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2008年06月11日
■2008-06-09,13:05 written by complexequality
下記は、complexequalityの手による記事です。直接コンピュータ・ゲームに拘わる内容ではありません。ただ、新たなメディアが人間の行為を変え、世界解釈に変容を促すという点で本サイトの内容とは連続性のあるものです。コンピュータ・ゲームもまた、人のライフログとして機能します。<記録されたもの>であるライフログの存在は、おそらく<記録される対象>である、当人自体にとって、必ずしも制御しきれる対象たりえないのではないか、と思います。ゲームの中の記録に何かを見いだし、「34時間23分」と書かれたセーブデータに覚える感情を思い起こしてみればそれは想起可能かもしれません。
事件に哀悼の意を表します。
title:秋葉原の事件について―――ライフログと報道をめぐって
昨日の昼に、悲惨で、かなしく、かつ人ごとではない事件が秋葉原で起こったことについて書いておく。
わたしにとって、秋葉原は、とても近い町だ。
わたしの知人は刺されていなかった。わたしも刺されなかった。犯人は11時頃に渋谷を通り過ぎたらしい。わたしはその日の15時頃に渋谷に着いた。15時に渋谷に着いた理由は特にない。11時に渋谷に着いたら、犯人の車とすれ違っていたかも知れない。
たまたま、昨日は秋葉原に行こうとは思わなかった。たまたま昨日は用事がなかった。
The Yellow Monkeyの歌う「日本人はいませんでした」は、報道に対する見事な揶揄だが、わたしはいま、あの揶揄を、他人事だと思って馬鹿にすることはできない。
わたしは、第一に知人の安否をおもった。
日本というカテゴリーには何もピンとこなくとも、「関東在住で、秋葉原に行くような人たち」というカテゴリーにはピンとくる。ガチオタとかではないけれども、わたしはそのカテゴリーにある程度属している。mixiを利用しはじめてみるとわかるけれども、だいたい、3、4人ぐらい経由すれば、東京近辺のほとんどのオタクと繋がるのではないかと思っている。
わたしの知り合いは刺されていない。
でも、わたしの知り合いの知り合いは刺されていたかもしれない。わたしの知り合いの知り合いの知り合いは刺されたに違いない。少なくとも、昨日の昼に逃げまどった群衆の何人もの人が、わたしの知り合いの知り合いの知り合いであるだろうと思う。秋葉原に勤めている知人や、すぐそばに住んでいる知人が何人もいる。
でも、わたしは刺されなかった。
犯人の高校は名門校である。たぶん、わたしの知り合いにはそこの高校の出身者がいるはずだ。そして、たぶん、犯人の友人は、わたしの知り合いの後輩だろう。わたしの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いぐらいである確率は低くないと思う。あるいは、知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いかもしれない。
事件の規模は、――挑発的に言うのであれば――「小さい」とも言ってもいい。
先月の四川中国大地震の6万9130人よりも、911の2998人よりも、毎日の交通事故の死亡者数20人弱よりも、小さい。わたしは、7年前に「911は、アメリカ人にとって大きな事件なのであって、世界にとっては3000人が死んだにすぎない」と言った。それは今回もそうだ。秋葉原通り魔殺人事件は、わたしにとって大きな事件なのであって、世界にとっては7人が死んだ事件に過ぎない。だが、秋葉原という場所が、この事件を、わたしにとって、大きなものにしている。事件の大きさは死者の数ではない。この事件を受け取る人間にとっての、大きさである。
まだ、あまり整理して書けないだろうが、記録(ライフログ)や報道について、いくつかの点から書いてみたい。
■リアリティの分裂―――どうしようもなく大きく、にもかかわらず偶然的な分裂
いまから25時間前の昼、秋葉原を歩いていたならば、被害者にもなりえたし、観客にもなりえたし、アマチュア・ブロガーにもなりえた。偶然的だったかもしれないが、そこには大きなリアリティの溝が生まれている。
そこに生じたリアルな境遇の分裂と同時に、リアリティの溝があることが認識することからはじめたい。
襲われる可能性は12時30分から35分までの5分間、平等に現れていた。それゆえに、必死で逃げた。そして、12時35分に犯人が取り押さえられ、その瞬間から難を逃れた周囲の通行人たちは、被害者となる可能性から一斉に解き放たれる。おそらく、その瞬間の空気の変化は目に見えるようなものだったはずだ。そのとき、動画をUPSTREAMすることが可能だったid:kenan氏は、カメラを撮り始め、他の何人かは携帯カメラでもって、2chに情報を流し始めた(http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1136294.html)。
被害者。通行人。観客。アマチュア・ジャーナリストたち。そして、駆けつけた警察官、救急隊員、現場で救急医療をした人。そこにはリアリティの溝がある。そのリアリティの溝はとても大きいが、同時にとても偶然的なものだ。今回の報道や、観客たちについて道義的な議論をする人々は、そのリアリティの境目が、グロテスクに露呈されてしまったことに我々は戸惑っているのだと思う。被害者のリアリティと、携帯カメラを撮る人たちのリアリティに境目に戸惑うのは自然だろう。だが、だからと携帯カメラを撮る人たちを一方的に責めるほどに、わたしはイノセントな存在でもないということも自覚してしまう。前者の感覚を強調すれば、アマチュア・ジャーナリストたちへの非難となるだろうし*1、後者を強調すれば彼らへの擁護になるだろう。
事件が落着したその瞬間。その前と後のたった数分間の間には、いくつかの当事者になりえた可能性があった。その幾つかについて挙げてみると、だいたい次のようになる。
- 当事者たち
- 被害者:被害者のリアリティは、とんでもない。
- 犯人:犯人のリアリティも、とんでもない。
- 警察:彼らは、命をかけて事件解決のために、現場にきている。そういうリアリティの下に動いている。
- 周辺の人間たち
- 観客:事件そのものに関与せず、ただ、事件を見て、受け取るほかない。
- 職業ジャーナリスト:彼らは報道のためにきている。メディアの向こう側の観客に絵を見せるためだ。そのようなリアリティである。
- アマチュア・ブロガー:彼ら現場に居合わせ、そして、たまたま半ば好奇心、半ば報道をしようと思う人々。
- 応急処置をするひとたち:応急処置の能力をもっていて、緊急的な、義務感をもって行為を遂行しようと思ったひとたち*2
- 通行人:通行人は、たまたまそこを歩いていた人々だ。彼らはメディアの向こう側の観客でもありえたし、被害者でもありえたし、アマチュア・ブロガーでもありうる。
■プロとアマチュア、というリアリティの間 ―――報道することの二つの層
報道をめぐる問題について、もう少し、詳しく書いておこう。
わたしは、アマチュア報道を擁護するし、アマチュア報道の非難をする人も擁護する。
どちらも擁護されなければならないだろうし、また、どちらかを一方的に擁護する人は批判されなければならないだろう。
まず、事件現場で、携帯で写真をとるのは、いかにも不謹慎だ。だが、その状況に居合わせたなら、自分は動揺を覚え、その状況に対して何かしらのアクションをとりたがるようにも思う。その感情はあるだろう。しかし、現場で、携帯カメラを掲げてみせるのは「わたしは人の不幸に興味があります」ということをアマリにも露骨に周囲に知らせてしまう。あまりにもためらいなく、好奇心を露呈されてしまうのは、いかにも醜い。わたしは、そのような素朴な醜さと、距離を取りたいと思う人たちに同意する。
しかし、一方において、アマチュア報道が持つ価値について否定をするつもりもない。既存のマス・ジャーナリズムよりも生々しく、価値ある情報をアマチュア・ジャーナリズムが伝えてくることがある。もちろん、今回の報道は、それほどの緊急性はないので、震災の現場で避難情報を伝えるほどの価値あるアマチュア報道ではないだろう。しかし、マス・メディアによって切り取られた情報よりもネット上の情報は多くのことを我々に伝え、我々に思考を促すための数々の前提を与える。
さらに言及すべきことは、我々には好奇心があるということだ。被害者の身内であれば、許し難いかもしれないような好奇心を持っている。たぶん、その好奇心は言い訳しがたく邪悪にはたらくこともあり、それを否定することはできない。しかし、否定することができないからといって、必ずしも肯定すべきものでもない。邪悪でありうることの自覚を持ちながら、反省的に振る舞う程度のことはしたい、と意識するのがせいぜいだ。
安野モヨコ『働きマン』の一巻だっただろうか。事件現場にたどり着いた雑誌記者が、携帯を片手に事件現場を撮る人々を目撃して、彼らに再考を迫る記事を書いていた。明瞭には書かれてはいなかったが、この記事が暗に非難しているのは例えばこういうことだ。「事件を一体なんだと思っているのか。」「対岸の火事だと思っているのか」「被害者の悲しみに、軽い気持ちから土足で踏みにじるような真似をしているのではないか?」
そういった問題提起は、とてもアクチュアルなものだとして、まずは評価されるべきだろう。しかし、その問題提起は、必然的にもう一つの問題を召び喚こす。「アマチュア・ジャーナリストたちと、プロのジャーナリストたちの間に横たわる差とは何なのか?」
大きな視点を設定して、論じるのであれば、そこには差はない。アマチュアのジャーナリストであれ、プロのジャーナリストであれ、メディアの向こう側の観客達――TVのむこう、ラジオのむこう、インターネットの向こう――の潜在的ニーズに答えるために情報を記録している。
だが、その記録の仕方には差がある。ただ、目と耳で聞いた情報を記憶してメモする人間もいれば、露骨に記録をしていることを周囲に伝えてしまうカメラのようなものもある。
そして、そのカメラのシャッターを押すときの覚悟にも、おそらく差がある。プロのジャーナリストたちは、カメラを手にするその瞬間、自らの悪と、自らの正統性の双方を常に意識していることだろう。「マスゴミ」と呼ばれることの意味を理解しないマスコミはいないだろう。そのアンビバレンツを理解できないジャーナリストは、あまりにも無垢だ。彼らは、見殺しをすることによって救える何かがあることを信じながら行動しているはずだ。その「何か」が何であるかはしばしば不明瞭ではある。だが、プロのジャーナリストたちは、そのおぼろな「何か」を信じながら、危うげなリアリティを維持して、職務を全うする。職務としての割り切りは、ときに崇高であり、時に無神経で残虐でもある。そういう崇高さと、怖さに隣り合わせで生きているのがプロだろうと思う。それはマスコミに限らないかも知れない。一方で、アマチュアの抱えている自覚の度合いの差は、プロよりも激しい。人によってはその二重性にプロ以上に自覚的だろうし、全く無頓着な人間もいるだろう。*3
そして、決定的なことは、アマチュアである限りにおいて、「わたしは、いま職業的正義を遂行しているのだ」という正統性すらも許されない。プロの中には、そういう職業的正義という正統性に寄りすがるだけの人間もいるかもしれない。そこを隠れ蓑にすることも可能だ。だけれども、アマチュアはそこに隠れることができない。そこにはプロよりももっと露骨に、記録する人間の「悪」がかいま見えてしまう。
繰り返すが、メディアの向こう側の人間に「伝える」という機能においては、両者にそれほど大きな差はない。しかし、その覚悟や、訓練された振る舞いや、視点の取り方においては大きな違いがある。ある社会的な機能が、職業人の手から非職業人の手にわたる。それは職業人のもっていたプロとしての業界内の慣習/役割が機能しない空間が現れると言うことでもある。良くも悪くも。
ポジティブな側面としては、職業人の手によって独占されていた「伝える」という行為が、拡散することによって、今までではあり得なかったような多様な視点、多様な情報が伝えられるようになりうる。これは、アマチュア・ジャーナリズムの隆盛の限らず、インターネットそのものがもとから内包していた可能性でもある。
ネガティブなリスク管理という側面では、プライバシーなど、様々な当事者への人権配慮といった点でアマチュア・ジャーナリストたちのリテラシー教育が問題になるだろう。今後、アマチュア・ジャーナリズムのガイドラインが作られていくことは必須だろう。(そして、それはもちろん、つくられるべきだろうし、よくは知らないが、OhMyNewsの人などは多分、よく考えているのだろう)。そのリテラシー教育が行き渡り、アマチュア・ジャーナリズムに一定の価値が認められる時期がくれば、アマチュア・ジャーナリズムには「職業的正義」ではなく、「社会的正義」の皮がかぶせられる時も訪れるようになるのだろう。
■当事者と観客、というリアリティの間 ―――記録することの二つの層
ただ、そうしたジャーナリズムの問題以上に、記録という行為の持つ二重性が露骨に浮き出てしまったことの方が、さらに、やりきれない気がした。
もっとも象徴的なのは、犯人が携帯のBBSに書き残した言葉だ。
(http://megaview.jp/topic.php?&v=774218&vs=0&t=24186400&ts~0&m=n&lmx=42 より引用)
秋葉原で人を殺します
06/08 05:21
車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います
みんなさようなら
[1]
06/08 05:21
ねむい
(略)
06/08 05:44
途中で捕まるのが一番しょぼいパターンかな
[5]
06/08 06:00
俺が騙されてるんじゃない
俺が騙してるのか
[6]
06/08 06:02
いい人を演じるのには慣れてる
みんな簡単に騙される
[7]
06/08 06:03
大人には評判の良い子だった
大人には
わざとらしい問いをたてるが、
なぜ、犯人はこのような書き込みを残したのだろうか?
犯人の言葉はもの悲しいが、それと同時にいかにもワイドショーで取り上げられることを意識しているように見える。
この書き込みだけでなく、6日の金曜日から続けられていたと見られる書き込み(http://megaview.jp/topic.php?&v=774218&vs=0&t=23930196&ts=0&m=n&lmx=3000)は、いかにも誰かに見てもらうことを欲しているように見える。
書き込みはいかにもワイドショー好きしそうなステレオタイプに沿っているのではないか、と思えるような記述が多い。彼自身がステレオタイプの発想に捕らわれてしまっていたのか、それともワイドショーのステレオタイプの議論を意図的に「釣り」たいからこういった記述をしたのか、それはわからない。
いずれにせよ、彼の行為を可能にしているものは彼自身の資質だけでなく、ワイドショーや、ネット上で取り上げられる(今まさにわたしが書いていること)といったシステムと共犯関係にあることは、かなり確実性が高いように思える。先週金曜日の、彼の書き込みと思われるものの一部には、こう書かれている。
[2674]
06/06 02:48
やりたいこと…殺人
夢…ワイドショー独占*4
話を変える。
これに伴って、先月、映画『クローバーフィールド』を観たことを思い出した。
フィクションだけれども、強烈な映画だった。
映画は、登場人物の一人が所有しているホームビデオで撮影されたもの、ということになっている。手法としては『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とほぼ同じだ。
ニューヨークの中心で日常を送っている主人公たちが突如パニックに巻き込まれる。高層ビルが、911のときのように崩壊し、なぜ崩壊したかは、当初理解することができない。よくわからないが、何かが起こっていて、人が死ぬ。どうやらゴジラのような怪物が街を襲っていて、逃げまどうしかないらしいことを主人公たちは悟る。その状況下で登場人物の一人は、頑なにカメラを離さない。カメラを手放したほうがより効率的に逃げられるのにも拘わらず、自分が、死ぬ間際にあってもカメラを離さなさい。その理由を、彼はこう語る「オレの名前はハッド。いま、ここで途切れたら、それはオレが死んだということだ。オレは絶対にいま、この状況を撮り続ける。いま、何が起こって、自分たちがどうなっているかを記録するために」(大意)。
何のためにカメラを撮るのか。
カメラに記録することを通じて、何かを伝えるために、カメラは撮られている。
カメラに記録されるのは、被害者であり、その被害者には、カメラを撮る自らも含まれている。言うなれば、カメラに記録されている映像は、報道的な意味を持つのと、同時にカメラを握る当人の遺書でもある。自らの生の記録が、公共的な価値(=報道)*5と重なる。公共的な記録のために、自らの記録を行っているのか。自らの記録が、たまたま公共的な価値を持つ記録になっているのか、ここでは明瞭に区分けしてみせることが困難だ。両者は渾然と入り交じっている。
ライフログ、という概念がある。
日々の営み(Life)を、データとして記録(log)していくことを指している。『攻殻機動隊』『PLUTO』のようなSF作品ではよく表現されている例がわかりやすい。サイボーグが死ぬ間際の映像が、サイボーグの脳みそから抜き取られ、死ぬ直前に何を聞き、何を視ていたのか。それを遺族や、警官が確認しているシーンがよくある。ああいうものが、「ライフログ」の究極系の一つだと考えていいだろう。今でも、音声だけでよければ、1日あたりに、1GBぐらいでその日に何を喋ったかを延々と記録し続けることができるし、Blogや、携帯カメラ、SNSの日記といったものは今もっとも広く利用されつつあるライフログの形だろう。ただし、Blogや携帯カメラといった行為は、記録を行う人間の積極的な意志の介在を必要としている。
しかし。もし、わたしのメガネにカメラが付いて、わたしが何もしなくとも、わたしの見たものが自動的に記録され続けるようになれば、どうなるのか。あくまで、わたしについての記録でありながら、わたしの周囲の世界についても自動的に記録してしまうという現象が到来する。今回、事件直後の現場を流した、USTREAMはまさに、そうした未来像に近づきつつあるサービスだろう。
わたしは、自らの考えたほとんどのことを記録しておきたいという欲望を持っている。なので、わたしのパソコンには考える過程での、色々な人の記録もつまっている。そして映像をいじくるのも好きなので、旅行先に行くと必ずデジカメをパシャパシャと撮りまくっている。一日に600枚ぐらい撮ったりもしていて、旅行に行ったときの記録はデジカメがほとんどを記録している。わたしにとっては立派なライフログだ。
最近のカメラは、動画機能も付いているのでカメラのスイッチをオンにしたままにしておいて、4GBぐらいのSDメモリーカードを突っ込んでおけば、二時間ぐらいの間、勝手に記録し続ける。携帯カメラしか持っていなかったら、携帯カメラをライフログ代わりに使っていた人間にもなっていただろう。実際に、デジカメを持っていないときに変わったものを見たら、肖像権などの問題がなければ、すぐに携帯カメラで撮影してしまう。
何のためにライフログを蓄積するのか。
いくつかの理由はある。過去の経験を参照可能にしておくことで、あとで思い出すのに便利だから、だとか。あるいは、友達と一緒に笑いあうために、映像や残しておくと、わかりやすいから、といった理由もある。
しかし、おそらく最も重要な理由の一つは、記録する「わたし」の実存に関わっている。
「書かれたモノ」「記録されたモノ」は、わたしが死んでも残る。「記録されたモノ」がはわたしの生き死にとは無関係に残ったり、消滅したりする。わたしの生き死にとは無関係に、わたしの存在していたことを保障するものだ。もちろん、わたしの生き死にとは無関係にわたしの存在を記憶しておいてくれる存在は他にもあるだろう。たとえば、わたしの友人や、わたしの実名を知ることもないネット上の知人たち。彼らはわたしの存在を記録するのではなく、記憶をしていてくれるだろう。どれほど記憶していてくれるかはわからないが。
わたしの今まで書いてきたものが燃やされてしまったらわたしは悲しい。わたしをよく知ってくれている人が死んだとき、わたしはもっと悲しいだろう。もちろん、わたしは忘れ去られていくだろうし、書いたものはいずれ消失するだろう。しかし、せめて、わたしの手の届く範囲で、わたしは自らの記録/記憶を止めておきたいという欲望がある。
再び、話を秋葉原に戻そう。
もし、昨日の12時30分にわたしがデジカメを首からかけていたら?
そして、逃げ出すときに、わたしがデジカメのムービー録画スイッチをオンにする落ち着きを持っていたら?
わたしは、わたしのために、録画スイッチをオンにしただろう。
犯人がBBSに書き込むよりも、もっと重要な確信をもって、わたしは録画スイッチをオンにしただろう。
死の可能性を前にライフログを残すことは、わたしの実存にとっては替え難い。
いまから28時間前に秋葉原で起きたリアルな悲劇。それと同時に、そこに現れた不気味なリアリティは、ここまでくればその姿を明瞭に取り出して見せることができるのではないだろうか。
犯行は12時30分ごろに起きた。そして、5分後の12時35分に犯人は捕まる。
その5分の間、その場に居合わせた全ての人は被害者でありえた。そのとき記録を試みることは、「わたし」のライフログのための半ば条件反射的な行動であったはずだ。
しかし、12時35分、犯人がつかまると途端に、記録する行為の意味が変わる。
わたしのための記録としての性質は途端に薄れ、誰かのための記録になる。
ライフログから、報道になる。
■ネット上の記憶
犯行の17時間後。つまり、今日の早朝。わたしは、メガビューBBSに書き込まれた犯人の書き込みを好奇心で見た。
わたしのこの小さな好奇心が、こうした劇場型犯罪の共犯者だと思いながら。
そして、ネット上には何が残され、何が宣言されていくのかと思った。
わたしの記録は、そのうち、たぶん、消えるだろう。
わたしは、テレビをほとんど見ない人間なので、いま昨日の事件がどうやって報道されているのか、知らない。
犯人は多くの記録をインターネットに残していて、それは、いま、こうしてインターネットで話題になっている。彼は話題にされるために、彼のライフログを残した。テレビでも、それはおそらくいま「報道」になっている。
わたしにとって、匿名でこうやってものを書く行為は、どちらかというライフログの感覚に近い。他人にわかってもらう目的があっても、それは知人を中心にしている。公開領域にこうやって書いている限りは、それが人の目に止まることもあるだろう。わたしをまったく知らない人が、この記事を読むとき、それは、わたしがわたしのために考えたことのメモではなく、インターネットで無責任に話題にしているだけの記事の一つにしか映らないかもしれない。わたしが今回、当事者にならなかった限りにおいて、そのように読まれることは、わたしの側では制御しようのないことだ*6。
携帯カメラからアップロードされた写真も、犯人の書き込みも、わたしの書いた言葉も、インターネットというこの場所に等しく残されている。自分のために自分が残したような情報と、他人が読むために残された情報が、この空間には混在している。
ゴミ収集家の村崎百郎は、近所のゴミ捨て場から個人的な日記やら、ホームビデオやらが捨てられるのを拾ってきて、見てみては「ああ、なんか、こうやって生きている奴がいるんだな」ということを実感することに、何とも言い得ない感動を知るという。その感覚は、よくわかる。他人のライフログを、かいま見てしまった瞬間の奇妙な感動。そういう感動を与えるような、ゴミとして捨てられるライフログもある。
一方で、犯人の、ライフログは犯行によって、ゴミにならなかった。犯人は、そのことに意味を見いだしているのだろう。彼の悦びの半分は、いま、この数日にこそ込められているはずだ。自らのライフログが、ゴミになるのではなく、報道になる、この数日に。*7
我々は―――いや、わたしは、ライフログがゴミになったり、いきなり報道になったりすることに戸惑っているのだと思う。犯人のライフログが報道になることもそうだし、観客のライフログとも、アマチュア・ジャーナリストの報道ともつかないものが、概念の境界を揺らしてしまっていることに戸惑っている。
アマチュア・ジャーナリストたちの中に「悪」を感じてしまう構造も、ここには横たわっている。アマチュア・ジャーナリストなのか通行人なのかわからない人たちによる、どこか自己充足願望とも取れるライフログが、「報道」になってしまう構造には、犯人のライフログが「報道」になってしまうことと、同一の構造を指摘することができる。劇場型犯罪を望んだ犯人と、劇場型犯罪の「劇場」を一緒に拵える行為に、職業的義務でなんでもなく加わってしまう人々に対して「悪」が見いだされている。一方で、プロの報道は個人的な「ライフログ」でもなく、記者の実存追求でもない、ということに一応なっていて、プロは職業的正義として「報道」をしているのだということになっている。その違いは、本当はあやうい側面もあると思う。その薄皮が剥がされてしまうとき、「報道」をする人間/「見る」人間という安定的な関係性が破壊される。
まとめて言えば、こういうことかもしれない。「わたしのためのライフログ」が「報道のためのライフログ」になったりならなかったりする境目の瞬間の皮の薄さにわたしは驚き、「報道のためのライフログ」が「報道のための報道」との境界が入り乱れていることに多くの人が戸惑っているように思う。
事件直後に、現場の動画をUSTREAMで流した一人はその行為をめぐる戸惑いをごく正直に告白している。―――「私はあの場でustで中継しました。それはついさっきまでリナカフェの状況を中継していたのと何ら変わらない。ただ、その場での出来事を、あの場の空気を中継したかったからした。ただそれだけでした。」*8―――このような問いが立てられる状態にこそ、不気味さがあらわれている。リアリティがぐにょりと曲がって、入り乱れている。犯人もまた、インターネットがリアリティをねじ曲げる、その現象に期待を抱いていたようにおもう。USTREAMが、ライフログと報道を直に繋げてしまい、携帯電話というツールもまたそのように機能した。
今回の事件で、USTREAMと、携帯が果たしたライフログとしての役割はとても大きい。わかりにくければ、たとえばこういう思考実験をしてみればいいだろう。犯人は今回携帯のライフログを用いていた。多くの人が、そのライフログを見ている。「報道」を通して。では、もし犯人がワイヤレスのカメラを首からぶら下げて、連行されるその瞬間まで、USTREAMで自らの眼前に繰り広げられる光景をストリーミングしていたならばどうだろう。われわれはそれを見るのだろうか?
何が、どれだけ非難されるべきことであるかどうか。
まだ、断言する気など、まったく起きない。
いま、わたしには、そんなことしか、言えない。
ごめんなさい。
■余談:犯行の発生をどうみるか
蛇足かも知れない余談をいくつか。
犯行はもちろん、社会の不合理の代弁ではない*9。永山則夫の事件のときと同様だ。
犯行は犯行である。ただ、社会の諸条件と、犯行の発生の仕方は一定の相関関係はあるだろう。しかし、犯行の原因の全てを、社会的代弁(Re-presentation)として捉えるのは、飛躍がある。彼が、なにがしかを表象(Re-presentation)しているのであるとすれば、彼という社会的結節点の一つではあるだろう。そこには、偶然性もあれば、社会的諸条件もある。まったくもって言うまでもないが、要因は複合的だ。