも、妙にしょぼいサイトとかがたくさんひっかかって、そのしょぼさというのが「ああ、こんなリアリティを抱えて生きている人がいるんだ」と、私にとっての見ず知らずの他人の存在をなまなましく想起させてくれたような記憶があるけれども、Readme!で上位になるサイトだとか、被リンク数の多いサイト(Googleでひっかかるサイト)なんかばっかりに訪れるようになると、どうもみなさん、けっこうきちんと「他人に読ませる文章」というのをきちんと意識されている方がほとんどのようで、そういったなまなましさというのを感じることは数年前と比べるとだいぶ減ったような気がする。
 そういったものが検索した時に上位にひっかからないというのはもちろんいいことでもあるのだけれども、はじめてインターネットにふれたときは、そういったものから感じられるリアリティというのが非常にショックで、そういうものを特に求めてインターネットに触れていたような。

●そういったものの一端はたとえば2chなんかに受け継がれているのだろうけれども、あそこだと、ネタとかあおりとか、そういう計算でやっている人もいたり、そもそもの場があまりにも特殊だったりして、かつて感じていたものとはまた別のものを感じてしまう。


1月 1日 水曜日


●あけましておめでとうございます。
 茂内さん、松谷さん、沢月さん、kuonさん、しーまんさん、へろーみさん、掲示板に書き込んだり、読んでくれたりしているみなさん、および友人諸氏。本年度もどうぞよろしくお願いいたします。
 おかげさまで勉強になることなども沢山あって、去年度は本当にありがとうございました。


1. 01/09 22:49 あけおめです〜。今年もよろしくです。 kuon