Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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2004年02月16日

P-PC-NPC の三項構造

[ #01 ]

瀬上 : 最近考えているんですが、例えば、ゲームの物語について議論しよう、と思ったときにここ十数年の間を通して、ずっと議論の的になってきたことを見出せるのではないか、と思っているのですね。
 具体的に言うと、それは「プレイヤー(P)」「プレイヤーキャラクター(PC)」「ノンプレイヤーキャラクター(NPC)」というゲーム独自の物語装置について分析していく、という観点からの研究が多かったのではないか、ということなんですが。

米島 : なるほど。つまりそれはこういう話?
 小説などの場合は、「読者」という概念があって、テキストを「正しく」あるいは「多様に」解釈していく、読者像とかがあったわけだけれども、ゲームの場合は、まず、そのような解釈者としての読者モデルみたいなものがそもそも成り立たない。
 演劇に例えてみれば、劇を演じる、劇をPlayする「役者」であると同時に、演劇を鑑賞する「観客」でもあるというような二重性がゲームのプレイヤーには備わっているのではないか、と。

瀬上 : そうですね。もちろん、その話はあります。
 ですが、その話は、もうすでに「結論」として重宝するような理論としてではなく、出発点でしょう。いまさら、その話を繰り返すのは、車輪の再発明もいいところですね。

米島 : ほう。
 確かに、聞き飽きた感はある話ですので、これを出発点としてみたときに、何がどうなるのか、是非、お聞かせ願いたいですな。

瀬上まあ、過度な期待をされても、それには応えられないかもしれませんが(笑)
 僕の議論のまず、おおまかな構造を描きますと この図のようになります。
 この三層構造の変遷として、議論が整理できるのではないか、というわけです。

米島 : その矢印は何?

瀬上 : 矢印は、「視線」とか、「思いいれ」とかそういうものです。ちょっとあいまいですが、ちょっと意味に幅を持たせる形で、その都度その都度で少し変わってきますが、具体的な話をしていけばわかるかと思います。

米島 : わかりますた。

[ #02 「ドラマ性」から「感情移入」へ ]

瀬上 : まず、先ほど、米島さんに「プレイヤー」という存在の特殊性について簡単にお話していただきましたけれども、「観客でもあり、演者でもある」存在としてのプレイヤー、というような、議論より以前に、もっと簡単な一番最初にあったもの、というのは色々とあるわけですね。
 ゲームに物語を付与する、という形態のものは、実は、1960年代の頃から細々と存在していて、細かい話をすれば、インベーダーゲームにすら、「物語設定」が存在するというような部分に対して、昔は「ドラマ性のあるゲーム」とかっていう形で呼んでいました。この「ドラマ性」とかっていうような言い方は、70年代後半から80年代初期ぐらいまで盛んにゲームの広告などで登場しています。
 図にしてみると、このような形になります。プレイヤーが、PCとNPCのやりとりをしている世界というのを、モニターの外から見つめている。と。
 赤の楕円はテレビのモニターですね。モニターの中で展開するドラマを見つめる、というのが一番単純な「観客」のモデルです。「PC」とか「NPC」というゲーム独特の言葉がわかりにくいのであれば、「主人公」(≒PC)と「脇役」(≒NPC)の繰り広げるドラマを見ている観客、という形で理解して下さっても結構です。

米島 : なるほど。これについてもTVゲーム独自のもの、として理解したほうがいいの?

瀬上 : いえ。「独自のもの」として考える必要はないと思います。
 まずは、ゲームに物語が付与されようとしたときに、従来からある物語の手法をそのままゲームというメディアの上に乗っけて輸入しようとした形ですね。

米島 : その段階で、メディア間をまたごうとした上での齟齬のようなものというのは生じないの?

瀬上 : うーん、まあ、厳密に言えばあるのかもしれませんけれども、多分、この段階では本格的に「物語」要素を輸入するというか、単に裏設定的に付け加えるというレベルなので、そんなに大きな問題はなかったのではないか、と思います。この段階では。
 ゲームの独自性、というのは、次の段階の話で、80年~80年代中盤にかけて普及してきた「感情移入」という呼び方のほうが、問題になってくるのだろうと思います。「感情移入」という言い方で誰かが論文書いたりしたわけではありませんが、RPGとかアドベンチャーゲームに対する評価の語彙として「このゲームはものすごく感情移入ができるから素晴らしい」とか「RPGにとっての要である感情移入ができないから、このゲームはダメだ」というような言い方というのが、かなり一般的になってきますね。
 あからさまな例を挙げると、1987年に発売されたファミコンのドラゴンクエストIIの取り扱い説明書のようなものにすら「自分のつくったキャラクターにホレこむ。これがRPGの真髄だっ!」(P21)と書かれていて、プレイヤーに対してプレイの仕方を規定するというようなところにまできているわけですね。
 これは現在でも、このような言い方が通じているわけですが。図にするとこうなります。
 主人公(PC)、あるいは、主人公の仲間に対して、いかに感情移入できるか、視線をそそぐことができるのか、というのが問題になってきます。
 まず「感情移入」という言葉自体は、小説とか映画で語られていた言葉からの輸入なわけですよね。ですけれど、それが、「NPC」の方へは向かわずに「PC」のみに向かっていく、というのが特殊なところです。基本的に、ゲームというのは、主人公(PC)を操作するものなのであって、主観視点で物語を展開させていくものであって…というのが、基本的なスタイルである。ということですね。

米島 : ここで、さっき俺の言った議論も登場してくるわけだよね。「プレイヤー」というのが単に観客ではなくて、役者でもある二重性を持つ、というような。

瀬上 : そうですね、確かにそこにも繋がっていきます。ただ、この段階はすごくクセモノ、というか、やっかいでして。ここを契機にして、いろんな方向への議論が登場していくんですよね。

米島 : というと?

[ #03 「感情移入」論の展開 ]

瀬上 : まず、区別しておきたいのは、米島さんのおっしゃった、「観客でもあり、役者でもある」という議論へと、感情移入論がつながるためには、実は一段階ほど踏まなければいけません。
 先ほどもいいましたが、「感情移入」という言葉自体は、小説や映画の語彙であって、プレイヤーとプレイヤーキャラクターは直接には接続された存在ではなくて、もともとはまったく別の存在なわけです。その上で、モニターの中の主人公が、物語を繰り広げるのを見て、主人公に感情を移入させる、というそのことが「感情移入」のニュアンスとしては最初にあげられるものです。

米島 : なるほど。それは確かにその通りです。

瀬上 : 80年代後半ぐらいから登場するゲームの宣伝の言葉として「キミの分身を操れ!」とかといった言葉が頻出してくる時期というのがありますよね。RPGのプレイヤーキャラクターを操作する、ことに対して「分身」という言い方がなされる。実は、米島さんの議論が出てくるのは、この段階になってからです。

米島 : あ、ほんとだ。確かにちょっと違うね。「感情移入」という表現と「分身」という言い方は、ほとんど地続きのような感じだけれども。
 それと、いまの話を聞いて俺が思ったは、「プレイヤーキャラクター」という概念と「主人公」という概念をやっぱり分けたほうがいいんじゃないか、ということね。両者は似ているようでいて、違うだろうと。
 つまり、図にすると、
 …あまりうまく図にできてないけれども、口で説明すると、
 「主人公」というのは、小説や映画の中で主要な役割を果たす人物、あるいは一人称の主体、という意味でしかなくて、それは、あくまで、物語の読み手とは別の存在でしかない。
 それに対して、「プレイヤーキャラクター」というのは、プレイヤーの分身である存在だから、単に見つめる対象ではなくて、操作する対象でもある。「プレイヤー」自身でありつつ、「プレイヤー」自身ではない。演劇でいう、「配役」の人格ではないか、と。

瀬上 : それは重要な指摘です。そこから「感情移入」論にもバラエティが生じてきます。
 たとえば、ゲームの物語を語る時の前提としてしばしば言われる(A)ゲームの内部ではじめから用意されたものを味わうという側面が存在する(B)と同時に、プレイヤーによって物語が独自に紡ぎだされていくという側面が存在する、ということを分けて考えるべきである、という議論などもそういった観点が重要になってきます。
 「主人公」とかのような小説メディアのような発想だけでいけば、ゲームの内部ではじめから容易された物語表現の部分だけに着目していけばいいわけですが、「プレイヤーキャラクター」という発想を導入したら、プレイヤーが物語の世界の中に踏み込んでいく状況を問題にしなければならないだろう、というようなことですね。

米島 : ん?ちょっとまって、どうしてその話が感情移入論のバラエティ、ということになるの?

瀬上 : すみません。わかりにくかったですね。
 つまりですね、単にゲームの内部で最初から用意された物語を見ていく、というのが、小説や映画タイプの「感情移入」という言葉の使われ方として一つあって、主人公とプレイヤーキャラクターの心情、状態そのものの距離が消失してしまう、というゲーム独自の「感情移入」という言葉の使われ方がある。ということですね。

米島 : なるほど。とりあえず、瀬上くんの言う「バラエティ」というのは理屈としてはわかった。
 で、その違いというのが具体的には何か問題になったりするわけ?

瀬上 : そうですね。色々とあるのですが、例えば、最近感じた例で言うと、NAMCOの『エースコンバット』の四作目と五作目の評価の分裂とかですかね。
 米島さんやりました?

米島 : やってない。

瀬上 : そうですか。簡単に言うとですね、まあどちらも戦争の英雄の話なんですが、シナリオの良し悪しという点で言えば、四作目の方が圧倒的に上品で素晴らしい出来なんですね。ですが、市場のシナリオ評価としていえば、必ずしも四作目の方が素晴らしい、という話にはなってこないんです。

米島 : ほう。それは、瀬上くんの個人的な感性の問題として四作目の方がよかったよ、とかってんではなくて?

瀬上 : もちろん、それもある程度あるだろうとは思いますが、それとは別種の問題として処理可能な話だと思うんですね。

米島 : ほう。

瀬上 : 詳しく話しますと、四作目というのは、(以下ネタバレ)二国間で戦争をやっていて両方の国の英雄を描いていって、そして最終的には、片方の国の英雄が、もう片方の国の英雄を殺す話です。そういう悲劇を描くと同時に、「我らの英雄に乾杯!」みたいなひどく素朴な銃後のイデオロギーも描くことで、「戦争の英雄」に歓喜する素朴な興奮と、そのグロテスクで悲劇的な側面も同時にあざやかに描いてしまうという話ですね。
 それに対して、五作目の話はいきなり子供染みた設定になっていて、二国間で戦争をやっている、というところまでは同じなんですが、最終的にプレイヤーキャラクターは英雄になるんだけれども、グロテスクな側面を持たなくて済んじゃうというズルい話になってます。二カ国間で戦争をやっているのは実は戦争に仕向けた影の民族組織の陰謀であって、実はそれこそが真の巨悪である、みたいな。それで、国家から離れた第三勢力というような便利な立場になって、ユダヤネットワークらしきものと闘うとかいった、どうしようもない話ですよ。

米島 : 確かにそれはつらい。ユダヤネットワークかあ。いい感じにふざげた感じだねえ。(笑)
 まあ、子供向けの話とかだったらそういう無垢な正義と、陰謀論の話でも、いいんじゃないかとは思うけどね。瀬上くんみたいな人にしてみれば、そんな話されたらゲンナリきてしまうというのはわかりますよ。
 俺の場合は、そういうのとかやっても、ゲームをやるときの割り切り方みたいのがあって、はじめから期待してない分、ゲンナリせずに済ませられたりするんだけどね。
 とにかく、瀬上くんの言いたいことを簡単に整理すると、『AC04』は、(A)ゲームの内部ではじめから用意されたものを味わうという側面のほうで「マジで傑作だYO!」ということなんだけれども『AC5』では、(B)プレイヤーによって物語が独自に紡ぎだされていくという側面で評価されて、傑作だとかっていう話になってしまった、ということだよね。
 その区分はわかる。ただ、それは瀬上くんてきにはどうなわけ?結局『AC04』は傑作だったけれどもゲーム独自の傑作っつーか、古典的なメディアのフォーマットに変換してもやっぱり傑作、っつー話でしょ?『AC04』が好きな瀬上くんとしては、「AC04は、ゲームのストーリーテリングとして最高だったYO!」という話をしたいわけでしょ?でも、その話だと、AC04は、ゲームじゃなくてもよかったわけじゃない。

瀬上 : そうなんです。そこが、「感情移入」概念で語ることの限界だと思っているんですね。で、ですね…このP-PC-NPCモデルの三項構造をいじりまして…

(つづく……いつか)