自由な活動 のバックアップ(No.2)
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- 1 (2007-02-17 (土) 11:46:05)
- 2 (2007-02-18 (日) 10:54:19)
カイヨワの遊びの定義の中の一つ。「遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう」(『遊びと人間』)。つまり遊びへ参加する際の自発性(内的動機)がなければ、それは遊びだとは言えない、ということを言っている。(自由度の議論とは別)
遊び手の主体性という前提 ―「自由意志」モデルなのでは?という批判― †
これに対して、西村清和は『遊びの現象学』の中で「遊びつつ遊ばれる」という現象を例にだして、遊びへの参加に常に遊び手の主体性があるなどというのは嘘っぱちだ、と反論している。 が、しかし、そのような西村の厳密な主体性の有無の議論を回避して、遊び手自身に「自分は遊びたくて遊んでいるのだ」という錯覚が成立していることを遊び成立の要件に据えてしまえば、まあ、いいんじゃなかろうか、という気もするのだが、どうだろう。
あまり自由でない「遊び」 †
たとえば、映画鑑賞などが自由でない「遊び」として挙げられる。→ 観客