田尻智『新ゲームデザイン』エニックス 1996/01

 田尻智さんの『ヨッシーのクッキー』はだいぶ遊んだし『ポケットモンスター』に関してはわざわざ自分が言及するまでもないくらいの作品なので田尻智さん個人には別に何ら嫌悪感はもっていないけど、申し訳ないがこの本の基本主張となっている部分にはちょっとついてゆかれない。
 基本主張、と言っても「イントロダクション」の部分とはじめの数十ページぐらいしか基本主張は関係していないので、その他のページについては特にマズいと感じることもなく興味深く読めたのでそんなに批判をしようというわけでもないんだけれども、まあ、何が悪いのか、というと、「イントロダクション」の部分の〜ゲームの本質とは何か?〜というあたりで

(高階秀爾『絵画を見る眼』岩波新書をひきながら)
 例えば、ファン・アイク『アルノルフィニ夫妻の肖像』。男女の肖像画の片隅にリンゴやオレンジが置いてありますが、果実は宗教的に人間の原罪を象徴するもの、シャンデリアに灯る一本の蝋燭は、中世以降、婚礼の燭台と呼ばれる婚姻のシンボルでした。つまり、細部に目を向けて解読していくことで、この絵画は、 二人の結婚の当日に記念にかかれた事実が見えてくるのです。  このように一枚の絵画を当時の社会背景まで含めて、細かく検証、探求していく作業は、現代の僕達に、深い知的刺激を与えてくれます。絵画を見るというより、まさしく読みとる、といった方がいい行為なのです。(省略)味わいがある絵だなあ、と絵画を漠然と眺めていましたが、それが、読みとることによって、幼い頃よりも、はっきりと理解できるようになってきました。これは、素晴らしいことではありませんか。

 というようなことを書いているのにはちょっと「うーん」となってしまうところで、「細かく検証、探求していく作業は、現代の僕達に、深い知的刺激を与えてくれます」という部分だけなら、まあ賛同できる。なんだけど、どのような形で検証、探求をしてゆくのか、というあたりのことというのがちょっとビミョーで、芸術とか娯楽作品と言われるものを分析してゆく方法論として「果実は宗教的に人間の原罪を象徴するもの、シャンデリアに灯る一本の蝋燭は、中世以降、婚礼の燭台と呼ばれる婚姻のシンボルでした」とかそういう分析の仕方というの はちょっとどうなのだろうか、と感じる。
 この後でも『マザー』の「うたう」コマンドが最後に強力な意味をもってくることに対する分析として「おそらく、糸井さんの若い頃は、学生運動などがあって、体制に対して戦いを挑んだりする時に、歌うと言うことの意味が多きかったのではないか、と。」ということが書かれていたりするんだけども、実際に糸井さんがその世代だからと言ってどこまで学生運動にシンパシーを感じていたのか、という点についてはよく知らないのでともかくとして、こういった形でもって作者がある記号に対してどういう意味を付けていったのか、ということの分析というようなやり方になってしまうと、プレイヤーの存在はどうなってしまうのかなぁ、と。「うたう」というコマンドを「いいなあ、これは」と思えたプレイヤーはともかく「作者がそれに意味を見出したからうたうコマンドは意味がある」と いうだけの議論になってしまって「オレはあんまりいいと思わなかったんだけど」というようなプレイヤーがおいてけぼりになると、それっていうのは結局のところプレイヤーにとってはあんまり意味がないのではないかなあ、と思えてくるし、「果実は……」という話も、その絵画が公表された当時にその絵画を見たヨーロッパ世界の教養人達のサークル内においては確かに作者が与えたような原罪とか婚姻とかいったような意味が流通するけれども、そういうような解釈をする共同体というのに属していない人々の間では、西洋美術史の権威の人とかの本でもって説明されたところではじめて「へぇー」というような形で理解するものにしかならなくなってくる。それっていうのは、現代の我々が「果実は原罪」とかそういった教養無しに見たらリンゴの絵を見ても「原罪の象徴」という形での受容のさ れ方ではなくて「なんかリンゴがおいてあるぞ」とか「あのリンゴ何なんだろう」という理解のされ方、受容のされ方にしかなってこないわけであって、こういった類の当時のヨーロッパの貴族社会で流通していた記号を説明されたということで「この作品の本質を説明された」ということになるのか、というと、それはちょっとならないのではなかろうか、と。少なくとも何も知らない子供が蝋燭を見て婚姻をイメージするというのはかなり考えにくい事態なのではないかなぁと。
 もっと別の例で言うと、30年前に一時的に流行っていたギャグとかには今でも面白いものもあることにはあるけれども、そのうちのいくつかのギャグは今言ったら「へ?何言ってるの?」という反応しか返ってこない。これを説明して「30年前に流行ってたんだよ」といわれても「そうなんだ」という反応はあっても、笑いにつなげるのは難しいだろうよ、と、まあそんなようなこと。解説でもって笑いにまでつながるのだったらいいのだけれど。

 ただ、まあ、田尻さんは別に「作者の意図を理解することこそが本質だ」とかそういうことを言いたいのではなくて、おそらくただ単に「分析的に考えてみましょう」ということを言いたかっただけっぽいところはある。数多くある分析手法の中で「作者の意図を理解する」というやり方に対してもそんなに疑問をもたずに取り上げてしまったからこういう書き方になってしまったのだろうな、と思う。
 最初にも書いたように、この本では別にこの基本主張の部分というのはそんなに重要にはなっていなくって(だったらそんな批判的に書くなよ、とか言われそうだけど…)、その他の部分には面白い記述もけっこうある。ロジェ・カイヨワの遊びの四分類、緩急効果、プレイするほど謎が深まる、繰り返しのメディアとしてのゲーム、スキルアップのプロセス、ポケモンを作る時に何を考えていたのか、などなど、そこらへんは興味深く読める。


copyright©Akito Inoue 2002.2.26