『遊びと人間』 ロジェ=カイヨワ

 
 1958年に出版された「遊び」に関する研究書。著者はフランスの思想家ロジェ=カイヨワ。レヴィ=ストロースの文化相対主義に対して批判をしていたり、ジョルジュ=バタイユの友達だったりする人。
 ゲームの研究書籍などでもしばしばこの本の中からの4分類「競争(アゴン)」「偶然(アレア)」「模擬(ミミクリ)」「眩暈(イリンクス)」が言及されることもあり、ゲームとは何か、あるいは遊びとは何か、という問題について言及しようと思うのならば一度は読んでおいて悪くない一冊。実際、読んでみてこれはかなり面白い。
 
 本書の構成としては第一部、第二部とから構成されていたのに加えて、その後、増補改定ということで補論が付け加えられ全体で3部構成ということになっていて、講談社の学術文庫版を買うと400ページちょいぐらいあるけれど、正直な感想としては(お叱りをうけるかもしれないけど)第一部の100ページちょいだけを読めばもう充分かな、といった感じ。何よりもここが一番煮詰まった議論のされているところだと思うし、誰が読んでもけっこう刺激をうけるところではないかな、と。
 特に、自分が感じたのは、第一部を読んでいて、頑張って統一的な見取り図を作りすぎようとしすぎていて、少し無理なことをやってしまっているかな、という感触があったので、その「無理だ」と感じたものを前提にして展開されている第二部とかには今ひとつ興味が湧かなかった、というのが本音。
 こまかくはまた別の機会にもう少しきちんと自分の批判的な見解もまじえつつ紹介する予定なので、以下はごく簡潔な紹介。
 
 
 

 [第一部]

 有名な4分類と、カイヨワの遊びについての定義が披露される。そして、遊びの社会性と遊びの堕落、その後に、(多分、大半の人はあんまり興味がないであろう)遊びを出発とする社会学のために、という話がなされている。
 ちなみに4分類は
  競争:アゴン:運動競技、ボクシング、チェス
  偶然:アレア:じゃんけん、くじ
  模擬:ミミクリ:子供の物真似、人形、仮面、演劇
  眩暈:イリンクス:メリーゴーランド、ブランコ、スキー、登山
 の4つ。この4つの基本的な区分の中に遊びは入るのだ、としている。
 
 
 
 [第二部]

 ここはちょっといただけない。一部の遊びに関する体系付けをたたきだいにして議論を展開していくのだけれども、その議論の展開のさせ方の基本というのが、なんと社会進化論。
「いわゆる文明への道とは、イリンクスとミミクリとの組み合わせの優位を少しずつ除去し、代わってアゴン=アレアの対、すなわち競争と運の対を社会関係において上位に置くことであると言ってもよかろう。」

 と、こんなことを言われるとちょっと困ってしまいます。「ええっ、進歩史観かい!」とかって思わずツッコミの一つもいれたくなります。ああ、この人、レヴィ=ストロースの批判者なんだな、ということを意識せずにはいられません。ナイーヴな歴史観……とかって言ったらいけないのか。まあ、単にナイーヴな歴史観云々と言うだけではなくて、このカイヨワの議論というのは文化先行説と遊戯先行説との議論の対立状況で言うと遊戯先行説の側を支持するものだ、という側面もあります。つまり、「遊びは文化の残滓にすぎない」という議論と「文化は遊びの上に築かれたんだ」という議論がありまして、後者の側を支持するものだよ、と。
 
 
 
 [補論]

 で、その後の補論は何か、というと、「偶然の遊びの重要性」では、なんだか、偶然の遊びというのが研究において重要視されないというか、非道徳な遊びだとかいう感じで「競争」の遊びにくらべると今ひとつ重きをおかれないような感じに思われるかもしれないけれども、偶然の遊びというのは社会システムの形成にとって非常に重要なものなのだ、ということが力説されます。
 「教育学から数学まで」では、「遊び」を研究する学問分野っていうのは社会学のみならず、教育学から数学のゲーム理論にいたるまですごいはばひろい拡がりをもってるよねっていうそういう話です。
 「遊びと聖なるもの」は、カイヨワの研究の基盤となっている、中世史の研究で有名なホイジンガの『ホモ・ルーデンス』で、「聖なるもの」と「遊び」が区別されていないということの批判とかがかまされます。(そもそもカイヨワの「聖なるもの」概念は、またまた色々あるらしくってよくわからないのだけど)

 
 
 
 
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copyright(C)Akito Inoue 2002.3.24