Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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ゲームというものが体験される際、それは単にクリエイターの作ったものを見たり読んだりするだけの形でゲームを体験するのではなく、例えばシムシティであれば、ウィルライトというクリエイターが作ったプログラムを下敷きにして、プレイヤーが街を作っていくことでゲームが体験される。それには「ウィルライト」というクリエイターが関係していると同時に「プレイヤー」という存在も同時にクリエイターとして存在しているのでなければゲームという体験はなりたたない。そこに二重の創作が存在している、と見ることができる。  この発想は遊び全般の分析にかなり応用の幅が広い。ドイツの哲学者ガダマーが「ゲーム」を援用して、解釈行為とは何か、ということを言おうとしたのもだいたいこういうような話だった(はず)

参考

井上明人「宮本茂をめぐって コンピュータ・ゲームにおける作者の成立 」ユリイカ2006年6月号

ゲームにはゲームプログラムを開発した製作者――今回の例でいえば宮本茂および任天堂スタッフたち――、とゲームのプログラムを実際に実行してそれを遊ぶプレイヤーたちという二重の存在である。例えば『スーパーマリオブラザーズ』であれば、宮本茂という製作者が主導して作ったゲームプログラムを下敷きにして、ゲームのプレイヤーがマリオを操作し、攻略していくことではじめてゲームが成立する。それには「宮本茂」という製作者が関係していると同時に「プレイヤー」という存在も同時に存在しているのでなければゲームという経験はなりたたない。プレイヤーと、ゲーム製作者という二つがあってはじめて、コンピュータ・ゲームは成立する。

作者の二重性の問題は、ただ単に存在しているというだけではない。たとえば、作者の側がプレイヤーに特定の行動を強力に促すようなゲームを作ったとしよう。すると、それは、あらかじめ決められた選択肢をなぞっていくだけのようなものとして「覚えゲー」「一本道でつまらない」という反感を買ったり、「ゲームというよりも映画みたいだった」ということで別のメディア作品としての評価へ転じたりすることになる。

逆に、作者がプレイヤーに対して極端に弱く出て、その世界の中で何をするのかという目的も、方法も、なんでもプレイヤーの自由になるようなものを作ったとする。すると、今度は逆にプレイヤーが何をやってよいのかがわからないような、ゲームというよりも電子おもちゃだとか、『RPGツクール』のようなツールのような方向性になりかねない。

つまり、常に製作者とプレイヤーがどのようなバランスをとるのか、という問題が意識され、プレイヤーがゲームにどのように関わっていけるのかということを意識しなければならない。作者の二重性とはそのような厄介なものである。

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最終更新: 2007-02-17 (土) 20:46:07