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2007年04月08日
■メディアミックス、容れ物の魔力 #03~日常性 もうそろそろゲームの話~
マジックワード「日常性」
瀬上:うーん、もうちょっとメタ化、一般化しておきたい、というか後につながる話にしたいですね。
ここで、『セクシーボイスアンドロボ』の話まで戻すと、マンガ的な「キャラ」のリアリティについては、『のだめ』は申し分なくやってくれたわけで、これは、『セクシーボイスアンドロボ』では多分難しいだろうとか、そういう話もできる気がします。
一番最初の議論で、『セクシーボイスアンドロボ』の主人公は、英雄と少女の間を往復する、という話がありました。あれがつまりキャラ/キャラクターを往復する、ということともしかしたら位置づけられるかもしれない。だから、『セクシーボイスアンドロボ』がもし上手くテレビドラマとして作り得るとすれば、ニコのヒーロー的な活躍にフォーカスを当てていく、ということになるのではないか、とか、そういうことが言えそうです。
米島:いや、その手法は結局、黒田硫黄の醍醐味である日常描写を、ぜんぜん表現できないわけだから。だめでしょう。
瀬上:あ、いや、すみません。キャラ的、というのは非日常的ということではありません。たとえば、伊藤剛は『あずまんが大王』『ぼのぼの』こそが、キャラ的なものだ、という話をしているわけです。あれはあれで日常描写のマンガですね。もちろん、それは黒田硫黄じゃないですけれど、日常は描けるだろうと。
米島:うーん、つまり「日常」を描くというのがなんなのか、ということかな。
瀬上:そうですね。まず、僕が言う「キャラ/キャラクター」の問題と、「日常/非日常」の問題は少し問題の軸が別のことなのではないか、という気がしますね。それと、米島さんが、黒田硫黄に関して言っている「日常」というのは、実は単に日常というよりも「卓越した日常」とか「優美な日常」とかそういう形容詞が必要なのではないか、と思います。
米島:ふむ。つまり、何が言いたい?
瀬上:うーん、何と言えばいいのか、ストレートに言うと、「日常」あるいは「日常性」というのはマジックワードだ、ということですね。失礼な言い方かもしれませんが、米島さんのようなタイプのインテリは、これをマジックワードだと思わずに素直に礼賛することで、知的であろうとしているようなところもあると思います。
米島:あ、なんとなくわかってきた、瀬上くんらしくまわりくどいがつまり、アレだろ。「日常的な言葉とか、日常生活に密着したものの考え方」とかがスバラシー、カッコイー、とかって思っているんじゃねぇの?テメー?っていう、そういう話だろ。それは、まあ、その通りだと言えば、その通りですよ。いや、実際そう思っているからね。では、まあ、日常性礼賛みたいな発想がどうしていけないのか、と。
瀬上:いけない、とは言いませんが、マジックワードだと思うのでそれを認識しておいてくれ、ということですね。日常性、という言葉は、自由、美、倫理、真実、現実とかそういうタイプのどうしようもなく厄介な概念と同レベルに扱いにくい語です。正直なところ、日常性とは何か、というようなことを語るのはとても難しい。それはもちろん僕もあまりきちんと整理して語れません。
例えば、日常、という概念と結びつきやすい概念の一つに「大衆」「土着」といった言葉があります。古い話ですが、「大衆」と言ったら、一方には「扇動されやすい愚民」というイメージがある。そして、「大衆」は近代社会的なものですが「土着」というのは前近代的な場所で生きる、地域ごとのミクロな権威とかミクロな宗教にロックインされている「愚民」のイメージを持っている。丸山眞男が、批判したような日本人像ですね。一方で、これはポジティブに語ったら共産主義的な「労働者よ団結せよ!」の世界で、左翼インテリが救い出して取扱うべきものこそが「日常」という話になる。大衆という概念が「労働者」とか「市民」いうものに読み替えられたりする。これはどっちが正しいという話ではなく、そういうヤヌス的な概念だということですね。
米島:いや、オレはマルクス万歳な人じゃないよ。
瀬上:それは、そうでしょう。米島さんの場合は、ジャーゴン(専門用語)使いまくるインテリ批判みたいなところですよね。ただ、高度に技巧的・制度的・専門的なジャーゴンとかを「非日常性」とか「浮遊したもの」として括ってしまって、「地に足のついた」ものとして「日常性」を持ち上げる、という理屈の立て方は、左翼系の人がけっこう好きなことが多いですね。
米島:いや、むしろ、オレがインテリ批判というか、ジャーゴンから遠ざかるのは、自分が間違いなく理解できている、と思える概念しか使いたくないからだよね。わかっているんだか、どーだか怪しい言葉を、インテリぶって使いたくない。おれの日常性礼賛というのはそういう話ですよ。理解可能な概念でものを考えたいし、話したい。オレ自身のリアリティとつながるもので考えたい、ということだよね。
瀬上:その感覚は非常によくわかります。米島さんはある種の誠実さを志向しているがゆえに、そういう発想をされているわけですね。その点、僕は微妙に自信のない言葉でも、ちょくちょくと議論をメタ化、一般化させるために使っていたりして、それは不誠実だともいえます。もちろん、なるべく理解していない言葉は使っていないつもりではありますが、浅学非才の若造ゆえの大きな限界の壁があります。
しかし、言い訳すると、インテリぶりたいから不誠実に日常的でない言語を使うのではない。言ったそばから「不誠実な」な言葉で失礼しますが、たとえば「不気味なもの」という概念があります。これは、フロイトや、ハイデガーがそれぞれ別々の形で論じていて、きちんと論じるとややこしいですが、フロイトはたとえばドッペルゲンガーのようなものを存在を不気味と言い、ハイデガーは宇宙空間への人間の進出や、人間を不死に向かわせるテクノロジーを不気味と言う。西谷修(1990『不死のワンダーランド』講談社学術文庫 P210~)によればこの二つにはある程度共通するところがあって、両方とも自分自身の生命の外側にある<不死性>である。ただ両者の違いを言うと、フロイトの場合は、そういった<不死性>というものは人の意識が封じ込めていたはずのものが現れてしまう時に不気味として感じられる。ラカンによれば「象徴界から排除されたものが外界から回帰すること」です。一方、ハイデガーは人間の知性とか技術といったものが、人間という存在の死すべき身体の有限性を超え出てしまうような中で自由であるかのように振る舞うことです。
おそらく、この説明では非常にわかりにくいと思います。前者が『サイレント・ヒル』とか『ひぐらしのなく頃に 祟殺し編』的な恐怖に近いかもしれない。『サイレントヒル』は、人間の身体があるべき形をしておらず、ハンス・ベルメールの関節人形のようなものがウロウロしています。あの世界が不気味なのは、「人間の身体」の隠されているべきはずの可能性というのが現れてしまっているからですね。『ひぐらしのなく頃に 祟殺し編』では、まさしくドッペルゲンガーが出現して、主人公である<私>の意志とは無関係に動き回り、<私>が泥の中をはい回っていたはずの時間に、ドッペルゲンガーが悠々と暮らしている恐怖におびえます。自身の在り方が、自身のコントロールから離れたところに立ち現れるから恐ろしい。
一方、後者は宮崎駿の現代社会批判みたいなものに近い。『もののけ姫』では、森にいる死と生を司る獣神を人々は殺してしまう。そして、現代の『平成狸合戦ぽんぽこ』の頃になると人々は、森の神を殺してしまったことすら忘れていってニュータウンとかを暢気に建設している始末です。ここでは、死と生を司るはずの超越的な存在が忘れ去られていることが、不気味というか、むかつくようなところがあるわけです。これについても『ひぐらし』の話ができますが、また後にするとして…。とにかくこちらは、自身の在り方が全てコントロールできると思いこんでいるところが恐ろしい。
米島さんは、自分がきちんとコントロールできる思考をしたい、とおっしゃいましたね。ですが、米島さんがコントロールできると思っているもの、というのは一体なんなのか。そのようなことを問うことができるわけです。たとえば、この日常性という言葉自体もそうですが、日常に染みついているように見えている概念とか言葉というのは実は非常に時代的、地理的な束縛を受けている。たとえば、童貞とか、同性愛とか、ああいった概念の扱われ方というのは、ある社会では素晴らしいものだったり、ある社会では排除され、忌避されるものだったりする。恋愛、狂気、麻薬、コンピュータ技術者、離婚、日本人、韓国人、ロマン、夢など、かなり色々な概念が当時の社会の知的な権力者である、学者、医者、裁判官、聖職者とかによって良いとか悪いとかが述べられる。あるいは出版メディア、TVメディアといったものによって「変態」と「同性愛」が結びつけられたり、「童貞」と「未熟者」「不潔」が結びつけられたりする。
米島:つまり、瀬上くんが言いたいのは、オレが「わかってる」と思いこみやすいものこそが、「わかってない」のではないのではないか。「言葉をコントロールできた気になっている」ようだが、実はそれって裸の王様なんじゃねーの、と。そういうことだろ。おまえ裸のくせに不愉快だ、裸だと気づいた時の寒々しさを承知しとけよボケェ!と。
瀬上:これは、米島さん個人への批判というよりも、日常性という概念をどう考えるか、という話だと思うんです。つまり、素朴に「日常が素晴らしい」ということはできない。日常って概念は、実はなんだって放り込める。例えば幸村誠の『プラネテス』『ヴィンランド・サガ』が扱うのは、現在の我々からみれば非日常にしか見えない宇宙飛行士や、中世の北欧でいっつも戦闘ばっかりやっている戦闘集団です。彼らの間抜けだったり、生や死と言った大問題を日常茶飯事のように扱ってみせる「異様な日常」を描くことに力が注がれている。あるいは『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンジー』では人がしょっちゅう死んだり生き返ったりしますが、あれを何度も何度も反復することこそが、ゲームの「プレイヤーキャラクターの日常」ですね。ですから、これはけっこう何でも放り込める概念なんです。「日常」と「非日常」の差異をいかなる形で設定するか、という側面がかなりある。一般の人が簡単にはアクセスしにくいものを「非日常」ととりあえずくくるとかそういう話でしかないようなところがある。
米島:「神」とかはけっこうどこの文化圏でも、アクセスしにくいものの領域に入るんじゃないの?
瀬上:うーん、宗教によるのではないでしょうか。確かに神というのは、世界の向こう側の存在として規定されることが多いですが、毎日アクセス可能な神だっている。例えば、木の神、森の神、土の神がそこらじゅうに偏在していて、毎日神と接していると考えながら生きていくということだって可能でしょう。
米島:なるほど。それで、結局、話を再確認しようか。まず、日常性という概念がマジックワードだということはわかった。それで、それがどうした、と。
瀬上:『セクシーボイスアンドロボ』の話ですね。「日常性」に関わる概念をこれだけ色々といった後で、再度、黒田硫黄の「日常」がどう素晴らしいのか、を言い直すことができます。
まず、先ほども言ったとおり、卓越した日常、あるいは優雅な日常の生き方をしているのがニコです。それは、一巻のはじめの日常的な観察能力の高さからもわかる。そして、ニコは世界をコントロールできる可能性があると信じている。彼女は、日常の中に潜む無知蒙昧とか罠とか愚かしさから無縁、というか、簡単に考えると彼女は日常性の中に潜む愚かしさを超え出るような存在かと思える。これはつまり、ニコがツンデレで強気のエリートお嬢様ならばわかりやすい話です。エヴァのアスカとか、ガンパレの芝村舞とか、あるいは攻殻の草薙素子みたいな人間として描かれていればわかりやすい。「愚民たちを観察するためにバイトしているの。遅くとも10代のうちにはハーバード大学を主席で卒業して、その後は20代のうちには財務省の事務次官になって愚民どもを統治する予定なの。」とか言ってくれれば、いいですね。日常を卓越して生きることに心血を注いでいるならわかりやすい。
でも、そうじゃない。ニコはバカで愚かな世界を統治したいんじゃなくて、それを愛しているんですね。彼女自身も積極的に愚かであろうとしていて「サーカスみたいなあ。くそ暑い仕事うっちゃって。」とか言うわけです。それも黒田硫黄に描かせてしまうと、日常のルーティンで面倒がることすら美しく描くわけです。ニコ自身が「私がしたいのはね、この世界にちょっとしたドリームを与えるような…」「そういうことなんだ。」という言うとおり、しょぼくれた日常をいかに愛せるか、いかに美しく生きることが可能か、と言うわけです。だから、彼女は愚民を統治したいわけではない。占い師とか、人に夢を与える存在としてのスパイになってみせたい、とかいうわけです。だから、しょぼくれた日常にツンツンデレデレじゃない。ツンがなくて、デレなんですね。
ラストのセリフで、「死んだ女性が美しい」と言って自殺しようとする女性に対して「それって死んだからきれいなんじゃなくて、死んだのがきれいな人だったんじゃないの?」とニコが言いますね。ただの実も蓋もないセリフのようにも聞こえますが、これは非常に自己言及的なセリフですね。日常を肯定的に捉えてみせる想像力にあふれているから日常が美しいのであって、日常そのものが美しいわけではない。あるいは、日常を卓越して生きる(ことができるはずの)ニコが美しいのであって、日常そのものが美しいのではない。
米島:なるほど。ツンデレじゃなくて、デレデレだ、と。
瀬上:あ、いや、それはただのたとえです。
米島:さっきの、キャラ/キャラクターの話に戻すと、キャラが非日常で、キャラクターが日常という話になるのか、と思っていたけれども、単純な対応じゃないわけ?あと、金網に手なすりつける話は、瀬上くんの言う「卓越した日常性」の中に生きていて、世界をコントロールできると思っていたのが、できなかったことの不気味さに悶えるという理解になるの?
瀬上:いや、そこは微妙で実は両義的なものとして捉えることもできるわけです。つまり、「卓越した日常性」だと一応呼んでみましたが、彼女自身は実はけっこう勝手な奴で、世界がコントロールできると確かに思いこんでいる節がある。しかし、同時に世界の愚かしさとか、しょぼさとか、汚さの中に分け入っていくつもりの人です。そういう愚かしさとか、しょぼさとか、汚さを愛した時点で、彼女自身もそういう愚かしい世界――<地獄>――の中に巻き込まれてしまう。地獄の美しさを愛しているがゆえに、地獄に落ちる。地獄をコントロールできるつもりで、地獄を愛していた。コントロールすることは超越的な立場からやるわけですが、愛することはその対象と戯れながらやるわけですね。その違いを受け止めるというか…。うーん、どういえばいいのか。死すべき身体の世界を豊かにしたい、死すべき身体として生きたいと言いながら、彼女は死なない身体の世界からしか、アクセスできていなかった。彼女は、観念においては、死すべき世界を愛すると言いながら、彼女は自分自身に関しては、唾棄すべき不死の世界にいるものと思っていた節がある。死すべき世界から、死すべき世界の住民に向かって働きかけるべきところを、不死の世界からのコントロールになっていた。それがはじめて、死すべき世界の身体になったのが、三日坊主の事件だろうと。
あと、「占い師か、スパイになりたい」というセリフは、社会的にフィクショナルな存在になりたい、と言っているようなものですね。つまり一般的な考えからすると、設定的なフィクション――ウサギのおばけ、亜人間――になりたいと言っているように聞こえる。ですから、ここは両義的なところなんです。彼女は、死すべき世界を豊かにしたい。だけれども、それは彼女自身が不死の存在に近い亜人間になることによって達成されようとする。
米島:すまん。何言っているのか、わからなくなってきた。たぶん、さっきのハイデガーとかフロイトの区分を云々しているんだろうけれど、何言っているかわからんと、考えすぎじゃねぇ?とかしか思えん。
[ つづく ](つづけたい)
2007年04月04日
■メディアミックス、容れ物の魔力 #02~二ノ宮知子『のだめ』 まだ始まらないゲームの話~
テレビとマンガ~『のだめカンタービレ』のドラマ化と、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』~
米島:そもそもメディアミックスだの、タイアップだのと言われている作品というのは常にこういう問題はあるわけだよね。同じく漫画の例で言うと『ピンポン』の映画化は松本大洋の原作と比べると著しく見劣りするものしかできなかったし、『NANA』の映画も妙に日本映画的な時間の作り方をする一方で作品にすりよったりして、よく言えば折衷。悪く言えば中途半端なわけのわからないものになっていた。『ドラゴンヘッド』に至っては完全にB級映画に墜ちていて、あれはほとんどギャグに近かった。漫画よりも先に映画を見てしまった人は、悲劇だよね。
瀬上:映画の話はテレビドラマの話とはだいぶ違う気がします。そもそもモニターと観客の間を織りなす関係性が大きく違うので、そこは区別する必要があると思います。
それはさておき話をテレビドラマに戻して、2006年度に大ヒットした『のだめカンタービレ』のドラマ化について中心的に話をしたいと思うのですが、あれにはどういう感想を抱きましたか。
米島:あれは別格。あれはよかったよ。漫画からドラマへと容れ物を変えながらも上手く成功した例でしょう。もちろん、原作と比べるとある程度は別のものにはなっていたけれども、作品内容自体よりも、メディア間をまたぐということの問題を死ぬほどよく考えて作られてるということに感動してしまったね。
典型的なのは、知り合いの女性の「マンガとほとんど同じで驚いた。素晴らしかった。」という感想を口にしてたけれど、こういう実感を引き出せる作品になってるわけだよね。
瀬上:原作に忠実に作られていて素晴らかった、ということですか?
米島:いや、そうじゃない。そんな単純なことじゃない。実写ドラマと漫画だとか、ゲームとアニメだとか、そういう形でメディアをまたぐというときに「原作に忠実」だなんてことは事実としてはありえないわけだ。強いて言えば「原作と同じだ、という感覚を抱かせる」ことに成功しているということだと思うのね。
瀬上:なるほど。それは確かにその通りだと思います。メディアが違う以上、まったく同じものができあがるとか、同じに作ったからいいものができあがる、というような話が通用するわけがないですね。では、具体的に『のだめカンタービレ』において「原作と同じだ、という感覚を抱かせる」という、リアリティだけをトレースするような作業があった、ということですか。
米島:そう。まず、その話のそもそもの前提から話をすると、テレビドラマっていうのはここ数十年、ヒット漫画の実写化とかってことのノウハウをけっこう積み重ねてきたんだな、ということを感じたのね。さっきと逆のことを言うようだけれども、ある種のマンガ的なリアリティを表現するということについて、テレビドラマはものすごく頑張ってきたな、ということを『のだめカンタービレ』をみて改めて思った。
たとえば、『踊る大捜査線』とかはその最たるもので、キャラの作り方とか、あの慌ただしさとか、すごく漫画的な表現を起源としているものが多い。同じコメディドラマでも三谷幸喜のやってるような、喜劇畑のシチュエーションコメディをつくるようなやり方とは、ぜんぜん違ってる。逆に言えば『踊る』シリーズは多分、漫画を読まない世代には楽しくないんじゃないかという気がする。
でね。『踊る』シリーズの脚本を書いた君塚良一の映画評論『脚本通りにはいかない!』(2002)を読むと、『踊る大捜査線―The movie―』(1998)での脚本作りの技法がいくつか書いてあるのね。それが、実はかなりそのまんま『のだめ』でもやられてる。
瀬上:なるほど。テレビドラマを、漫画のようなリアリティで伝える技法がある、と。
米島:そう。具体的に言うと『のだめ』って、すごくの話のテンポがはやい。勢いと流れに乗せて、軽快なギャグ、キャラクター描写、クラシックの音楽が矢継ぎ早に、怒涛のように流れていく話だよね。そのリアリティは漫画もドラマも両方きちんとある。でも、漫画とドラマとを比べると実際には一話一話の長さがまったく違うのね。
漫画だと、だいたい一話20~30ページぐらいで、話のヤマ+オチ+ヒキが成立してる。一話一話の持っている時間はかなり短いし、話の構成も非常にシンプル。一つのプロットの区切りが、そのまま一つのストーリーとして描かれてて対応関係がわかりやすい。もちろん伏線がないわけじゃないけれど、全体的にシンプル。
一方で、ドラマのほうは、一話が45分もあるのね。漫画では100ページ~120ページぐらいにあたる分量をいっきに再構成しなおしてて、一つのストーリーの中で、複数のプロットが同時並行的に走り、とても複雑で盛りだくさんな構成になっている。コンクールが展開していた思ったら、突如に恋愛の進展のことが入り込んで、恋愛の話を見ていたかと思ったら変態が出没する事件の話になってる。ガンガン話が変わってすごくスピード感がある。つまり、起承転結→起承転結→起承転結となってるのがマンガだとすれば、ドラマは、起承起起転承転結転承結結みたいなぜんぜん別の構成にしている。というか、そういう構成にしないと、逆に原作を読むのと同じようなスピード感は成立しない、と踏んだんだろうね。
このテンコ盛りな脚本の構成の仕方は、まさに君塚良一がやっていたことですよ。さっき言った本のなかに、一つのシナリオの中に、テンコ盛りにさまざまなプロットを並行進行させていくことで『踊る』の全体のスピード感を演出した、と書いている。のだめドラマ版でもまさにこれがやられているわけだ。
瀬上:その指摘はいいですね。「テレビドラマ的リアリティ」と「マンガ的リアリティ」の親和性とか技法というのは、たしかに着目すべきものがあるかもしれません。
ちなみに、僕も全体的には、米島さんと同じで、今回のドラマ化はドラマ化したスタッフがものすごくエライと思っています。ですが、僕はこのドラマ化はすごく成功してると思いましたが、そう思うがゆえにそこにある限界というのも逆に強く感じるところがありました。
米島:なるほど。わからんではない。具体的には?
瀬上:まず成功していたと思える部分について話します。マンガ分析の議論として、2005年に大きく注目を浴びた伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』という本があります。いくつか面白い概念が提示されますが、一番傑作なのは、キャラ/キャラクターという区分けが出てきます。
「キャラ」というのは非常に抽象的で記号化可能な存在です、たとえばその代表格が『ぼのぼの』『ドラクエ4コマ』のあり方が代表的で、つまり人間的な内面描写がどうこうという話によって人物描写が成立させられているのではない。一応は人間あるいは擬人の形をしてるんだけれども、それはいくつかのすごく抽象的な要素によって規定されている。たとえば『ドラクエ4コマ』におけるクリフトとかは、「<ザキ>を唱えまくるバカ」「アリーナに密かな思いを抱く熱い男」とかそういうイメージを中心に、あとはいくらでもネタとして量産されるような、コミカルな存在です。伊藤剛によれば「複数のテクストを横断し、個別の二次元創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる『同一性存在感』の強さ」(P108)といったようなものが「キャラ」です。
一方、「キャラクター」というのは、もっとややこしい。内面的に重層的な悩みとか、実存とかを問いかけてくるような人間描写を伴った<リアル>さを感じさせる存在です。例えば『NANA』だとかのようなものですね。どろどろした人間関係を描く話とかで一定の水準に達しているようなタイプのものは「キャラは弱いが、キャラクターは立っている」というような形で整理される。
そこで『のだめ』ですが、このキャラ/キャラクターの区分に従って言えば、のだめはキャラクターは弱いですが、キャラは立っている。『のだめ』と違って、実際の音大の風景というのはもっと実存をガチに抱えたような学生がわらわらしていると思います。ですが、そういう複雑な<人間>的な関係性とかを全部コミカルに抽象化する。キャラクター的なものを全部キャラに落とし込んで世界を捉え直す想像力を提示しているのが『のだめ』という作品の持っているパワーですね。
そして、ドラマ化にあたっては、この漫画的な「キャラ」を感じさせるような配役が強力になされていました。竹中直人、西村雅彦、及川光博、伊武雅刀といった役者はこの10年ぐらいの間に、存在自体がキャラになってしまったような役者だと思います。西村雅彦なんて、実存的な悩みとかの匂いをまったく感じさせない存在に上手いことなっていて、本当に見事な人です。上野樹里とか、瑛太とかの若手もそこらへんはがんばって漂白されようとしていた。これは、テレビというものが芸能人を「キャラ」化してしまう機能と、マンガの「キャラ」立ちというのがリンクしているような部分が、このドラマを成功させていたのではないか、と思います。
米島:キャラクターのキャラ化というのなら、農大マンガ『もやしもん』なんかも、近いことをやってるから、あれもテレビドラマ的なものに馴染むかもね。どうしても映像化の難しい部分はあるけれど。
それと、そのキャラ/キャラクターという区分けはテレビの話をする上ですごく有効だと思うね。お笑い芸人の話をするとわかりやすいけど、さまぁ~ずの三村とかっているじゃない。あの三村って、ぶっちゃけ、三村個人を面白いと思っているやつって少ないと思うんだよね。だけれども、三村は芸能界に確たる地位を気づいている。あれは、三村自体が「三村ツッコミ」というキャラとして成功したからだよね。便利な記号になってる。存在自体は空虚だけれども、なんでも放り込める記号として便利だから流通してしまっているのが三村だよね。
あとは、「踊る!さんま御殿」でみせる、さんまの若手に対する「教育」の仕方とかも象徴的でしょ。とにかく、同じネタでもいいからわかりやすいネタを繰り返すように露骨に強要するよね、ヤツは。細かい話はどーでもいいから、とにかくわかりやすいものになれ!という命令だよね。
瀬上:あれは、人間を削りとって、キャラとしての芸能人を産み落とす瞬間をショーの中で見せてしまう芸当ですね。あの「教育」を表舞台で見せてしまうのは厳しいですね。見ていて僕にはグロテスクで気持ち悪いです。最近のさんまとか、和田アキ子は、裏でやるべきことを表でやってしまう、見境のない大御所になってきていて、テレビを見ていられないです。
米島:まあ、それが逆にショーとして成立させているのが面白いと思うけれどね。裏とか表とかの境界を無自覚にぶちこわしている、あの人たちのああいう頭の悪さがオレは好きよ。タモリとかだと、頭いいから決してそんなことはやらないものね。さんまの若手に対する「教育」は、一方で視聴者へのメディア・リテラシー教育としても役にたってる。
まあ、いいや。それで、そういうキャラ化というのがテレビ的作法の王道だととしたら、対するキャラクター化?ということを担っているのがワイドショー的空間でしょ。ワイドショーの芸能コーナーっていうのは、芸能人を一個人として掴まえることに全精力を注いでいる。冠婚葬祭のイベントとか、芸能人の不祥事だね。あの瞬間に垣間見える芸能人のキャラじゃない部分を掴みとることによって、あのショーは成立してる。
そして、このキャラ的な部分と、そこからのズレを見通していたのが、ナンシー関の評論だよね。ナンシー関は、キャラと人間性の配置のズレとか、キャラの成立の可能性とか、そういう話を延々としてる人だった。ナンシー関の批評が好きで、サブカル関係にも詳しい人はすごく多いと思うけれど、ナンシー関の批評と、サブカルのキャラ/キャラクターの話って多分、つながってくると思うんだわ。
瀬上:ワイドショーはキャラの外側の人間性を掴まえる!という偽装をしながらキャラを作っているという気もしますが、ナンシー関に関してはそうだと思います。消しゴム版画を作っていた、というのも象徴的ですよね。彼女は、芸能人を消しゴム版画の中でキャラをいったん固定したイメージにしてしまって、そこからの距離をとりつつ、その人のキャラクターの話をしていた、とかそういうふうな位置づけもできるかもしれません。
米島:そう。ナンシー関は文章も天才的に上手いけれども、あの消しゴム版画の機能も圧倒的に重要なんだよ。一旦、人をマンガ的な描線に落とし込んで話を始める。もうナンシー関は死んでしまったから、どんどん忘れさられていくしかないんだろうけれど。
まあ、この話はこのぐらいで止めておいて、あと『のだめ』ドラマ化の<限界>の話だよね。具体的にはどこらへんの話?
瀬上:はい。それも同じく、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』の概念を援用するとわかりやすいのですが、直接的な問題から言っておくと、千秋役の玉木宏とか、清良役の水川あさみらの存在の持っていた違和感ですね。
キャラ/キャラクター概念に比べると少しわかりにくいところがあって、今ひとつひろまってませんが、伊藤剛はキャラ/キャラクターの区分に加えて身体描写の水準で「マンガのおばけ」/「うさぎのおばけ」という区分を立てています。
「マンガのおばけ」というのは、マンガだからこそ成立している身体描写であって実写化すると壊れてしまうものですね。たとえば、さかさ絵のおっさんの顔だとか、男だか女だかわからない人間の身体の描画の仕方とかです。これはリアルに描いてしまったり、ムリヤリ実写化しようとすると途端にウソっぽくなってしまう。
一方で「うさぎのおばけ」というのは、亜人間のことです。アンドロイドとか、ホムンクルスとか、二足歩行で立って喋る動物とかですね。手塚治虫の『地底国の怪人』の中で二足歩行で喋る知性をそなえたうさぎのおばけが登場することからこの言葉は採られています。
手塚の作品というのは、男だか女だかわかりにくいキャラが多く、その中で沢山の亜人間を描いています。そこのある意味テキトーな描線――つまり漫画ならではのうその描線(マンガのおばけ)――でもって、うその人間(亜人間)を描くことに成功していた。浦沢直樹の『PLUTO』なんかになると、「うさぎのおばけ」(ロボット=亜人間)の身体を描くわけだけれども、身体描写としては記号的な「マンガのおばけ」ではなく、もっとリアルな肉感を持ったアトムを描くわけです。
米島:繰り返すけれど、『鉄腕アトム』「地上最大のロボット」での手塚アトムは「マンガのおばけ」かつ「うさぎのおばけ」だけれども、『PLUTO』での浦沢アトムは「うさぎのおばけ」だけれども「マンガのおばけ」じゃないということね。つまり、身体描線がフィクションであることが「マンガのおばけ」で、設定上のフィクションであることが「うさぎのおばけ」だ、と。そういうことね。
瀬上:多分、その理解でいいと思います。伊藤剛は、この区分と、キャラ/キャラクターの区分とがどう関わってきたか、ということで議論を展開していますが、その話は本を読んでいただくとして、『のだめ』のドラマ化においてこの問題がどう関わっていたかということです。
『のだめ』は、少女漫画というべきか、レディスマンガというべきか微妙なところがありますが、とりあえず女性向けのマンガとして描かれていますね。女性向けマンガの中でも特に、少女漫画というのは、男性の描き方が特殊です。基本的に美形の男ということになっているけれども、筋肉ムキムキのマッチョとかはほとんど出てこないし、女性の身体と交換可能なような、フェミニンな身体描写がなされています。これは『のだめ』でも同様で、千秋は美男であり、かつあまり<男性>を感じさせるような顔というのはしていない。これは、『のだめ』の描線がそれほどリアル路線でない、ということでもありますが、『のだめ』は性的な身体を露骨に感じさせるようなキャラクター描写がない。いまのところセックス描写もないですし、オカマのキャラクターも違和感なく登場できる、抽象的、中性的な身体描写が一つの特徴になっている。つまり、千秋ものだめも「マンガのおばけ」みたいなところがある。千秋が料理つくったり、のだめが殴りかかったりするようなジェンダー逆転するような描写が数多くありますが、それも「マンガのおばけ」的な描線のテキトーさが可能にしている。
ですが、これは実写になると必然的に厳しくなるわけですね。西村雅彦とかはもう性的だろうがなんだろうが、どうでもいい世界に突入しているようなところがあるので、気にならないですが、玉木宏はそれなりに男性としての身体を感じさせますね。水川あさみなんかも、女性としての身体を感じる。なので、僕はあの二人がドラマの中ではダメだったんですね。玉木宏は声も低いですし、これはなかなか難しい役です。
米島:なるほど。どの役者が気持ち悪く感じるかというのは、オレとはポイントがちょっと違ってて、オレの場合はオカマ役の小出恵介が厳しかったんだけれど、女性漫画家のマンガ表現が中性的身体だ、というのは、まあ確かにそうだ。
少年マンガとか、青年マンガだと男性/女性の性的身体の描き分けは過剰なほどはっきりしてる。それに加えて、男のマンガは、ジェンダーの描き分けもはっきりしている作品ばっか。
個人的には、少女漫画の場合は性的身体は描き分けず、ジェンダーの描きわけで男女が区別されているように思う。けれども『のだめ』の場合は、性的身体もジェンダーも、全部ぼんやりしてるよね。そもそも主人公ののだめが、<女性らしさ>とは別の次元で生きている。セクシュアリティ(性的志向性)はかろうじてヘテロ(異性愛)ということになっているけれども、ジェンダーもセックスも曖昧になった場所の中での、ヘテロだからなー。それって何なんだろうか、という気もするよ。
『NANA』なんかは、ジェンダーがけっこうがっちりしてる中で男女が共同生活してたりするので、がっちりヘテロな感じの人間関係が前面に押し出されてるけれど、『のだめ』の空間って女性のホモソーシャルな空間が拡張されてるっぽい感じがするんだよね。完全に勝手な憶測だけれども、作者の二ノ宮知子って女子校出身者だったりするんじゃないか?あるいは、そうではなくとも、『のだめ』の一巻の一番最初に、女友達同士数人だけで、まったく色気のない場所で弁当をかっ喰らってたシーンがあるけれど、あの風景が作者の原風景なんじゃないかという気がするよ。
まあ、その話はいいや。話を戻そう。「マンガのおばけ」の話はそうとして、「うさぎのおばけ」の話はどうなの?
瀬上:「うさぎのおばけ」に関して言うと、伊藤剛が使っている本来の意味とは少しズレてくるのですが、のだめの場合ネコの表現ですね。擬人化ならぬ、擬動物化の表現というのがあります。昔、井上雄彦の『スラムダンク』でも、「ゴリ」とか「キツネ」とかってやっていたのと同じ表現ですね。人間を動物としてデフォルメとして描く手法です。亜人間は出てこないんだけれども、人間を捉える視線の中で、主人公にネコの毛を生やして、ネコ人間のような描き方をしたりする。「ネコのおばけ」が随所に登場する表現が頻繁に出てきます。あれを映像化するのは相当に苦しいことをやっていますよね。映像化しようがないから、強引なCGとか着ぐるみで誤魔化している。
米島:ああ、あったね。あったあった。あれは、でももう、仕方ないだろうなあ。原作にそういう表現があったという時点で、その表現を無視するか、誤魔化すかしかなくない?
いや、スタッフは頑張ってると思うよ。ものすごく。
瀬上:それはもちろん、そうです。
米島:結局、『のだめ』ドラマ化について、まとめると(1)キャラ立ちサイコー!よくやった!(2)ただ、マンガ独自のウソ身体と、ウソ人間設定だけは覆せなかった。残念!というまとめでOK?
[ つづく ](次は日常性の話。)
2007年04月02日
■メディアミックス、容れ物の魔力 #01~黒田硫黄 そのうちゲームの話~
黒田硫黄『セクシーボイスアンドロボ』
瀬上:こんばんわ。
黒田硫黄の傑作『セクシーボイスアンドロボ』が今年(2007年)の4月10日から、日テレのドラマになるそうです。今日は、それを記念して放映前に一つメディア間の表現の違いとかそういう話について、だらだらと話をしたいと思います。
米島:どうも、おばんです。まー、いきなり身も蓋もない結論から言うと、ぶっちゃけドラマ化とか、ほとんど期待してないつーか、だめなんじゃないかと思うけれどね。オレは、基本的には実写化否定派よ?『のだめ』とかは例外的によかったけれど、『セクシーボイスアンドロボ』はムリっしょ。予言しよう。もちろん、原作が傑作、という点は瀬上くんと同意見だとしても、ね。
瀬上:うーん、大なり小なりそういう感想は僕も抱くかもしれませんが、そういう予言は僕は保留しておく側に立ちたいと思います。
それとこの話のあと、メディア間の横断ということでいうと『セクシーボイスアンドロボ』だけでなく、2006年に大ヒットした『のだめカンタービレ』の話もしていきたいと思います。また、『ひぐらしのなく頃に』『サクラ大戦』『メタルギアソリッド』なんかの話もできればと思っています。宜しくお願いします。
さて、とりあえずは、話のきっかけとして、去年書いた『セクシーボイスアンドロボ』について書いた評論がありますので、これネタにすることから話をはじめたいと思います。
以下がその評論になります。
黒田硫黄『セクシーボイスアンドロボ』~ニコが握る金網はなぜ悲しいのか~
1 問題
私はセクシーボイスアンドロボが傑作だと思っています。
なぜ、セクシーボイスアンドロボが傑作だと思えるのか。この話はもちろん、複数の側面から語ることが可能です。作品というのは、いかにすぐれたものであろうがなかろうが、あまりにも多くのものから成り立っているというのは自明のことなので、そのすべてについて遺漏なく捉えることはできません。小林秀雄のいうように、「われわれは作品について語りつくすことはできない」。原理的に。
そのごくあたりまえの前提をだしたうえで、セクシーボイスアンドロボについて<私が>語るとすれば、焦点にすえておきたいのは、主人公であるニコという少女の感性の問題です。
2 観察の強度
主人公である14歳の少女ニコは大変に頭のいい女性として描かれています。それは成績が優秀だという意味ではなく、臨機応変に頭がきれて、なによりも、中学生という年齢にありながら世界そのものを透徹した形で見つめるということに対する確たる自信をもっている少女です。いや、世界を透徹した形で見つめる――というのはあまりにもいいすぎかもしれませんが、少なくとも、14歳という多感な時期でありながら自らを取り囲む世界と自らがどのようにつきあっていけばよいのかということに対して、過剰なほどに自覚的であろうとしつつ、実際に並みの14歳とは比べ物にならないほどに世界とうまくつきあっている、並外れて容量のいい子供です。
そうした彼女の自負と天才は、一つには彼女の日常場面での観察能力や、会話の面白さの中にあらわれます。例えば、物語がはじまった直後のニコの人間観察のセリフは印象的です。
(『セクシーボイスアンドロボ#1』7頁)
「あの人は/イライラしながら/もう20分。」「イライラ/すんのが/好きなのかしら。」「声は明朗、/そして平板。/ポーズを/崩さず/地位に/執着。」「だから、/女より/上じゃないとだめ。/金を渡さないと不安…」「会っても/ニコリとも/しない/だろうね。」
「あっちは/誰でもいいの、/やれれば。」「低く細い声、/話すことは/「あーそうだね」と/愚痴。」「自信が/ないから/5分も/待ってない。」「わたしー、/そんなに/かわいく/ないしー。」「て言うと、/俺でも釣り合うや/って思う。」
この分析は、少女の圧倒的な能力を感じさせる凄みのある描写です。
一方で、日常の会話も魅力的です。
(同掲書、P136)
少年達「バーカ/バーカ」
ニコ「これこれ/君たち。」「かわいい子/だからって/いじめちゃあ/だめでしょう。」
少年達「るせーー/うるせーー」「ばーーか/ぶーーすばーーか」
ニコ「男子って/語彙が/少ないねえ。」この会話はそこまでの凄みを感じさせるものではありません。日常の会話であるのだから、そこまで凄みのある発言は過剰に過ぎます。そこまで過剰ではない程度に、ところどころ気の利いた一言や、シャレた一言が随所に織り込まれます。彼女の中学生離れした能力は、ただ天才的なものとして描かれるだけでなく、こうした何気ない会話の中の節々に現れます。これによって、読者はこの少女を生々しく受肉した存在として享受することが可能になっています。現実的であるからこそ彼女の非現実的な優秀さの描写はより強度を持ちます。
3 世界像の成立と機能。
彼女の感性の話に戻りましょう。
世界を透徹したかたちでみつめようという自信は彼女の圧倒的な優秀さを起源としています。ただ、それと同時にその過剰ともいえるほどの自信のありようは彼女の思春期の証でもあります。現実に対する透徹した世界像――だとして自分が考える世界像それ自体によって彼女は自らのありよう、彼女自身のアイデンティティのような部分をささえる機能も果たしているように思えます。 たとえばそれが極端に現れるのが第一話のヤマ場です。彼女は警察が関わるような犯罪を彼女一人だけが解決できる機会を偶然にも持つことになります。彼女は武術の心得があったりする14歳ではなく、単に頭がいいだけの14歳です。冷静に考えれば、自分自身の危険を考えて女の子が一人で関わるのはあまり賢い判断とは言えません。彼女は自分に言い聞かせます
(『セクシーボイスアンドロボ#1』P24~P25)
「まだ私/中学生だし、/電話でエロ話するのとは/違うのよ。/誘拐犯人なのよ。」
「のこのこ/ついてって/何をするの?/何ができるって/いうの?」と。しかし、その後に「よく/考えて!/考えて/考えて!」と自らの頭に問い合わせてから、彼女はこう続けます
「今見つけて/今追わないと/逃がしちゃう。」
「私の耳が、/私だけが/見つけたんだもの。」
「わたるくんの/いるところ。」
「知らない子/だけど。」「今救えるのは/宇宙で私だけ。」
この自己暗示ともいえるようなセリフによって、彼女は現実に進行している危険な事件に対して頭ではそれが危険なものであることを理解しつつも、実際には極めて大胆な行動をとって事件の解決を図るためのコミットメントをしていきます。
第一話以降も、彼女はとても14歳とは思えない、大胆な行動力と明晰な判断力によって次々と事件を解決していきます。家では普通の14歳の中学生の少女としての生活もしながら、喫茶店のおじいさんという別世界の住人とつながることで彼女は普通の14歳のリアリティと、スパイを目指す現実離れした14歳のリアリティ。二重生活を続けながらこの二つのリアリティを往復します。
彼女は、小さなミスは重ねながらも、やはり基本的に極めて明晰で、大胆な解決能力をもつ14歳でありつづけます。世界に対する彼女の圧倒的な優秀さは、まさしく彼女自身によって証明されつづけ、事件のたびにその優秀であることの保障は証明されつづけます。彼女が世界に対して透徹した感覚をもつことは、まったく間違いではない―――少なくとも彼女自身、あるいは彼女とリアリティを重ねている読者はそうした「自覚」のなかで、世界と優雅につきあっていく彼女の術にまどろむことが可能でありつづけます。
この作品は、ニコという少女の優雅な魅力によって構成され、実際に多くの読者は彼女の14歳らしからぬ優雅な魅力によって本作に対して強力に惹かれて行きます。
4 世界像の裏切り
だが、そのような感性が、致命的にうらぎられる瞬間がやってきます。
あるときに彼女は、殺し屋の男「三日坊主」に関する事件にかかわることになります。そして、一度の三日坊主の目論見を阻止します。その瞬間にもまたニコという少女の優雅な振る舞いの記録はまたも更新されます。しかし、その後、三日坊主は殺しに失敗したことで、三日坊主のマネージャーから始末され、殺されてしまいます。彼女の知らぬ間に。そして、しばらく経ってからその事実を知るわけです。ニコが殺しを阻止したという事実が、三日坊主を結果的に死に追い込んだ。
この死は道義的にはニコが責任を負うべきことではありません。ですが、彼女はその事件と関わった瞬間に、責任を負うべき/負わないという問題ではなく。彼女の情が深い/深くないという問題ではなく。ニコが事件の結果を変更できたかもしれない、という<可能性>を過去において手に入れています。いや、手に入れていたはずです。その可能性は凡人には到底つかみがたい、ごくわずかで発見できないような可能性でしかありません。ですが、これまできわめて優秀な頭脳と判断力によって、つねにゆれうごく世界のささいな表情をみのがさなかった14歳の少女ニコにとっては、そのような可能性もまたつかみとることが可能であった・は・ず・です。彼女はこれまでに何十人もが死んでしまうかもしれないようなテロ事件も防いでいるし、少年や少女が殺されるかもしれないような事件からも、当事者たちの多くがなるべく幸せな結果におわるように事件を終わらせている。彼女は、読者にとってはもちろん、彼女自身にとってすら、ほかのだれよりも優秀な英雄であったはずです。彼女自身が、自らが英雄であることについて強く自負を持ち続けてきた存在です。つまり、彼女には、彼女がかかわった、というその時点において、その三日坊主が<死なない>ための可能性がありえたのだし、彼女にとってその可能性は発見しなければいけない、発見できなくてはならないものでした。それは決して不可抗力ではなかったはずです。<彼女にとっては>。
しかし三日坊主は、彼女の予想と彼女の自信に反して、気がついたら死んでしまう。その瞬間に、彼女も、そして読者もまた気づかざるをえない。
彼女はきわめて優秀な英雄でした。そして現在においても、やはり現実離れして優秀な14歳ではありつづけます。だが、彼女は、「現実に対して万能ではない自分」をその瞬間に発見せざるをえない。抗いようもなく。世界は安穏とはしていなくとも、世界に対して自由でありえた自分という、自己イメージがつきくずされる瞬間です。
黒田硫黄は、この事実を知った瞬間、ニコの握る金網を大きく描きます。そして、その金網には小さな14歳のニコの手が過剰に力をこめられて握り締められている。ここで描かれるニコの手は、英雄的な少女としてのリアリティが、普通の14歳の少女としてのリアリティへと往復し苦悩する瞬間の象徴です。
殺し屋である三日坊主は、ニコが感情移入する対象として描かれてはいるものの、ニコにとっては肉親でもないし、親しい友人でもない。彼女は三日坊主の死に対してもちろん悲しんではいるのでしょうが、実はここで悲しまれているのは三日坊主本人の死に対しては実は悲しんではいないところがあります。
ここでニコによって独白されるこのセリフこそが、それをよくあらわしています。
(『セクシーボイスアンドロボ#2』P91~P92)
「おじいさんは、/私に仕事を/くれたから。」「ワクワクした。/胸がいっぱいに/なった。」「あのとき、」「もう」「選んでいたんだ」
「地獄を。」
このセリフは二重の意味で重要です。
一つには、このセリフの過剰さです。周囲において人が一人死ぬことを「地獄」と表現してしまう。そのような表現の仕方は、彼女の思春期としての14歳をそのまま投射しています。30にも40にもなったような人間が、周囲でとくに自分にかかわりのない人間が一人死ぬ事件があったからといってそれを「地獄」と表現してしまうのはいかにもオーバーです。だけれども、ニコはここで「地獄」という極めて強い言葉を独白によって自らに言い聞かせています。これは、作者が過剰な表現を好む人だからではありません。作者の黒田硫黄は絵の選択のセンスもさることながら、言葉の選択のセンスも異常にとぎすまされた選択をしてきています。ここで「地獄」という言葉をニコが言わざるをえなかったのは、疑いようもなく、彼女自身の昂ぶる感情のためです。
そしてもう一つには、彼女は「地獄」という世界のありようのことを語っているのであって、三日坊主の死を悲しむ言葉を告げているのではないということです。彼女は三日坊主の死だけを嘆いているのではなく、ここで嘆かれているのは、なによりも彼女自身の選択です。それは、彼女がいままで常に地獄を常に選択しつづけながらもその一歩手前でそれを掬いあげてきた過去が不全になってしまった現在です。
彼女は三日坊主だけの死を嘆いていない。三日坊主だけの死を嘆くことはそもそも不可能です。彼女はただ自らの愚かさと小ささを嘆いていることがこの言葉から明らかに感じ取ることができます。彼女は自らの小ささを嘆きたい。そして、自らの小さな肉体を確認するためにこそ、金網を握り締めます。そこで握り締められる金網によって彼女の肉体は彼女の小さな肉体を確認し、そして読者は大きく描かれた彼女の小さな手を見つめるに至ります。
彼女が世界を透徹した目でみつめられる、と自負していたからこそ、この金網をひきちぎることすらできない小さな手の描写はきわめて悲しくうつります。これによって彼女は英雄から人間たりえます。「英雄」の不可能性が、「人間」の証として逆転する瞬間です。
5 キャラクター視線の停止と、読者の視線の登場
さらにいえば、この瞬間、これを読む読者は完全にニコに感情移入をしているわけではおそらくない。感情移入というのは物語を論ずるうえであまりに支配的ですが、物語を読むとき、主人公と読者はイコールで結ばれるわけではない。
読者は主人公からみえる世界の風景へとリンクされると同時に、主人公そのものをもまた見つめています。だからこそ、この風景――ニコが英雄と少女の間を往復する風景――を外側から見つめて読者は悲しむことができます。
この物語は、シャレていながらも実際にあり得そうな雰囲気の会話を、ありふれた都市の風景の中で描いていく日常を描くこと。そして、そこに登場する人物が優雅な英雄として活躍するもう一方の夢の世界を描くこと。その二つの間を往復する物語です。金網を掴む少女の手が大きく描かれる一枚の絵は、手と金網の後ろに、英会話学校のビルや、カード会社やサラ金会社のビルが立ち並ぶ、つまらない都市の風景が描かれています。この風景をニコが冷静に眺められているのかどうかはよくわかりません。読者も眺められていないかもしれない。ただ、読者はここにつまらない都市の風景が並んでいるということを確認することができます。少女の悲劇は、このつまらない都市のリンクし、このつまらない都市の風景の中で起こっている出来事です。
物語は、ここを一つのピークとして、再び彼女の日常に戻っていきます。「地獄」というこの過剰な言葉が語られる瞬間。この瞬間においてだけ彼女の日常世界を見つめる明晰さは一瞬停止しています。ニコの透徹した視線の停止するこの瞬間にこそ、読者はニコの佇む雑居ビルの日常世界の風景をまじまじと観察することが可能になっています。ここでつまらない風景が大きく描かれるのは、読者をこの立場に配置するためです。
読者はニコにただ感情移入するのではなく、ニコという少女を外側から見つめることが可能な存在として配置されるからこそ、ニコの英雄性と少女性の揺れる、その二重性を観察することが可能になります。
結
黒田硫黄の、人の日常を描く能力は卓越しています。
そして『セクシーボイスアンドロボ』ではそれに加えてすばらしいのは、感情移入の果てにある悲しみなどという、王道的な表現をやらないでいて、そうでありながらもどうしようもなく悲しい風景を描いたことにあります。
死ぬのが「おじいさん」や「ロボ」ではいけなかった。そこまで情のある人物が死んでしまって悲しいのは、ごく当然のことです。だけれども、そうではない。これは多感で優秀な少女の世界が構築されていくと同時に、裏切られる物語です。
人が死ぬ話だけれども、人が死ぬことによって、われわれは人の死そのものを嘆くだけがすべてではないのだ、ということ。この物語はそのことを極めて精緻に描きえているように思います。
© Akito Inoue 2007.3.31
米島:なるほど。面白いけれど、黒田硫黄についての評価の仕方としては、そういう形でピークの「ヤマ」の部分を評価するというのは、どちらかというと、邪道というか、横道だという感じがするよね。
黒田硫黄のすばらしさというと、普通に言うとやっぱり日常の会話のセンスの良さとか、そういうところがメインだというのが普通だよね。ヤマのところをメインに話をしてしまうと、黒田硫黄の良さみたいなところが逆にわかりにくい。
瀬上:もちろん、それはそうです。黒田硫黄は、ヤマ場の盛り上がりとかで評価する作家じゃありません。『昴』の曽田正人とか、『シグルイ』の南條 範夫+山口 貴由じゃあるまいし、ヤマ場のテンションで勝負する人ではない。ただ、この議論の目論見というのは、ヤマ場が普通は重要でないと思われている作家だからこそ、ヤマ場について語ることでその逆の部分が照射されるのではないか、というような話ですね。
とりあえずそれはそういう話だと思います。
さて、ヤマ場という点で話が出たので、テレビドラマとヤマ場の見せ方というような話をしてみたいと思います。私はテレビドラマの制作の話はほとんど知りません。ただ、テレビドラマというのは、映画や小説と比べると、非常にうるさいものを作ることを念頭に映像が作られていますね。うるさい、というのはつまり家事をしながらでも話の筋がわかる。風呂に入りながらでもわかる。音だけ聞いていてもわかるというのはある意味ラジオドラマと似ていますが、とにかく、集中して見ていなくても、ものすごくわかりやすいものを作るというのがテレビドラマの重要なミッションとしてあります。視聴率を稼ぐためには、とにかくマスに向かって訴求力のあるものが求められる。
そうなると、ある程度集中力を持ってむきあわないと魅力が伝わらない黒田硫黄の話をそこでどう表現するか、が問題になってきます。黒田硫黄の表現する何気ないやりとりの秀逸さ、をどういう形でテレビドラマにしていくか、ということです。黒田硫黄の漫画はよく「ミニシアター」的という言葉で言い表されますが、まさにミニシアターで上映するのに適した空気が流れる作品です。これを集中力がなくてもわかるようなうるさい話にしてしまうと、それはもう黒田硫黄の作品なのかどうか怪しくなってくる気がします。
米島:それは確かにすごく難しいだろうね。ここんところ名作と言えるような漫画のテレビドラマ化がまた再び活発になってきてるけど、そこを上手く処理できてるドラマは数えるほどしかない。特に黒田硫黄の作品はテレビドラマにはしにくい。ヤマ場のセリフを大声はりあげて、ベタベタのアングルで展開される『セクシーボイスアンドロボ』なんて、それはもう黒田硫黄のそれとは全く別物だよね。
で、俺も今回、ドラマ化されるというので『セクシーボイスアンドロボ』を読み直したけれど、改めて読んでみると、これがまた憎たらしくなるぐらいによくできてる。例えば、2巻の131頁
ニコ「良枝さんは遊びに来るお孫さんはいないんですか?」
良枝「あら、私はね、結婚しそびれてしまったの。」「本を読んでいたらおばあちゃんになっていたのよ。」
ニコ「じゃあ本を読むようなお仕事をしていたんですか?」
良枝「そうねえ、記者とか作家とか。」
ニコ「うわあ、かっこいいですね。」
良枝「あなた、今の若い子は援助交際とかするの?」
ニコ「え?」「今の若い子がみんなしてるわけはないですよ。」「してる子は若いからだろうけど。」
良枝「ルーズソックスなどはおはきになる?今の子は。」
ニコ「い?今の子ははかないです。中学だと制服と合わないし」
良枝「まあ、そうなの。」「テレビでしか知らないものだから。」
ニコ「…………」
良枝「あ、お紅茶濃くない?」
ニコ「ああ、はい。」
良枝「うそをつくと閻魔様に舌を抜かれてしまうのよ、知ってる?」
ニコ「あのう……」「わざと老人ぶっていません?」
良枝「まあ…」「どうして?」
ニコ「良枝さんは失敗したことありますか。」
良枝「まあ、失敗?」「あなたは、あまり恋なんかしそうにないけれど」
ニコ「へ?」
良枝「そうじゃないの?恋におちるのは自分を見てる人で」「あなたみたいに他人に興味シンシンの人は……」「えさを撒いて釣るのに夢中だから、」「なかなか釣られるほうにはならないのよ。」
(しばし沈黙、ニコ、良枝互いに見つめ合う)
ニコ「そういう失敗じゃなくて…」
良枝「あら、そういう失敗じゃないの?」「どういう失敗?」
この会話とかものすごいギョッとするよね。すごく静かな会話なんだけれども「わざと老人ぶっていません?」とかこういうセリフがすらっと飛び出してくる。
あと、こうして並べてみるとわかるけれども会話の展開が実はすごく速い。だけれども、その間の取り方はすごくゆったりしているし、セリフの数もすごく少ないわけだ。静かだけれども、ものすごい緊張感がある。これはテレビドラマみたいなものの技法の中で取り扱えるのか、という気がするよね。もちろん、こういうやりとりがすごく部分的に、フォーカスの当てられた場所だけでやる、っていうのならば扱えるかもしれないけれども、この作品はこういう会話のオンパレードだもんね。ぜんぜんテレビには向いていない。ちょっと眠くなってくるようなミニシアター向けの会話。
もちろん、中にはテレビ向きの話もあるにはある。第三話「エースを狙え」とかはテレビ向きだろうね。サッカー場という巨大な観客に見つめられる場所の中心地点で起こる犯罪の話なので、映像にするとキレイだろうね。
でも、その一方で、第五話「日本のバカンス」はどうやってテレビドラマに持って行くのか想像がつかない。これは、巨大な観客が見つめるサーカスという場所で話が展開していくわけだけれども、サーカスの女の子が微笑む一瞬の風景を感じ取る少年の視線こそがこの話のヤマになってる。サーカスは映像になるだろうけれど、サーカスという場所で、一人の少年「だけ」がなんとなく感じ取る一瞬の心変わりという、すごくわかりにくいものが話の核をなしてる。
あと、第10話「一夜で豪遊」のラストのニコのセリフ「私がしたいのはね、この世界にちょっとしたドリームを与えるような…」「そういうことなんだ。」。これはそのまま言葉にしたら、気まずいセリフだけれども、黒田硫黄の作り出した空間の中でこそかろうじて活きてくるセリフだよね。テレビでやったら、そんなもの多分再現できないだろうから、単に陳腐になるだろうねえ。これはもう仕方がない。
瀬上:ありがとうございます。米島さんに僕の感じていた不安というのをだいぶ具体的に話してもらったように思います。テレビドラマの「誰にでもわかりやすく」「飽きさせない」という方向性とはあまり親和性が高くないですね。わかるかわからないかが微妙なあたりの会話の奥深さの表現は一筋縄にはいかない気がしますね。
[ つづく ] (次はのだめカンタービレの話。)