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2009年11月09日
■いまさら、ICOの話
●「語る」という行為自体が困難に思えてしまう作品
瀬上:前に、米島さんがゲームの持つ価値を充分に認めつつも、「ゲームなんかやってられねぇ。」という発言をされました。ですが、米島さんも、僕も共にその価値を大きく認めざるを得ず、そしてそれについて語りを試みること自体が冒険的な魅力を持つ作品というのがいくつかあると思うのですね。その一つは間違いなく『ICO』だと思います。
一応、ICOを知らない方のため表面的な解説をしておくと、確か2001年?にPlaystation2から出てきた作品で、ディレクターは1970年生まれの、上田文人さんです。その幻想的な雰囲気は「ラピュタ的」と言われたり、「デ・キリコの作品のよう」と言われたりする一方、ゲームの内容としては『アウター・ワールド』や『エイブ・ア・ゴーゴー』というようなパズルアクションとでも言うべきジャンルにおいて良く作り込まれた内容になっています。
いままでICOというのは、それについて語ることを、それ自体が、ほとんど拒否してくるような作品だという気がしていました。もちろん、今もその気分は変わりません。別の言い方をするのであれば、語ることによって作品を卑称に、わかりやすくて通俗なカテゴリーに入れてしまうのではないか、という気分です。
米島:「語ることをそれ自体が拒否してくる」という言い方とか、よくするよね(笑)。まあ、でも、その感覚は、共有してると思うのね。
オレも、ご多分に漏れず2001年の暮れにICOをプレイしてがっつり衝撃を受けたわけだ。そんでもって、「これは何かしらの形で、語るコトバを持っておきたい」とはおもった。確かに。でも、むずいなー、ということも、ものすごく思った。これが、FFとかだったら、力んで論じたいとか、そもそも思わないわけだけど。
同時にね、「世界観が素晴しい」「人物造形がいい」「物語がいい」「グラフィックがいい」とか、そういうことを個別に、技法を細かく見て言って語ることはもちろん可能だな、というのも思うには思った。霧の効果がいい、とか。女の子がかわいいとか。ヘタにコトバを入れないで俗っぽくしてないのがいい、とかね。そういう個別要素を羅列して、だーっと、3時間ぐらい話せといわれれば、不可能じゃないと思う。そしてまた、それぞれの要 素がゲームプレイ全体に与えている効果みたいなものも、もちろん甚大なわけだ。だけれども、それでいいのか、と。
瀬上:そう、それではよくない。それだと、ぜんぜんICO、について捉えられたという気がしない。
米島:そうね。個別の要素を語ることにももちろん、面白いことはざっくざっくあるのだけれども、そういうことじゃないのではなかろうか、と。「このRPGはジャンクションシステムが面白い!」とかいう話じゃねーだろ、と。
●何が体験を統合しているのか
瀬上:そう、個別の要素に還元できない何かがある、という感覚はたぶん、出発点になると思うんですね。そうなると、次に出てくる疑問というのがおそらくありますね。
ゲームの体験が個別に還元できる、もしくは、個別に還元できないというような視点を出してきたときにですね、それを統合的にしてみせているものっていうのは何なのだろうか、ということですね。
一つ目は、ゲームの経験を成り立たせる綜合的感覚というのが、非常に多層的であるということが指摘がありますね。インターフェイスを押すタイミング。画面の情報。ルール。戦略的な計算。他のプレイヤーとのコミュニケーション。身体的快楽。物語。…みたく、すごくいろいろなものを一度にゲームプレイヤーは処理をしているわけですね。驚くべきことだと思いますが、プレイヤーはこれだけ多様なものを同時併行で処理してしまっている。プレイヤーがすごいというのもありますが、ゲームの開発側がこれをよくわかっていて、よく体験が統御され、目的が明確に設定されたゲームというのは、多層的な感覚が分裂したりせずに、一つの感覚の中に統合され、綜合されている、という感覚があるわけです。では、そういう感覚というのはどのようにして生じるのか、と。
二つ目。ゲームの経験をうまく制御してみせる、人間として宮本茂なんかは代表的な固有名としてよく取り上げられます。堀井雄二でもいいですが、とにかく宮本茂というのはゲームのプレイヤーがどうやったらゲームにうまく習熟できるか、どうやったらストレス無く――しかし手応えを持ちつつ――ゲームをプレイする構造を作り出せるのか、ということをものすごく突き詰めて考えているわけですね。それをインストラクション・デザインあるいは、レベル・デザインと言われるものをすごくきちんとやることによって達成している。どの地点で練習させて、どの地点で応用させて、どの地点で極めさせるかということを磨き上げて作っている。
ゲームのグラフィック、物語、インターフェースなど様々な感覚を統合的に見せて、ゲームの遊び方/やらせ方を作品の側から、プレイヤーの脳みそにインストールしてしまう。とにかく、そういった形で、経験を意味づける見取り図をプレイヤーの側よりも作品の側が主導してしまう、という自体がコンピュータ・ゲームでは往々にして、戦略的に引き起こされるわけです。
これを、仮に、ゲームの体験を個別に還元しない、意味づけの方法だ、と捉えることにしましょう。すると、ICOはどう捉えられのか。
米島:質問が、長くて、わかりにくいよ(笑)。
つまり、あれか。瀬上くんの言いたいのは、「全体と部分」の話だろ。「経験の全体」が作り上げられるプロセスが、個別の技術に還元できない。そういう話?
瀬上:で、その<全体>を作るのは、プレイヤーであるよりも多くの場合、作品の側が主導権を握っていたりする、ということですね。特に後者の問題がそういうことですね。
米島:うーん……。そうなの?プレイヤーかもよ?プレイヤーと、作品の側と、どっちが優位か、なんて話、ほんとにできんの?
瀬上:突き詰めたら、それは難しいでしょうね。でも、それはできるんじゃないですか?マリオをプレイした人の8割がマリオを楽しい、というときマリオの側がプレイの仕方を制御してる可能性が高いわけですよね。5%の特殊な人が、変わった楽しみ方を見つけている、とかってことじゃないですよね。マリオとか、ICOの場合は。
米島:なるほど。まあ、それはいいだろう。でもさ、全体を意味づける立ち位置が成立するっ……て、さっき瀬上くんが言ってたことをもう一回繰り返すと、個別に還元できない感覚がありますよ、ということをまず言っていたよね。
要するに創発的にたちあげる現象として捉えなければいけない。認知科学系の研究なんかでは、実験室で、一つだけの感覚をコントロールして確認していくという研究の仕方をよくやるわけだけれど、ああいうの「だけ」だと無理くさくね?という話が前者だよね。創発的な感覚。感覚複合的な心理現象を語るっていうのは、どうすりゃえーねん?というはなしが、もう一方であるわけだ。
別に「実験室がだめ」とかいうハードサイエンス否定します!みたいなDQN地味た話じゃなくて、アンチ還元主義を気取るわけじゃなくても、還元主義的な議論からどこかでジャンプするようなね、ある種うさんくさいかもしれない議論をやらないことには、これはそもそも議論の遡上にのせらんない。ICOつーか、ゲーム全般。芸術全般の問題だけどね。
●緩いリンク ――映像と時間の前景化
瀬上:それは、まったくその通りで、まあ、複雑系の話とかが、あと何十年かぐらいすすんで環境と身体と脳機能モジュールのネットワーク論だとかの手がかりがつかめてくると、またこういう議論の前提そのものが変わるかもしれない、というのはあるわけですが、ちょっと、還元主義じゃむずかしいよね、という視点も含めて議論するために、話を別の方向にすすめたいと思います。
一つ重要だと思うのは、ICOが、マリオとかドラクエみたくして、楽しみ方をプレイヤーにインストールしてゆくタイプのゲームなのか、どうかということだと思うのですね。ICOをプレイする上で、ゲームの目的や、手順といったものは果たしてどこまで明瞭に位置づけられていただろうか、と。そういう問いを立ててみます。
米島:プレイヤーに楽しみ方をインストールね。どうだろうね。難しい。
瀬上:ものは言いようだというところもありますが、マリオとかドラクエとは全く別のタイプの作られ方をしているという点は合意していただけるか、と思います。「女の子を城の中から救い出す」という目的は提示されるものの、マリオみたく「右にすすむ」とか、ドラクエみたく「とりあえずレベルをあげる」という目的はありませんし、どこをどうやって楽しめばいいのかということを、あざとくガイドしてみせてくれるようなものは、かなり控えめに抑えられていますね。
つまり、ICOというのは、ゲームのプレイ経験全体を意味づけるパースペクティブみたいなものっていうのは、どこまで行っても明瞭には提示されません(参照:沢月[2002])。
『ICO』をプレイするとき、プレイヤーの行為はゲーム全体のパースペクティブ、意味づけとそこまで強く関わりませんね。ゲームの一つ一つのアクションと、ゲームシステム的な意味づけのリンクがそこまで緊密な結ばれ方をしていない、と言ってもいいです。アクションとシステム/プレイヤーの主観とゲーム全体の構造把握といった関係は、互いに密接に連結したものではなくて、プレイヤーの主観的もゲーム全体の構造も不確定に自由に広がりあい、離れたりくっついたり重なり合ったりしながら、ときに「意味」をむすび、ときには何の「意味」も成さないものとして存在している、というような状況がICOには生まれていると思うのですね。
米島:ぼんやりとしか言いたいことがわからん。アクションと、システムが緩くしか連結してない、ってことはわかった。
よくわからんけれど、オレなりの解釈をしてみるとね、うーん。最近、ゲームの映像を見る楽しみが減ったような気がしてるのね。ゲームの世界が2Dで描かれていた頃って、ゲームの映像って、ゲームのやり方、ゲームの見え方とがすごく密接に結びついていた時期ってあったじゃない。ヘックスが描かれていたらシミュレーションゲームだし、俯瞰視点で四人ぐらいが列を組んでたらRPGだし、世界の見え方そのもの、世界の描かれ方そのものが、世界への接し方を描写してたよね。すごろく板はすごろくのあり方を想起させるし、アクションゲームの映像はアクションゲームのプレイの仕方を想起させるよね。
まあ、ファミコンとかスーファミの頃って、『ファミコン通信』(現、ファミ通)とかを一ページめくるたびに、ゲーム番組の映像をみるたびに。そのゲームがどんなゲームだろうっていう想像をすごく駆り立ててくれたわけですよ。映像すなわち、ゲームシステムだった時期というのがあった。
だけど、ゲームの映像を見るのが最近つまらなくなった、っていうのはその映像とゲームシステムの結びつきがすごーくよわくなっちゃったというのがあるわけだ。最近のゲームって、ハイエンドの最先端ゲームってぜんぶきれいな3Dの世界が描かれているじゃない。するとさー、どの映像みても区別がつかない、っつーか、ゲームシステムがどうなってるのかなーみたいな想像力をほとんど刺激しないんだよねー。まあ、どこもかしこもキレーなのはいいんだけどさ。欲望された世界は全部同じだったということかもしらんけど。とにかく、新しいゲームの映像は、新しいゲームのプレイ体験を想起させなくなったわけですよ。塊魂とか、わずかな例外があるだけで。
瀬上:確かに、ゲームシステムとグラフィックの連結のされ方は、この20年ぐらいでまったく変わりましたね。
米島:ただね、ゲームの映像ってのは静止画にしたときの見え方が似たようなものだったとしても、ゲームをプレイしているときのプレイヤーへの主観的な見え方っていうのはやっぱり違うわけですよ。プレイヤーはゲームの映像を、ただの色の集合だとか、ただの美しい静止画としては眺めないよね。たとえば、そこに敵がいるのならば、即座に敵を攻撃すべき「的」として捉えるし、プレイヤーと敵との距離を冷静に――興奮はしているかもしれないけど、ある程度は冷静に――測定するわけだ。そんでもって、プレイヤーは自分が敵と対峙すべき最適な距離をとろうとする。
このときにね、その世界がどんなに美しかろうが、ディティールが書き込まれていようがもう関係なくなっちゃう瞬間があるじゃない。2Dのゲームをプレイするときの感覚と、3Dのゲームをプレイしてるときの感覚って、けっこう同じになるときあるじゃない。雪景色の中にまぎれる白い敵は、判別の難しい強敵として捉えられるし、黒い敵は判別しやすい絶好の的としてうつるわけだよ。そういう判別を必死でしているときって、映像の美しさは二の次になっちゃう。
もちろん、ICOにもそういう瞬間はあるよね。あるんだけれども、ICOみたいなものってそうじゃない瞬間のほうが多くてさ。敵/味方、とか足場/背景といった見方とは関係なく映像を見てしまえる時間がすごくよくできてるよね。ハトみつめられたり。ヨルダがうろうろしてるの眺めたり。敵/見方とか、パズルのパーツ情報として、映像を見ないんだよね。あんまり。あれ、とっても不思議。
瀬上:不思議ですよね。その不思議さが、どうしてもたらされるのか、っていうのが、アクションと、システムが緩くしか連結してない、ってことに原因があるんじゃないか。というのが僕の主張なんですね。
個別のアクションと、ゲームシステムが密接に連結してたら、一つアクションを取るごとにそれが、ぜんぶゲームシステム的な意味の一部として位置付けられてしまう。そうなると、映像の美しさみたいなものって全部、「背景」になってしまって、それが「前景」にはならなくなるわけです。
米島:あ、はい。うん。そういうことね。理解。
瀬上:それと、もう一つ。映像の話とリンクさせる形で時間の話としてもその話は可能ですよね。
たとえば、いま米島さんが足場/背景という区分を挙げられました。確かにゲームの世界を「見つめる」という行為は、敵/見方という区分以外では、ヒント/背景という分節を前提にした「探す」「探索」ということを前提にして組み立てられている場合が非常に多いですね。『DQ』『FF』といったRPGや、『逆転裁判』などのアドベンチャーの他にも、アンチRPGのRPGである『MOON』とかあるいは、『サーヴィランス』『ポリスノーツ』とかでも、そのような形でデザインされていました。
米島:時間の話は面白い話が沢山あるよね。前にさ、宮本さんがね、どっかでインタビュー受けて言ってたんだけど、「ゲームで、物を隠す場合というのは、すぐに見つかるような隠し方じゃいけない。絶対に見つからないような隠し方でもいけない。25分ぐらいでちょうど見つかるような隠し方を考えっていうことなんです。これ、けっこう難しいでしょ?」とかって言ってて、すごいなー、って思った。さすが。丁度いい具合に、見つかるって、大変だよね。
瀬上:うん。それが、宮本さん的な「時間」へのアプローチのすごいところですよね。ICOって、確かにそういうところもゼロじゃないんですけど、ICOって、常に高速な反応を求められるわけじゃないじゃないですか。
米島:ヨルダのこと、ボーッと眺めててもいいよね。そもそも、あのゲーム、すごくよく作ってあるから、触ってるだけで楽しんだよね。あれ。
瀬上:ですよね。双六のマスをどんどんと進めていくようにしてプレイしなくてもいいゲームなんですよね。ゲームシステム的に無意味な時間をすごしてもOKになっている。「何もしないこと」が選択可能になってるからこそ、ゲームの中での静謐な時間みたいのが、生々しく出てくる。
米島:ああ、なるほど。同じ論法ね。ゲームを必ずしもやらなくてもいいゲームだ、と。だからこそ、ゲームシステム的に重要じゃない部分の、生々しさを殺さないで済むんだ、と。
瀬上:そうですね。時間的にも急かされないし、映像的にも見分けることを強要されない。
米島:なるほど。いや、瀬上くんの言いたいことはわかった。
でもさ、それってさ、んー、まあ理屈だなぁ、というか。別にそこそこ納得はするんだけど、なんか、今ひとつ面白みにかける。
理屈的に反論してみようか。
瀬上:はい。お願いします。
米島:あのね、その説明が、まあ、ある程度、そうだとして、だ。
ゲームゲームした感じになりすぎちゃわない、っていう部分?のめりこめさせない仕組みの説明じゃん?それって。
でもさ、ふつうはさ、のめりこめさせないと失敗なわけだよ。ハマってプレイしてもらわないことには、ゲームって商売は成り立たんわけだ。行為アディクションの発生装置みたいなところがあるからね。ゲームって。
瀬上:はい。そうですね。「視線が泳いじゃいますよね」っていう話を僕はしたわけですけど、「普通は視線が泳がないほうがいいだろ」ってことですよね。
米島:そう。視線が泳いだ先に、見るべきものがあるか、どうかって話に結局なってしまう。で、見るべきものはやっぱりICOの開発チームの美術ワークが素晴らしかったとか、サウンドチームが素晴らしかった、とかAIチームが素晴らしかった、とかって話をやっぱりするしかなくなってしまう。
もちろん、本当にそれは素晴らしかったんだけど、そういう個別のことをオレらは話したいわけじゃない。
●「ヨルダっていうのはね、プレイヤーキャラクターの身体を、分裂させてるんだよ」
米島:でね。ここから、オレのターンで(笑)
何がすごいってさ、ヨルダだと、思うのよ。
ヨルダって、要素を配置したっていうことがね。もう、すごすぎる、と。
瀬上:ほう。もう少し敷衍していただけますか。
米島:いまね、瀬上くんさ。「素直にのめりこめないように出来てる」みたいなこといったじゃない。
瀬上:はい。言いました。
米島:でも、素直にのめりこめない、とそれはストレスなわけだよ。ゲームやめちゃうわけだよ。つまらなくなったやうわけだよ。
でも、やめない。むしろ、面白がっちゃう。
これ、どうして?世界がキレイだから?環境ソフト的に遊べるから?ヨルダがかわいいから?
瀬上:その要素はありますよね。
米島:うん。ある。さっきも言ったけど、それは確実にある。でもさ、ICOは、環境ソフトじゃないわけよ。環境ソフトなんかとは全然ちがう。スクリーンセーバーにして眺めとくようなね、『アクアゾーン』みたいなものじゃないじゃない。『アクアノートの休日』でもないじゃない。
瀬上:そうですね。僕のさっきの論法だと。
米島:そう。瀬上くんのさっきの話だと、ICOは、飯田和敏作品とほとんど同じだと言っているようなもんだよ。『アクアノートの休日』とか『太陽のしっぽ』とICOは、同じだって話になっちゃう。あるいは、伊藤ガビンさんとかの作ってる「目的のないゲーム」とかみたいなラディカルな方向と同じって話になっちゃう。
でもね。違うだろ、と。そんなもの、ファックだろ!と。
瀬上:僕はそうではありませんけれどね。「目的のないゲーム」ぐらいの問題提起をしてくれる人がいないと、むしろ悲しいですね。
米島:うぜぇな、瀬上(笑)。
話を戻すとさ、オレは、さっき瀬上くんが言っていたことは全然、違う、とおもってるわけだよ。あのね、ICOはね。やっぱり。ゲーム。少年を操れちゃうゲームですよ。
普通のゲームはね。ゲームに関係のないものが入り込んでると、ウザいわけだよ。いらねー、どっか行ってくれ、って思うわけだよ。
でも、ICOは、そう思わない。ゲームをプレイしてる時に、いろいろなズレみたいなものを発生させる仕組みが埋め込んであるのだけれども、それがストレスにならない。ふつう、ボタンを押して、反応が返ってくるまでに、0.5秒も遅延があったら、死ねよ、って思うけど、ICOはそう思わない。
どうしてかって言ったら、そのズレの発生源が、ヨルダだから、なんだよ。
瀬上:もう少し詳しく説明していただけますか。
米島:ボタンを押した時にね、ICO少年のほうはきちんと動くわけ。これは、もうかっちりと動く。元気に動く。レスポンスはすごくいいし、すごく生々しく動くわけだよ。だから、ゲームとして、合格。ストレスはない。
で、ヨルダはかわいいよね。うっとりと見入っちゃうような女の子だよね。
瀬上:うーん、はい。ICOって、ゲームゲームした部分というか、その身体が生身の感じを強めれば強めるほど、その身体の記号的な扱われ方をしている部分というのが気にかかるところがありますよね。ヨルダの身体が眼差される対象でありうる一方で、ICOの、少年の体はやっぱり、プレイヤーキャラクターで、すごく記号的な身体…というか。
米島:いや、そんな単純じゃないよ。
ヨルダはね、プレイヤーキャラクターの延長なんだよ。だからね、ヨルダの身体の手応えっていうか、ヨルダの身体のレスポンスっていうのを感じるわけじゃない。プレイヤーは。手を強く引っ張ったときにはさ、すぐについてこないで、一度、手だけを強く引っ張ってしまって肩をガクっと落としてから、体をついてこさせるじゃない。すぐに少年の後ろについてこないでしょう。「オファ、オファ」という声をあげてから、ヨルダが反応し、かけつけてくるまでには時間の落差があるでしょう。
ヨルダっていうのはね、プレイヤーキャラクターの身体を、分裂させてるんだよ。あれは。
あのゲームってさ、画面から全部数値的なパラメータとかを排除するためにさ「HP」とか使わないじゃない。でね、上田さんのインタビューを聞くところによればさ、「一緒にいる女の子がさらわれるかどうか」がHPの役割を果たしてるらしいのよ。
『ワンダと巨像』だとさ、テキストや数値による表現を極力抑えられてはいるものの、右下に小さなメーターを付けちゃってるじゃない。メーター。ヨルダってさ、メーターなんだよ。その意味では、ヨルダって、プレイヤーキャラクターの身体が「HP」として持ってたものが切り出された姿でもあるわけだ。これはとても大きなことなわけ。やっぱさ、ゲームでインターフェイスまわりのことを考えるときってさ、ある種の理想としてさ、テキストや数値による表現を嫌う、テキストレス主義みたいな理念というのはあるわけだよ。「HP」とか「MP」とか、そういうパラメータを素直に表示してもいいんだけれど、そういうことをやってしまうとね、「ああ、これ作り物なんだ」っていう、感じがでてしまうだとかね。あとは、やっぱプレイヤーが「いま、このゲームの中の世界にいるんだ」っていう感覚が削がれてしまう。そういうテキストレス主義みたいなものの作り方を徹底していこうと思うとさ、それまで数値で表現していたものを、数値でないものに置き換えつつ、なおかつゲームとして成立させなけりゃいけない。誰だって思いつくのは、「たたかう」の変わりにAボタンを押して攻撃するとか。あと、HPを表示させないかわりに、プレイヤーキャラクターの見た目がボロボロになっていってそのうち死んでしまうとかね。そのぐらいは簡単だけれども、「HP」の変わりとして機能するものをプレイヤーキャラクターではないものに植え付けた、というのはね、もう、これ発想の勝利ですよ。
瀬上:「わたしの身体の延長」であるプレイヤーキャラクターでありながら、同時に「眼差される対象」でもある、と?
米島:でも、ナルシストじゃない。『デビル・メイ・クライ』とか『ベヨネッタ』とかみたいな神谷英樹系のゲームってのはさ、基本的にはナルシストを可能にしているゲームじゃない。あれは、二丁拳銃もって華麗に舞う自分(プレイヤーキャラクター)を見てほれぼれするゲームでしょ。
瀬上:「わたしの身体の延長」である、プレイヤーキャラクターの動きにうっとりとみとれると、というゲームですよね。『デビル・メイ・クライ』も、眼差す主体の延長=プレイヤーキャラクターと、眼差される客体=映画スターという分節を、融解させてしまったものですけど、これとは違う、と。
米島:そう。違う。やっぱりね、ヨルダを見つめる、というはそういうことじゃない。ICOの動きもすごくキレイにつくってあるし、ICOに見とれることもできるけど、そうじゃないよね。やっぱり、あれはヨルダがキレイなゲームなんだよ。ヨルダの鼓動もコントローラーを介して伝わってくるしね。
『デビル・メイ・クライ』とかはさ、ストレスが発生しないゲームだよ。基本的には。どれだけ、華麗に舞いつつ、敵を倒せるか、っていう。二つのゲームをやってるゲーム。華麗に舞うゲームと、敵を倒すゲーム。複雑性が増してるけど、プレイヤーキャラクターの身体は一つだし、プレイヤーキャラクターの身体は、プレイヤーの意のままだよね。
瀬上:ヨルダは、意のままにはなりませんね。
米島:そう。ヨルダにさ、乱暴にしたりするとさ、ヨルダが嫌がったりするんだよね。ヨルダは、気まぐれにこっちがプレイしているゲームの理屈の世界から抜け出しちゃったりする人なんだよね。
瀬上:自分の制御できないもの、に見とれる。
米島:そう。自分の制御できるものに見とれるのではなくて、自分が制御しきれないものに見とれる。だから、これはナルシズムではない。むしろね、そこでヨルダと手をつなぐ感触とかにね、どぎまぎするようなね。もし、HPの代わりの表現として「プレイヤーキャラクターの身体が傷付いていく」という表現が選び取られていたらね。これはありえなかったでしょう。プレイヤーキャラクターではない、ゲームの理屈から抜け出すようなね、ゲームをする上では制御するのがちょっとやっかいな他者みたいなものがね、自分の身体の延長として機能している、っていう。この在り方がね。「ゲーム」としてのICOを形作っているし、ゲーム自体から抜けだそうとするヨルダの存在も、ゲームの中に含みこむことを可能にしているんだよね。
●不確かな暴力を振るっているのは誰か。
瀬上:なるほど。米島さんのおっしゃりたいことはわかる気はします。
それと、そうなると、もう一つ思うのが「『ICO』はギャルゲ―だ」論というのがよくありますが、そういう方向性であるようにも聞こえます。
米島:それはね、他人とは何か、ということだと思う。
ヨルダってさ、意のままになりきらない。これが他人だということだよね。
ICOをやっていて怖いのはそこなんだよね。
瀬上:怖い?
米島:うん。ICOって、怖くない?
あれさ、キャラクターの動きがすごく生々しいじゃない。
影から逃げてさ、ヨルダをひっぱっててさ、ヨルダから、たまに嫌がれるときの嫌悪感が表現される体の動きも生々しいし。
それに何よりも生々しくて驚くのはさ、影を棒で叩くときの少年の動きだよね。
瀬上:ああ
米島:ぞっとすることがあるよね。正当防衛みたくして、影と闘ってるわけだけど、あの棒の振り回し方を見ていると、ひどく残虐な感じもするでしょう。
瀬上:『エヴァ』とか『エウレカ』みたいな話っぽくもありますけど…
米島:だいたいそうなんだけど、ちょっと違う。
瀬上:暴力って何か、みたいな話で、暴力論なんかだと、戦争のような国家暴力、犯罪などの個人暴力、行為者が特定できない構造暴力などといったような区分をしますね。
エヴァとかの場合は、国家的な正当性を付与された暴力を振るう主体=シンジくんが、国家と関係なく、とても個人的な動機で力を振るってるように見えてしまう瞬間がある。そういうものが描き出されているのが怖いわけですね。
構造的な整理としては、だいたい近いと思います。暴力を振るう正当性を付与されている…と思い込んでいた主体の振るう暴力が、実は正当性に紐付けられていない…!と気付いてしまう怖さ。
米島:でもさ、そのときゾッとするのは誰が誰に対してなんだろ。
エヴァを見ているとき、シンジくんの幼さを見る観客が、シンジくんにゾッとするわけだよね。アスカにゾッとするわけだよね。
でも、ICOでゾッとするのは、少年に棒を振るわしていたプレイヤー自身じゃないのかしら。ゾッとするのは、自分自身の正当性の根拠の無さじゃないのかしら。
瀬上:いや、でも、それは結局、画面の中のシンジくんや、ICOに対して、観客がどれだけ感情移入してしまっているか、じゃないんですか?主人公=わたしの延長、でどれだけあるのか。感情移入をしている観客に対しては、エヴァであっても、それはやっぱり「私の暴力の無根拠性」みたいなニュアンスが発生しちゃうんじゃないですか?
米島:いや、だけど「プレイヤーキャラクター」と「主人公」は違うものでしょう?
瀬上:難しいですね。
うーん、『GTA(グランセプトオート)3』ってあるじゃないですか。犯罪者になって、車盗んで、人ひき殺して、路上の通行人を射殺して、逃げ回って、楽しいっていうアレ。あれは、元から、何の正当的な根拠もない暴力というか、犯罪者のゲームですよね。
米島:それは、瀬上くん、わかってないよ。
GTAはさ、犯罪者っていうキャラクターが設定されているわけじゃない。犯罪者らしさ、という枠組みのなかでプレイするものだよね。GTAの暴力って、正当性はないかもしれないけど、キャラクターの設定からすれば、何の問題もなく理解のできる行動じゃない。
瀬上:犯罪者の合理性、ということですね。米島さんが仰られているのは、むしろ、あらゆる合理性が抜け落ちて、暴力だけが露わになってる、みたいな。そういうことですよね。
米島:あー、そうね。ちょっと話が逸れるけどさ、オレ、『Fate stay/night』の最初のセックスシーンが大嫌いでね。あれってさ、エロいことするために、とにかくありとあらゆる正当性をくっつけておいてはじめて、エロいことができましたって話なんだよね。
相手の合意はもちろん、悪者の手から逃げのびるためのセックスでもあり、周囲の第三者からもきちんとOKをもらった上で、ようやく、これからエロいことをしますよっ、ていう話でさ。まあ、昔から、「世界の危機をすくうためにオレに抱かれなさい」っていう話はあるけれど、あれ、そういうものだよね。抱いた後に妊娠させても、オレのせいじゃない、とかって言えてしまいそうな野郎の話に思えてしまった。
瀬上:いや、セックスをするっていうのがそれだけ、恐ろしいことだと思っているから、それだけ正当性が付いてないと、できないんでしょう。それがダメか、いいか、というのは話を裏から見るか、表から見るか、という話で。むしろ、恐ろしさを理解してるから、いいとも言えるわけですよね。そこまで、無頓着でデリカシーのないヒーローとはまた別モノなんじゃないかとは思いますけど。
米島:まあ、そうとも言えるけど、この話はわき道に逸れすぎるので言いたいことだけ言うと、結局ね。結局、何が言いたいかというと、暴力的な行為に正当性だとか、合理性?をくっつけてまわるっていうのは、暴力を隠蔽するわけじゃない。
でもさ、ぎりぎりのところでね。自分のやっていることが暴力なのかもしれない。ヨルダを救っているように見えて、ヨルダを苦しめているのかもしれない。嫌われているかもしれない、みたいなギリギリのラインで、煮え切らすことができない状況でやらざるを得ない。ICOは。
そこのバランスがね。エヴァとか、エウレカなんかよりも、実にギリギリのきわどいところで行ってると思うんだよね。エヴァとか、エウレカなんてさ、やっぱりバカなガキが戦争でハイテンションになっちゃって、わけわかんないことをしちゃう話として描かれてるわけだよ。「ハイ、これは何の正当性もないむき出しの暴力です」って。露悪的に描いちゃってる。
でも、ICOって、そこまででも、ないでしょう。それがむしろ、良くって。
しかも、途中で、いかにっも悪者っぽい、クイーンから言われるじゃない 「おまえだね、わたしのかわいいヨルダを連れ回していたのは」って。
瀬上:そこは、沢月さんも書かれてた部分ですね。はい。まあ、それはわかるんですけど。 物語的な構造と、そこらへんは見事に相乗効果を果たすようにつくられてますよね。
米島:その、まあ、そうね。ICOはそういう、怖さを醸すように設計されてるんだよね。何重にも。
瀬上:さっき、米島さん、プレイヤーキャラクターと主人公は違うよねって話。おっしゃいましたよね。
米島:ああ、うん。
瀬上:ちょっと、考えてみたんですけどね。何が違うかっていったら、やっぱりその体を動かせるか、どうか、ということが全てだという気がするんです。物語上の、位置付けはプレイヤーキャラクターが主人公でもある、というとき、主人公はやっぱりプレイヤーの分身でない、という感じることはあると思います。
例えば、FFの主人公が、青臭い発言をしたときにね、やっぱりプレイヤーはその青臭い発言をした人物を、「わたし=プレイヤーの分身」としては捉えられない。
米島:そうだね。
瀬上:さっきから、米島さんがおっしゃられている「バカなガキ」ではないICOって何者かって言ったら、それは、やはり米島さんが操作する少年ICOのことなんじゃないかと思えるんです。
米島さんが操作するから、ICOはそこまで脳天気な正当性の中で裏付けられた暴力を振るう少年でもいないし、かといって、そこまでむき出しの暴力でもない。それをそうさせてるのは、米島さんなんじゃないかってことです。米島さんが、暴力に対して、それなりにはセンシティヴだからでしょう?
少年ICOって、ほとんど、セリフらしいセリフを喋りませんよね。意志を明らかにするようなセリフをしゃべらない。ICOが何者で、どういう少年なのかってことは、ほとんどわからない。だからこそ、ICOがどういう少年を観察している米島さん自信を、鏡のように跳ね返してしまうんじゃないか、と。
うちの甥っ子に遊ばせたら、きっと、無邪気にきゃっきゃと、棒を振り回しまくってしまうだけなんですよ。
米島:んー、なるほど。確かにね、それはそうなのかもしれない。
なんだか、その話を聞いてね、おもったんだけど、オレの友達がね、ICOをプレイして、とにかく思ったのが、「自分は何の演技をしようとしているんだろう」って思いながらずっと、プレイをしていたって話を聞いてね。ああ、なるほどなぁ、と思った。
ICOを操作する、操作の仕方を常に選び取らされてるんだよね、あれ。
瀬上:同時に、演技を選び取ってしまっている自分を、自分自身ではっきりと見つめてきってしまう、というそのお友達は面白いですね。それはプレイヤーごとの感性なんでしょうね。
●言葉のないもの
米島:そうねぇ。ちなみに、その「無口なプレイヤーキャラクター」っていうのは、....
瀬上:ドラクエです。
米島:そうだよね。堀井さんのやってきたことなんだけど...
瀬上:ちょっと違う。
米島:うん、ちょっと違う。どこが違うんだろう。
瀬上:そうですね…
米島:身体の見え方じゃないかな。
瀬上:というと?
米島:ドラクエってさ、暴力を振るうプレイヤーキャラクターの身体って、昔っからちゃんと描かないよね。基本的に、堀井さんは言葉のひとだし。言葉が何よりもあるだけなんだよね。言葉が。あとは「はい/いいえ」。
言葉と違ってさ、身体って、もうちょっと緩いというか、わけがわからないんだよね。
瀬上:ああ、つまり...意味が確定されない。
米島:そうね。
瀬上:もっと、意味が確定されるよりも、もっと以前の段階を提示しますよね。
米島:そうだね。意味は、事件の後にひっついてくる。暴力のあとに、ひっついてくる。自分のやったことが、いいことか、わるいことか、どう解釈されるべきことのなのか、わからない。
昨日ね、テレビを見てたらさ、有吉弘行が小学生の頃にモテた、って話をやっててさ。なんか、それで、有吉が好きだった女の子がね、クッションを誕生日にプレゼントしようとしたんだけど、有吉に直接渡すだけの勇気がもてなくて、有吉の自転車のカゴにクッションを置いてきてしまったんだって。手紙もなにもなしに。
でも、それが自分の好きな子からのプレゼントだったとは有吉は理解できなかったらしくって。気持ちの悪い嫌がらせか何かだと思っていたらしいのよ、今の今まで。それが、20年以上も後になって電話をした時にようやくわかって。
手紙があればね、また違っただろうに。
手紙もなく、ものだけが提示される、ってそういうことだよね。
そりゃまあ、言葉の世界だって、うるさく言えば誤配可能性がどうこうとかって話はあるだろうけどさ。言葉の不確定性の比じゃないと思うんだよね。こういうものって。
瀬上:ああ、なるほど。意味が、言葉によって規定されないっていうのは、まさにそういうことですね。初恋の女の子からのプレゼントなのか、誰かの嫌がらせなのか、さっぱり確定できない。
ドラクエだって、ある程度そういうわけのわからない行為を強いるようなところはあるので、詰めて言えば、程度問題なのかもしれませんけれど。
でも、なんだか、そういうクッションが自転車に放り込まれていたときの、どう判断していいか、まったくわからないような。そういう感覚をとにかく、どんどん、放り投げてくる。ICOの「わけのわからなさ」というのは、そういうものかもしれませんね。パースの記号論とかを使って丁寧に議論すればもうちょっと整理できるのかもしれません。
米島さんのお友達が、「自分は何をしているんだろう」というのも、行為の位置付け自体を自分でしなくちゃいけない、ということをふと気付いてしまうということなのかもしれませんね。これが『サクラ大戦』や『ドラクエ』だったら、もっとわかりやすいですものね。自分が何をしているのか。どんなキャラクターでプレイをしようとしているのか。でも、ICOは、そこも放り出されている。
米島:まあ、結局、ICOは、そういうわけのわからない感じの中にポーンと放りこんじゃってさ、でも、それを全部、ゲームとしての基本のお約束を変形させる形で、やってるからね。それがね、とんでもないんだよね。棒を振る不気味さもアクションゲームとしてまとまってるし。ヨルダは、HPの変形でもあるし。
そういうことは、なかなかできない。いや、もしかしたら、本当は、できるのかもしれないけれど。
どうなんだろ。どうなんだろうね。