Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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2008年06月13日

何が悲しいのか―――メディアと人の形

●ライフログの悲劇

井上:秋葉原通り魔事件の翌日に書かれた、complexequitlyさんの記事の主張をまとめるとこういうことですね。
 ジャーナリズムにおけるプロ/アマの融解だとか、ヌルいことを言っているんじゃない。プロもアマもまとめて「報道」という概念事態が揺るがされている。ライフログと報道の融解のほうがより大きな問題なのだ、と。そして、今回の悲劇は、ライフログをめぐる行為や、解釈をめぐって幾重にも錯綜した事態が展開していた。そして、犯人も、犯人をめぐる社会システム――新聞、ワイドショー、ネット論壇、携帯からアクセスする匿名掲示板、ライフログ――も、全てがそれに巻き込まれている。complexequalityさんの指摘はそういうことですね。
 もちろん、永山則夫事件の現代版としての性質も見いだせるだろうし、要因はもちろん複合的だろうし、色々なところに重みは見いだせるだろうけれども、complexequalityさんにとって衝撃だったのはそこだった、と。

complexequality:昨日まで匿名で話していた相手が、いきなり殺人予告をして、わたしの実名の知人のような人たちを殺してしまった。そういう感覚です。そして、そこで、ライフログをめぐる問題がひどく前面的に出てきている状況が、とても悲しく感じました。わたしたちの世界には、このような新しい種類の悲劇もありうるのか、と。わたしにとっては、本当に人ごとではないという感覚が強い。わたしが殺されていたかも知れないことも含めて。
 ライフログの問題というのは、すなわち「わたしの見ている映像―――の記録」「わたしがわたしについて語る言葉―――の記録」というものが、一体何なのか、何の価値をもつのか。あるいは何の価値を期待するのか。していいのか。
 世界でもっともブログ投稿数が多いのは日本語だそうですね(参考)。そして、そのブログの使われ方はどうなのかといえば、討議的民主主義というような性質のものではなく、もっと私的なものが主流をしめています。「繋がりの社会性」と言ってもいいかもしれないし、わたしの感覚で言うと、それはライフログとそれを取り囲む空間の問題です。
 報道として扱われたものに関して言えば、報道をしたとされる人間の「意志」を確認することすら難しい。というか、報道をする側がそれを報道にするかどうかを決定しているのではなくて、何かしらを「報道」だとして受け手の側が決めている。それが「報道」なのか否かを決定しているのは、記録を綴る人間なのではなくて、綴られた記録を読んで位置づける人間なのだな、ということです。そして、ライフログを綴る側もそのような事態を半ば期待している。

井上:少し印象が分かれるのは、僕は情報を読む「人間」がどうやって情報の価値を決めるかよりも、情報の価値を判断していくシステムの側の話なのではないかと思いました。
 complexequalityさんの最後の一文―――「もし犯人がワイヤレスのカメラを首からぶら下げて、連行されるその瞬間まで、USTREAMで自らの眼前に繰り広げられる光景をストリーミングしていたならばどうだろう。われわれはそれを見るのだろうか?」―――は、問題提起としてとてもいい指摘だと思ったんです。ですが、ストリーミングだとか、ネット上に記録/ライフログが溢れるという話をしたときにですね、一緒に語るのであれば情報の「編集」の話がネックになってくるように思います。
 どういうことかというと、情報がただただ垂れ流しになっているストリーミングの実況では、それを解釈する観客は困ります。もちろん、その映像を報道だと受け取る奴もいる。でも、そうだと受け取らない奴もいる。という状況だと思うんです。村崎百郎の例は面白かったのですが、村崎百郎は確かに他人が垂れ流しているライフログ=ゴミを漁る人なので、特殊な観客として機能するのだと思います。普通の人は、情報が単に垂れ流しになっているだけだと、それがゴミか、なんなのか判別がつかないので、情報を編集し、意味づけする過程がほしい。「ストリーミングを見るか見ないか」という問いを成立させようにも、「誰もストリーミングされていることに気付かなかった」ということで終了しかねない、ということです。
 ある記録やら、情報やらがあったとして、その意図を読み取られる過程が問題になっている、ということはよくわかります。そして、犯人はよくも悪くもその点に賭けた。同時に、事件現場の周辺にいた当事者、通行人たちのライフログをめぐることでも論争がおきた。そういった、情報の価値を決めていくのが個々の人の問題だというよりか、情報を流す様々なシステムの側の変容の問題だ、と言ったほうがいいのだと思いました。今回の場合は、携帯電話や、USTREAMといったメディアが、そこでとても大きな役割を担っていた。

complexequality:確かに、ライフログがゴミになったり、ゴミにならなかったりする、というのはそういうことがあるからですね。複数の議論を一挙にしようとしてしまって、わかりにくかったですね。申し訳ないです。

井上:いや、一緒の話だと思うんです。複数の話じゃない。事態はたぶん、二つぐらいにきっちり分けられて (1) 情報そのもの と (2) 情報の価値の重み付け の二つだと思うんですね。この二つの関係性の話をcomplexequalityさんは、今回お話をされている。

complexequality:もう少し敷衍していただけますか。

井上:「報道」っていうもののはアマチュアがやるにせよ、プロがやるにせよ、現実に散在している情報を切り取ってきて、「この情報が重要だ」とやって、流す行為なわけですよね。
 一方、価値の重要性について重み付けがされない情報というのは、「報道」というよりも、単に「情報そのもの」ですね。一般には、ゴミになるかもしれないし、宝になるかもしれない記録の束みたいなものがライフログですね。

complexequality:はい。

井上:ただ、ライフログというのは記録される対象である当人にとっては、ゴミか、宝か、と言われれば、宝なわけです。ライフログっていうのは、complexequalityさんの言葉を使えば「実存」に関わる情報。すなわち、「わたしのとって、価値のある情報」という重み付けがされている――――けれども、多くの人にとってはゴミかもしれない情報。
 一方で、報道というのは「多くの人にとって、価値がある情報」です。わたしにとっての価値がある情報であるかどうかはわかりませんけれど。報道のための編集作業というのは、情報の価値そのものを提示する積極的な行為です。「多くの人にとって、価値がある情報」であるように見せていくためのね。(表1)
 でも、今回は、その情報の編集作業というよりも、情報そのものの価値の切り替わりとかがいきなり起きたというような感じですよね。「わたしにとっても、多くの人にとっても、価値がある情報」から、「多くの人にとって、価値のある情報」になるということを、「ライフログから報道になる」と表現されていたんだと思うんです。

(表1)

わたしにとっての価値多くの人にとっての価値
ライフログ(揺れ動く)
報道(揺れ動く)

complexequality:はい。言い方が煩雑になってしまいますけれど、「ライフログでもあり報道でもあるものが、単に報道になる」といってもがよかったかもしれません。でも、システムによる情報の重み付けの問題というのは、井上さんらしい問題の立て方だな、とも思いました。コンピュータ・ゲームの発想ですね。

井上:そうかもしれません。「人」が情報の重み付けをするのが編集行為であるとすれば、「環境」によって情報の重み付けが誘導されていくものがコンピュータ・ゲームです。ニコニコ動画のタグだのなんかも、それにあたるのかもしれません。
 だから、ストリームとかライフログの話だけではだめだ、というのはそういうことです。拡大された情報量の中にあって、何が重要な情報か、ということを半自動的に判断していくようなシステムとセットになっている例をあれば、complexequalityさんの衝撃はよりクリアーに見えてくるんじゃないかと思うんですね。
 犯人が犯行のストリーミングの映像を流したとしても、誰も閲覧者がいなかったらそれは誰にも見られることがない、ストリーミングされているだけの映像ですよね。その映像を、多くの人に見せようと思ったら、実行に至る直前までに何かしらの方法で人を集めておかなければいけない。携帯のライフログだったから、今回は事件が終わってから参照することができたわけですけれども。
 編集というのは、あくまで情報を発信する主体によって意図的になされる行為だと思うんです。でも、ストリーミングのライフログというのは編集がなされているものではなくて、ただの情報垂れ流しに近い。だから、その情報の価値付けを判断していくのは「編集」というような発信者を介するものではなくて、情報の受信サイドなり、情報が置かれていく場所なり、なんなりが受け持たなければならない。そのとき、情報をつくった人間と、読む人間の間にインタラクションが生じる。別の例で言えば、インターネットを使うようになってこの数年「誤読」だとかいう言葉を、これほどよく聞くようになるとは思っていなかったし、意識するとは思っていませんでした。メディアが文の読まれる情況編成をどんどんとダイナミックに変化させてきている、ということを意識せざるを得ない。

●メディアと意志

井上:事件直後の報道をした人々の話にうつすと、アマチュア・ジャーナリズムというのは、「わたしのためのライフログ」というものと地続きだとおっしゃられていますね。本当は、自分のために蓄積されていたログというのが、報道になってしまったりして、それが「アマチュア・ジャーナリズム」だと思われたりしてしまう。リナックス・カフェでUSTREAMをしていた方(ぐんにょりさん)が、現場のストリーミングをはじめた行為なんかはまさしくそうですよね。単に自分の顔の側にカメラを回して実況していたら、周囲で何かが起こったらしいので、カメラを180度まわしてみた。そしたら、それがたまたま大事件の現場だった。そして、そのままパソコンかかえて現場近くまで行ってみた、と。そんなようなリアリティですよね。それを非難されても、むしろどうしたらいいのか、と困ってしまう。
 別に、事件があったからカメラをまわしたんじゃなくて、カメラをまわしていたら勝手に事件のほうが起こった感覚に近い。監視カメラが事件をたまたま捉えている事態に近いのだけれども、たまたまそこに人が介在するから、そこに「報道の意志」が読み取られてしまう。

complexequality:ぐんにょりさんはともかく、kenanさんには「報道の意志」みたいなものが明確にあったみたいですけどね。
 とにかく、こうした問題が、犯人のライフログと同時並行して起こっていたというのは、とても皮肉な自体だと思いました。結局ここでも問題は、記録されたものとその記録者とか享受者の間にどういった「意志」を見いだしていくのか、ということですね。

井上:簡単に整理してみると、その「意志」というのにはいくつか分けておくことができますね。
 まず、記録する側の意志についてですが、記録する人間の意志をほとんど確認しがたいものがあります。それは機械の目。たとえば、監視カメラの目ですね。監視カメラを設置した人の意志は問えるのかもしれないけれども、監視カメラにセックス・シーンが映ってしまったとしても、たまたまそれを見てしまう監視者がいたとしても、セックス・シーンを撮りたかったわけでも、見たかったわけでもない。それはたまたま見えてしまったものですね。リナックス・カフェでUSTREAMをなさっていた、ぐんにょりさんのリアリティは、この監視カメラをたまたま回していたら、映ってしまったようなリアリティに近いかもしれません。ただ、携帯カメラでばしゃばしゃと、事件直後に撮影していらっしゃった方々は、やはり意志を持って撮影をされていたのだろうと思いますが。
 もう一つは、記録を見る側の意志について問われなければ、いけないという話ですね。テレビやラジオというのは、とりあえず電源をつけておけば、ニュースが垂れ流されてくるメディアですね。何もしなくても向こうから情報が流れてくる。一方で、インターネットとか、ゲームというようなメディアは見る側の意志をなくしてはありえないメディアです。自分から情報収集をしていくことで、はじめて情報がもたらされる。もちろん、なんとなく目に入る情報というのもインターネット上では沢山ありますが。基本的には、そういう違いがあると言ってしまっていいと思います。

complexequality:そうですね。そこで、たとえば、テレビばかりを見ている人は、情報を摂取している自分自身に対して、罪の意識だとかが生まれるということは薄いと思うんですね。テレビ局の人間が、勝手に情報収拾をして、勝手に情報を流しているのであって見たく無かろうが、見たかろうが、情報が勝手に編集されて、流されてくるんだから。でも、本当は視聴率のフィードバック次第で、どういう情報が流されてくるかということには違いが生じているので、そこには投票のメカニズムのようなものは働いている。
 本当は「マスゴミ」だのなんだのと言っているような人は、テレビが嫌いなら、見なければいいんです。ゲームやらDVDやらを見るのにモニタが必要なのであれば、PCのモニタを使えばいい。本当は、テレビのシステムの外側に、みんなで出ることだって、いまや可能です。わたしはテレビを見なくても困っていません。新聞もとっていません。インターネットだけです。
 レナード・ショッパという人がいて、彼は改革の手段というのは「退出による改革」と、「声による改革」の二通りがあるだろう、と分けています。選択に代替可能性があれば退出による改革が成立するし、選択に代替可能性がなければ声による改革になる。つまり、テレビの内容に不満があるなら、テレビというシステムから「退出」してしまう改革の仕方と、テレビの内容についてテレビ局にむかって不満の「声」をあげる形の改革の仕方があるだろうということです。わたしが、テレビを見ないのは、言ってみれば退出による改革です。いつの間にか「マスゴミ」に荷担するよりは、どのような悪をなすか、わたし自身が選び取りたい。もちろん、インターネットのリテラシーをお持ちでない方は、テレビのシステムからの退出可能性が低いのかもしれませんが。インターネットのリテラシーがあって、テレビが嫌いな人は、さっさとテレビから退出すればいいと思います。
 つまり、何を言いたいか、というと、テレビでたまたま事件を見てしまって、事件の詳細をワイドショーで愉しみにしてしまっている人が、インターネットで情報を積極的にあさっている人よりも罪がないかというと、そんなことは言えない、ということです。テレビからの退出可能性の確保された今となっては「マスコミが勝手に悪いことをやっている」というような話はどんどんと難しくなってきている。

井上:なんだか、お怒りですね。

complexequality:すみません。この事件は、事件を語るフレーム自体に自覚的でなければ、語ることのできない事件です。「今回の犯罪を分析する」という視点を設定したときに、今回の犯罪を「分析するということ視点をもってしまうこと」自体が問題に晒されていて、そこに参加すること自体の問題が問われなければならない。これはそういう事件です。観察者の特権性のようなものを信じこんでいては、いつの間にかこの種の犯罪が登場し続けることに荷担し続けることになります。わたしは、今回の犯罪の詳細な分析なんてする気ではないんです。なぜ秋葉原が狙われたのかなんて、わかりません。なぜ6月8日だったのかもわからないし、どうでもいいんです。犯人がどういう人間だったか、ということで衝撃を受けているところはありますが、犯人の「意図」を読んでやる必要なんてまったくない。むしろ、読まないほうがいい。
 わたしがわざわざ書いたのは、何が悲しいのか、ということが理解されればいいという程度のことです。わたしは犯罪を擁護する気はまっったくありませんが、犯人が住んでいたネット上の環境と、そう遠くないところで生きていたので。心理的にも物理的にも近い距離で起こったことなので、とても驚いたし、悲しいんです。

●介入できたかもしれない可能性

井上:犯人のライフログ(携帯の書き込み)、全部読みましたが、確かにあれは読んでいて悲しくなりました。
 「06/06 15:52 ナウシカに間に合うかしら」って書いていたのは、ああ、こいつもナウシカ見るんだな、とか思ってしまいましたね。
 報道されているかどうか知りませんけれど、40代とか50代でテレビを見ている方は『ドラクエ』『FF』が好きだったとか言われても、「ああ、ゲームが悪いのね」とか思われるかもしれません。けど、宮崎アニメが好きだったと言われれば、趣味の問題じゃない、とわかるでしょう。しかも、あんなに何回も再放送されているものを、わざわざ放送日程チェックしてますしね。先週の金曜日に再放送やっていたってことを、むしろこのログで知りましたよ。
 彼を擁護するつもりは全くありません。でも、何かしらの形で当事者と接続されうる可能性の、まったく外側には居られない。そういう感覚は持ちました。

complexequality:あのログは厳しいです。本当に。
 ああ、もしかしたら。もしかして、わたしがPCではなく、携帯を使う人間で、もし、あのBBSに居たならば、介入していたかもしれない。そう思ってしまう。あるいは、すでに、どこかで話したことがあったのかもしれない。
 犯人はライフログを読んでもらいたかったかったのだか、読んでほしくなかったのか、曖昧なところがあります。報道では「掲示板を読んで、誰かに止めてほしかった」と語ったそうですが、本当に「止めてほしかった」のならば、2chにでも書けばいい。でも、それをあえて、閑散とした場所でやることのほうに意味を見いだした可能性を否定できません。だからこそ、これはシステムの問題には回収できないと思っています。
 システムがどんなに監視を強めようとも、監視の外側に行くことはいくらでも可能です。たとえば、マイナーなオンラインゲームのサーバーの中で殺人予告がされていた場合、いくらGoogle的な検索をかけたところで、ものすごく検索がやりづらくなりますよね。検索から逃れる手段なんて、いくらでもあるじゃないですか。
 監視システムに見えるか見えないか、そのギリギリの境界線上で犯行宣言をすることの意味を見いだしていたらどうなのか、と思うんです。

井上:システムという概念をcomplexequalityさんがどのように使っているのかがちょっとよくわからないところがありますが、おっしゃりたい意味はわかります。complexequalityさんにとっては、介入できたかもしれない可能性が、あまりにも等しく与えられてしまっていることこそ悲しい。そんな感覚なのだろう、と思います。
 そして、たぶん、犯行告白をする側はあからさまに誰かに介入してもらえる場所でやっても意味はない。恋愛システムに喩えていえば、出会い系サイトに行けば、恋愛をしたい人と出会えるかもしれないけれども、それは恋愛システムに積極的に参加していった結果であって、そんなのはあたりまえ。むしろ、恋愛とは直接には関わりのない空間で、白馬の王子様を待っている女の子の心境に近い。そういう印象を受けました。

complexequality:情報を解釈するシステムの問題なのか、解釈する人間の問題なのか、ということで最初に井上さんがおっしゃられていたことと、わたしの感覚の違いはそこですね。白馬の王子様に解釈してもらわないと、救われないんです。システムが情報の重み付けをしたところで、救われない。
 今回の犯人がそういう人間だったかどうかは、わかりません。本人にもわからないかもしれない。でも、閑散とした場所で死にたいとかどうとか、という人というのはそういう心理状態にある人がとても多いというのが、わたしの経験的な観察です。なので、ネット監視を強めることと、今回のような事件への防止とはあまり関わりがないと思っています。監視の境界線上を見つけたい人を、監視で取り締まることはできない。監視の外側なんて、いくらでも拡がっているのだから。
 予告.inという簡易な監視システムを作る方がさっそく登場しましたけれども、同時に予告.outという冗談みたいなサイトも登場しましたね。予告.outで予告すれば、テキストデータが画像になるので、画像をOCRにでもかけない限り検索できません。監視の外側なんて、簡単に見つかります。

井上:complexequalityさんのおっしゃられていることがわかってきました。ただ、その主張を理解した上でこそ、情報を解釈するシステムのほうに問題にしていけるのではないか、という可能性を考えていきたいと思いますね。
 簡単に言うと、complexequalityさんの人間像は少し頭がよすぎる気がするんです。監視の内側か、外側か、境界か、自覚的に選びとることなどできるのかということです。知らず知らずのうちに、監視の内側に入り、あるいは外に出る。今回の犯人が2chに書かなかったことに、有意な理由が本当にあるのかどうか、ということは断言できないのではないか、ということです。
 情報を解釈するシステムの問題というのは、監視システムを強めろ、という意味ではないです。2chやニコニコ動画といった注目度の高い場所を問題にするのではなく、陽のあたるかどうか微妙な場所に作られていくものに対して、どうアプローチしていくのか。

complexequality:井上さんのおっしゃられていることは、よくわかります。それは井上さんのように、情報をめぐる環境設計みたいなことを考えていらっしゃる方がおっしゃられるのは、当然そうだと思うんです。
 ただ、わたしは、本当にネット上で、ああいう人の相手を、この数年の間してきて……何人かからは、感謝されたり、感謝どころか、もっと強烈にわたしのことを求めてくださる方もいらっしゃる空間だったわけで………ああ、事件を起こしたのか、と。環境設計どうこうという話は、そのうち何かしらの話にまとまるのかもしれませんけれど、今はただ、彼の相手をしてあげられる人が存在しうる場所であるようにする、というようなことだと思うんです。
 もっと、ああいう場所に、相手のしてあげられる人が居ればいいのに、と。

●ライフログをめぐる場所―――人の形/匿名、実名/監視

井上:システムの話にどこまでできるかわかりません。ただ、ライフログのある場所という問題に関して、先ほど「2chではなく、閑散とした場所でやったことに意味がある。だからシステムの問題に回収できない」ということをおっしゃられていましたが、その点について、もう少し伺ってよろしいですか。

complexequality:アクセス数のそこまで多くない、ひっそりとした場所で独白をすることにこそ、意味を見いだすということもありますよね。同じ匿名ではあっても、2chの居心地と、メガビューBBSの居心地だってだいぶ違うんじゃないかと思うんです。
 色々な匿名のサービスを利用していると、やっぱりその違いは実感として大きくあります。人が多い時間帯の、人の多い匿名チャットサービスだと、他愛ない会話になりがちです。けれども、夜中の12時を過ぎたあたりから閑散としてくると「死にたい」「もうどうにかなってしまいたい」とか言うことを口にする人とかと出くわす率が格段に増えます。まさしく、犯人もそういう場所で、そういう告白をしていたわけですよね。そこで、誰かが癒してくれたり、攻撃されたりするわけですよね。そのリアリティは、もう、とてもよくわかってしまうんです。もしかして、わたしが出会った誰かが、今回の犯人だったとしても、まったくおかしくない、というぐらいの感覚があります。
 毎日の記事で、犯人が死にたいとか何だとか、漏らして自暴自棄になっているときにそれを煽る人もいれば、フォローする側に回った方もいらっしゃったそうです。いや、なんというか。それこそ、わたしが会話したことのある誰かであってもおかしくない、という気がしました。わたしは「死にたい」とか言う人と会ったときに、煽るようなメンタリティはあまりないので、だいたいがフォローに回る側というか、話を聞いてやる側にまわるんです。ああいうことをやっていると、だいたい場の流れ的にそうなります。いろいろと話していると、本当に、いろいろな人がいるなぁ、と感動します。村崎百郎が、縁もゆかりもない他人の結婚式のビデオを見ていて感動すると言っていたのと同じ種類の感慨だと思うのですけれど。ゲイだとか、女子中学生だとか、東大卒無職の人とか、キャリアの官僚の方だとか、旧帝大のお医者さんだとか、留学生だとか。いろんな人がいるんですよね。本当に。
 お互いに深く身の上話とかをするのであれば、人の少なさというのは、けっこう重要なポイントになります。もちろん、人によって好きづきはあるのかもしれませんが、完全に匿名で見知らぬ誰かに身の上話とかするのって、気安いんですよ。かなり。相手がある程度まともな人だという最低限の信頼感さえ築ければ。
 その感覚が理解できてもらえるかどうか、わからないのですが、そういう場所が気安い人が選ぶ場所っていうのはあると思いますよ。50人ぐらいがいるメーリングリストとかで身の上話なんかできないじゃないですか。3人とか、4人ぐらいのメーリングリストだったら身の上話できるかもしれませんけれど。深夜の、閑散としたネットサービスに来る人って「王様の耳はロバの耳ーーーー」ってことを叫ぶ穴を探している印象です。

井上:それは2chでの内部告発とは違うんですか?

complexequality:ちょっと例が悪かったかも知れません。喋る場所の匿名性が重要なんじゃ無いんだってことです。id:work_memoさんが書いていらっしゃいましたけれども、「はてな」の匿名はだいぶ人の形が掴める感じのときがありますけれども、匿名の空間で、人の形がどのように捉えられるのか、ってことが理解されないと難しいかもしれません。ロールズでいうと、無知のヴェールをかぶせられた状態のような……そんなようなものとして相手が見える瞬間があるとでも言ったらいいでしょうか。あるコミュニケーション空間では、はっきりした人格をバックグラウンドにもって見える発言が、あるコミュニケーション空間では発言している人間が単なる「ななし」さんにしか見えないと、話す対象である人間のイメージは全然違う。

井上:人間の見え方が違ってくるというのはよくわかります。ニコニコ動画では「赤い字の奴」とか「青い字の奴」とかが人格を持って見えてくることがある、と濱野くんは言っていますし、コンピュータ・ゲームでは本当によく人の見え方が変わりますね。ぼくは、インターネット上でのチャットというものが、相手の姿が見えなくて、昔は苦手だったのですが、オンラインゲームの場合「アバターに向って話しかける」という行為ができることで、だいぶ話しやすく感じました。「話す」という志向性の対象する何かがあるかどうかでもだいぶ違う。環境が人間の感覚にむかって、どういう現象をひきおこしているのかは、空間によってだいぶ違いますね。ここらへんはオンラインゲームのコミュニケーション空間というものがどういった感覚を引き起こす特殊性を持ったものなのか、といった議論とも接続されてくるだろうと思います。
 それこそ、ぼくが、何度もしている話ですけれども、AIで動かされているキャラクターが記号的に見えたり、人間的に見えたりする。逆に人間が動かしているはずのキャラクターが人間に見えなかったり、見えたりする。実際、BOTだったりして、人間じゃない場合もある。何が、人間の見え方を決定しているのか、と言えば、そのコミュニケーションを成立させている場所、メディアなのではないか、と。やはり、その側面は大きいと思うんです。今回の件に関しては、メガビューBBSのような場所のリアリティがぼくのほうに無いので、ぼんやりしたことしか言えなくて、とても恐縮なのですが。

complexequality:そこで見えてくる人間の形が、救いになる場合もあるだろうし、ならない場合もあるのかもしれないですよね。

井上:それはそうだと思います。ただ、そこの理解はすっとばすことはできないのではないのかな、と。もしかしたら、犯人がコミュニケーションをしていた空間が、別のコミュニケーション空間であれば、もっと救いがあったかもしれない。もちろん、その逆の可能性もある。たとえば、犯人のよく使うメディアの一番のものが携帯ではなくて、PCだったら、どうだったのだろうか、と考えてしまう。

complexequality:そうかもしれません。事件の理解の仕方としては、そういうところの理解は重要なのかもしれません。でも、わたしは理解する気もないのかもしれません。単に悲しい、というだけで話しをしているから。でも、ややこしいかもしれませんが、それ以上の話をあえてする気を起こす必要のある場面もあるだろうし、ない場面もあるだろうし。そういう感じです。いままで話をしてきておいて、なんだ、という感じかも知れませんが、話していたら、少し落ち着きました。ありがとうございます。
 
 
 
 
(文字起こし:高橋志行)

2008年06月11日

2008-06-09,13:05 written by complexequality

 下記は、complexequalityの手による記事です。直接コンピュータ・ゲームに拘わる内容ではありません。ただ、新たなメディアが人間の行為を変え、世界解釈に変容を促すという点で本サイトの内容とは連続性のあるものです。コンピュータ・ゲームもまた、人のライフログとして機能します。<記録されたもの>であるライフログの存在は、おそらく<記録される対象>である、当人自体にとって、必ずしも制御しきれる対象たりえないのではないか、と思います。ゲームの中の記録に何かを見いだし、「34時間23分」と書かれたセーブデータに覚える感情を思い起こしてみればそれは想起可能かもしれません。

 事件に哀悼の意を表します。


title:秋葉原の事件について―――ライフログと報道をめぐって

 昨日の昼に、悲惨で、かなしく、かつ人ごとではない事件が秋葉原で起こったことについて書いておく。

 わたしにとって、秋葉原は、とても近い町だ。

 わたしの知人は刺されていなかった。わたしも刺されなかった。犯人は11時頃に渋谷を通り過ぎたらしい。わたしはその日の15時頃に渋谷に着いた。15時に渋谷に着いた理由は特にない。11時に渋谷に着いたら、犯人の車とすれ違っていたかも知れない。

 たまたま、昨日は秋葉原に行こうとは思わなかった。たまたま昨日は用事がなかった。

 The Yellow Monkeyの歌う「日本人はいませんでした」は、報道に対する見事な揶揄だが、わたしはいま、あの揶揄を、他人事だと思って馬鹿にすることはできない。

 わたしは、第一に知人の安否をおもった。

 日本というカテゴリーには何もピンとこなくとも、「関東在住で、秋葉原に行くような人たち」というカテゴリーにはピンとくる。ガチオタとかではないけれども、わたしはそのカテゴリーにある程度属している。mixiを利用しはじめてみるとわかるけれども、だいたい、3、4人ぐらい経由すれば、東京近辺のほとんどのオタクと繋がるのではないかと思っている。

 わたしの知り合いは刺されていない。

 でも、わたしの知り合いの知り合いは刺されていたかもしれない。わたしの知り合いの知り合いの知り合いは刺されたに違いない。少なくとも、昨日の昼に逃げまどった群衆の何人もの人が、わたしの知り合いの知り合いの知り合いであるだろうと思う。秋葉原に勤めている知人や、すぐそばに住んでいる知人が何人もいる。

 でも、わたしは刺されなかった。

 犯人の高校は名門校である。たぶん、わたしの知り合いにはそこの高校の出身者がいるはずだ。そして、たぶん、犯人の友人は、わたしの知り合いの後輩だろう。わたしの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いぐらいである確率は低くないと思う。あるいは、知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いかもしれない。

 

 事件の規模は、――挑発的に言うのであれば――「小さい」とも言ってもいい。

 先月の四川中国大地震の6万9130人よりも、911の2998人よりも、毎日の交通事故の死亡者数20人弱よりも、小さい。わたしは、7年前に「911は、アメリカ人にとって大きな事件なのであって、世界にとっては3000人が死んだにすぎない」と言った。それは今回もそうだ。秋葉原通り魔殺人事件は、わたしにとって大きな事件なのであって、世界にとっては7人が死んだ事件に過ぎない。だが、秋葉原という場所が、この事件を、わたしにとって、大きなものにしている。事件の大きさは死者の数ではない。この事件を受け取る人間にとっての、大きさである。

 まだ、あまり整理して書けないだろうが、記録(ライフログ)や報道について、いくつかの点から書いてみたい。

■リアリティの分裂―――どうしようもなく大きく、にもかかわらず偶然的な分裂

 いまから25時間前の昼、秋葉原を歩いていたならば、被害者にもなりえたし、観客にもなりえたし、アマチュア・ブロガーにもなりえた。偶然的だったかもしれないが、そこには大きなリアリティの溝が生まれている。

 そこに生じたリアルな境遇の分裂と同時に、リアリティの溝があることが認識することからはじめたい。

 襲われる可能性は12時30分から35分までの5分間、平等に現れていた。それゆえに、必死で逃げた。そして、12時35分に犯人が取り押さえられ、その瞬間から難を逃れた周囲の通行人たちは、被害者となる可能性から一斉に解き放たれる。おそらく、その瞬間の空気の変化は目に見えるようなものだったはずだ。そのとき、動画をUPSTREAMすることが可能だったid:kenan氏は、カメラを撮り始め、他の何人かは携帯カメラでもって、2chに情報を流し始めた(http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1136294.html)。

 被害者。通行人。観客。アマチュア・ジャーナリストたち。そして、駆けつけた警察官、救急隊員、現場で救急医療をした人。そこにはリアリティの溝がある。そのリアリティの溝はとても大きいが、同時にとても偶然的なものだ。今回の報道や、観客たちについて道義的な議論をする人々は、そのリアリティの境目が、グロテスクに露呈されてしまったことに我々は戸惑っているのだと思う。被害者のリアリティと、携帯カメラを撮る人たちのリアリティに境目に戸惑うのは自然だろう。だが、だからと携帯カメラを撮る人たちを一方的に責めるほどに、わたしはイノセントな存在でもないということも自覚してしまう。前者の感覚を強調すれば、アマチュア・ジャーナリストたちへの非難となるだろうし*1、後者を強調すれば彼らへの擁護になるだろう。

 事件が落着したその瞬間。その前と後のたった数分間の間には、いくつかの当事者になりえた可能性があった。その幾つかについて挙げてみると、だいたい次のようになる。

  • 当事者たち
    • 被害者:被害者のリアリティは、とんでもない。
    • 犯人:犯人のリアリティも、とんでもない。
    • 警察:彼らは、命をかけて事件解決のために、現場にきている。そういうリアリティの下に動いている。
  • 周辺の人間たち
    • 観客:事件そのものに関与せず、ただ、事件を見て、受け取るほかない。
    • 職業ジャーナリスト:彼らは報道のためにきている。メディアの向こう側の観客に絵を見せるためだ。そのようなリアリティである。
    • アマチュア・ブロガー:彼ら現場に居合わせ、そして、たまたま半ば好奇心、半ば報道をしようと思う人々。
    • 応急処置をするひとたち:応急処置の能力をもっていて、緊急的な、義務感をもって行為を遂行しようと思ったひとたち*2
    • 通行人:通行人は、たまたまそこを歩いていた人々だ。彼らはメディアの向こう側の観客でもありえたし、被害者でもありえたし、アマチュア・ブロガーでもありうる。

■プロとアマチュア、というリアリティの間 ―――報道することの二つの層

 報道をめぐる問題について、もう少し、詳しく書いておこう。

 わたしは、アマチュア報道を擁護するし、アマチュア報道の非難をする人も擁護する。

 どちらも擁護されなければならないだろうし、また、どちらかを一方的に擁護する人は批判されなければならないだろう。

 まず、事件現場で、携帯で写真をとるのは、いかにも不謹慎だ。だが、その状況に居合わせたなら、自分は動揺を覚え、その状況に対して何かしらのアクションをとりたがるようにも思う。その感情はあるだろう。しかし、現場で、携帯カメラを掲げてみせるのは「わたしは人の不幸に興味があります」ということをアマリにも露骨に周囲に知らせてしまう。あまりにもためらいなく、好奇心を露呈されてしまうのは、いかにも醜い。わたしは、そのような素朴な醜さと、距離を取りたいと思う人たちに同意する。

 しかし、一方において、アマチュア報道が持つ価値について否定をするつもりもない。既存のマス・ジャーナリズムよりも生々しく、価値ある情報をアマチュア・ジャーナリズムが伝えてくることがある。もちろん、今回の報道は、それほどの緊急性はないので、震災の現場で避難情報を伝えるほどの価値あるアマチュア報道ではないだろう。しかし、マス・メディアによって切り取られた情報よりもネット上の情報は多くのことを我々に伝え、我々に思考を促すための数々の前提を与える。

 さらに言及すべきことは、我々には好奇心があるということだ。被害者の身内であれば、許し難いかもしれないような好奇心を持っている。たぶん、その好奇心は言い訳しがたく邪悪にはたらくこともあり、それを否定することはできない。しかし、否定することができないからといって、必ずしも肯定すべきものでもない。邪悪でありうることの自覚を持ちながら、反省的に振る舞う程度のことはしたい、と意識するのがせいぜいだ。

 安野モヨコ『働きマン』の一巻だっただろうか。事件現場にたどり着いた雑誌記者が、携帯を片手に事件現場を撮る人々を目撃して、彼らに再考を迫る記事を書いていた。明瞭には書かれてはいなかったが、この記事が暗に非難しているのは例えばこういうことだ。「事件を一体なんだと思っているのか。」「対岸の火事だと思っているのか」「被害者の悲しみに、軽い気持ちから土足で踏みにじるような真似をしているのではないか?」

 そういった問題提起は、とてもアクチュアルなものだとして、まずは評価されるべきだろう。しかし、その問題提起は、必然的にもう一つの問題を召び喚こす。「アマチュア・ジャーナリストたちと、プロのジャーナリストたちの間に横たわる差とは何なのか?」

 大きな視点を設定して、論じるのであれば、そこには差はない。アマチュアのジャーナリストであれ、プロのジャーナリストであれ、メディアの向こう側の観客達――TVのむこう、ラジオのむこう、インターネットの向こう――の潜在的ニーズに答えるために情報を記録している。

 だが、その記録の仕方には差がある。ただ、目と耳で聞いた情報を記憶してメモする人間もいれば、露骨に記録をしていることを周囲に伝えてしまうカメラのようなものもある。

 そして、そのカメラのシャッターを押すときの覚悟にも、おそらく差がある。プロのジャーナリストたちは、カメラを手にするその瞬間、自らの悪と、自らの正統性の双方を常に意識していることだろう。「マスゴミ」と呼ばれることの意味を理解しないマスコミはいないだろう。そのアンビバレンツを理解できないジャーナリストは、あまりにも無垢だ。彼らは、見殺しをすることによって救える何かがあることを信じながら行動しているはずだ。その「何か」が何であるかはしばしば不明瞭ではある。だが、プロのジャーナリストたちは、そのおぼろな「何か」を信じながら、危うげなリアリティを維持して、職務を全うする。職務としての割り切りは、ときに崇高であり、時に無神経で残虐でもある。そういう崇高さと、怖さに隣り合わせで生きているのがプロだろうと思う。それはマスコミに限らないかも知れない。一方で、アマチュアの抱えている自覚の度合いの差は、プロよりも激しい。人によってはその二重性にプロ以上に自覚的だろうし、全く無頓着な人間もいるだろう。*3

 そして、決定的なことは、アマチュアである限りにおいて、「わたしは、いま職業的正義を遂行しているのだ」という正統性すらも許されない。プロの中には、そういう職業的正義という正統性に寄りすがるだけの人間もいるかもしれない。そこを隠れ蓑にすることも可能だ。だけれども、アマチュアはそこに隠れることができない。そこにはプロよりももっと露骨に、記録する人間の「悪」がかいま見えてしまう。

 繰り返すが、メディアの向こう側の人間に「伝える」という機能においては、両者にそれほど大きな差はない。しかし、その覚悟や、訓練された振る舞いや、視点の取り方においては大きな違いがある。ある社会的な機能が、職業人の手から非職業人の手にわたる。それは職業人のもっていたプロとしての業界内の慣習/役割が機能しない空間が現れると言うことでもある。良くも悪くも。

 ポジティブな側面としては、職業人の手によって独占されていた「伝える」という行為が、拡散することによって、今までではあり得なかったような多様な視点、多様な情報が伝えられるようになりうる。これは、アマチュア・ジャーナリズムの隆盛の限らず、インターネットそのものがもとから内包していた可能性でもある。

 ネガティブなリスク管理という側面では、プライバシーなど、様々な当事者への人権配慮といった点でアマチュア・ジャーナリストたちのリテラシー教育が問題になるだろう。今後、アマチュア・ジャーナリズムのガイドラインが作られていくことは必須だろう。(そして、それはもちろん、つくられるべきだろうし、よくは知らないが、OhMyNewsの人などは多分、よく考えているのだろう)。そのリテラシー教育が行き渡り、アマチュア・ジャーナリズムに一定の価値が認められる時期がくれば、アマチュア・ジャーナリズムには「職業的正義」ではなく、「社会的正義」の皮がかぶせられる時も訪れるようになるのだろう。

■当事者と観客、というリアリティの間 ―――記録することの二つの層

 ただ、そうしたジャーナリズムの問題以上に、記録という行為の持つ二重性が露骨に浮き出てしまったことの方が、さらに、やりきれない気がした。

 もっとも象徴的なのは、犯人が携帯のBBSに書き残した言葉だ。

http://megaview.jp/topic.php?&v=774218&vs=0&t=24186400&ts~0&m=n&lmx=42 より引用)

秋葉原で人を殺します

06/08 05:21

車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います

みんなさようなら

[1]

06/08 05:21

ねむい

(略)

06/08 05:44

途中で捕まるのが一番しょぼいパターンかな

[5]

06/08 06:00

俺が騙されてるんじゃない

俺が騙してるのか

[6]

06/08 06:02

いい人を演じるのには慣れてる

みんな簡単に騙される

[7]

06/08 06:03

大人には評判の良い子だった

大人には

 わざとらしい問いをたてるが、

 なぜ、犯人はこのような書き込みを残したのだろうか?

 犯人の言葉はもの悲しいが、それと同時にいかにもワイドショーで取り上げられることを意識しているように見える。

 この書き込みだけでなく、6日の金曜日から続けられていたと見られる書き込み(http://megaview.jp/topic.php?&v=774218&vs=0&t=23930196&ts=0&m=n&lmx=3000)は、いかにも誰かに見てもらうことを欲しているように見える。

 書き込みはいかにもワイドショー好きしそうなステレオタイプに沿っているのではないか、と思えるような記述が多い。彼自身がステレオタイプの発想に捕らわれてしまっていたのか、それともワイドショーのステレオタイプの議論を意図的に「釣り」たいからこういった記述をしたのか、それはわからない。

 いずれにせよ、彼の行為を可能にしているものは彼自身の資質だけでなく、ワイドショーや、ネット上で取り上げられる(今まさにわたしが書いていること)といったシステムと共犯関係にあることは、かなり確実性が高いように思える。先週金曜日の、彼の書き込みと思われるものの一部には、こう書かれている。

[2674]

06/06 02:48

やりたいこと…殺人

夢…ワイドショー独占*4 

 

 

 

 

 話を変える。


 これに伴って、先月、映画『クローバーフィールド』を観たことを思い出した。

 フィクションだけれども、強烈な映画だった。

 映画は、登場人物の一人が所有しているホームビデオで撮影されたもの、ということになっている。手法としては『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とほぼ同じだ。

 ニューヨークの中心で日常を送っている主人公たちが突如パニックに巻き込まれる。高層ビルが、911のときのように崩壊し、なぜ崩壊したかは、当初理解することができない。よくわからないが、何かが起こっていて、人が死ぬ。どうやらゴジラのような怪物が街を襲っていて、逃げまどうしかないらしいことを主人公たちは悟る。その状況下で登場人物の一人は、頑なにカメラを離さない。カメラを手放したほうがより効率的に逃げられるのにも拘わらず、自分が、死ぬ間際にあってもカメラを離さなさい。その理由を、彼はこう語る「オレの名前はハッド。いま、ここで途切れたら、それはオレが死んだということだ。オレは絶対にいま、この状況を撮り続ける。いま、何が起こって、自分たちがどうなっているかを記録するために」(大意)。

 何のためにカメラを撮るのか。

 カメラに記録することを通じて、何かを伝えるために、カメラは撮られている。

 カメラに記録されるのは、被害者であり、その被害者には、カメラを撮る自らも含まれている。言うなれば、カメラに記録されている映像は、報道的な意味を持つのと、同時にカメラを握る当人の遺書でもある。自らの生の記録が、公共的な価値(=報道)*5と重なる。公共的な記録のために、自らの記録を行っているのか。自らの記録が、たまたま公共的な価値を持つ記録になっているのか、ここでは明瞭に区分けしてみせることが困難だ。両者は渾然と入り交じっている。

 

 

 

 

 ライフログ、という概念がある。

 日々の営み(Life)を、データとして記録(log)していくことを指している。『攻殻機動隊』『PLUTO』のようなSF作品ではよく表現されている例がわかりやすい。サイボーグが死ぬ間際の映像が、サイボーグの脳みそから抜き取られ、死ぬ直前に何を聞き、何を視ていたのか。それを遺族や、警官が確認しているシーンがよくある。ああいうものが、「ライフログ」の究極系の一つだと考えていいだろう。今でも、音声だけでよければ、1日あたりに、1GBぐらいでその日に何を喋ったかを延々と記録し続けることができるし、Blogや、携帯カメラ、SNSの日記といったものは今もっとも広く利用されつつあるライフログの形だろう。ただし、Blogや携帯カメラといった行為は、記録を行う人間の積極的な意志の介在を必要としている。

 しかし。もし、わたしのメガネにカメラが付いて、わたしが何もしなくとも、わたしの見たものが自動的に記録され続けるようになれば、どうなるのか。あくまで、わたしについての記録でありながら、わたしの周囲の世界についても自動的に記録してしまうという現象が到来する。今回、事件直後の現場を流した、USTREAMはまさに、そうした未来像に近づきつつあるサービスだろう。

 わたしは、自らの考えたほとんどのことを記録しておきたいという欲望を持っている。なので、わたしのパソコンには考える過程での、色々な人の記録もつまっている。そして映像をいじくるのも好きなので、旅行先に行くと必ずデジカメをパシャパシャと撮りまくっている。一日に600枚ぐらい撮ったりもしていて、旅行に行ったときの記録はデジカメがほとんどを記録している。わたしにとっては立派なライフログだ。

 最近のカメラは、動画機能も付いているのでカメラのスイッチをオンにしたままにしておいて、4GBぐらいのSDメモリーカードを突っ込んでおけば、二時間ぐらいの間、勝手に記録し続ける。携帯カメラしか持っていなかったら、携帯カメラをライフログ代わりに使っていた人間にもなっていただろう。実際に、デジカメを持っていないときに変わったものを見たら、肖像権などの問題がなければ、すぐに携帯カメラで撮影してしまう。

 何のためにライフログを蓄積するのか。

 いくつかの理由はある。過去の経験を参照可能にしておくことで、あとで思い出すのに便利だから、だとか。あるいは、友達と一緒に笑いあうために、映像や残しておくと、わかりやすいから、といった理由もある。

 しかし、おそらく最も重要な理由の一つは、記録する「わたし」の実存に関わっている。

 「書かれたモノ」「記録されたモノ」は、わたしが死んでも残る。「記録されたモノ」がはわたしの生き死にとは無関係に残ったり、消滅したりする。わたしの生き死にとは無関係に、わたしの存在していたことを保障するものだ。もちろん、わたしの生き死にとは無関係にわたしの存在を記憶しておいてくれる存在は他にもあるだろう。たとえば、わたしの友人や、わたしの実名を知ることもないネット上の知人たち。彼らはわたしの存在を記録するのではなく、記憶をしていてくれるだろう。どれほど記憶していてくれるかはわからないが。

 わたしの今まで書いてきたものが燃やされてしまったらわたしは悲しい。わたしをよく知ってくれている人が死んだとき、わたしはもっと悲しいだろう。もちろん、わたしは忘れ去られていくだろうし、書いたものはいずれ消失するだろう。しかし、せめて、わたしの手の届く範囲で、わたしは自らの記録/記憶を止めておきたいという欲望がある。

 

 

 再び、話を秋葉原に戻そう。

 もし、昨日の12時30分にわたしがデジカメを首からかけていたら?

 そして、逃げ出すときに、わたしがデジカメのムービー録画スイッチをオンにする落ち着きを持っていたら?

 

 わたしは、わたしのために、録画スイッチをオンにしただろう。

 犯人がBBSに書き込むよりも、もっと重要な確信をもって、わたしは録画スイッチをオンにしただろう。

 死の可能性を前にライフログを残すことは、わたしの実存にとっては替え難い。

 

 

 

 

 いまから28時間前に秋葉原で起きたリアルな悲劇。それと同時に、そこに現れた不気味なリアリティは、ここまでくればその姿を明瞭に取り出して見せることができるのではないだろうか。

 犯行は12時30分ごろに起きた。そして、5分後の12時35分に犯人は捕まる。

 その5分の間、その場に居合わせた全ての人は被害者でありえた。そのとき記録を試みることは、「わたし」のライフログのための半ば条件反射的な行動であったはずだ。

 しかし、12時35分、犯人がつかまると途端に、記録する行為の意味が変わる。

 わたしのための記録としての性質は途端に薄れ、誰かのための記録になる。

 ライフログから、報道になる。

 

 

■ネット上の記憶

 犯行の17時間後。つまり、今日の早朝。わたしは、メガビューBBSに書き込まれた犯人の書き込みを好奇心で見た。

 わたしのこの小さな好奇心が、こうした劇場型犯罪の共犯者だと思いながら。

 そして、ネット上には何が残され、何が宣言されていくのかと思った。

 わたしの記録は、そのうち、たぶん、消えるだろう。

 わたしは、テレビをほとんど見ない人間なので、いま昨日の事件がどうやって報道されているのか、知らない。

 

 犯人は多くの記録をインターネットに残していて、それは、いま、こうしてインターネットで話題になっている。彼は話題にされるために、彼のライフログを残した。テレビでも、それはおそらくいま「報道」になっている。

 わたしにとって、匿名でこうやってものを書く行為は、どちらかというライフログの感覚に近い。他人にわかってもらう目的があっても、それは知人を中心にしている。公開領域にこうやって書いている限りは、それが人の目に止まることもあるだろう。わたしをまったく知らない人が、この記事を読むとき、それは、わたしがわたしのために考えたことのメモではなく、インターネットで無責任に話題にしているだけの記事の一つにしか映らないかもしれない。わたしが今回、当事者にならなかった限りにおいて、そのように読まれることは、わたしの側では制御しようのないことだ*6

 携帯カメラからアップロードされた写真も、犯人の書き込みも、わたしの書いた言葉も、インターネットというこの場所に等しく残されている。自分のために自分が残したような情報と、他人が読むために残された情報が、この空間には混在している。

 ゴミ収集家の村崎百郎は、近所のゴミ捨て場から個人的な日記やら、ホームビデオやらが捨てられるのを拾ってきて、見てみては「ああ、なんか、こうやって生きている奴がいるんだな」ということを実感することに、何とも言い得ない感動を知るという。その感覚は、よくわかる。他人のライフログを、かいま見てしまった瞬間の奇妙な感動。そういう感動を与えるような、ゴミとして捨てられるライフログもある。

 一方で、犯人の、ライフログは犯行によって、ゴミにならなかった。犯人は、そのことに意味を見いだしているのだろう。彼の悦びの半分は、いま、この数日にこそ込められているはずだ。自らのライフログが、ゴミになるのではなく、報道になる、この数日に。*7

 

 我々は―――いや、わたしは、ライフログがゴミになったり、いきなり報道になったりすることに戸惑っているのだと思う。犯人のライフログが報道になることもそうだし、観客のライフログとも、アマチュア・ジャーナリストの報道ともつかないものが、概念の境界を揺らしてしまっていることに戸惑っている。

 アマチュア・ジャーナリストたちの中に「悪」を感じてしまう構造も、ここには横たわっている。アマチュア・ジャーナリストなのか通行人なのかわからない人たちによる、どこか自己充足願望とも取れるライフログが、「報道」になってしまう構造には、犯人のライフログが「報道」になってしまうことと、同一の構造を指摘することができる。劇場型犯罪を望んだ犯人と、劇場型犯罪の「劇場」を一緒に拵える行為に、職業的義務でなんでもなく加わってしまう人々に対して「悪」が見いだされている。一方で、プロの報道は個人的な「ライフログ」でもなく、記者の実存追求でもない、ということに一応なっていて、プロは職業的正義として「報道」をしているのだということになっている。その違いは、本当はあやうい側面もあると思う。その薄皮が剥がされてしまうとき、「報道」をする人間/「見る」人間という安定的な関係性が破壊される。

 まとめて言えば、こういうことかもしれない。「わたしのためのライフログ」が「報道のためのライフログ」になったりならなかったりする境目の瞬間の皮の薄さにわたしは驚き、「報道のためのライフログ」が「報道のための報道」との境界が入り乱れていることに多くの人が戸惑っているように思う。

 事件直後に、現場の動画をUSTREAMで流した一人はその行為をめぐる戸惑いをごく正直に告白している。―――「私はあの場でustで中継しました。それはついさっきまでリナカフェの状況を中継していたのと何ら変わらない。ただ、その場での出来事を、あの場の空気を中継したかったからした。ただそれだけでした。」*8―――このような問いが立てられる状態にこそ、不気味さがあらわれている。リアリティがぐにょりと曲がって、入り乱れている。犯人もまた、インターネットがリアリティをねじ曲げる、その現象に期待を抱いていたようにおもう。USTREAMが、ライフログと報道を直に繋げてしまい、携帯電話というツールもまたそのように機能した。

 今回の事件で、USTREAMと、携帯が果たしたライフログとしての役割はとても大きい。わかりにくければ、たとえばこういう思考実験をしてみればいいだろう。犯人は今回携帯のライフログを用いていた。多くの人が、そのライフログを見ている。「報道」を通して。では、もし犯人がワイヤレスのカメラを首からぶら下げて、連行されるその瞬間まで、USTREAMで自らの眼前に繰り広げられる光景をストリーミングしていたならばどうだろう。われわれはそれを見るのだろうか?

 何が、どれだけ非難されるべきことであるかどうか。

 まだ、断言する気など、まったく起きない。

 いま、わたしには、そんなことしか、言えない。

 

 ごめんなさい。


余談:犯行の発生をどうみるか

 蛇足かも知れない余談をいくつか。

 犯行はもちろん、社会の不合理の代弁ではない*9。永山則夫の事件のときと同様だ。

 犯行は犯行である。ただ、社会の諸条件と、犯行の発生の仕方は一定の相関関係はあるだろう。しかし、犯行の原因の全てを、社会的代弁(Re-presentation)として捉えるのは、飛躍がある。彼が、なにがしかを表象(Re-presentation)しているのであるとすれば、彼という社会的結節点の一つではあるだろう。そこには、偶然性もあれば、社会的諸条件もある。まったくもって言うまでもないが、要因は複合的だ。

 その複合要因の中の一つに、なぜ、秋葉原を選んだのか、といった問題