« 2008-06-09,13:05 written by complexequality | メイン | ゲーム作りの文化のために―独立系デベロップメントシーンの比較試論― »
2008年06月13日
■何が悲しいのか―――メディアと人の形
●ライフログの悲劇
井上:秋葉原通り魔事件の翌日に書かれた、complexequitlyさんの記事の主張をまとめるとこういうことですね。
ジャーナリズムにおけるプロ/アマの融解だとか、ヌルいことを言っているんじゃない。プロもアマもまとめて「報道」という概念事態が揺るがされている。ライフログと報道の融解のほうがより大きな問題なのだ、と。そして、今回の悲劇は、ライフログをめぐる行為や、解釈をめぐって幾重にも錯綜した事態が展開していた。そして、犯人も、犯人をめぐる社会システム――新聞、ワイドショー、ネット論壇、携帯からアクセスする匿名掲示板、ライフログ――も、全てがそれに巻き込まれている。complexequalityさんの指摘はそういうことですね。
もちろん、永山則夫事件の現代版としての性質も見いだせるだろうし、要因はもちろん複合的だろうし、色々なところに重みは見いだせるだろうけれども、complexequalityさんにとって衝撃だったのはそこだった、と。
complexequality:昨日まで匿名で話していた相手が、いきなり殺人予告をして、わたしの実名の知人のような人たちを殺してしまった。そういう感覚です。そして、そこで、ライフログをめぐる問題がひどく前面的に出てきている状況が、とても悲しく感じました。わたしたちの世界には、このような新しい種類の悲劇もありうるのか、と。わたしにとっては、本当に人ごとではないという感覚が強い。わたしが殺されていたかも知れないことも含めて。
ライフログの問題というのは、すなわち「わたしの見ている映像―――の記録」「わたしがわたしについて語る言葉―――の記録」というものが、一体何なのか、何の価値をもつのか。あるいは何の価値を期待するのか。していいのか。
世界でもっともブログ投稿数が多いのは日本語だそうですね(参考)。そして、そのブログの使われ方はどうなのかといえば、討議的民主主義というような性質のものではなく、もっと私的なものが主流をしめています。「繋がりの社会性」と言ってもいいかもしれないし、わたしの感覚で言うと、それはライフログとそれを取り囲む空間の問題です。
報道として扱われたものに関して言えば、報道をしたとされる人間の「意志」を確認することすら難しい。というか、報道をする側がそれを報道にするかどうかを決定しているのではなくて、何かしらを「報道」だとして受け手の側が決めている。それが「報道」なのか否かを決定しているのは、記録を綴る人間なのではなくて、綴られた記録を読んで位置づける人間なのだな、ということです。そして、ライフログを綴る側もそのような事態を半ば期待している。
井上:少し印象が分かれるのは、僕は情報を読む「人間」がどうやって情報の価値を決めるかよりも、情報の価値を判断していくシステムの側の話なのではないかと思いました。
complexequalityさんの最後の一文―――「もし犯人がワイヤレスのカメラを首からぶら下げて、連行されるその瞬間まで、USTREAMで自らの眼前に繰り広げられる光景をストリーミングしていたならばどうだろう。われわれはそれを見るのだろうか?」―――は、問題提起としてとてもいい指摘だと思ったんです。ですが、ストリーミングだとか、ネット上に記録/ライフログが溢れるという話をしたときにですね、一緒に語るのであれば情報の「編集」の話がネックになってくるように思います。
どういうことかというと、情報がただただ垂れ流しになっているストリーミングの実況では、それを解釈する観客は困ります。もちろん、その映像を報道だと受け取る奴もいる。でも、そうだと受け取らない奴もいる。という状況だと思うんです。村崎百郎の例は面白かったのですが、村崎百郎は確かに他人が垂れ流しているライフログ=ゴミを漁る人なので、特殊な観客として機能するのだと思います。普通の人は、情報が単に垂れ流しになっているだけだと、それがゴミか、なんなのか判別がつかないので、情報を編集し、意味づけする過程がほしい。「ストリーミングを見るか見ないか」という問いを成立させようにも、「誰もストリーミングされていることに気付かなかった」ということで終了しかねない、ということです。
ある記録やら、情報やらがあったとして、その意図を読み取られる過程が問題になっている、ということはよくわかります。そして、犯人はよくも悪くもその点に賭けた。同時に、事件現場の周辺にいた当事者、通行人たちのライフログをめぐることでも論争がおきた。そういった、情報の価値を決めていくのが個々の人の問題だというよりか、情報を流す様々なシステムの側の変容の問題だ、と言ったほうがいいのだと思いました。今回の場合は、携帯電話や、USTREAMといったメディアが、そこでとても大きな役割を担っていた。
complexequality:確かに、ライフログがゴミになったり、ゴミにならなかったりする、というのはそういうことがあるからですね。複数の議論を一挙にしようとしてしまって、わかりにくかったですね。申し訳ないです。
井上:いや、一緒の話だと思うんです。複数の話じゃない。事態はたぶん、二つぐらいにきっちり分けられて (1) 情報そのもの と (2) 情報の価値の重み付け の二つだと思うんですね。この二つの関係性の話をcomplexequalityさんは、今回お話をされている。
complexequality:もう少し敷衍していただけますか。
井上:「報道」っていうもののはアマチュアがやるにせよ、プロがやるにせよ、現実に散在している情報を切り取ってきて、「この情報が重要だ」とやって、流す行為なわけですよね。
一方、価値の重要性について重み付けがされない情報というのは、「報道」というよりも、単に「情報そのもの」ですね。一般には、ゴミになるかもしれないし、宝になるかもしれない記録の束みたいなものがライフログですね。
complexequality:はい。
井上:ただ、ライフログというのは記録される対象である当人にとっては、ゴミか、宝か、と言われれば、宝なわけです。ライフログっていうのは、complexequalityさんの言葉を使えば「実存」に関わる情報。すなわち、「わたしのとって、価値のある情報」という重み付けがされている――――けれども、多くの人にとってはゴミかもしれない情報。
一方で、報道というのは「多くの人にとって、価値がある情報」です。わたしにとっての価値がある情報であるかどうかはわかりませんけれど。報道のための編集作業というのは、情報の価値そのものを提示する積極的な行為です。「多くの人にとって、価値がある情報」であるように見せていくためのね。(表1)
でも、今回は、その情報の編集作業というよりも、情報そのものの価値の切り替わりとかがいきなり起きたというような感じですよね。「わたしにとっても、多くの人にとっても、価値がある情報」から、「多くの人にとって、価値のある情報」になるということを、「ライフログから報道になる」と表現されていたんだと思うんです。
(表1)
わたしにとっての価値 | 多くの人にとっての価値 | |
---|---|---|
ライフログ | ○ | (揺れ動く) |
報道 | (揺れ動く) | ○ |
complexequality:はい。言い方が煩雑になってしまいますけれど、「ライフログでもあり報道でもあるものが、単に報道になる」といってもがよかったかもしれません。でも、システムによる情報の重み付けの問題というのは、井上さんらしい問題の立て方だな、とも思いました。コンピュータ・ゲームの発想ですね。
井上:そうかもしれません。「人」が情報の重み付けをするのが編集行為であるとすれば、「環境」によって情報の重み付けが誘導されていくものがコンピュータ・ゲームです。ニコニコ動画のタグだのなんかも、それにあたるのかもしれません。
だから、ストリームとかライフログの話だけではだめだ、というのはそういうことです。拡大された情報量の中にあって、何が重要な情報か、ということを半自動的に判断していくようなシステムとセットになっている例をあれば、complexequalityさんの衝撃はよりクリアーに見えてくるんじゃないかと思うんですね。
犯人が犯行のストリーミングの映像を流したとしても、誰も閲覧者がいなかったらそれは誰にも見られることがない、ストリーミングされているだけの映像ですよね。その映像を、多くの人に見せようと思ったら、実行に至る直前までに何かしらの方法で人を集めておかなければいけない。携帯のライフログだったから、今回は事件が終わってから参照することができたわけですけれども。
編集というのは、あくまで情報を発信する主体によって意図的になされる行為だと思うんです。でも、ストリーミングのライフログというのは編集がなされているものではなくて、ただの情報垂れ流しに近い。だから、その情報の価値付けを判断していくのは「編集」というような発信者を介するものではなくて、情報の受信サイドなり、情報が置かれていく場所なり、なんなりが受け持たなければならない。そのとき、情報をつくった人間と、読む人間の間にインタラクションが生じる。別の例で言えば、インターネットを使うようになってこの数年「誤読」だとかいう言葉を、これほどよく聞くようになるとは思っていなかったし、意識するとは思っていませんでした。メディアが文の読まれる情況編成をどんどんとダイナミックに変化させてきている、ということを意識せざるを得ない。
●メディアと意志
井上:事件直後の報道をした人々の話にうつすと、アマチュア・ジャーナリズムというのは、「わたしのためのライフログ」というものと地続きだとおっしゃられていますね。本当は、自分のために蓄積されていたログというのが、報道になってしまったりして、それが「アマチュア・ジャーナリズム」だと思われたりしてしまう。リナックス・カフェでUSTREAMをしていた方(ぐんにょりさん)が、現場のストリーミングをはじめた行為なんかはまさしくそうですよね。単に自分の顔の側にカメラを回して実況していたら、周囲で何かが起こったらしいので、カメラを180度まわしてみた。そしたら、それがたまたま大事件の現場だった。そして、そのままパソコンかかえて現場近くまで行ってみた、と。そんなようなリアリティですよね。それを非難されても、むしろどうしたらいいのか、と困ってしまう。
別に、事件があったからカメラをまわしたんじゃなくて、カメラをまわしていたら勝手に事件のほうが起こった感覚に近い。監視カメラが事件をたまたま捉えている事態に近いのだけれども、たまたまそこに人が介在するから、そこに「報道の意志」が読み取られてしまう。
complexequality:ぐんにょりさんはともかく、kenanさんには「報道の意志」みたいなものが明確にあったみたいですけどね。
とにかく、こうした問題が、犯人のライフログと同時並行して起こっていたというのは、とても皮肉な自体だと思いました。結局ここでも問題は、記録されたものとその記録者とか享受者の間にどういった「意志」を見いだしていくのか、ということですね。
井上:簡単に整理してみると、その「意志」というのにはいくつか分けておくことができますね。
まず、記録する側の意志についてですが、記録する人間の意志をほとんど確認しがたいものがあります。それは機械の目。たとえば、監視カメラの目ですね。監視カメラを設置した人の意志は問えるのかもしれないけれども、監視カメラにセックス・シーンが映ってしまったとしても、たまたまそれを見てしまう監視者がいたとしても、セックス・シーンを撮りたかったわけでも、見たかったわけでもない。それはたまたま見えてしまったものですね。リナックス・カフェでUSTREAMをなさっていた、ぐんにょりさんのリアリティは、この監視カメラをたまたま回していたら、映ってしまったようなリアリティに近いかもしれません。ただ、携帯カメラでばしゃばしゃと、事件直後に撮影していらっしゃった方々は、やはり意志を持って撮影をされていたのだろうと思いますが。
もう一つは、記録を見る側の意志について問われなければ、いけないという話ですね。テレビやラジオというのは、とりあえず電源をつけておけば、ニュースが垂れ流されてくるメディアですね。何もしなくても向こうから情報が流れてくる。一方で、インターネットとか、ゲームというようなメディアは見る側の意志をなくしてはありえないメディアです。自分から情報収集をしていくことで、はじめて情報がもたらされる。もちろん、なんとなく目に入る情報というのもインターネット上では沢山ありますが。基本的には、そういう違いがあると言ってしまっていいと思います。
complexequality:そうですね。そこで、たとえば、テレビばかりを見ている人は、情報を摂取している自分自身に対して、罪の意識だとかが生まれるということは薄いと思うんですね。テレビ局の人間が、勝手に情報収拾をして、勝手に情報を流しているのであって見たく無かろうが、見たかろうが、情報が勝手に編集されて、流されてくるんだから。でも、本当は視聴率のフィードバック次第で、どういう情報が流されてくるかということには違いが生じているので、そこには投票のメカニズムのようなものは働いている。
本当は「マスゴミ」だのなんだのと言っているような人は、テレビが嫌いなら、見なければいいんです。ゲームやらDVDやらを見るのにモニタが必要なのであれば、PCのモニタを使えばいい。本当は、テレビのシステムの外側に、みんなで出ることだって、いまや可能です。わたしはテレビを見なくても困っていません。新聞もとっていません。インターネットだけです。
レナード・ショッパという人がいて、彼は改革の手段というのは「退出による改革」と、「声による改革」の二通りがあるだろう、と分けています。選択に代替可能性があれば退出による改革が成立するし、選択に代替可能性がなければ声による改革になる。つまり、テレビの内容に不満があるなら、テレビというシステムから「退出」してしまう改革の仕方と、テレビの内容についてテレビ局にむかって不満の「声」をあげる形の改革の仕方があるだろうということです。わたしが、テレビを見ないのは、言ってみれば退出による改革です。いつの間にか「マスゴミ」に荷担するよりは、どのような悪をなすか、わたし自身が選び取りたい。もちろん、インターネットのリテラシーをお持ちでない方は、テレビのシステムからの退出可能性が低いのかもしれませんが。インターネットのリテラシーがあって、テレビが嫌いな人は、さっさとテレビから退出すればいいと思います。
つまり、何を言いたいか、というと、テレビでたまたま事件を見てしまって、事件の詳細をワイドショーで愉しみにしてしまっている人が、インターネットで情報を積極的にあさっている人よりも罪がないかというと、そんなことは言えない、ということです。テレビからの退出可能性の確保された今となっては「マスコミが勝手に悪いことをやっている」というような話はどんどんと難しくなってきている。
井上:なんだか、お怒りですね。
complexequality:すみません。この事件は、事件を語るフレーム自体に自覚的でなければ、語ることのできない事件です。「今回の犯罪を分析する」という視点を設定したときに、今回の犯罪を「分析するということ視点をもってしまうこと」自体が問題に晒されていて、そこに参加すること自体の問題が問われなければならない。これはそういう事件です。観察者の特権性のようなものを信じこんでいては、いつの間にかこの種の犯罪が登場し続けることに荷担し続けることになります。わたしは、今回の犯罪の詳細な分析なんてする気ではないんです。なぜ秋葉原が狙われたのかなんて、わかりません。なぜ6月8日だったのかもわからないし、どうでもいいんです。犯人がどういう人間だったか、ということで衝撃を受けているところはありますが、犯人の「意図」を読んでやる必要なんてまったくない。むしろ、読まないほうがいい。
わたしがわざわざ書いたのは、何が悲しいのか、ということが理解されればいいという程度のことです。わたしは犯罪を擁護する気はまっったくありませんが、犯人が住んでいたネット上の環境と、そう遠くないところで生きていたので。心理的にも物理的にも近い距離で起こったことなので、とても驚いたし、悲しいんです。
●介入できたかもしれない可能性
井上:犯人のライフログ(携帯の書き込み)、全部読みましたが、確かにあれは読んでいて悲しくなりました。
「06/06 15:52 ナウシカに間に合うかしら」って書いていたのは、ああ、こいつもナウシカ見るんだな、とか思ってしまいましたね。
報道されているかどうか知りませんけれど、40代とか50代でテレビを見ている方は『ドラクエ』『FF』が好きだったとか言われても、「ああ、ゲームが悪いのね」とか思われるかもしれません。けど、宮崎アニメが好きだったと言われれば、趣味の問題じゃない、とわかるでしょう。しかも、あんなに何回も再放送されているものを、わざわざ放送日程チェックしてますしね。先週の金曜日に再放送やっていたってことを、むしろこのログで知りましたよ。
彼を擁護するつもりは全くありません。でも、何かしらの形で当事者と接続されうる可能性の、まったく外側には居られない。そういう感覚は持ちました。
complexequality:あのログは厳しいです。本当に。
ああ、もしかしたら。もしかして、わたしがPCではなく、携帯を使う人間で、もし、あのBBSに居たならば、介入していたかもしれない。そう思ってしまう。あるいは、すでに、どこかで話したことがあったのかもしれない。
犯人はライフログを読んでもらいたかったかったのだか、読んでほしくなかったのか、曖昧なところがあります。報道では「掲示板を読んで、誰かに止めてほしかった」と語ったそうですが、本当に「止めてほしかった」のならば、2chにでも書けばいい。でも、それをあえて、閑散とした場所でやることのほうに意味を見いだした可能性を否定できません。だからこそ、これはシステムの問題には回収できないと思っています。
システムがどんなに監視を強めようとも、監視の外側に行くことはいくらでも可能です。たとえば、マイナーなオンラインゲームのサーバーの中で殺人予告がされていた場合、いくらGoogle的な検索をかけたところで、ものすごく検索がやりづらくなりますよね。検索から逃れる手段なんて、いくらでもあるじゃないですか。
監視システムに見えるか見えないか、そのギリギリの境界線上で犯行宣言をすることの意味を見いだしていたらどうなのか、と思うんです。
井上:システムという概念をcomplexequalityさんがどのように使っているのかがちょっとよくわからないところがありますが、おっしゃりたい意味はわかります。complexequalityさんにとっては、介入できたかもしれない可能性が、あまりにも等しく与えられてしまっていることこそ悲しい。そんな感覚なのだろう、と思います。
そして、たぶん、犯行告白をする側はあからさまに誰かに介入してもらえる場所でやっても意味はない。恋愛システムに喩えていえば、出会い系サイトに行けば、恋愛をしたい人と出会えるかもしれないけれども、それは恋愛システムに積極的に参加していった結果であって、そんなのはあたりまえ。むしろ、恋愛とは直接には関わりのない空間で、白馬の王子様を待っている女の子の心境に近い。そういう印象を受けました。
complexequality:情報を解釈するシステムの問題なのか、解釈する人間の問題なのか、ということで最初に井上さんがおっしゃられていたことと、わたしの感覚の違いはそこですね。白馬の王子様に解釈してもらわないと、救われないんです。システムが情報の重み付けをしたところで、救われない。
今回の犯人がそういう人間だったかどうかは、わかりません。本人にもわからないかもしれない。でも、閑散とした場所で死にたいとかどうとか、という人というのはそういう心理状態にある人がとても多いというのが、わたしの経験的な観察です。なので、ネット監視を強めることと、今回のような事件への防止とはあまり関わりがないと思っています。監視の境界線上を見つけたい人を、監視で取り締まることはできない。監視の外側なんて、いくらでも拡がっているのだから。
予告.inという簡易な監視システムを作る方がさっそく登場しましたけれども、同時に予告.outという冗談みたいなサイトも登場しましたね。予告.outで予告すれば、テキストデータが画像になるので、画像をOCRにでもかけない限り検索できません。監視の外側なんて、簡単に見つかります。
井上:complexequalityさんのおっしゃられていることがわかってきました。ただ、その主張を理解した上でこそ、情報を解釈するシステムのほうに問題にしていけるのではないか、という可能性を考えていきたいと思いますね。
簡単に言うと、complexequalityさんの人間像は少し頭がよすぎる気がするんです。監視の内側か、外側か、境界か、自覚的に選びとることなどできるのかということです。知らず知らずのうちに、監視の内側に入り、あるいは外に出る。今回の犯人が2chに書かなかったことに、有意な理由が本当にあるのかどうか、ということは断言できないのではないか、ということです。
情報を解釈するシステムの問題というのは、監視システムを強めろ、という意味ではないです。2chやニコニコ動画といった注目度の高い場所を問題にするのではなく、陽のあたるかどうか微妙な場所に作られていくものに対して、どうアプローチしていくのか。
complexequality:井上さんのおっしゃられていることは、よくわかります。それは井上さんのように、情報をめぐる環境設計みたいなことを考えていらっしゃる方がおっしゃられるのは、当然そうだと思うんです。
ただ、わたしは、本当にネット上で、ああいう人の相手を、この数年の間してきて……何人かからは、感謝されたり、感謝どころか、もっと強烈にわたしのことを求めてくださる方もいらっしゃる空間だったわけで………ああ、事件を起こしたのか、と。環境設計どうこうという話は、そのうち何かしらの話にまとまるのかもしれませんけれど、今はただ、彼の相手をしてあげられる人が存在しうる場所であるようにする、というようなことだと思うんです。
もっと、ああいう場所に、相手のしてあげられる人が居ればいいのに、と。
●ライフログをめぐる場所―――人の形/匿名、実名/監視
井上:システムの話にどこまでできるかわかりません。ただ、ライフログのある場所という問題に関して、先ほど「2chではなく、閑散とした場所でやったことに意味がある。だからシステムの問題に回収できない」ということをおっしゃられていましたが、その点について、もう少し伺ってよろしいですか。
complexequality:アクセス数のそこまで多くない、ひっそりとした場所で独白をすることにこそ、意味を見いだすということもありますよね。同じ匿名ではあっても、2chの居心地と、メガビューBBSの居心地だってだいぶ違うんじゃないかと思うんです。
色々な匿名のサービスを利用していると、やっぱりその違いは実感として大きくあります。人が多い時間帯の、人の多い匿名チャットサービスだと、他愛ない会話になりがちです。けれども、夜中の12時を過ぎたあたりから閑散としてくると「死にたい」「もうどうにかなってしまいたい」とか言うことを口にする人とかと出くわす率が格段に増えます。まさしく、犯人もそういう場所で、そういう告白をしていたわけですよね。そこで、誰かが癒してくれたり、攻撃されたりするわけですよね。そのリアリティは、もう、とてもよくわかってしまうんです。もしかして、わたしが出会った誰かが、今回の犯人だったとしても、まったくおかしくない、というぐらいの感覚があります。
毎日の記事で、犯人が死にたいとか何だとか、漏らして自暴自棄になっているときにそれを煽る人もいれば、フォローする側に回った方もいらっしゃったそうです。いや、なんというか。それこそ、わたしが会話したことのある誰かであってもおかしくない、という気がしました。わたしは「死にたい」とか言う人と会ったときに、煽るようなメンタリティはあまりないので、だいたいがフォローに回る側というか、話を聞いてやる側にまわるんです。ああいうことをやっていると、だいたい場の流れ的にそうなります。いろいろと話していると、本当に、いろいろな人がいるなぁ、と感動します。村崎百郎が、縁もゆかりもない他人の結婚式のビデオを見ていて感動すると言っていたのと同じ種類の感慨だと思うのですけれど。ゲイだとか、女子中学生だとか、東大卒無職の人とか、キャリアの官僚の方だとか、旧帝大のお医者さんだとか、留学生だとか。いろんな人がいるんですよね。本当に。
お互いに深く身の上話とかをするのであれば、人の少なさというのは、けっこう重要なポイントになります。もちろん、人によって好きづきはあるのかもしれませんが、完全に匿名で見知らぬ誰かに身の上話とかするのって、気安いんですよ。かなり。相手がある程度まともな人だという最低限の信頼感さえ築ければ。
その感覚が理解できてもらえるかどうか、わからないのですが、そういう場所が気安い人が選ぶ場所っていうのはあると思いますよ。50人ぐらいがいるメーリングリストとかで身の上話なんかできないじゃないですか。3人とか、4人ぐらいのメーリングリストだったら身の上話できるかもしれませんけれど。深夜の、閑散としたネットサービスに来る人って「王様の耳はロバの耳ーーーー」ってことを叫ぶ穴を探している印象です。
井上:それは2chでの内部告発とは違うんですか?
complexequality:ちょっと例が悪かったかも知れません。喋る場所の匿名性が重要なんじゃ無いんだってことです。id:work_memoさんが書いていらっしゃいましたけれども、「はてな」の匿名はだいぶ人の形が掴める感じのときがありますけれども、匿名の空間で、人の形がどのように捉えられるのか、ってことが理解されないと難しいかもしれません。ロールズでいうと、無知のヴェールをかぶせられた状態のような……そんなようなものとして相手が見える瞬間があるとでも言ったらいいでしょうか。あるコミュニケーション空間では、はっきりした人格をバックグラウンドにもって見える発言が、あるコミュニケーション空間では発言している人間が単なる「ななし」さんにしか見えないと、話す対象である人間のイメージは全然違う。
井上:人間の見え方が違ってくるというのはよくわかります。ニコニコ動画では「赤い字の奴」とか「青い字の奴」とかが人格を持って見えてくることがある、と濱野くんは言っていますし、コンピュータ・ゲームでは本当によく人の見え方が変わりますね。ぼくは、インターネット上でのチャットというものが、相手の姿が見えなくて、昔は苦手だったのですが、オンラインゲームの場合「アバターに向って話しかける」という行為ができることで、だいぶ話しやすく感じました。「話す」という志向性の対象する何かがあるかどうかでもだいぶ違う。環境が人間の感覚にむかって、どういう現象をひきおこしているのかは、空間によってだいぶ違いますね。ここらへんはオンラインゲームのコミュニケーション空間というものがどういった感覚を引き起こす特殊性を持ったものなのか、といった議論とも接続されてくるだろうと思います。
それこそ、ぼくが、何度もしている話ですけれども、AIで動かされているキャラクターが記号的に見えたり、人間的に見えたりする。逆に人間が動かしているはずのキャラクターが人間に見えなかったり、見えたりする。実際、BOTだったりして、人間じゃない場合もある。何が、人間の見え方を決定しているのか、と言えば、そのコミュニケーションを成立させている場所、メディアなのではないか、と。やはり、その側面は大きいと思うんです。今回の件に関しては、メガビューBBSのような場所のリアリティがぼくのほうに無いので、ぼんやりしたことしか言えなくて、とても恐縮なのですが。
complexequality:そこで見えてくる人間の形が、救いになる場合もあるだろうし、ならない場合もあるのかもしれないですよね。
井上:それはそうだと思います。ただ、そこの理解はすっとばすことはできないのではないのかな、と。もしかしたら、犯人がコミュニケーションをしていた空間が、別のコミュニケーション空間であれば、もっと救いがあったかもしれない。もちろん、その逆の可能性もある。たとえば、犯人のよく使うメディアの一番のものが携帯ではなくて、PCだったら、どうだったのだろうか、と考えてしまう。
complexequality:そうかもしれません。事件の理解の仕方としては、そういうところの理解は重要なのかもしれません。でも、わたしは理解する気もないのかもしれません。単に悲しい、というだけで話しをしているから。でも、ややこしいかもしれませんが、それ以上の話をあえてする気を起こす必要のある場面もあるだろうし、ない場面もあるだろうし。そういう感じです。いままで話をしてきておいて、なんだ、という感じかも知れませんが、話していたら、少し落ち着きました。ありがとうございます。
(文字起こし:高橋志行)