errand boy syndrome のバックアップ(No.2)
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- 1 (2005-12-14 (水) 17:26:42)
- 2 (2007-02-17 (土) 11:45:58)
- 3 (2007-02-17 (土) 11:45:58)
Ludologyを提唱するGonzalo Frascaの概念。日本語で言えば「押し付け感」とでも言うべきか。
ゲームをやっているときに感じるミッションを「押し付けられている」という感じをいだくこと。
分類と問題の構成 †
また、一言で「押し付け」とは言ってもいくつかのものを分けて考えてみることができる
- (A)プレイヤーが快楽的/自主的に選び取りたい、とういう自然な意思への否定:やりたくもない経験値稼ぎなど(直接に押し付けられている、というよりも、やりたくもないイベントでこれを求められると、大変にダルい気分に満ちてくる、という意味で)
- (B)体験選択のアーキテクチャの幅の狭さに対する不満:ストーリーが一本道でしかないことに対する不満、音ゲーなどで、決められた操作しか入力できない(自由な演奏ができない)ことに対する不満
- (C)プレイヤーを「観客」としてしまうことへの不満:ムービーシーンで、一切操作入力ができない時間に対する不満 など、「押し付け」という言葉によって一様に語られるていることにも意外と多くのパターンを見出すことができる。
(A)、(B)、(C)を構図的に整理してみると、
まず(C)では、まずプレイヤーそのものが行為すること自体が否定されている。 次に(B)では、プレイヤーの行為そのものは否定されていないが、プレイヤーの行為の種類/選択肢の多様性が存在しないことが問題とされ、そこにプレイヤーの能動的なコミットメントの欠損が見出されている。 最後に(A)では、プレイヤーの行為を支える複数の選択肢の種類はは複数存在していることが前提としてある。だが、その中で勝利のための効率的な解として与えられる選択肢に強い偏りがあるため、実質的にプレイヤーの能動的に多様な戦略や楽しみを選び取る自由が奪われているということが見出されることになる。
これを、I.バーリンの「消極的自由/積極的自由」という概念に沿って考え直してみよう。消極的自由とは「決定の押し付けから逃げる自由」であり、積極的自由とは「主体的に決定ができることの自由」である。 ゲームの中における(A)(B)(C)の自由の喪失は、はたして消極的自由の喪失だろうか?それとも積極的自由の喪失だろうか?これを簡単に分類することは難しい。いずれにおいても積極的自由が成立していないという状況を見出すことはできるが、消極的自由についてはこれが疎外されている、と考えることがはたして妥当なのかどうかかなり微妙な問題である。 なぜか?ゲームにおける「押し付け」は人間対人間という構造においてではなく、アーキテクチャ対人間という構造の中で成立している。だが「消極的自由」という概念がそもそも、人間対人間というモデルを基礎付けにして成立している。ゲームを語る上で人間対人間というモデルにたった上での「自由」を語る議論は必ずしも効力をもたない。ゲームを語るとき、人間対人間、ではなく、アーキテクチャ対人間 という構造の上で議論を考え直していく必要があるということをこの一例は示している。*1
対応策 †
この押し付け感に対しては、例えば、以下のような議論をGonzalo Frascaは行っている。
- 1.「ミッションの内容自体の出来がよければ、押し付けなんか忘れて楽しいと感じるはずだ」
- 2.「ストーリー上で、ミッションに重要な意味づけがきちんと与えられていれば、押し付けではなくて、むしろ義務感がめばえてくる」 など。
また、言うまでもないことだが、「押し付け」というのは、単純になくせば済むようなものではなく、安易にこれを無くしてしまうと多くのゲームが、ゲームとしての構造そのものを破綻させてしまうことになりかねない。そもそもゲームのデザインをする、ということは「プレイヤーに何かをしてもらうこと」のデザインなわけだから、「押し付け」が消えうせることはおそらく永久にありえない。 ゲームの開発論議という視点から、この問題を語るとすれば「押し付け」そのものをなくすことではなく、「押し付け」とアーキテクチャの層と、「押し付け感」というプレイヤの感性の層を別の問題として区別し、「押し付け感」がどういったときに発生してくるのかを考え、「押し付け感」の部分に対する対処法を発見していくことではないだろうか。 そう考えると、Gonzalo Frascaの議論もゲームのアーキテクチャの層ではなく、プレイヤの感性の層の話としてしかこれへの対処法を語っていない、ということにも気がつくだろう。